小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/08/27 10:01:50|先週の礼拝から
試みに会わせないで・・・
マタイ6章13節「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」を、主の祈りの中で唱和しつつ祈ります。

試みとは何でしょうか。
二つ有ります。
第一は誘惑です。
英訳で Temptation(きけんなところに誘う)です。
第二は試す・試練 Testament (証明する) です。
「試み」は、この二つの意味を持ち合わせています。

イエス様もマタイ4章1〜11節で悪魔の試みに会いました。
(参考、マルコ 1章13節は、サタンの誘惑を受けられた。)

外国では、聖書のことをバイブルと言わず、The Testament といいます。
つまり、聖書そのものが私達をテストする書物なのです。
試練も誘惑も霊的いのちに、生きる力の源泉に、かかわる事です。

人はよく神によって生かされていると言いますが、何のために生かされているのでしょうか。
中には、俺は一生楽しく生きられれば良いと言う人もいるが、一生の間、神に試されている事に気付いていない方なのです。

一般的に、人間は、経済問題・健康問題・対人関係問題等のどん底を経験する時、全く弱いのです。
苦しみ・悲しみにあえぎ、何のために生まれたかと恨み、自殺や逃避に走ります。ヘブル12章8〜11節は、神が、霊の父として、私達クリスチャンの訓練のために、懲らしめを与えると言っています。
子である私達をテストするのです。
つまり、この世の試み・訓練・試練等は、御国に入るための準備なのです。
神の御旨・御心にかなう生き方をしなければ、神の国を相続する事はない(ガラテヤ5章19〜21節)からです。

また、試みは、人間的成長と人格の形成を進めます。
私は、この世にあって、あなたの訓練は、重すぎ、背負いきれない程で、挫折と辛い生活ばかりですと訴えますが、神は、私の涙を拭い去ってくださり、「よくぞここまで耐えてきましたね、もう大丈夫だよ。」と言って下さるでしょう。

いよいよ、神の憐れみと恵(信仰)の時です。
もう神様の栄光は目の前です。
人生は確かに生きること自体厳しいのです。
しかし、イエス様が私のために死んで、よみがえって、共にいるのです。
神の目は、節穴ではないのです。
必ず救って下さると信じて、この主の祈りを祈るのです。            マタイ6章13節







2008/08/19 0:46:55|先週の礼拝から
本当の人生
有田 貞一 師 のお話から

 私たちが救われたという事はどういうことなのか、共に学んでいきましょう。
本当の人生とはどういう事なのでしょうか。神が共に歩んで下さる人生である。

痛ましい事件が最近ありました。
中学生が父親を殺したのです。
その方は、周りの人が自分をどのように評価しているのかが気になっていたのです。
人の評価だけを気にする人生は悲惨な人生です。

私はアメリカの宣教師を通して教えられ、信仰に入りました。
マタイ11章28節、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」という言葉で私は救われたのです。

私は、イザヤ40章27節のように言う罪人でした。
さて、罪とは何か。
全人類が罪を犯したとは何か。
神は全人類を神に似せて造られたのに、人は神から離れてしまった。
それで人は罪人となった。

では、本当の神とはどの様な方か。
聖書から見ていきたい。
28節、私達は神から離れてしまったために、神がどんな方か知らない。
だから偶像を作ってしまうのです。
人間が作った何かが神であるはずがなく、私達を造った方が神です。

ところが私達が、その神から離れている存在なので、キリストが私たちのために十字架にかかり、神と私達との間をつなぐ架け橋となって下さったのです。
これは最も重要なポイントです。

また福音とは何か、また救いとは何か、それは神が、イエスを十字架にかけるほどに、私達を愛して下さったというのが、福音です(ヨハネ3章16節参照)。
従って、救いとは、神の元に帰る事(罪からの救い)です。
そのために十字架の犠牲がありました。

次に永遠のいのちとは何でしょうか。救いと天の御国とは同じ意味です。

さて結論です。
本当の人生とは何でしょうか。
本当ではない人生とは、神から離れた人生ですから、主を待ち望む人生こそ本当の人生なのです。
神を待ち望むとは、神を信じ続ける人生です。
主が共におられる人生です。

イザヤ41章10節
恐れるな。
私はあなたとともにいる。
だじろぐな。
私はあなたの神だから。
私が共にいるから心配するなと言うのです。

さらに、イザヤ40章31節、主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることが出来る。
走ってもたゆまず。
歩いても疲れない。                            イザヤ書40章27〜31節                          文責 H&K







2008/08/16 17:21:30|先週の礼拝から
主の祈りU
主の祈りについて2回目ですが、今回の11〜13節は、結論です。
12節を、口語訳で読むと 「私たちに負債のあるものを赦しましたように、私たちの負債をも、お赦しください。」 です。
そこで先ず、14〜15節の 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」 を言いたいがために、12節の主の祈りがあります。

「もし人の罪(あやまち及び負債)を赦す」 という対人関係の中において必ず実践していかなければならない事として主張している部分で、この祈りは、机上の空論ではないのです。
ですから、何を祈るかという事よりむしろ、神はこの祈りの姿勢そのものを要求されており、後半のメッセージなのです。

負債とは借金の事で、本来の意味は罪です。ユダヤ的表現ですが分かり易いのです。国は国債、会社は社債、教会は教会債、借金はトラブルの発生源です。
それは最初から罪意識がないからです。
ですから、必要資金は、贈与や献金にすべきなのです。
日本全国借金だらけで、返せないなら殺人や自殺が横行します。たった1万円でも返済できずに、自殺します。

解決策は、マタイ18章27節 「しもべの主人はかわいそうに思って彼を赦し、借金を免除してやった。」 と書いてある通りだからです。

人間の理性や力だけで、赦せる人はいないし、難しいのです。隣人を赦す心なしに、自分の罪の赦しだけを求めて神の前に出る事は出来ません。
赦した事のない者に、神の赦しの恵みはわかりません。
赦そうと努力してみて、自分の罪深さがわかるのです。
本当に人を赦す事が出来るのは、心から神様に赦された結果に過ぎません。
何故なら人にはそんな業も力もないのです。
だから、 「私に赦せる力を与えて下さい」 と祈るしかないのです。

そう言う私自身が、神の御心を行なえるとすれば、ただ神様の憐れみと恵みがあったからであり、感謝の祈りだけです。
これが主の祈りなのです。
エペソ4章32節を読みましょう。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。             マタイ6章11〜13節







2008/08/04 8:13:31|先週の礼拝から
私はよみがえりです、いのちです
万年 諭 先生のお話から

 私は、アメリカの宣教師に、アメリカに遊びに来て下さいと招かれ、多くの事を学びました。
その中心は、人を愛する事でした。

あなたは人を愛した事がありますか。
人に愛を与える余裕がありますか。
教会の中でも 「あなたを愛しています。大切な存在です。」 と挨拶を交わして頂きたいのです。

アメリカ人は、全体的にプレゼンター的存在でした。
会食や交わりでも、ハグして涙し、祈っていたことを伝える、そんな関係を、日本の教会の中にも実現出来たらいいなと思うのです。

私は、神学校に入ったとき一人の人と同室にされました。
そこでも学びました。
同室者が好きになれず、自分は愛のない、いやな人間で、汚い人間である事を知らされました。
そのままの姿でよいからというので、主の前に出ました。
そこで相手の方のために、祝福を祈る事が出来たのです。

今日のメッセージから何かをつかんで帰っていただければ幸いです。
――ここで、ヨハネ11章1節から12章11節までを音読された――
さて、ラザロは、ここで何をしていたのでしょうか。
何もしないで人々に混じっていたのです。
それなのに大勢のユダヤ人達がイエスとラザロを見に来たのです。
それだけでなく、ラザロも殺そうと相談していたのです。
多くの人がラザロによってイエスを信じるようになったからです。
ただ死んだはずのラザロが、イエスによってよみがえったからです。
死んだラザロは、墓から呼び出されたけですが、ただそれだけで、多くの人を救いに導く、通り良き管となることが出来たのです。
そういうクリスチャンになれたのです。
私達もそんな存在になれたらと思います。

私は小山市に一人の兄がいます。兄は良いのですが、この私だけは駄目です(親しく出来ないとの意味)とよく言われます。
私は悪い影響しか与えられないような者だったのです。

それでもある時、私がイエスに目を向けた時、イエス様は、 「私はあなたのために2000年前に十字架の上で死んだけれども、お前と共に十字架の上で死んだのですよ。
私が墓に葬られたように、お前も墓に葬られたのですよ。
そして、あのラザロをよみがえらせたように、私も三日目によみがえったのですよ。
その時、わたしといっしょに、あなたは 「私はよみがえりでありいのちです」 と、生きる存在になったのですよ」 と言って下さったのです。                ヨハネ11章25節   文責 H&K







2008/07/29 21:35:18|先週の礼拝から
私の祈りと主の祈り―T
信仰という唯一・絶対的なものを与えられているクリスチャンは、神と対話するように、祈るという特権をもっています。
土壇場で救いにあずかれるという事もあります。
祈りは霊の働きです。

今日はその祈りについて、お話します。
実は、闘病中の姉妹からの解説要望もあったのですが、皆さんは、それだけ祈り深い信仰者であるという事です。
それは、祈りが必ず聞かれるという信仰に立っているからです。また、人間は、一人では生きられないし、人生には、必ずのっぴきならない試練があるからです。

それで、 「主の祈り」 について学んでみましょう。
通称 「主の祈り」 は、主が教えて下さった祈りのサンプルです。
どんな教会でも、一斉にこの 「主の祈り」 を唱和しますが、今日は、前半の3節まで見ましょう。

先ず 「天にいます私たちの父よ」 と、呼びかけの言葉から始まります。
神への信頼と確信から出るものです。
次に 「あなたの名が、あがめられます様に」 と続きます。
名は体を現わすとの諺どおり、神のかっこよさを祈る言葉です。
即ち、神のきよさに対するものです。

最近は、祈りが形式的になり、美辞麗句で飾り立て、瞑想の足らぬ分を、別の言葉で補おうとする風潮があるので、戒めたい。

「御国が来ますように」 、イエスも天国は近づいたと言っておられます。
罪を悔い改め、神に従うあなたの心の中に、御国が来るよ!!と教えている。

これに対し、 「私の祈り」 はどうでしょうか。
この半年間は、人生で一番長く感じられるような、悲しみと苦しみと涙の祈りばかりでした。

敬愛する姉妹たちの、死の告知を伴う病との日々の対峙がある中、妻の死の苦しみと涙の別れ、教会としての試練が続き、 「何故ですか、どうしたらいいのですか」 と、とりなしと、いやしの求めと、慰めを求める祈りの連続でした。

開拓伝道への思いが挫折しそうな時など、姉妹たちに叱られ、立ち直るために、悔改めの祈りもありました。
単に、主よ、助けてくださいと、 「主の祈り」 とは程遠い、単純な祈りでした。

それでも、祈りは必ず届いているとの、確信を持ち、S姉やN姉、そして教会のために、信じて神の御名を呼び、御国と神の御心は何であるか、神様の栄光が現わされるために、祈り続けていきたいのであります。                            マタイ6章9節