栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2009/05/15 20:26:14|その他
山の専門誌「岳人」に掲載される

 
    山の専門誌「岳人」に掲載される

今日、山の専門誌「岳人」の6月号が発刊された。早速、書店で買ってきた。
この中の「山のレジェンド摩訶不思議」という、記者であり、登山家であり、イラストレーターでもある長野美穂さんの連載が掲載されている。


ここに、栃木の語り部の栃木県栃木市編「太平山 綾川石伝説」
などが載った。


 4月の初めに取材に来た長野さんと、太平山、大中寺、星野の里、出流山などを周りつつ語ったことが、美しいイラストと共に見事に4ページにまとめられていた。
 私の語り部としてのこれまでの歩みまで綴られていて、思いつくままに話たり語ったりしたものを記事にする筆の力に感心したり感激したりした。

 「綾川石伝説」も「よし姫伝説」も、この様に視覚化されたものがあれば、訪れる人や栃木の子ども達にもしっかりと伝承されると思った。







2009/05/14 21:48:04|栃木市に伝わる話
高天ヶ原御釜神 (栃木市大宮町 印役)

      高天ヶ原御釜神 (栃木市大宮町 印役)
   
印役神社の近くの道端に高天ヶ原御釜神社という小さな祠が祀ってある。

 祠の脇の立て札には次のような由来が記されている。

この地は昔から、高天ヶ原(たかまがはら)と呼ばれている天御祖の神(おめのみおやのかみ)と呼ばれる天地創造の神、万物生成の神が息吹された時大きな洞穴ができ、そこに空風火水地出来たという伝承があり、大きなうつろ(釜)を尊崇する古代人の信仰によって生まれてきたものといわれている。今の私たちにはとても信じられないことではあるが、古代伝承がこの地に残っているのも大変珍しいことである。

  

神さまの息は大きな洞穴を造るほどの勢いを持っていたのか・・・
 その洞穴、もしくは、うつろの形跡だけでも残っていないのか?等と思って辺りをうろうろしたり、祠の周辺を覗いて見たりしたが、見あたらなかった。

 御釜神社のすぐ横の田んぼには水がはってあり、夕焼けを映す水面い鴨が一羽、悠々と泳いでいた。
 近くには馬頭観音と刻んだ石碑が三つ、あぜ道の追分に立っていて、振り返るとそこには、印役神社の森が黒く広がっていた。







2009/05/14 20:08:40|栃木市に伝わる話
一度橋 (栃木市国府町)

 
   一度橋 (栃木市 国府町)

 むかし、このあたりを守っていた神様がいて、皆に信仰されていた。
ある時、富士を守ることになって、この地を去ることになった。村人達は、悲しんで大勢この橋まで見送りに来た。神様は、遠い富士の国に行ったら、二度とは戻れないと覚悟してこの橋を渡ったという。
 それからというもの、遠くへ去るものは「旗揚げしなければ二度とこの橋を渡って戻れないと覚悟を決めてこの橋を渡る」と言い伝えられている。
 
 この話を聞かせてくれた川俣さんは、息子さんが小さい頃、ここに連れてきて、この話をしてあげたそうだ。

 
一度橋はガードレールになってしまっていて、流れもコンクリートで固められていて、農業用水路と化していた。

祠の脇の建て看板には下記のような説明が書かれていた。 

  一度橋跡

 国府町は木花咲耶姫の伝説の多い土地である。
この橋は、咲耶姫の命が父大山低の譲を受けた秀峰富士に神として移る時、故郷の室の八嶋を離れる時に、二度と帰らぬ決意をして渡った「二度と帰らぬ一度橋」と伝えられる。
この地に咲耶姫の伝承を永久に伝える為に碑を建立した。
  

               







2009/05/14 19:39:58|栃木市に伝わる話
印役神社(日枝神社)

 史跡  日枝神社 (栃木市大宮町 印役)


 現在印役地方の氏神をして祀られており、印役神社ともいいます。印役とは、もともと印と鍵のことで、国司が管理する倉庫の鍵や倉庫の鍵に由来するを思われます。
 平安時代後期になると、印と鍵は実際には使われなくなり、象徴をして神社祭ったと思われ、更に日枝神社を招き入れ、奉ったものと思われます。
 この神社の西方より、建物の礎石も出たと伝えられていますが、その礎石は今は不明です。
 印役神社が今に伝えられているのは、非常に珍しいことです。
                  (栃木市教育委員会) 



 今日、「しもつかれ」について、話していたら、初午に正一位稲荷大明神の紙に印刷された旗を町内の人が配っていたという話を聴いた。町内会で配布していたのかもしれないし、印役神社の氏子に配っていたのかもしれないという。

 印役神社はかなり歴史のある神社で、その昔は関所になっていて、ここを通過する旅人は必ずここで印をもらわなくてはならなかったという。旅人はこの神社に今も生えている大きな木を目印にやって来たという。

 この印を管理していたのが、赤間家で、昔は旅人がよく見えるように当時としては珍しい三階建てのような建物で塔の様だったという。

 この話をしてくれたのは、この赤間さんと、印役に長く住んでいる川俣さんである。







2009/05/12 22:07:19|昔ばなし
藤の花にまつわる話
  
   お藤さま

 むかし、ある山の村に、お藤というはたらきものの娘がいた。お藤の母親は亡くなって、新しい母親と妹がいた。母親は自分の本当の子ばかりかわいがり、お藤ばかり働かせたが、お藤はまめまめしく良く働いた。

 
 ある日、お藤が谷川で菜っ葉を洗っていると、殿様が通りかかり、その姿を見て歌を読んだ。「谷川に小菜振り濯ぐ娘子の背の高ければ嫁に欲きを」するとお藤は、すぐに、こう返した。「山々に躑躅紅葉は多けれど背は低けれど花は咲きたり」
これを聞いた殿様は感心して嫁にもらおうと、使いを送った。

 
 新しい母親は、妹を着飾らせて差し出した。使いは、盆の上に皿を載せ、その上に塩を盛り、松の枝を挿したものを妹に見せて、歌を読めを言った。歌などよんだことのない妹は「盆の上に皿、皿の上に塩、塩の上に松」とぶっきらぼうに答えた。これを聞いた使いの者は、この家に他に娘がいるはずだと言って、家来達に探させた。

 
 すると、竈の前で灰だらけになって働いているお藤を見つけ、連れ出した。さっきのもを見せて歌を詠ませると、「盆皿や、さらさら山に雪降りて、雪を根として育つ松かな」と見事に詠んだ。使いの者は、お藤に、持ってきたきらびやかな衣装を着せ籠に乗せて城へ出発した。


 母親と妹娘は、昼飯を食べようとしたが、じゃもじのある所も分からない。そこで、あわててはだしで表に飛び出して行って、行列の籠に向って「お藤、お藤、しゃもじはどこだい」と叫んだ。すると籠の中から「藤、藤と呼ばれることも今日限り、明日より後はお藤さまだよ」という歌が聞こえてきて籠は静々と城へ向って進んで行った。



 山に自生する藤も花盛り、足利フラワーパークの藤も満開だそうです。
そんな、季節、この話を思い出しました。たしか、ラジオで聞いて覚えた話です。


 和製シンデレラの様な話です。