小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/06/15 19:56:25|先週の礼拝から
愛は人の徳を建てます
今日のみ言葉は、結婚式に必ず読まれるところであります。
従って、厳粛な思いで立っています。
私には、愛を説く資格があるとは思えないからです。

それを承知の上で言えば、教会の本質は愛であり、十字架で現された内容です。
そして、この十字架こそが、私たちが、互いの徳を建てあげさせていただく、最大の原動力であります。
十字架の本質を要約したものが、Tペテロ2章22〜25節にあります。

さて、注意すべきことはTコリント8章1節の後半です。
愛は知識としてあっても、実行しなければ、その人の徳にはなり得ないのです。

では聖書で言う徳とは何でしょうか。
Tコリント〜7節の神の愛です。
しかし、これを記憶しただけなら知識ですから、高慢になり、不徳のままと言わざるを得ません。

ある金持ちのおばあさんが自殺をしました。
彼女の部屋から出てきた日記には、 「今日も誰も声をかけてくれない。」 とあり、寂しさが原因の死でした。

声をかけるだけの小さな事も愛の1つです。
声をかけられて、生きる力が出たとすれば、その方の徳を建てたのです。

1節〜7節の中に、15項もの愛の性質が紹介されていますが、特に愛は寛容であり、情け深く、高慢でなく、ねたまない。
これらはすべて愛から出ている事を、知らずにいた方が多いと思います。

私どもは、日本一の愛のある教会になりたいというのがビジョンであり祈りですが、人間の努力では出来ないでしょう。
何故なら私たちは神から離れ易い、自己中心の塊だからです。
愛は人間から出るのでなく神から出ているからです。

ある壮年の体験談を紹介します。
その方は車の事故により障害者になった方なのですが、ある週刊誌の、ペンフレンド紹介によって、女性と文通を始めたところ、聖書を贈ってきました。
彼は聖書に関心がありませんでしたが、女性の熱意により次々と読ませられたのです。
そうして信仰を持ち、その女性に対する、性的思いの塊の状態から悔改めに導かれ、神の愛に生かされ、献身にまで至るのです。
彼女の、このキリストの愛こそ、この障害者に対する徳の現われではないでしょうか。ハレルヤ。
Tコリント 13章1〜7節 文責 H&K 







2008/06/09 8:04:03|先週の礼拝から
いつも私と一緒にいる
万年 諭 師の お話から

私には二つのコンプレックスがありました。
一つは、万年という名前です。
いたるところで恥ずかしい思いをしました。
もう一つは、私は生まれた時から牧師の息子で、家が教会です。
何でこんな家に僕はいるのだろうという想いに悩みました。

また、私は、プロのミュージシャンになりたくて、オーディションを受けました。
合格したのです。
念願がかなって多くの人が、回りに集まり、わがままが通るようになりましたが、私の思いとは何かが違っていました。

そんなおりに、ルカ15章の、放蕩息子が自分にぴったりだと感じる様になったのです。

あるとき実家の母親から電話がありました。
父が直腸ガンだという知らせで、入院して手術するから祈って下さいという内容でした。
その頃、私は “神なし” で生きていたので、祈りませんでした。

少しして、病院の父から葉書が来ました。
ガンで入院した。
頑張る。
お前も頑張れ。

いよいよ手術を受ける。
頑張る。
お前も頑張れ。

帰ってあげようかなと思いましたが、手術の日にはガールフレンドの家に泊っていました。

体力が弱った。
頑張る。
お前も頑張れ。

父は帰ってきてほしいと訴えている。
それで、会いに行きました。
父が、力なく「お帰り」と言ったとき、涙がこみ上げました。
かろうじて声が出た様でした。

父がこんな状態なのに、僕は何をやっていたのか。
息子と呼ばれる資格のない人間だと思いました。
他の兄弟たち全員が看病しているのに、自分は、・・・・・・その輪に入れない人間。
牧師の息子で、説教を繰り返し聞いているので、良く知っているのに、
キリストの十字架で赦されない男。
そこに居ても居なくてもいい人間、見捨てられ、愛されない人間だと感じました。

そのまま、東京の生活に戻りました。
暫くして(退院後の)父から、宇都宮で開かれるある集会の、音響手伝いをするように言われ、参加しました。
説教者の招きがありましたが、応じませんでした。
しかし、その時、誰かが後ろから抱きしめているように感じました。

父親とさえ、心からの意思疎通が出来ず、愛せない者なのに、愛して下さる方。
出来の悪い息子のような私なのに、お前のために十字架にかかったのだと言われ、「子よ」と呼び、「いつもわたしといっしょにいる」と語りかけてくださるお方。

いつも、イエス・キリストを仰ごう。
                                     ルカ15章11〜23節   文責 H&K







2008/06/03 21:14:42|先週の礼拝から
聖霊降臨
久喜教会 萩原 馨 師のお話から
 
四福音書から思うことは、イエス様が復活して 「あゝ良かったなあ」 と思っただけで終わらず、弟子たちが、主イエスを初めて心から信じることができ、聖霊を受けて、全世界に出て行ったという事です。
そして、その後の使徒達の働きを全世界に展開させ、伝道しているのです。
ですからこの復活の力は、第五福音書(使徒の働き)以降、第六、第七、・・・・百、・・・・二百、・・・・ずっと何百も続いて、今日に至るのです。

それは、あの十字架の愛、そして、ペンテコステの力が、一人々々によって使徒の働きのごとく表現され続けているのだと言えよう。

簡単に、聖書から確認しましょう。
「聖霊降臨」は、ヨハネ14章16節で「父はもうひとりの助け主を、あなたがたにお与えになります。」と約束され、使徒1章5節で「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と、予告された事です。

ここで、聖霊理解に関して、現代に至るまでの、難しい一面を見ておきましょう。使徒1章8節の、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け・・・・・わたしの証人となります。」に関連しますが、この御霊を崇め、どんなに病をいやしても、その事はイエス・キリストの福音、キリストの業の一部です。
その事が、第一ではないのです。
教会の主は、キリストなのです。
従って、聖霊に満たされるということは、ヨハネ14章21章「わたし自身を彼に現わします。」と書かれた様に、キリストにより近くなり、キリストに「愛されているなあ。」という事が、身近に分かってくる事が基本なのです。
だから御霊のわざは、人ができないようなことが、できるのではなく、毎日の聖書日課、デボーション、祈りなど、単純なクリスチャンとしての作業、即ち、御言葉を通し、いま抱く悩みや、苦しみや、喜びの中で、五感を通じて働きかけてくるので、いつの時代でも起る事です。

ペンテコステの出来事は、2000年前の出来事ではなく、今日の、いこいの泉チャーチの中でも、毎週、聖書の御言葉や、交わりの中に現れる御業でもあるのです。
だから、キリストは、今日も、今も、生きて働いているのです。            使徒2章1〜3節    文責 H&K







2008/05/26 5:40:19|先週の礼拝から
主に愛された人
ヨハネは、11章1節からマリヤとマルタの兄弟 「ラザロが病んでいた」 との言葉でスタートし、3節で、姉妹たちが送った使いの 「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 という言葉と、5節で 「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」 という同じ内容の言葉を、周囲の者の立場で念を押すように記述している。

イエス様は、他に例を見ないほど、ラザロを愛し、彼の病気によって、神の子の栄光を現わすようにされました。
当教会でも、二人の婦人が重い病にかかり、祈りの課題になっています。
また、二人とも本当に愛されている姉妹たちです。
だから、ラザロと同じように、神の愛の中で祈り、いやされ、復活の奇跡にあずかりたいと切に願うのです。

昔から人生は、一寸先は闇と言われるのが一般の世界観です。
しかし、クリスチャンの人生観は、一歩先は光なのです。
しばらく苦しみもがいていると、思いがけない解決の道が開かれたり、災いだと感じた事が、喜びへの転換であったり、 「神は生きておられる」 と実感するのです。

11章4節は重大な記述です。
イエス様は、ラザロの病気を聞かされて、 「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」(口語訳) と言って、医学的レベルを超え、現実の完全ないやし(死からの復活)をなされたのです。

ここで、神に愛され、神に栄光を帰した一人の姉妹のあかしを紹介します。
その方は、いま神学校の修養生ですが、歩く病院とまで言われるほど、多くの病の中を通り、いじめの対象になり、父親の暴力など悲惨な少女時代を過ごしたそうです。

結婚されて、出産間近な時期に道で転倒。
一人の男性に救助されました。
その男性は、私の、怪我の手術が終わるまで、病院の待合室で待っておられ、その後も聖書をひもといて下さいました。

こうして神の愛に触れ、(母によると、大変な難産)死産だったかもしれない自分を、献身の恵みにまで導かれましたと、神を喜んでおり、聖書の中心的メッセージは、ヨハネ11章40節だと確信なさっておられる。 ハレルヤ。
ヨハネ11章1〜5節







2008/05/19 11:22:01|先週の礼拝から
聖霊によって実現する夢(ペンテコステ)
今朝はペンテコステです。
聖霊降臨記念日とも言います。

先ず、イエス様が、最後の晩餐の席で聖霊について説明された言葉を確認しておきましょう。

ヨハネ14〜16節 「父はもうひとりの助け主(ヘルパー)をあなたがたにお与えになります。・・・・・・」 と約束されました。
この助け主が聖霊です。さて、ユダヤの過越し祭の一日目に、イエス様は十字架上で死なれました。
弟子達は、悲しんだ後、復活のイエスに会いましたが、 「イエスは天に帰られ、見えなくなられた」 ので、約束された聖霊が与えられるのを期待していました。

過越し祭の50日目をペンテコステ(5旬節との意)というそうです。

その日になって、使徒2章1〜4節 「みなが一つ所に集まっていた」 が、激しい風のような音が家全体で響き、一人ひとりは聖霊に満たされ、各国の言葉でイエスの死と復活の恵みを話し出したのです。
聖霊が激しく臨まれたからです。
約束の方が与えられたのです。
共にいて下さる方がこられたのです。
待ち望んでいた全ての弟子(漁師、取税人など)や、律法を守れない民たちに与えられました。
(それは今でも待ち望む者にきて下さる方です。)

こうして、キリストの福音を伝える教会が誕生しました。
続いて、聖霊による素晴らしいリバイバルが起きたのです。
イエスを三度も知らないと言って否定し続けたペテロが、突然立ち上がって、イエスの福音を大胆に語りだしたのです。
それが歴史上に残るような大説教(使徒2章14〜40)です。
このペテロの説教を受け入れ、悔改めの信仰を頂いて洗礼を受けた者が3000人もいたというのです。

これらの事は、現代の私たちにとって、聖霊によって実現する私たちの夢です。
しかし、それは単なる夢ではないでしょう。私たちの教会にも聖霊がおられるからです。
その証しは何でしょう。
それは互いに助けあい、愛し合っている教会だという事です。
これが聖霊降臨の実体であり、現代的意味です。

祈りによって、必ずそうなると信じて前進しましょう。
                                              使徒2章1〜13節