「つまらない」、はその客体の属性だろうか? 「つまらない」、はあくまでも主体の評価にすぎない。
「おもしろきことのなき世をおもしろく」 面白い事やモノがあるのではない。 面白くする人がいるだけである。 あるいは、面白いと思ってくれる人がいるだけだ。
面白い話があるのではなく、 面白く話しているだけである。
だから、面白い話を収集するのではなく、 面白くなる話し方に着目したほうがいい。
話し方は学びうるものである。 それは、ただの技術にすぎないのだから。 技術があれば、何でも面白おかしく仕立てることができる。
例えば、大人は、童話(桃太郎)に興味が持てない。 それは、聞き飽きているからだ。新鮮味もないからである。 でも、話題の切り口しだいでは、このつまらないはずの童話も 楽しくなるはずだ。
もし、物語の構造だけは変えずに、 物語をアレンジするなどの、 物語への破壊と創造を繰り返したならば つまらない話も面白くなってくる可能性はある。
物語の構造を変えないこと。 これは大事である。 なぜならば、これは本質的に「遊び」だからだ。 構造を変えないことは、場所と時間を限定することと同じである。 ルールがあってこそ、遊びは成立するのである。
落語なんかもそうだろう。 全く同じ話なのに、 語り手によっては、 面白い話になったり、 つまらない話になったりする。
それは、話し方に技量の差があるからである。 そうした技量を蓄えるには「遊び」の場が必要であって そうした遊びが洗練されて文化としての形式を持つようになるだけだ。
日本には、優れた文化がある。 よく遊んできた歴史が堆積しているのだ。 よく遊び、その中で、よく学べるのである。
遊びの一つの形式として、模倣(ミミクリー)がある。 学ぶとは「まねぶ」が語源であることもよく知られていることだ。 だから、真似すればいい。
真似をすることで、創造性が失われることはない。 むしろ、創造性を活発化するには、よく真似をする必要がある。 型があっての「型破り」であり、型がなければただの「型なし」である。
文化には、美しさがある。 美しさのために、人は魅了されることがあるのだろう。 だから、魅せるための技術は「アート」である。
本日はここまで。 お疲れさまでした。 ではまた。 |