栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2009/04/17 18:50:08|イベントでの語り
道の駅思川で語ります 4月19日
  道の駅 思川で語ります

4月19日(日)道の駅 思川で「思川桜着付けの会」のイベントがあります。

  道の駅 思川のトップページより
http://www.michinoekiomoigawa.co.jp/

 2009/4/19(日)
思川桜に誘われて小紋を着て、野だてと民話を楽しみましょう!

[時間] 野だて/正午〜午後4時
着付け/午後1時〜2時30分
    民 話/午後3時〜3時40分
[募集人員]20名(要予約)
     (野だて・民話のみの参加は当日受付)
[参加費]着付け・野だて・民話 400円
    野だて・民話 350円
[申込先]福田 0285-38-1775
 


 語りの内容はその日の気分とお客様を見てから決めます。着物、 桜、 栃木 をキーワードに語ります。お時間がございましたら、是非いらしてください。この日は、小山市内各会場で思川桜にちなんだイベントが行われます。今回のイベントに参加するにあったって、思川桜について調べてみました。

   思川桜とは


花の形状  花びらが10枚位。一重で花びらが5枚のソメイヨシノより多いが、八重桜程多くない半八重。
開花時期  ソメイヨシノと八重桜のちょうど中間の時期
花の色   ソメイヨシノより濃く、八重桜より薄い。
由来    
  1954年(昭和29年)のこと。小山市東島田の思川のほとりにある小山修道院の庭にあった、春と秋に2度咲く「十月桜」の種子を東大理学部付属植物園元主任の故久保田秀夫先生が採取し、種を蒔いて育てた。ところが、育った桜の木は、花の様子が親の木「十月桜」とは違っており、色が濃く花は小ぶりの突然変異だった。親木は春秋咲くが、この桜は春しか咲かない。
 久保田先生は、この美しい新種の桜に、修道院のそばを流れる思川の名を冠して、「思川桜」と命名し、学会に発表した。
つまり、「思川桜」とは小山市原産の名桜。他にはない桜なのだ。

思川桜の見られる場所
   小山市役所前 国道4号線沿い
   白鴎大学キャンパス 思川西岸

   緑地公園の土手
   小山市飯塚 摩莉支天塚古墳近くの道路沿い
   網戸大橋付近の土手

http://michinoeki.city-oyama.com/shopping/tirashi/bill_01.htm







2009/04/16 18:47:02|栃木市に伝わる話
よし姫堂を訪ねて

  星野の里 よし姫堂を訪ねて

桜が舞い散る4月13日に、東京新聞の長野美穂さんが、栃木と栃木の語り部を取材にいらした。月刊誌「岳人」で「山のれじぇんど摩訶不思議」という連載をしており、各県の語り部とその話をイラスト入りで載せている。
長野さんは、美大出の美人イラストレーターで、語り部のような田舎ものは、めったに出会えないタイプの人だ。でも、話してみるととても気さくな人で、語りや伝説、むかし話のことで話が盛り上がってしまった。こちらがもっと語らなければならないのに、各地の語り部を訪ね歩いている長野さんの話が楽しくて、つい、聴く方へまわってしまったりした。
太平山神社、謙信平、大中寺、星野の里、出流山などをまわった。
星野のよし姫堂もお参りした。小山の祇園城が落城し、小山義政の妻よし姫が夫のいる粕尾城へ向う途中、この星野の里を通りすがったのは4月13日のこと、同じ13日という偶然に是非ともここへお参りしなければと思った。14日であれば、まさに命日だったが。
 2月にここを訪ねた時は夕方で、枯らしが山の杉を吹き荒し、笹の葉が鳴っていて、鳥の声さえ聞こえない淋しい場所で、過去へタイムスリップした様な感覚に襲われた。
 春、真っ盛りのこと、空気が和らいで、あの時のような恐ろしさは感じなかった。お参りしたあと、お堂の礎に腰を下ろして、「よし姫伝説・よし草」を語った。
 よし草は今もどこかに生えているのかという長野さんの質問には答えられなかった。今も人知れず、星野の山中のいずれかに生えているのではないかと思う。

  5月15日に発行される「岳人」6月号が、今から楽しみな語り部なのである
 







2008/11/04 15:59:12|遠野紀行
遠野への旅
10月の三連休に、全日本語りのまつりが開かれた遠野へ行ってきた。十年以上も前に初めて訪れて以来4度も行っているが、いずれも冬だったので、今回、雪のない時期の遠野、収穫の時期の遠野を満喫することができた。

新花巻で新幹線を降り、JR釜石線という単線のローカル線に乗り換えた。来る度、この釜石線のホームに立った途端に別世界への扉へ手がかかった様な気がする。2両編成の電車に揺られて、金色の稲穂の波や猿が石川の川面のゆらめきを眺めなながら遠野駅へ着いた。

釜石線には、遠野物語に出てくる「綾織」「青笹」という駅があり、それを見ただけでも、物語が浮かんできてしまうのだ。

遠野駅には、まつりの案内の人がいて、あたたかく出迎えてくれた。何度来ても、ここは、「人のあたたかさ」を感じる土地だ。

遠野には、河童の伝説が伝わっていて、そのため、駅前の交番まで河童の形をしていて面白い。観光協会では「河童捕獲許可証」(確か300円)なるものを、販売しているという。
なかなか楽しい企画ではあるが、河童の存在を信じていない証である様に思うのだが・・・

会場のふるさと村は早池峰山を望む山合いにあり、のんびりとした空気に包まれていた。ここには、茅葺の南部曲がり家が何棟も移築されていて、昔の暮らしが体験できる。







2008/09/30 21:32:36|遠野に伝わる話
遠野物語とたのし荘で聞いたはなし
たのし荘での語りのあと、あるお年寄りから、こんな話を聞いた。

「小さい頃、おじいちゃんが死んでさ。
学校へ行く時、その墓の近くを通ったら、おじいちゃんが、出てきたんだよ。そんなことがあったね」
「おじいちゃん、かわいがってくれていたんでしょうね」
「そりゃあ、かわいがってくれてたさ」
「何年生のときのことですか」
「一年生の時だよ」
「学校へ入ったばかりで、心配だったんでしょうね」
「そうだね。二度出てきたよ」
「会えて、嬉しかったでしょう」
「ああ〜、嬉しかったさ〜話をしたんだよ。いつもの格好で出てきてさ、墓の方へ帰ってったよ」


この話をしてくれた方は、私の方を見ているようでもあり、遠くを見ているようでもあり、目にうっすらと涙をためていた。
半世紀以上の時を経ても、ありありとその光景が眼前に浮かんでいるようだった。
これは、怪異譚だが、亡くなった祖父を思う孫の心と、孫を思う祖父の心に胸を打たれる
話だと思った。

この話を聞いて、柳田國男の「遠野物語」二十二節を思い出した。


 佐々木氏(本書の語り手喜善氏)の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まり来てその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に座り、母人は傍らに炭籠を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口より足音して来るものあるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて着物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫い付けてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間も無く、二人の女の座れる囲炉裏の脇を通り行くとて、裾にて炭取(炭籠に同じ)にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親類の人々のうち臥したる座敷の方へ近寄り行くと思うほどに、かの女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に眠りを覚まし、ただうち驚くばかりなりしと言えり。

この話の中の、着物の前を三角に取り上げて前に縫い付けてあったというくだりと、
裾に触った炭取が、くるくると回ったというくだりが、この話にリアリティーを感じさせる。まさに、異界と、現実の交差するところなのだ。

この秋、語り部の私にとっての一大イベントがある。それは、10月11日から、遠野で行われる、語りの祭りで栗山村に伝わる「かえるのばばみの」を語ることだ。南部の曲り家が移築されている遠野のふるさと村で行われる祭りだ。NHKの連続ドラマ「どんどはれ」の中にも出てきた民家のとなり移築されている、肝煎りの家で語ることになっている。十年以上も前、友人とここを訪れてわらじを編んでいたお年寄りから昔ばなしを聞いた、懐かしい場所だ。こういう憧れの場所で自分が語れるとは夢にも思っていなかった。語りを続けてきてよかったと、つくづく思う。

高校時代、初めて「遠野物語」を読んで、「願わくは、之を語りて、平地人を戦慄せしめよ」という一文に、まさに「戦慄」してから○十年・・・・
語りを始めて、最初に覚えたのは遠野を代表する語り部鈴木サツさんの語る「座敷わらし」だった。すっかり涼しくなった、秋の夜長に、また「遠野物語」を紐解いている。







2008/09/27 20:16:22|パーソナルストーリー
たのし荘で聞いたはなし
たのし荘で聞いたはなし

グループホームで語りを聞いていただいた後、こんな質問をしてみた。
「小さい頃、お父さんや、お母さん、おじいちゃんや、おばあちゃんに聞いた昔ばなしはありませんか?」
すると、
「農家だったけど、ないねえ」
などいう返事だったが、あるおばあちゃんが、私に、
「こういうの(語り)がやりたくて、先生をやめたの?」と聞いた。話が始まる前に、職員の方が、私が元、小学校の教員だったことを、ちょっと話しただけだったのに、なぜ、そんな質問をするのかな、っと思ったが、これまでのことを話すと、こんな話を語ってくれた。


「私が小学校へ入ったとき、担任の先生は若い女の先生だったんだよ。でも、師範学校の先生に見初められて、嫁に行くんで、2年でやめちゃったんだ。その先生が好きで、まだ、電車も通ってない不便な時だったのに、宇都宮まで訪ねていったよ。それで、自分も先生になりたくてさ、試験受けたんだよ。だけど、その頃、オルガンをひく試験もあってさ。伴奏だから、右と左の手がちがうこと弾かなくちゃならないのに、この手が動かないんだ。ゆうこときかなくてさ、指がおんなじに動いちゃって、試験に落ちたんだよ。師範の本も買っちゃたのに、無駄になってさ・・・。そんな、自分が悔しくてさ、雨の降る日に、縁側から、その本を、外に、み〜んな投げたんだよ。そんなこと、あったね」


昔語りを聴いて、むかしのことを思い出されたのだろう。心の中に眠っていた若い日の胸の痛む思い出を語ってくれたのだ。むかし語りには、そんな、心の糸口を見つける不思議な力があるんだなと思った。語りに行ったのに、話をいただいてきたのだった。