アポロ行政書士事務所

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2021/05/29 22:33:07|蔵の街ライフデザイン
街を歩く。
勝手な人である。
10時にファミレスで待ち合わせをしていたのだが、
午前中、急に、接骨院に行ってしまったらしい。

こちらは午前中で必要な作業を済ませる予定だったが、
午前中がすっかり暇になってしまった。
そこで、予定を変更して、蔵の街を歩くことにした。

そういえば、駅前になにか新しい施設ができたらしい。
そこで、街来者駐車場となっている、警察署跡地に車を止めて、
大通りを通って駅の方へと歩いていった。

目的地についた。
ちょっと一休みするには丁度いいスペースであった。
座ることのできる席がたくさんあった。

自動販売機があり、トイレも併設されている。
観光案内のパンフレットもたくさんおいてあった。
ふるさと納税で手に入れることのできる
地元産品が展示されていたりした。

外に出ると、今日は天気が良かったのか、
少なからず観光客がバスを待つ姿を見た。
駅前の観光案内版に感心しながら、
反対側の栃木レザーのアンテナショップに行った。

ところが、午前11時からお店を開くということで、
中には入れなかった。まだ、午前10時だった。
そこで、諦めて北へと足を進めた。

駅前に不動産屋があった。
一番安いワンルームの賃貸料は3万2千円だったかな。
なるほど、なるほど。

隣は、自転車置き場のようだった。
自転車で来たときには都合が良さそうである。
さて、郵便局もあった。ATMで通帳を記帳した。

更に北に進む。
セブンイレブンの脇の道を通る。
やはり、自転車を預かるお店があり、
となりはハラルの食材を扱っている。
街なかは外国人の留学生も多いのだ。

脇道を北に歩いていくと、
途中で道が合流し、もっと行くと
確か、日本で一番長くやっている写真屋さんが見える。
2番めだったかな。

そして、ミツワ通りへ
右手は、警察跡地へ行ける道である。
左手はうづま公園へと行ける道である。
映画「いのちの停車場」でも撮影されていた公園だ。

更に北に行くと、
左手に金魚湯がある。
右手には電器屋さんがあったり、
カフェがあったりする。
もうちょっと歩くと、珈琲屋さんがある。

ミツワ通りを出ると、
左手は、幸来橋が見える。
舟見茶家も見える。

幸来橋までいけば、
近くに、確か、吉屋信子の碑があり、
その隣がバスの停車場として撮影された場所だ。
もちろん、先程の映画の話である。

今回は、右手の銀座通りを歩く。
この辺りもいろいろ店は変わってきたようだ。
真っ直ぐ行くと足利銀行の支店である。
銀行の駐車場の隣にはパン屋さんがある。
ちょっとだけ奥にはインドカレー屋がある。

スタバもあるので一休みしてもいいかもしれない。
蔵が一連でつながって見えるところに、スタバが今や鎮座している。
とても良い場所を提供してしまったものだ。

スタバを尻目に、近くの本屋に寄る。
教科書を取り扱っている。
参考書等を少し見て、外に出てしまった。

おやこ劇場が入っているビルを通り過ぎる。
昔はたしか、アメリカ屋だったのではないかな。
アメリカ屋とは靴屋さんであった。
ここで、学生時代にリーガルの靴を買ったのである。

特に目的もなくあるく。
TOBUの看板が見える。
一階は東武ストアだが、上の階は栃木市役所である。
多分、全国的にも珍しい取り合わせなのではないかな。

山車会館まで歩き、
信号のストップボタンを押して、道の向こう側へ。
この辺は、観光館などあるが、素通りしてきた。
カフェひがのの奥には、小山高専のサテライトオフィスがある。

小江戸市場に到着。
ここには、コミュニティラジオのスタジオがある。
今日は、誰がパーソナリティだったのかな?

休憩スペースのようなところがあり、
こちらでは、栃木工業高校のストロベリージャムという、
多分、マイコン?がおいてある。
ここで買えるのかな?買ったことないのでわからん。

あとは、適当に歩く。
さっきの一連の蔵の一つは荒物屋さんである。
箒を売っていたりする。

途中、じまん焼きのいい匂いがした。
サイクリングできた人たちが、座席に座って
食べていた。おいしそうだ。

元NTTのビルの隣も郵便局があり、
ちなみに、道の向こう側は、ブックカフェである。
まあ、途中立ち寄らずに跡地の駐車場へ辿り着いた。

全行程で1時間30分はかからなかっただろう。

道の途中でたくさん目にすることになるお店の種類は、
カフェ(珈琲屋さんを含む)とカレー屋さんである。
色で言うと、黒と黄色の世界である。

カレーはナンだと難だが、珈琲もカレーも片手で食べられるとするなら、
本を読むにはいいかもしれない。
図書館は、スタバの近くのファミマを東へ進めばあるし、
図書館の隣の建物は文化会館である。

と、まあ、短い旅路であったが、
書くことはたくさんあった。

今度はまた、別のあるき方をしてみよう。
本日はこれまで。
ではまた。







2021/05/27 11:34:55|蔵の街ライフデザイン
自己愛。
自己愛は大事である。
自己愛がないと人は死を選んでしまう。
私は、死んでいない、故に、自己愛は私にも存在する。

最も、自己愛が強すぎるのも問題である。
もし、自分しか愛していないのであれば、それは問題だろう。
自己愛人格障害とされかねない。

健全な自己愛を持っている状態とは、
自分を愛していない状態でもなく、
自分しか愛していない状態でもない。

健全な自己愛とはなんだろうか?
それは、ありのままの自分を受け入れることである。
今の自分の状態を許せることである。
何かを許せない自分を、それでも許すことでもある。

それは、満足を知るということかもしれない。
もちろん、自己満足にすぎないのかもしれないが、
一方で必要を満たして足るを知ることでもある。

ところが、一方で我々は成長したいと願う者である。
ただ、成長した以降も持ち続けるコンプレックスではないのかもしれない。
成長というのは自己否定を前提とするものだが、
自己否定は自己肯定感とは矛盾することだ。

成長欲求はあっていいのかもしれない。
しかし、それは取り扱い注意なのではないか。
全体的には自己肯定をしながらも、
部分的には成長欲求を持つことが、
うまいやり方なのであろう。

ところが、部分的にうまくできないことが、
全面的な自己の人格の否定につながってしまっていることがある。
この近視眼的なものの見方からは、うまく逃れなければならない。
しかし、こうした見方には陥りがちなのだけれども。

自己肯定と自己否定は字面から判断すると、
単なる矛盾であるが、それは、適用する領域を分けること
すなわち、棲み分けをさせて生きていくことが必要なのである。

さて、我々は、健全な自己愛を持つことがでるか。
実は、大変に難しいのだ。
この辺のところは、仏教が難しく解説していると思う。

まだ成立していないことや、もう成立しないことについて、
いつまでも未練をもつことも執着なのだろうが、
そのことは、不当な自己愛を持っていることになるのだろう。

うまく愛することを制御する必要がありそうです。
本日はこれまで。
ではまた。


 







2021/05/26 18:12:32|蔵の街ライフデザイン
心理的コンサルティング
どうやら、本格的に執着を手放すことができたらしく、
随分、精神的に楽になった。
つまらないことで、気に病むことがなくなっている。

今日は映画を見に行った。
昼に、シネマハーヴェストウォークの映画館へ行った。
「いのちの停車場」を観た。

栃木市の風景が映画のシーンになっていた。
いい感じに撮ってくれていた。
ありがたい話だ。

金沢の話らしい。
金沢と比較されても、違和感がなかった。
素晴らしい。

ところで、新しいカウンセリングというのを着想した。
これまでは、ロジャース派が日本では幅を利かせすぎていたが、
私は、未だに、本物の傾聴を体験したことがない。

傾聴は私にとってはなんの役にも立ちそうにないし、
傾聴体験を得ずに、心理的に楽になることができた。
その方法は、自分の感情に気がつくことを通じてというよりは、
徹底的にロジカルな方法によってである。

やはり、傾聴を中心としたカウンセリングには限界があり、
本来的に、大人の女性にしか向いていない方法なのだろう。
傾聴が上手ければ、どんな人にも通用すると考える人もいるが、
そんな力量をもった人は殆どいない。いや、むしろ、存在しない。

大人の男性で、特に知性が高い場合は、
論理を徹底する方法のほうがメンタルの改善には効果がある。
もちろん、一時的には険悪な関係になるはずだ。

しかし、精神的な不回帰点を得るには、
論理で突き進む方法のほうが優れている気がする。

ところで、認知行動療法というのがある。
その力点は、行動を変えることで認知が変わることだ
認知が変わることで、心理状態が変わるのである。

ただし、認知を直接的に変えることもできる。
それは、対話を通じてである。

それは、カウンセリングというよりは、
心の問題のコンサルティングなのだろうが、
そのほうが、男性には向いているのだろう。

そのためのツールはいくつか考案できる。
それは、他の心理療法でもある程度、使われている方法だろう。
傾聴一辺倒を善としている日本では、物珍しいだけだ。

カウンセラーを名乗ることは今後もないが、
心理的コンサルタントなら、今後名乗るかもしれない。
であれば、資格を取得する必要はなさそう。
特に、民間資格はほぼ役に立たないので。

私が活動を始めれば私の方法がスタンダードになるだろう。
ただそれだけだ。
ではまた。







2021/05/21 23:39:42|蔵の街ライフデザイン
執着(しゅうじゃく)から離れる。
今日は、よく眠っていた。
朝は早く起きたが、朝食後に横になってしまい、眠った。
昼になって、昼飯を食べたあと、横になってしまい、眠った。
ほとんど眠り倒した一日になった。

といっても、お金の請求は来ているわけで。
実は、車検があったため、支払いをした。
6万2000円と少しである。
一部、修理が入ったが、安く済んでいる。
今回は、一括で支払うことができた。

そして、税金である。
軽自動車は7,200円だったろうか。
その他に、固定資産税である。
ちなみに、実家の一部は私のものである。
そのための支払いが5万6000円ぐらいだったろうか。
去年より1割ほど安くなっている。
こちらも一括で支払うことができた。

もちろん支払いのために貯金が削られたため、なんのうれしさもない。
先月と今月は、旺盛な消費活動のために、
その月の収入から払えるはずであったが、全く足りなかった。

ペイペイで支払うことも考えたが、
基本的にペイペイはクレジットカードをキャッシングして
使っているため、やり方がわからないし、
改めて調べたくもなかったので、
ペイペイは使わなかった。
コンビニで、支払い用紙を出して払ってきた。

さて、心は落ち着いてきた。
30年以上悩まされてきた執着(しゅうじゃく)から、
どうやら離れることができたようだ。

執着とは、私への執着といったところか。
もっと正確には、輝かしい将来が約束されていたことへの執着である。
その約束は、20年ぐらい前に解約、あるいは更改されていたが、
その後、20年以上も執着の対象になってしまっていた。

ここにきてようやく平凡な暮らしをすることについての
覚悟ができたといったところか。

もちろん経済的には恵まれてはいないが、
沢山働く必要がない状態ではある。

この状態はもちろん不確定期限があるのだろうが、
わりと幸せではある。

この暇な時間が持てたことで、心の傷がようやく癒えたのである。
もちろん、暇のために、集中的に考え直すことができたからなのだ。

私はどの特定の宗教組織にも所属していないし、
今後も所属するつもりはないが、
神様が存在することは確信している。
なぜなら、神の使いの者と私は、わが肉体を共有しているからだ。

もちろん、その神秘体験は私の個人的な体験でしかないため、
客観的な証拠など、私は用意することができない。

しかし、それは、私の体験を第三者が確信することができないだけで、
私が個人的に確信することを妨げる事態ではない。

大体、私は、神の存在を証明する責任を負ってはいない。
だから、信じるも信じないもあなた次第だし、
信じても信じなくても、なんらの危害便益もありません。

私は、これまでのことを以下の如く整理した。

結局、すべては人のせいにはできない。
しかし、すべてを霊的な存在のせいにはできる。
だが、その霊的な存在には、なにか考えがあったのであろう。
その考えは、私の人生を大局的に見れば、やはり愛ゆえの行いなのだ。
ゆえに、私は、その行いの結果、生じたことを甘んじて受け入れることにした。

これまでに、なんの社会的成果も挙げられなかったが、
それは、この断固とした拒否・拒絶による不安定な心の状態のためであった。

今後は、もっと、与えられているモノを使用して生きていくのがよいのだろう。
私は、与えられたものは沢山あるのだから、それでいい。

受け入れることでこんなに気持ちが楽になるとは、
予想だにしなかったが、ようやく、執着は終着駅に降り立ったのである。

もっとも今後、新たに執着するものがでてくる可能性はある。
そのときには、もっと執着をうまく制御できるようにしたい。

でも、執着とは、愛することでもあるようだ。
だから、まだ、当分、旅は続きそうである。

本日は以上。
ではまた。







2021/05/14 17:14:32|蔵の街ライフデザイン
悩むと考える。
これまでは悩みきった人生でした。
これからは考える人生にしたいです。

悩むのは受動的な苦役でしかないようです。
考えるためには問題に直面するということが必要です。

人生には障壁として様々な問題がやってきます。
それこそ多種多様でたくさんの問題がありますね

そうした問題は解くしかありません。
そして自分らしく解決すればいいのです。

人生の問題に模範解答などないのです。
大体、その問題は、私にしか用意されていないかもしれません。

オリジナルな問題に対して、オリジナルな解決を与えるしか方法がありません。
カンニングで解けるような問題ではないのです。

大体、解けることがわかっている問題など、
解くに値しないのです。

そもそも答えがあるかどうか不明な問題もたくさんありますし、
複雑すぎて解けない、能力不足で解けない問題もありますね。

解くまでにタイムリミットがある問題もありますね。
それでも、暫定的にでも解答をしなければならないのです。

学校のテストのような問題など、人生の壁と比べれば、
解くことはとても容易いのです。

学校のテストの問題など、解くに値しないのです。
それは、だれかがすでに解いているわけですから。

自分の人生において何が問題なのか?
そして、その問題はどのような課題に分けられるのか?
そうした課題のうち、どの課題についてだけ取り組むか?
どこまで解決できれば満足(幸福)なのか?

自分に取り巻く状況をどう認識し、
どのような問題意識を傾けるのか?

解決できないなどと安直に言わずに、
どう解決していこうか?

と、思案を巡らすことでしか人生を楽しくする方法はないようです。

本日はこれまで
ではまた。