栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2009/05/28 20:25:30|イベントでの語り
安寿と厨子王に寄せて

   安寿と厨子王に寄せて

31日に蔵の街観光館で朗読会があり、私は、「安寿と厨子王」を朗読する。
これも昨年の耳なし芳一と同じように、ゆくゆくは覚えて語っていこうと思っている。


なぜ、「安寿と厨子王」なのか。7年前に、秋の読書週間で学校を回っていた頃、絵本の読み聞かせではこの話をやっていた。その後、ついぞ忘れていたのだが、ある出来事から急に、どうしてもこの話を語りたいという衝動に駆られた。


昨年の冬、私は新潟の浜辺にいた。低く垂れ込めた灰色の空、細かい横殴りの雨に砂が混じって頬が引きちぎられる程に痛い。太平洋とは違った恐ろしいほどに荒々しい冬の日本海。打ち上げられたハングル文字のペットボトルや容器。向こうは佐渡というより朝鮮半島なのだ。


 今年の3月初め、娘の引越しで再び新潟へ行った。引越し先の物件が元、日銀の社員寮が老朽化して取り壊した後に建った物件だと不動産屋から聞いた時、私の心に不安が波立った。北朝鮮へ拉致されたまま行方不明の横田恵めぐみさん一家が、その昔、住んでいたのだろうかと。だが、横田さん一家はそこより更に海よりの一戸建ての社宅に住んでいたことを図書館で借りて見た「めぐみ」というビデオで知った。


 寄居中学校から自宅へ帰る途中の寂しい松林で拉致されたというめぐみさん。今、その松林には付属小中学校の近代的な建物が建っている。その道の両側には今やきれいな住宅が立ち並び、少し登り坂になっていて、その先には明るい三月の青空が広がっていた。

 ところが、その坂の頂点間で行って、道の先を見た時、私は言葉を失ってしまった。道の先には、荒れる波が濁った薄緑色をしてうねっているのだった。こんなにも晴れているのに荒い海・・・海なし県に住んでいる私の感覚では、坂の向こうには町並みが見えるはずなのに、海は突然現れた異界への入り口のように思えた。

 「日本海」「親子の別れ」このふたつのキーワードが、「安寿と厨子王」と「横田めぐみさん拉致事件」を結びつけた。

いつも泣き顔でカメラの前にいる横田めぐみさんのお母さんが、厨子王と母の再会の様に生きて再び娘と会えたら・・・と念じて。



 
 さて、朗読会ではいつも様々な音楽家の方が、色を添えてくれている。今回はギターの演奏で、ユニット夢弦の二人だ。私の朗読の前に、「砂山」を演奏してくれることになった。
練習で聴いたらあまりにもこの物語と合っていて、聞惚れてしまった。北原白秋作詞、中山晋平作曲の「砂山」だ。昭和元年に山田耕作が作曲した歌曲もあるがそれとは違う。

 
    海は荒海、
    向うは佐渡よ、
       すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
       みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。

    暮れりや、砂山、
    汐鳴りばかり、
       すずめちりぢり、また風荒れる。
       みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

    かへろかへろよ、
    茱萸(ぐみ)原わけて、
       すずめさよなら、さよなら、あした。
       海よさよなら、さよなら、あした。


http://www.youtube.com/watch?v=oCQtzhCPHhA&feature=related

 この「砂山」について調べていくうちに、すごいことがわかった。

 白秋は私が見た坂の先の海と同じ場所、つまり寄居浜の淋しい光景を見てこの曲を作ったのだ。時を超えて、私は白秋先生に言いたい。

「先生!そうよですよね!先生もそう感じたのですよね!太平洋と日本海は違いますよね!さびしすぎますよね!」



( 以下は 「ああ我が心の童謡〜ぶらり歌碑めぐり」 より 


 大正11年の6月半ば、白秋は新潟市の師範学校で行われた童謡音楽会に出席しました。その席上、「新潟の童謡を作って欲しい」と依頼された白秋は、会が終わった夕刻に、学校の近所にある寄居浜を散策しました。その時の光景を、後に白秋はこう語っています。

 その夕方、会が済んでから、学校の先生たちと浜の方へ出て見ました。それはさすがに北国の浜だと思はれました。全く小田原あたりと違つてゐます。驚いたのは砂山の茱萸藪で、見渡す限り茱萸の原つぱでした。そこに雀が沢山啼いたり飛んだりしてゐました。その砂山の下は砂浜で、その砂浜には、藁屋根で壁も蓆(むしろ)張りの、ちやうど私の木菟の家のやうなお茶屋が四つ五つ、ぽつんぽつんと竝(なら)んで、風に吹きさらしになつてゐました。その前は荒海で、向うに佐渡が島が見え、灰色の雲が低く垂れて、今にも雨が降り出しさうになつて、さうして日が暮れかけてゐました。砂浜には子供たちが砂を掘つたり、鬼ごつこをしたりして遊んでゐました。日がとつぷりと暮れてから、私たちは帰りかけましたが、暗い砂山の窪みにはまだ、二三人の子供たちが残つて、赤い火を焚いてゐました。それは淋しいものでした」(『お話・日本の童謡』アルス社 大正13年 より[『白秋全集16』に収録])
 
 この情景を元に、『砂山』は作られました。歌詞の1番では浜の風景が、2番では背後の砂山の風景が、そして3番では浜から砂山の茱萸原をかきわけて帰る子供の様子が、それぞれ描かれています。







2009/05/20 20:53:51|その他
湖と池と沼の違いは?河童?

  池と沼の違いは?
携帯電話のCMで、孫がおじいちゃんにこの質問をすると
「河童が住んでいるかどうか」
との答え。納得できない孫が母親に同じ質問をすると
「河童が住んでいるかどうか」
とまたしても同じ答え。

これを見て最初に質問を聞いた時昔、自分も持っていた疑問なので興味深かった。
正しい答えではないにしても、河童で判断する発想がいい。
このおじいちゃんは母親のお父さんで、話が継承されていると想像できるところがまた良かった。

でも、本当の答えは何なのだろう。
辞典で調べたがはっきりしなかったが、ネットで調べてやっとはっきりした。


大きいのが湖、小さいものが沼、それ以外が池ではないか。
湖:水深が深く、湖の中に植物が生えていない。
沼:湖より浅くて、沼の中に植物が生えている。
池:人工的に作られたもの。



陸水学では一応次のように区別されます。

湖:中心部は、クロモやフサモなどの沈水植物が侵入できないくらいの深さがある。その深さは一般に5メートル以上とされる。夏に水温成層がある。
沼:湖より浅い。中心部まで沈水植物は生える。水深1〜5m程度。夏に水温成層がない。
池:湖や沼より小さい水塊。または人工的なもの。
(水温成層とは水面から水底に向かって温度の違う水の層が出来ることです。ある程度の深さがあると、表面付近の水は温められて温度が上がりますが、底部の水は温まらないので表面よりかなり低い温度になります。)ただしNo303(霧と靄)の場合と違って、これらの区別は学術用語としてもあまり厳密なものではないようです。



なるほど・・・分かりました。
今日、延長沼という沼に行きました。
沼の中心部までは植物は生えていませんでしたが、水が深緑色に沈んでいました。


私のイメージでは、

 暗くよどんでいて、ぬしが住んでいそうで、お化けが出ると噂されるのが 

 大きく深く、女神様や姫にまつわる悲しい話などが伝えられているのが

 人工的で鯉やめだかが住んでいて、伝説があることもあるが、女神や姫と無縁なのが

じゃないでしょうか。
これは、まったく、個人的な意見です。

 
 







2009/05/19 12:54:08|栃木の言い伝え
しゃくとり虫に尺を測られると死ぬ
         こわくておもしろい栃木の言い伝え


しゃくとり虫に尺を採られると死んでしまう。

意味  

しゃくとり虫は伸び縮みしながら這っているが、これは尺と採っている、つまり長さを測っているのだ。しゃくとり虫に足元から頭のってっぺんまで登っていかれて、身長を測られてしまった人はしんでしまう。



しゃくとり虫が服についている子を見つけると、「あっ!しゃくとり虫がついてる!」と先ず大声で知らせ、それからおもむろに取ってあげるのだ。取ってくれた人は命の恩人になるという訳だ。本当だとしたら、しゃくとり虫はまむしやさそりの様に危険だ。



   だが今考えてみると、しゃくとり虫は木の上から落ちてきたり、草やぶを通った時に服に付く場合がほとんどで、足元から上がってくることはめったにない。
   でも、子どもの頃は信じていて、束の間の命の恩人になったりなられたりしたのだった。



    
今日、散歩の途中でしゃくとり虫を見つけた。尺をとる姿も面白いが、後ろ足で立って、頭をふらふらと空中にさまよわせながら、着地点を探って逡巡している時の姿が、自分の今の生き様に似ていて親近感が湧いた。



代かきが終わって田植えを待つ田んぼで、トノサマガエルか東京ダルマガエルが良く響く声で鳴いていた。写真を撮ろうと道をそれて田んぼに近づくと、ひと足下ろす毎に4,5匹のカエルが飛びのいた。







2009/05/17 21:31:41|イベントでの語り
南山焼 若葉祭りで語りました

   
   南山焼 若葉祭に参加して


 佐野市長谷場(旧田沼町)にある野州南山焼の若葉祭に行ってきました。
 

 山懐にある南山焼は10年ほど前に、新潟県柏崎市から窯を移して来て、30年程空き家になっていた古民家に手をいれて住んでおられるとか。


 私の語り場となった離れは元書生さんを預かって住まわせていた所だそうで、縁先には石組みの池があり、あやめが咲き乱れていました。回り廊下の南側では抹茶が振舞われ、西側では生け花、座敷左では癒し体験と、盛りだくさんな和の世界。
 糸車や手作り行灯も仄暗い中でやわらかい光を投げかけていて、最高の語りの場が用意されていて感激しました。
 午前中は子ども達に、午後は子供たちとお母さんに話を聴いてもらいました。周りの抹茶、生け花、癒しの方々も耳を傾けて下いました。参加型の語りではたくさんの子供たちが声を張り上げてくれて、まさに「語り部冥利に尽きる」一日でした。
 窯元の浦東先生ご夫妻は勿論のこと、地域のみなさんや縁のあるみなさんが集って盛り上げる手作りのあたたかいお祭りでした。







2009/05/15 22:26:09|栃木市に伝わる話
あらいた薬師(栃木市大塚町に伝わる話)

    あらいた薬師 (栃木市大塚町に伝わる話)

むかし、大塚村にたいそうあらたかな薬師様がまつってありました。

ある時火災にあってお堂がまる焼けになってしまいましたが、近所の人は自分の家が焼けるのもいとわず、日頃信仰する薬師様の尊像を、猛火をくぐって担ぎ出しました。
 しかし、近所がまる焼けになったので、どこへ安置するわけにもいかず、しばらくそのま野っ原に置きばなしにしたままになっいました。

 ある晩、野盗の群れがこの辺りにやってきました。そこに投げ出されたままになっている薬師さまの木像を見つけて、
 「ここらにいい丸太(ごろんぼう)があらあ、これをたたきわって焚くべ」
といいながら、手斧を振り上げてはっしとばかり打ち下ろしたところ、薬師様が、
 「あら、痛い」
と、悲鳴をあげたので、みんなびっくり仰天、野盗たちもこの村を荒らすことをあきらめ、こそこそと引き上げて行ってしまいました。



 あらいた薬師さまは、今どこにまつられているのでしょう。
大塚町は今、麦秋。金の麦の波の向こうに、一面のポピー畑が広がり、道行く人々の目を楽しませていました。