小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/07/22 14:31:19|先週の礼拝から
主イエスと B・ヨハネの宣教
佐野謙次兄のお話から

マラキ3章1節
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。
あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。
あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。


私にとって、聖書の原点は、ヨハネの福音書です。
終戦後、私が小さい頃に配布されたのを思い出します。

そのキリストの400年も前に、マラキが活動しました。
マラキ3章1節(口語訳)「見よ、わたしはわが使者をつかわす。
彼はわたしの前に道を備える。
また、あなたがたが求めるところの主は、たちまちその宮に来る。」と預言しました。

400年を経て、B・ヨハネが、 「荒野で呼ばわる声」 として現われ、マタイ3章2節の 「悔い改めよ、天国は近づいた」 と叫んだのです。
マラキの預言が、400年後に成就したのです。

現在は、主の道を備える時であり、将来の始まりです。
その言葉が伝えられ、無より有を生み出す神の業が進められ、B・ヨハネによって、キリストを知り、キリストによって、神を知ります。
これが新しい時代の夜明けであり、恵みのときであり、人の運命を決する厳かな時です。
そして神の意思に従うのは、神に生かされている者の、責任になっているのです。

次に主イエスの宣教ですが、バプテスマを受けて、すぐに伝道を始めたのでなく、御霊によって断食生活をし、サタンの誘惑を退け、神の子であることを確かめられたのち、ガリラヤ伝道を始めています。
そして、マタイ4章17節のとおり、 「悔い改めよ、天国は近づいた」 と語られました。
B・ヨハネと同じ言葉です。

ホーリネスの笹尾鉄三郎という牧師は、「人を離れて深く神と交わり、祈りのうちに導かれた時に、行動すべきである」 と言われました。
そして御言葉に聞き従い、召命にあずかり、そして福音宣教活動に招かれるのです。
職業やいろいろのしがらみさえも、主の手に委ねて、主の召しに従うのです。

主は無に等しい者を、教育・訓練し、従順を学ばせ、Tコリント2章7〜10節にあるように、聖霊によって、神の知恵を啓示してくださいました。
また、愛と憐れみの行為として、病気や悪霊からの開放をなさいました。

弟子ペテロは 「私達は自分の見た事、聞いた事を、語らないわけにはいかない」 として、イエス・キリストを語り、信徒伝道者であるピリポは、 「私は、イエス・キリストを神の子と信じます」 と答えたエチオピアの宦官に、バプテスマを授けたのです。

すばらしいですね。







2008/07/13 21:47:18|先週の礼拝から
本当の自分を知りイエスを知る
今週の御言葉を見ましょう。
「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 するとイエスは「来なさい。」と言われた。

今日は、父が他界してから、丸5年になりますので、父を思い出しておりましたら、このテーマになりました。

父は20年以上、日本画を描き続けました。
母は、孫娘によって1987年8月洗礼を受け、2年後に召されました。
父は妻の葬儀の後、悲しみと寂しさに悩まされ、罪を悔いて回心し、神の恵みに感動し、ライフワークであった日本画家から聖画家になります。

その第一作目が 「水上のイエス」 です。
この絵と父の態度から、聖書のメッセージが伺えました。
第一は自信と過信は紙一重というという事です。
ペテロは自信家で、漁師でしたから、おぼれるとは思わなかったでしょう。
父は日本画家として、実績があり、自信を持っていましたから、聖画でも大丈夫という自信があったのでしょう。
しかし、それは過信に終わり、絵画展で入選どころか、出品というチャンスさえ失ったのです。

第二は自分を知るということです。
私は父という人間を知りませんでしたが、信仰を持ち、絵の分野まで変える変身ぶりは、まさに海に飛び込む以上でしょう。
しかし、父も学歴・その他のプライドがあり、失敗の連続でした。
「信仰の薄いものよ」 と言われればそのプライドが邪魔して 「助けて下さい」 も言えなかったのです。
更に、息子(私)の倒産事件が起り、父は悩んだ末に、全精力をかけて聖画を描き、息子が償いきれなかった巨額の負債を、償って下さったS兄へ、贈ったのです。
父は、S兄の行為に対し、これこそ真実の愛だ。
つまり 「あなたこそ真の神だ」 という現実の神体験(啓示)をしたからです。
クリスチャンの絶対条件は、 「私が悪かった」 と言って罪を認め悔改めることです。
これが、本当の自分を知ったという事です。
自分の無力さを知らず、傲慢さが分からないのが人間です。
しかし神は、自分が駄目な資格のない者であると気付き、福音を受け止める人を、愛して下さるのです。

こうして、イエスと福音を知り始めるのです。                      マタイ14章22〜36節







2008/07/07 13:41:52|先週の礼拝から
ノアのように生きたい
旧約聖書の、特に創世記の中で特筆すべき人物にノアがおります。
ノアは信仰者として世界史的に有名な人物であるために、自動車の名称や賛美のグループ名前などに転用されています。

5章の家系を見ると、曽祖父にエノクがおります。
エノクは、 「神と共に歩んだ」 と書かれています。
そして、6章3節にノアは 「神とともに歩んだ。」 と書かれています。
神の憐れみによって信仰が継承されています。

そのノアの信仰を、具体的に確認しよう。
第一に、箱舟などと言う、一風変わった、誰にもまねることの出来ない、神の知恵を受け入れると言う従順さがありました。
第二に、神が言われた事に対す実行力がありました。
第三にこの舟に入れと言われて、確信を以って入れました。

当時も、現代と同じように、(私を含め)人々は、目を覆いたくなるような現実の社会問題を展開させていたのでしょう。
神は、7節「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。・・・・・これらを造ったことを残念に思うからだ。」と特別にノアに教えたのです。
そして、箱舟(長さ150m、幅30m、高さ15m)を造れと命じました。
洪水が来るかどうか、その前兆すらないのですが、ノアは主の心にかなっていたのでした。
ノアに、困難な仕事を命じたのは、恵みによって、人々のあざけりに耐え、その困難を越えて、やり遂げる力と知恵を、与えようとされていたからでしょう。

ノアは、神とともに歩んだのです。
ノアは、恵みを受け止めたのです。
こうして、18節で 「・・・・・いっしょに箱舟に入りなさい」 と、うながされた時、ノアは、確信と勇気を以って船に入ったのです。
ノアは、馬鹿正直と見えるほどに、神の言葉に生きた人なのです。
ノアは家族を愛し救いたいという強い思いによって、人々のあざけりと、船を選び取ったのです。

創世記7章10節、七日たって大洪水があり、すべての人も死に絶えたのです。
ノアの家族だけが、大洪水から逃れたのです。
これこそが、キリスト教会の雛形なのです。

人生は一度、チャンスも一度です。
皆さん、今の恵みは二度とないのです。
これは、生か死かの選びのチャンスなのです。
マタイ24章35節で、 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 と宣言しています。
私達には、従えないでいる、いろいろな都合もありますが、どこまでもつまずくことなく、御言葉に従っていく、その時に、私達は神から頂いている平和と、恵みと、栄光に、あずかるることが出来るのではないでしょうか。                                     創世6章1節〜7章1節







2008/06/30 15:35:55|先週の礼拝から
あなたは実を結んでいますか
デービット宣教師のお話から

ヨハネ15章5節を見てみましょう。
「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」

2000年前、イエスの弟子が実を結ばなければ、現在私たちはイエスのことを聞く事が出来なかった。
はたして私は、イエスの実を結ぶ木になっているのでしょうか。
箴言11章30節、 「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」

エゼキエル33章6節 しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。

ヨハネ15章13節 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 
あなたの隣人を愛していますか。愛するとは、あなたがイエスを伝えることです。
Billさん、あなたが最後に伝えたのはいつですか。
「昨日です。」
ありがとう。
私たちは、イエスの希望を伝えなければならない。

皆さん三人ずつのグループに分かれてください。
そして、ルカ19章41〜44節を読んでください。
その意味を理解してください。

――父(神)は、人類の一人ひとりを、罪から贖う子羊として、私(一人児イエス)の命を捨てさせる程に、
人々を愛しておられるのに、
裁きでなく赦そうとしているのに、
争いでなく和解を勧めているのに、
多くのエルサレムに住民が、亡びでなく永遠のいのちを選ぼうとしない。
そうして、ルカ16章の、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちのような立場に行こうとしている。
(だから、エルサレムは、ローマの軍隊によって破壊された。)
これを悲しむ――

ルカ16章19〜28節を読んでください。
地獄への亡びから、人々を助けなければならないからです。

私は皆さんに宿題を出します。
1ページの用紙に、あなたのイエスに対する信仰経験を書いてください。
何故なら、多くの方はイエスのことを知らずに死んでいくからです。
そしてイエス様の十字架の意味が分からないからです。
その時あなたは心を開いて、十字架の意味と信仰経験を必ず伝えてください。
悪魔は人々を地獄に連れて行ってしまいたいからです。

だから皆さんは、人々に「救いは永遠のいのちにある」ことを説明してあげてください。              ヨハネ15章1〜7節              文責 H&K 







2008/06/24 22:33:22|先週の礼拝から
召された意味
内田 彰 師の  お話から

私の、御教会での奉仕は、昨年の2月4日以来の訪問で、2回目です。

この教会と私たちの教会には、共通点があります。
それは、牧師が、一定の仕事を終えて献身し、開拓伝道を始めたという点です。

お互いゼロからのスタートです。
聞く人が妻しか居ない事が続いた時は、止めようかと悩みましたが、今も途中で挫折しないように祈りながら続けられています。

必要な事は、第一に、何をするにも神に信頼するかどうかです。
第二は、聖書と生活を通して語ることです。口先だけで語っても、行動が伴わないなら、人は耳を傾けないからです。

私は春子さんが召された時、胸が痛みました。
語る人の日常を支え、この教会を支えていた重要な一人だったからです。
常に主の前に裸で生きた方です。
これは教会に召されている一人ひとりに求められることです。

私は、この世を去る時に至るまで、悔いのない人生、生き方をしていたいのです。
私は、意を決して、教員を辞めて牧師になり、教会を建て上げました。
この召しの意味を考えた時に、父や母、また、春子さんを天に召したのも、私を導くために、神がなされたのだと思いました。

60歳を越した今、こうした召命の信仰が与えられました。
この事は、牧師だけでなく、教会にかかわる全ての人が、召されておられる事を意味しています。

マルチン・ルターは、万民祭司と表現しました。
それは、ルターによれば、 「召された者とは、神に呼び出された者」 という意味です。
今、健康な方は、健康という環境に、病の中にある方は、病の環境に召して下さったという事です。
病も苦しみも必ず意味があるのです。それは、病を通して召す為です。
私は4年前に、胃ガンの手術をして、5年生存の告知受け、あと1年を残しています(進行ガンのため)。
このように、あと1年後に再発する可能性を告知された者でなければ分からない心を、経験するのです。
だから、ガンに召されたと信じたのです。
しかし、やることが残されていると思いつつ、 「主よ、ここで死んだら教会はどうなるのでしょう」 と、祈らされています。

ですから私は、神の前に一日一日を真剣に、大切に生きたい。
牧師として教会の人を愛したい。
同様に、信徒の方は、クリスチャンとして、召されたのです。
この教会に召して下さったのは、主イエス・キリストを証しする生涯に召されたので、そのように進んでいただきたいと願いたいのです。              エペソ4章1〜6節 文責 H&K