考えながら書いているので、日本語失調症にもなっていますが、どうかご勘弁いただきたい。
「慢性的に不満を抱いている」ということは、満足したという状態を知らないということである。何をやっても満足感がないということでもある。「満足する豚よりも不満足なソクラテスのほうがよい。」などと嘯いている余裕もない。幸福であるという瞬間が人生のストーリーから欠け落ちているような気がする。
平凡な毎日の繰り返しに耐えるだけの能力に欠けている。もっと、遠くを見渡せるようになりたい。それは高い山を登ることにも似て、高度な知識を得て、高級な知恵を働かせてみたいというあくなき欲求に突き動かされているようでもある。
したがって、上昇志向ということである。私には、降りていく生き方というのは、初老の男性の生き方にとってはふさわしいであろうが、まだまだ若いと錯覚している自分のような人間には、到底、真似できないし、真似すべきでもないと感じられる。
「若さ」とは、「馬鹿さ」でもある。その「馬鹿さ」への自覚ゆえに、非建設的な優越性への欲求の塊になる。すなわち、神経症的な人生を歩むことになる。今の人生に満足することができない。全体を見渡せるようなパースペクティブを身につけることこそが、幸福な人生であると、信じ切ってしまっている。
無駄なことに力を注ぐことができないでいる。真の意味で遊ぶことができない。余裕がないのである。いつも焦燥に駆られてしまっている。身体はすっかり疲れてしまっている。それでもなお、自分を変えられさえすれば、世界も一変することをかたくなに信じてしまっている。まるで、安っぽい自己啓蒙本のようなフレーズで、頭の中が支配されてしまっている。
それゆえか、一つの事にじっくり取り組むことができないようになってしまっている。次から次へと課題を見つけてきては、解決しようと試みるものの、最優先の課題になかなか取り組むことができない。
以上のような症状に見舞われてしまっていて、物事を深く考える時間がないから、多読乱読を平気で出来るようになった。専門書ですらじっくりと味わうことなく速読気味に読んでしまう。中学、高校生のころは、古典的な名著を考えながらじっくりと味わうように読んでいたのに、すなわち、読書の楽しみ方を知っていたのに、今は、とても義務的な読書になっている。
読書が習慣になってしまっている。一〇〇〇〇時間をかけて、2000冊程度を読破したが、何事も起こらなかった気がする。
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