今日のみ言葉は、結婚式に必ず読まれるところであります。 従って、厳粛な思いで立っています。 私には、愛を説く資格があるとは思えないからです。
それを承知の上で言えば、教会の本質は愛であり、十字架で現された内容です。 そして、この十字架こそが、私たちが、互いの徳を建てあげさせていただく、最大の原動力であります。 十字架の本質を要約したものが、Tペテロ2章22〜25節にあります。
さて、注意すべきことはTコリント8章1節の後半です。 愛は知識としてあっても、実行しなければ、その人の徳にはなり得ないのです。
では聖書で言う徳とは何でしょうか。 Tコリント〜7節の神の愛です。 しかし、これを記憶しただけなら知識ですから、高慢になり、不徳のままと言わざるを得ません。
ある金持ちのおばあさんが自殺をしました。 彼女の部屋から出てきた日記には、 「今日も誰も声をかけてくれない。」 とあり、寂しさが原因の死でした。
声をかけるだけの小さな事も愛の1つです。 声をかけられて、生きる力が出たとすれば、その方の徳を建てたのです。
1節〜7節の中に、15項もの愛の性質が紹介されていますが、特に愛は寛容であり、情け深く、高慢でなく、ねたまない。 これらはすべて愛から出ている事を、知らずにいた方が多いと思います。
私どもは、日本一の愛のある教会になりたいというのがビジョンであり祈りですが、人間の努力では出来ないでしょう。 何故なら私たちは神から離れ易い、自己中心の塊だからです。 愛は人間から出るのでなく神から出ているからです。
ある壮年の体験談を紹介します。 その方は車の事故により障害者になった方なのですが、ある週刊誌の、ペンフレンド紹介によって、女性と文通を始めたところ、聖書を贈ってきました。 彼は聖書に関心がありませんでしたが、女性の熱意により次々と読ませられたのです。 そうして信仰を持ち、その女性に対する、性的思いの塊の状態から悔改めに導かれ、神の愛に生かされ、献身にまで至るのです。 彼女の、このキリストの愛こそ、この障害者に対する徳の現われではないでしょうか。ハレルヤ。 Tコリント 13章1〜7節 文責 H&K |