栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2009/05/09 9:02:06|栃木の言い伝え
エコ! 栃木の言い伝え
 今朝、自転車で散歩していたら、都賀町の用水堀でカワセミを見た。瑠璃色の翼が陽を浴びて光っていた。この辺りの水もきれいで魚をねらって、カワセミが住んでいるらしい。
降り続いた雨もようやく上がり、初夏を思わせる今日、ブログのデザインも初夏らしく更新してみた。

さて、後世に伝えたい、栃木の言い伝えがある。それは、

「お湯を煮え立たせておくと、富が東の家に逃げて行ってしまう」


「お湯を煮え立たせておくと、大尽様が東の家に逃げていく」


というものだ。私が育つ頃は、やかんを火にかけておいて、湯が沸騰してもそれを音でおしえてくれるピーピーケトルもなかった。まして、湯沸しポットもなかった。お湯が沸騰したのに気付かずにそのままにしておくと、母からこの言い伝えを言われた。

 幼いころは、「へ〜、そうなんだ〜」とか上の空だった。だが、家計をあずかるようになった時、急にこの言葉が意識に上ってきた。お湯を沸騰させたままだと、ガス代がもったいない。しかも、ただそれだけで、富が東の家に行ってしまうなんてそんな理不尽な・・・・ふと、台所の窓から東を見るが、東側に家はない。あのずっと向こうの、木の陰にあるあの家に富はいってしまうのだろうか・・・・まずい!火をすぐに消さなくては!!! その頃、流行り出した、ピーピーケトルの音がサイレンの警戒音の様に聞こえだす!!! 早く、火を止めろ〜

この言い伝えのポイントは、富がどこかに逃げるのではなく、「東の家」と限定していることだ。「甍を争う」という言葉があるように、ご近所は助け合う仲でもあり、時には、庭木の花の付け具合ひとつでも、競い合ったりする。この心理をついた、よくできた言い伝えだと思う。

 二酸化炭素を減らし、地球温暖化を防止する、生活者の言い伝え


「お湯を煮え立たせておくと、富が東の家に逃げて行ってしまう」


に私は、省エネ大賞を贈りたい。
 







2009/05/01 21:44:13|栃木県内に伝わる話
五月の節句の話  蓬と菖蒲

 五月の節句にまつわる話が、下都賀郡に伝わっている。

  
     蓬と菖蒲


 ある男が旅に出かけ、あまりくたびれたので、岩かげに腰をおろして休んでいるうちに、ねむってしまいました。
 間もなく、天がにわかにかき曇り、なまあたたかい風がごうごう吹き出しましたので、はっと目が覚めますと、すぐ前の岩の上に一匹の大蛇が長い舌を出し、今にもおどりかかりそうに身構えています。
 男は、その場に腰を抜かしてしまいました。大蛇は男をひとのみしようとして、大口あいて飛び掛りましたが、あいにく、男のしょっていた編笠がじゃまになって、どうしても飲み込むことができませんでした。
 男はそのおかげで命拾いしたのですが、その編笠は、蓬と菖蒲で作ってありました。この辺で五月の節句に、軒場に蓬と菖蒲をさして祝うのはそのためだそうです。
           栃木の民話2  日向野徳久編 未来社


 有名な昔ばなし「食わず女房」では、追ってきた山ん婆が、菖蒲の葉で目がつぶれ、蓬の汁がついたところからドロドロにとけて死んでしまい、命拾いした。それがちょうど五月の五日のことだったから、五月の節句には、軒先に蓬と菖蒲をさしたり、菖蒲湯に入ったりする。と伝えている。

 ある、有名な語り部が、蛇の話をこの時期にする時、決まって蛇の皮脱ぎの話を枕にするという。お母さんが、蛇も皮脱ぎして新しく生まれ変わるんだから、人間もそうしなくてはと話していたそうだ。
 この話にいたく感動した。「人も新しく生まれ変わる」ということは、過去に囚われるな、とか、未来に目を向けろとかいう積極的な教訓であり、それを娘に伝えたかったのだろう。また、話している本人も自分自身にそう語りかけていたに違いない。
 同じ話も語る人それぞれの思いが語りこめられてこそ聴くものの心に届くのだ。







2009/05/01 14:53:33|その他
夏鶯 吉屋信子の作品
 
一昨年の朗読会で吉屋信子の「夏鶯」を読んだ。
15分にまとめなくてはならないので、内容を大幅にカットした。



     吉屋信子の作品「夏鶯」


 私は空襲で東京の家を失ってから、東京から程近い海辺の町に住んでいた。海水浴の客もいない淋しい夏の海へ、私は海草を拾いに出かけた。
 突然サイレンが鳴り、頭上に迫る爆音がはっきりと聞こえた。私は必死の思いで松林の奥へ奥へと逃げた。高射砲弾の破片がバサリバサリと松の梢をかすめて落ちてきて砂に突きささる。其の時、ちょうど目の前にボサ垣が見えたので、誰かの家があると思い、裏木戸を跳ね飛ばすようにして中に入った。
 中は、仄暗いほど梅の葉が茂った、梅園のような庭で、まるで世界が変わったような気がした。庭は随分広いと見えて邸らしいものは見えない。鬱蒼と木々が生い茂った中に堂々とコンクリートで山の岩肌を切り抜いて塗り固めてある防空壕の入り口を見つけた。
 鉄の扉を押すと、ギーッと音がして開いた。ひいやりとした冷たい湿気の空気と共に、何か人をうっとりさせるような焚きしめた香のにおいのようなものが漂っていた。私は不思議な気分になった。
「ごめんください、海岸で空襲にあいました。暫くいれてくださいませんか」
すると中から典雅な含みのある声で、
「どうぞお入り遊ばして」
と答えるのが聞こえた。
(遊ばして・・・)いわゆるその遊ばせ言葉などは、遠い時代ならいざ知らす、人身日々に荒くれてくるこの戦時中、まことに奇妙な感じで私をたじろがせた。
私は更に中へ進み、木戸を開けると、畳がひかれた四畳半位の広さの茶室がそこにあった。湯のたぎった釜の前に、端然と黒絽の着物を着た気品のある老婦人が座っていた。銀白の白髪をお茶せんに結び、面長で色は抜けるほどに白く、鼻筋の通った、切れ長の目がやや釣り上がった、老いてもなお美しさを保つ姿で悠々と袱紗さばきをしていた。 今、空には爆音と高射砲が鳴り響き、それに追われて殺気立って来た私は、まるで妖怪変化を見るような気がした。
「さあごゆっくりおとどまりなさいまし」
老婦人は、眉ひとつ動かさず飛び込んできた私を招いた。
 私ははにかみながら、砂だらけになった白いズックの靴を脱いで、座るより仕方が無かった。
「一服いかがでございますか」
 私もお茶をほんの少し習ったことはあるが、この壕の中で思いもかけぬことになってしまった。私はなんだか夢を見ているようだった。海草を拾いに来て、そしてここへにげて、そして・・・どうも前後の連絡が頭の中でつかなかった。
 私は老婦人が本三島の平茶碗に鶯色の泡を立てている時、そっとあたりを見廻した。
部屋を仄々と照らす絵蝋燭から遠のいたところの一隅に朱塗りの高い台に載った、風雅な鳥かごが私を驚かせた。正面だけを見せまわりは紫檀か黒檀の箱に入って、紫の房が下がっており金文字で「玉くしげ」と書いた札が下がっていた。
 そのうちに細やかな泡を立てた薄茶が私の前にすすめられた。私は、しばらく忘れていた作法を思い出しながら、それを頂戴した。その薄茶の味は今空襲のサイレンの下であわてふためいて逃げ込んできた私の咽喉へ、しばらく現在の世の中を忘れさせるように流れ込んだ。
 私は何か一言挨拶めいた話をしなければならなかった。
「鶯を飼っていらっしゃるのですか」
 答えるまでも無いこともないこととうなずいた老婦人は
「貴方お飼いなさいまし、飼い方はいくらでもご伝授申します」
「いい鶯は随分高いのでしょうね」
私はつい物の値段のことをいった。
「(寝覚めの里)という名鳥は、安藤対馬守の飼い鳥で百両で買い上げられたと申しますし、(岩雫)の銘のある鶯は宇都宮戸田家で百五十両で買いました。明治のころは鶯を飼って溺れたために財産を捨てた方さえありました。」
「その頃は、鶯ははやっていたんですの」
「はい、それは盛んでございました。なにしろあなた毎年の春、根岸の初音の里、鶯春亭で鶯の鳴き合わせ会がございまして、みんな大騒ぎで丹精した飼い鳥を出して音を競わせたものでございます」
「ほう、鶯の音色コンクールですね」
「今様に申せばそうでございましょう。その会に私のご奉公申した奥様の愛鳥を出しましたのでその時のことをよく覚えております。・・・・・私のご奉公した先は華族さんのお邸で当時の華族女学校へいらしゃっていた多賀子様と申し上げるお姫様附きに、まだ娘の私がお仕えしたのです。このお姫様が鶯が好きで「玉くしげ」という鶯を飼っておいでになりました。ご婚約が決まってお興しいれの時もお嫁入り道具の一つにご持参になりました。何しろお姫様のことですから、自然にお傍に仕える私が鶯のお世話をいたすわけで、まあいわば、お姫様兼鶯附きの侍女とでも申す次第でございました。 その多賀様のお輿入れ先は当時駿河台に大きな病院をお開きになっていた独逸留学帰りの渡辺ドクトル様でございました。私は鶯の籠と一緒に多賀様のお供をしてドクトルのお邸へまいり、そのままドクトル夫人のお付になりました。ご夫婦仲もまあまあ悪いこともなく、やがて御男子出産、薫様と名が付きました。多賀様は十七でお子持ちになられました」
「お綺麗な方だったでしょうね」
「ええ、それはもう日本一の美人と申すのは過ぎるかもしれませんが、美人コンクールにお出になってもおくれはお取りになりますまい。さて、息子の薫様が十五の時に渡辺ドクトル様は脳溢血でふいとお亡くなりになってしまいました。多賀様は三十一で若後家、未亡人におなりなったのです。三十一とは申せそれがかえって女盛りで、まことにお美しさが身に沁みるようでした。お亡くなりになってみると、ドクトルが派手好きの遊び好きだったために、病院は相当に繁盛していたのに、たくさん借金が残っているという始末でした。その上、病院を抵当にお金を借りていらした先というのが、芝高輪の有名な高利貸し山木権三郎と申す人で、鬼権と呼ばれていました。
 借財が払えないとなると、期限が来次第、駿河台の病院も、その裏手にあったお住まいも全部鬼権の手に渡ってしまうのです。差し当たってはどこかへお移りにならねばならぬ。そのための費用の調達もせねばなりません。
 丁度其の頃、根岸の鶯春亭に鶯鳴き合わせの会があるのを知って、ふと私は多賀様におすすめしてみました。御愛鳥の玉くしげがもし運よく選ばれて准の一の折り紙でもつけられればどんないい値でお金に替えることができるか知れません。当日は私も会場へ多賀様のお供をしてまいりました。会場では鶯より多賀様のお姿の方が人目をひいておいででした。
さても神様は多賀様の身の上を哀れと思召してか玉くしげは准の一の折り紙が見事に付けられました。ものの二日も立たぬうちに鳥屋が飛んできていくらでも高く買ってくれる買い手が付いたと申します。まあなんと、人も有ろうにその買い手が、あの鬼権の山木権三郎なのでございます。私は、それこそこの鶯を縁にして、鬼権さんに会って息子の薫様のためにもあの病院だけは取り上げず、延ばして貰うように頼んでみようと思い立ちました。高輪台の屋敷を訪ねた私は鬼権に、
「鶯と一緒にあの奥さんを頂きたい」
と逆に手をついて頼まれてしまいました。
 邸に帰るなり多賀様に逐一報告すると多賀様は身震いなすって首をお振りになる。しかし、私は、独逸留学を控えた薫様のためにもと、そこを一心に説き伏せました。
 さて多賀様は山木家へお嫁ぎになってから何という不思議なご縁でしょう。もともと恋女房として下にも置かず、ご持参の玉くしげの鶯を大事にするにもまして多賀様を尊い珠のように大事になさるのですから、多賀様の気持ちも次第に二度目のご主人に靡いたと見えて、お仲睦まじくおし合わせにお暮らしになっていらっしゃるようなので、私は、自分の致しましたことが多賀様の女の生涯にも決して悪いことではなかったと安心いたしました」
 老婦人の物語を聞く私は、まるで古い絵草子の文字を読みふけるように言葉もなく黙ってうなずくだけであった。
「多賀様はその後、流産の後ご気分が勝れず、胸の病と診断され、この広い土地をもとめて別荘を建て、転地療養なさいました。また一年ほど経った春のこと、山木さんは恨みを持つ借財者に殺されてしまったのです。こうして二度目の旦那様も非業の死を遂げて、またまた後家様におなりになるとは多賀様もよくよく良人運のない方でした。
 多賀様は二度目の旦那様の死をお知りになってからずっと容態がお悪くおなりになり、翌年の春、命数尽きてお亡くなりになりました。
 波の音も淋しく聞こえる春の黄昏でした。おやつれになってもまだ三十四五のお美しさはまだ今も目に残っております。
 奥様が息をお引取りになった朝、今まで御病室のお縁側においてホーホケキョと啼いてお慰めしていた玉くしげがその朝からふっつりと啼きませんので、私が餌をやるのに籠を開けますと、止まり木から落ちて死んでおりました。多賀様が雛から育てられた鶯も奥様に殉死したのでございましょうか。私はお棺の中にその玉くしげの小さい遺骸も納めようかと思いましたが、いわば奥様のお形見を無くしてしまうのが惜しくてならず、それを剥製にして、その籠の中に入れて今ここにございます。剥製の鶯にも供養のために餌は毎日やって居ります。」
 と言って、老婦人は立ち上がり、籠の戸を押し上げた。私も立ってその籠を恐る恐るのぞくと、一羽の鶯が、さながら生けるように止まり木に止まって、脇には赤絵の餌皿に青菜をすり潰した新しい餌が入っていた。永遠に餌をついばむことのないこの剥製のために、老婦人は毎朝、餌皿に餌をすり潰して入れるのか・・・。
 その時、空襲警報解除のサイレンが、この壕の中にまで響いてきた。鄭重にお礼の言葉とお辞儀を何度もして壕を出るとき、立上がって壕の口まで見送った老婦人の声がうしろにした。
「お大事に、お気をつけあそばして・・・」
 私は壕を出ると、梅の葉の茂みの中を潜りぬけて海岸道路へ出て行った。
 
 そして八月十五日、やっと長い戦いは終わった。
 もう空襲の心配はないと知って久しぶりで私は海岸に出て行って、あの壕のあった松林の一構えを心あてに探しながら、見覚えのある松林の中を歩いていったが、いくら探しても確かに見た筈の裏木戸も梅の庭もどこにも見当たらなかった。
 ただこうして一ときさまよっていると、あの松林のあたりでホ、ケキョケキョと啼く夏鶯の、どこか寂しげな音色を耳にした。
 はっとして足を止めて、もう一度聞こうとしたが、夏鶯の啼く音も姿も、もう二度とは見る由も聞く由もなかった・・・・。


 不思議な話だと思った。

 子どもの頃、近くのレンゲ畑でひばりの巣を見つけた。卵を一つ手に取ろうとして摘み上げた瞬間、卵はあっけなく割れた。すぐにとって返して、友達と友達のお姉さんを連れて行ってみたが巣はどこにも見あたらなかった。友達のお姉さんが優しく「嘘なら、嘘って言ってね。怒らないから」と私に語りかけた。
「嘘じゃない!ほんとに巣はあたったんだ!!」こう叫びたいのに言葉が喉に絡まって出てこない・・・春の夕暮れ時のひとこま。
 確かにあったものが、消えている。見つからない。昔ばなしでなくてもあるのだ。

 この「夏鶯」は文学作品だが、昔ばなしや伝説に出てくる鳥の話しには悲しいものが多い。

 「見るなの蔵」「見るなの座敷」「花さき山」「マヨイガ」等など。現実とまぼろしの間を行き来する話には惹かれるものが多い。







2009/05/01 13:32:16|木にまつわる話
我が家の椿の木の話
 木にまつわる言い伝えは数えきれないほど多い。

木にまつわる話として忘れがたいのが、遠野の昔ばなしまつりで君川みち子さんが語った「座頭の木」だ。君川さんのゆったりとした語り口と、美しい声、しなやかな姿が忘れられない。 

   座頭の木

むかし、あったと。
あるとこさ、おっきな川あって、渡し守住んでたと。この川橋ねえもんださけ、村の人らは、渡し舟で行き来しておったと。
ある時、雨うんと降って、大水出て、川あふって、渡し守も村の人らも、えれえ難儀したと。ようやく、渡し守、船出してみたればな、川上から木いっぱいと、流れて来るながと。
「こりゃ、ええ薪になるな」っと、渡し守薪ひろっておっと、丁度いいあんばいの薄黒いもの流れて来るさけえ、こっちの方さ船近づけてみたれば、何と、木でなくて、死んだ人であったと。
「なんだってまづ、かわいそうだな」って、引き上げてみっと、琵琶弾いたり、うたうったったりして歩く、目え見えねえ座頭坊様であったと。
 この渡し守、ええ人でな、
「座頭坊様、さぞ切なかっべな」って、死んだ座頭坊様、手合わせて、川のそばさ埋めてけたと。したれば、しばらくすっと、そっから、ちょこらっと、芽ではって、見たこともねえ木おがって来たと。村の人らは誰ひとり名もわからねかった。この木は、のびて、のびて、見上げるほどのおっきな木さなってしまったと。子守っこらおもしろがってな、
「座頭坊様埋めたれば、おっきな木生えてきた」
あちこち言うてあるくもんで、座頭の木、座頭の木、っと大した評判さなって、見い来る人もいっぱい けっど。
そのうち、この木さ、つぼみ付いたけど。つぼみはだんだんと大きくなってって、おぼこが両の手広げたほどのおっきな花開いたと。赤だの、白だの、黄色だの、紫だのてよお、ほのきれいなことというたら、なんぼ見てても見飽きねえ程だったけど。ほして、そのにおいのええことよお。村中がなんともいわれねえような、ええにおいの中さ包まれて、寝たきりのばあ様までよ、元気になったほどだったけど。
「何とも、不思議なことだな」って、村の人らみいんな集まって、座頭の木ば見たと、そすっと、ひとりのおぼこが、
「あ〜、花ん中さ座頭坊様座ってござる」っていってな。どれどれって大人がよくよく見てみたれば、ほんに、花の真ん中さよ、ひとりづつ、ちっちゃい、座頭坊様座っておるんだと。珍しくて、珍しくてな、よっくと見てみたれば、太鼓たたいてるかっこしてるもん、三味線ひく手つきしてるもん、鐘っこ持ってるもん、笛口さあててるもん、唄歌う様子してるもんなんぞとよ、みななにかしら芸してるかっこで座っておるんだと。ほして、そのうち、風っこふいてくると、この花川ん中さ散りはじめた。そすっと、花ん中さ座ってる座頭坊様が、鐘こたたく、笛吹く、三味線弾く、歌うたうして、いっせいにお囃子ば始めたんだと。
  チリコ、チチリコ、チチリコドン
  チリコ チチリコ チチリコドン

て、ほりゃ、ほりゃ、にぎやかにながっていくのに、中には芸のねえ座頭坊様もいて、そういう花はずぶずぶ、ずぶずぶ、沈んでいくのだけど。それが評判さなってなあ、あっちの村、こっちの村と、十里二十里も遠くの方から見物の人いっぱいと集まってきた。そして、これがみんな渡し守の船さ乗ったさけ、渡し守は忙しくて忙しくて、銭っこたんともうかったと。村の人らもな、むしろ貸したり、団子うったりしてよ、銭っこもうかって喜んだと。
 そのうち、花も散り終わってな、村はまた、もとどうり、静かになったと。風ちったくなってきても、おぼこらは、おにごっこしたり、したりして、毎日座頭の木の下で遊んでおったと。ある日のことよ、おぼこら、木は見上げて大騒ぎしていたと。何と、花の終わった座頭の木さ、おぼこらの欲しいもんばっかり、いっぱいと下がっておったんだと。赤い着物、帯、こま、下駄、てよ、おぼこら、嬉しくて、うれしくて、木の周りばはねまわって、取って、登ることできねかった。おぼこら、首がいたくなるほどそっくりけえって、木ば見たと。ひとりのおぼこが、
「あ〜、おら、あの、赤い帯ほしいな」っていうてっと、風っこどーっとふいて、その赤い帯、ひらひらひらっと、そのおぼこの手の中さ落ちてきたんだと。男ん子、
「おらあ、でっけえこま、欲しいな」っていうと、風っこ、ごーっと吹いて、でっけえこま落ちてくる、
「甘ごいまんじゅう欲しいな」っていうと、風っこ、ごーっと吹いて、まんじゅう落ちてくる、
「あったけえ襟巻きほしいな」ってねがうと、風っこ、どーっと吹いて、ひらひらひらあって、襟巻き落ちてくる、欲しいもん願うたんびに風っこ、どーっと吹いて、欲しいもんがそのおぼこの手の中に落ちてくるだと。風っこどーっと吹いて、どーどー吹いて、どーどー吹いてな、村中のおぼこらの手の中さ欲しいもん渡ったんだと。雪っこもちらちらと舞い始めて、冬きたなあと。どこの、どこだかわからねんだけど、座頭の木は毎年花咲かせて、実いつけて、おぼこらは待ってるんだってよ。一回見てみてえもんだなや。どっぴん。


 さて、我が家にも木にまつわる話がある。
 

 ある時、「庭の南東の角に、椿のある家の娘は幸せになる」という言い伝えがあることを耳にした。その後、この話をことあるごとにしたところ、「実家にもあるよ」と答えた友達が二人いた。この二人が二人とも幸せを絵に描いたように暮らしているので、私はこの言い伝えをすっかり信じた。

 ある年の暮れ、娘が大事な試験をひかえて勉強していたが、親は何もしてあげられない。その時、この言い伝えを思い出したのだ。

 うちのに庭の南東の角に父が植えたばかりの椿の木があった。この椿は、西の庭にある大きな椿の木の下から移植した実生の椿で、まだか細く、周りの木で日陰になっていた。私は、師走の寒風が吹きすさぶ中、持って行った植木鋏でその南側にのび放題になっていた紫陽花や子手毬を思い切りよく切った。椿よ育てと念じながら。

 さて、次の春、娘は試験に受かって、自分の道を歩き始めた。次の年の正月の膳に向いながら、私はふいにこのことを思い出して、家族に話した。すると、主人が「何をいっているんだ。試験に受かったのは、椿に日が当たったからじゃなくて、本人の努力の結果じゃないか!」と怒ったように言った。私にしてみれば、そんな迷信も信じたくなったあの師走の日の自分をなつかしんでの発言だったのだが・・・。

 さて、その年2月、父が庭の南東の角、角も角、生垣に大穴を掘って、堆肥もたっぷりと入れて、実生の椿を植えた。私が日を当てようとした椿にも肥やしを施してくれた。正月の話を聴いていたのだろう。孫の幸せを祈っての行動だろうが、有り難く思った。

 そして3月、南東の角の椿が初めての赤い花をつけたのだった。
 

 







2009/04/19 9:15:11|日光市に伝わる話
水戸へ婿入りする話
 今をときめく漫才コンビU字工事(栃木県西那須野町出身)は、茨城県に異常なライバル心を燃やすネタで受けている。
「茨城に嫁に行った姉ちゃんは、俺がスパイとして送りこんだんだ!」などとも言っていて、つい、笑ってしまう。

湯西川に伝わる昔ばなしの中に、栃木の山奥に住む南部太郎という若者が、江戸見物で出会った、茨城の水戸に住む娘に惚れて、婿に行くという話がある。

嫁入や婿入りの話は数々あるが、その先の地名が伝説のようにはっきりと語られている話はめったにない。
娘の置手紙の中の文句にあったから残ったのだろう。

南部太郎は茨城にスパイとして送りこまれたのだろうか?
いや〜そんなごしゃっぺこくでねえ!
 


   南部太郎

南部太郎っていう若者がいたと。
南部太郎は、早くから両親亡くしたが、二十年間鍛冶屋の親方のところで年季奉公つとめたと。そして年季明けるのに、お礼奉公二年して年季が明けたと。年季が明けたから、どこも見たことねえから、江戸見物に行ってくることになったと。
江戸見物行くだってなあ、着るもの何にもねえんだと。親方に、襦袢のはてから、着物から羽織、手甲脚絆のはてまで全部借りたと。自分のものっちゅうのは越中ふんどし一本だけだったと。それでまあ、江戸ちゅうところへ行ってみたら、江戸は、まー、たいした立派なめずらしいところだったと。初めて見るもの、聞くもの、珍しいものばかりで、見物してるうちにはや日が暮れたと。宿屋に入って、宿をとって、部屋へ入ったら、まあなんと、きれいな若い娘と相部屋になったと。そーして相部屋になって話しするうちに、お互いに気心が知れて、どっちともなく好きあうような気持ちが、心が通じ合ったと。四方山話、夜が更けるまで、若い二人は話し合ったと。
そして、はあ、ぐっすり眠って、夜が明けてみたれば、何とはあ、その娘が、先に早立ちして行っちゃってもぬけの殻だと。南部太郎は、ひょっと見たれば、そこに娘の書置きがあったと。何やら歌のような文句が書いてあんだと。読んでみれば、
  恋しくば 訪ね来てみよ みぞなかちょうの くさらぬはしの そのさきの
  えび(石)がらもんど 訪ねて来い どっちんちんの 十五夜のぼた餅
って書いてあんだと。
「あ〜なんだべなあ。おーら、こうだ判じ文の文句、さっぱりわかんねえ。そんだけど、ゆんべ、あれほどした娘が恋しい。娘だっておれのこと好きんなったはずだ」って、家さひっけってきたら、はあ、仕事も手につかねえ、飯ものどにとおんねえ、寝込んじゃったと。親方夫婦は心配して、
「親方、おれ、相部屋になった娘が好きになって、娘の方もおれのこと好きんなってくれた。早立ちしていて、こうだ置手紙の何やらわかんねえ判じ文の文句があっけど、親方、これはどういうわけだか、読んでこの文句解いてくれ」つった。親方も、
「何だ、何だ。 恋しくば 訪ね来てみよ みぞなかちょうの くさらぬはしの そのさきの、えびがらもんど 訪ねて来い どっちんちんの 十五夜のぼた餅
なあ困ったなー。そうだ、南部太郎こういうことはなあ、あんまさんに聞いてみろ。あんまさんちゅうものは、世間を歩いてるから何だって物知りだ」
あんまさんに聞いてみたらば、あんまさんは、
「あー、これはな、こういうわけだぞ。『恋しくばたずねきてみろ』ってば、おれに恋しくて会いたかったら訪ねておいで、『みぞなかちょうの』茨城県の水戸の中町のこんだ。『くさらぬ橋』とは石でかけた石橋のこんだ。その石橋を渡ってくると、『えびがらもんど、訪ねてこい』海老の柄のついた大きな門構えのある家の前に来るから、『どっちんちんの十五夜のぼた餅』つうのは、どっちんちん、どっちんちんってそこの家も鍛冶屋で、鍛冶屋さんの音が聞こえるわけだって。そこには、おまえのみそめたぼた餅、十五のお萩さんっていう娘が待ってるはずだってわけ。
そこで、
「あ〜ありがとう」あんまさんに解いてもらった判じ文をたよりに、南部太郎は訪ねていったと。
「『恋しくば、訪ね来てみよ水戸中町』ここが水戸の中町だなあ、『くさらぬ橋の』なるほどここには石橋あった。これがくさらぬはしだって、石橋とんとんと渡って、『(石)えびがらもんど、たずねてこい』ってあったが、立派な門構えに海老柄の紋がついて、あーこのことかって、門をくぐっていったら、どっちんちん、どっちんちんて鍛冶屋さんの音が聞こえてきたと。あ〜よかった。十五夜のぼた餅、あれはお萩さんだったのか」て行ってみて、親方に、
「ごめんくだせい。私はこういうわけで、南部太郎というものでございます。早くにして両親を亡くし、私も鍛冶屋さんの親方のところに年季奉公二十年つとめ、おまけにお礼奉公二年してやっと江戸見物へ来て泊まり合わさったのがおたくの娘さんです。二人はお互いに心と心が通じ合って、末は夫婦と思って約束したが、早立ちされてこういう手紙を残されたが、それをたよりに来ました。どうかおたくの娘さんと私を夫婦にさせてください。私にその娘さんをお嫁にください」ってたのんだら、その声聞きつけて、その娘が奥から出てきたと。なんとなつかしいお萩さん。
「あなた、よく訪ねて来てくれましたね」って、だけど親方―、
「そうか、だが、おらえの娘、一人娘だ」って、
「嫁にやるわけにはいかねえ」って、
「おめえは、正直もんで、働きもんだ。おめえの正直ものにほれて、おらえの一人娘だから嫁にはくれねえけど、おめえがここに婿に来んだら夫婦にさせべえ」って。
「あ〜ありがとうごぜえます。それでは、婿にさせてもらいます。」
南部太郎は正直もののほめられてそこを見込まれて、そこの家のお萩さんとめでたく夫婦になって、蝶よ花よと、これまた、末永く、万福長者で暮らしましたとさ。南部太郎の話、いちがさきはおいもうした。しゃみしゃっきり、ねこすけぽっきり