宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
「一〇〇五 〔暗い月あかりの雪のなかに〕 一九二七、三、一五」―書きかえられていく詩の中の風―
  
一〇〇五 〔暗い月あかりの雪のなかに〕 一九二七、三、一五、
 
暗い月あかりの雪のなかに
向ふに黒く見えるのは
松の影が落ちてゐるのだらうか
ひるなら碧くいまも螺鈿のモザイク風の松の影だらうか
やっぱり雪が溶けたのだ
あすこら辺だけあんなに早く溶けるとすれば
もう彼岸にも畑の土をまかないでいゝ
やっぱり砂地で早いのだ
毎年斯うなら毎年こゝを苗床と
球根類の場所にしやう
その球根の畦もきれいに見えてゐる
みちをふさいで巨きな松の枝がある
このごろのあの雨雪に落ちたのだ
玉葱とぺントステモン行って見やう
あゝちゃうどあの十六のころの
岩手山の麓の野原の風のきもちだ
雪菜は枯れたがもう大丈夫生きてゐる
なにかふしぎなからくさもやうは
この月あかりの網なのか
苗床いちめんやっぱり銀のアラベスク
ヒアシンスを埋めた畦が割れてゐる
やっぱり底は暖いので
廐肥が減って落ち込んだのだ
ヒアシンスの根はけれども太いし短いから
折れたり切れたりしてないだらう
さうさうこゝもいちめん暗いからくさもやう
うしろは町の透明な灯と楊や森
まだらな草地がねむさを噴く
巨きな松の枝だ
この枝がさっき見たのだったらうか
     昆布とアルコール
川が鼠いろのそらと同じで
南東は泣きたいやうな甘ったるい雲だ
音なくながれるその川の水
     五輪峠やちゞれた風や
ずうっとみなかみの
すきとほってくらい風のなかを
川千鳥が啼いてのぼってゐる
     「いちばんいゝ透明な青い絵具をもう呉れてしまはう」
どこか右手の偏光の方では
ぼとしぎの風を切る音もする
早池峰は雲の向ふにねむり
風のつめたさ
     「水晶の笛とガラスの笛との音色の差異について」
町は犬の声と
ここは巨きな松の間のがらん洞
     風がこんどはアイアンビック
 
  「詩ノート」に収録の作品です。「詩ノート」は、フールスキャップ紙と呼ばれる横罫ノート用紙に縦書きで記され、「春と修羅第三集」収録作品のうち42篇の最も初期の形態を示すものを含みます。
   発想年月日の一九二七、三、一五は、作者は農業に従事して2年目です。おそらく北上川沿いの林の近くの自耕の地を臨んでの、夜の詩です。
 作者は、歩きながら、次々に風景を読み込んでいきます。
風の表現は、〈岩手山の麓の野原の風のきもちだ〉、〈五輪峠やちゞれた風や〉、〈すきとほってくらい風のなかを〉、〈ぼとしぎの風を切る音もする〉、〈風のつめたさ〉、〈風がこんどはアイアンビック〉6例あり、過去と現在、自分の周辺と離れた場所、触感と強弱のリズム、と対照的なものが描かれ、多様です。
 畑には、当時は珍しく、現実離れしていて周囲の農民の反感を買ったといわれるヒアシンスの球根が埋められています。〈螺鈿のモザイク風の松の影〉のような地面を見つけて、雪解けの早さを感じ取り、今年の農作業計画に思いを巡らせ、玉葱とペントステモンを思いつきます。
 ペントステモンはペンステモンのことでしょうか。現在ではオオバコ科イワブクロ属(ペンステモン属)に分類されますが、かつてはゴマノハグサ科に分類され、現在でも一部はゴマノハグサ科属するものもあります。
 作者が〈ペントステモン〉と記したのは、属名の「ペンステモン(Penstemon)」が、ギリシャ語の「pente(5)」と「stemon(雄しべ)」(1本の仮雄しべと4本の雄しべがあること)に由来していることによるのかもしれません。あるいは当時はそう呼ばれていたのかもしれません。北米原産の多年草で、釣り鐘型や筒状の花をつけ、木立性から這い性のものまで多数あり、花色も豊富で常緑性です。高温多湿を嫌うので、砂地を発見した作者はすぐ思い立ったのでしょうか。
 そして、小さな希望と未来を見つけた作者は、その気持ちを〈あゝちゃうどあの十六のころの岩手山の麓の野原の風のきもちだ〉と真正面に受け止めます。そこにはアイロニーや屈折したものは見られません。〈雪菜〉や、〈ヒアシンス〉も、今は問題あっても丈夫に育ちそうです。畑一面、月は〈なにかふしぎなからくさもやう〉をつけています。
 しかし、川は空の色を写してねずみ色、風景は、〈甘ったるい〉雲や〈ちゞれた〉風、気持ちを写して風景が少しずつ変わっていきます。
 五輪峠は花巻市東和町、遠野市、奥州市の境界となっている峠で、標高は556mです。この詩の発想地から望めるものではないと思います。行頭を下げて記される詩句は、心の深層が描かれる場合が多いようです。
 作者は1924年3月24日から25日にかけて、一泊二日で五輪峠を越えて水沢の緯度観測所へ出かけたようです。そこで「五輪峠」など5篇と、そこから文語詩に改稿されたもの1篇が残されました。
 
……
そのまちがった五つの峯が
どこかの遠い雪ぞらに
さめざめ青くひかってゐる
消えやうとしてまたひかる
 
……(「五輪峠」一九二四、三、二四、 「春と修羅第二集」
 
……
そのうしろにはのっそり白い五輪峠
五輪峠のいたゞきで
鉛の雲が湧きまた翔け
 
……(「人首町」一九二四、三、二四 「春と修羅第二集」)
 
……
ひかりうづまく黒の雲   ほそぼそめぐる風のみち
苔蒸す塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ
(五輪峠」(文語詩稿 五十篇)
 
など、この詩の語句に類似したものが見られます。発想時になぜ五輪峠の風景が浮かんだかは更に詳考が必要ですが、屈折した心の中に浮かんだ過去の、心象風景であると言えます。
 まもなく、風は〈すきとほってくら〉くなり、〈川千鳥〉や〈ぼとしぎ〉も風を切って登場します。〈ぼとしぎ〉はオオジシギの方言、〈川千鳥〉は「川辺にいる千鳥」で冬の季語にもなっていて、普通にこの季節にいるイカルチドリでしょうか。
〈いちばんいゝ透明な青い絵具〉は〈すきとほっ〉た風の暗喩と思います。それを貰うのは川千鳥なのでしょうか。風は冷たく、〈水晶の笛とガラスの笛との音色の差異〉に思いを巡らすほど透明です。
 我に返れば、町では犬の鳴き声、松の並木のあいだの大きな空間です。そして風は〈こんどはアイアンビック〉に変わって、弱く強く吹き付けます。
 アイアンビック(iambic)は、英語の弱強格で、弱い発音から始めて、強い発音に移り繰り返し、行末は同じ母音で韻を踏みます。シェークスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」の名高いバルコニーのシーンや、ともに夜を明かしたときのシーンなどに用いられ、二人の言葉の交わしあいは、詩的なリズム感にあふれます。作者は、弱く強く、吹いてくる風に、この言葉を使うことによって、この夜に、特異なエキゾチックなものを感じたのかもしれません。アルファベット表記にしなかったのは、この言葉は常用されるものとして作者の中にはあったのでしょうか。
 この作品を、「春と修羅第三集」編集の意図を持って推敲したものが、一〇〇五〔鈍い月あかりの雪の上に〕一九二七、三、一五、(「春と修羅第三集」)です。ここでも最終行は、〈風がいまつめたいアイアンビックにかはる〉です。
また、この詩との関連は言及されていませんが、〔鉛いろした月光の中に〕(口語詩稿)には、同様の風景の中に、貧しい母親と、河原に捨てられた嬰児の話が描かれ、〈あわたゞしく鳴く犬の声と/ふたゝび冷たい跛調にかはり/松をざあざあ云はせる風と〉があります。
 〈跛調〉は、相良守峯が、1935年10月刊『世界文芸大辞典』(中央公論社)で、アイアンビックを〈跛行的〉と同義と捉えていること、また作者の「雑メモ16」に書かれている、山本茂『韻文講話』にも〈アイアンバス、トロキーなどは……足の踏み方のその調子を採ったものである〉という記述があります(注)。吹き始めに弱かった風が一瞬強くなり、またその強弱を繰り返す風、作者はこの二つの言葉で捉えていました。
  「風の又三郎」の挿入歌の擬音語〈どっどど どどうど どどうど どどう〉や、実際に作者が教え子に聞かせた〈どっ、どどどどう、どどどう、どどどどう〉も、風の中に、この弱強格を捉えています。これは「風の息」(瞬間風速の最大値と吹き始めの値との差が大きいことを示すもので、花巻地方に吹く風は、他の地方に比べその割合が多いといいます(注2)。 
 
 この詩の推移について整理してみます。まず「一〇〇五 〔暗い月あかりの雪のなかに〕 一九二七、三、一五が「詩ノート」に記され、1931年頃、「春と修羅第三集」の編集を試みた作者が、手を加えたものが、次の一〇〇五 〔鈍い月あかりの雪の上に〕 一九二七、三、一五、(「春と修羅第三集」)です。
  
鈍い月あかりの雪の上に
松並の影がひろがってゐる
ひるなら碧く
いまも螺鈿のモザイク風した影である
こんな巨きな松の枝さへ落ちてゐる
このごろのあの雨雪で折れたのだ
そこはたしかに畑の雪が溶けてゐる
玉葱と ペントステモン
なにかふしぎなからくさ模様が
苗床いちめんついてゐる
川が鼠いろのそらと同じで
音なく南へ滑って行けば
あゝ その東は縮れた風や五輪峠や
泣きだしたいやうな甘ったるい雲だ
  松は昆布とアルコール
  まだらな草地はねむさを噴く
早池峰はもやの向ふにねむり
ずうっとみなかみの
すきとほって暗い風のなかを
川千鳥が啼いて溯ってゐる
町の偏光の方では犬の声
風がいまつめたいアイアンビックにかはる
 
 「春と修羅第三集」編集に当たっての、作者の意図は、詩法メモ8(東北砕石工場花巻出張所用箋裏)によると〈第三詩集 手法の革命を要す/殊に擬集化 強く 鋭く/行をあけ〉、〈「感想手記 叫び/心象スケッチに非ず/排すべきもの比喩」〉に覗うことができます。その結果、「一〇〇五 〔暗い月あかりの雪のなかに〕から消えた部分は、
 
あすこら辺だけあんなに早く溶けるとすれば
もう彼岸にも畑の土をまかないでいゝ
やっぱり砂地で早いのだ
毎年斯うなら毎年こゝを苗床と
球根類の場所にしやう
玉葱とぺントステモン行って見やう
あゝちゃうどあの十六のころの
岩手山の麓の野原の風のきもちだ
雪菜は枯れたがもう大丈夫生きてゐる
 
ヒアシンスを埋めた畦が割れてゐる
やっぱり底は暖いので
廐肥が減って落ち込んだのだ
ヒアシンスの根はけれども太いし短いから
折れたり切れたりしてないだらう
 
など、現実の記述と心情です。また、
 
「いちばんいゝ透明な青い絵具をもう呉れてしまはう」
 
「水晶の笛とガラスの笛との音色の差異について」
 
という比喩が消え、  
 
ぼとしぎの風を切る音もする
 
という目に見えないものは消されています。   
 また、関連は認められていない〔鉛いろした月光のなかに〕(「口語詩稿」)があります。
 「口語詩稿」は作品番号や制作年月日が記されない口語詩のうち、「春と修羅第二集」、「春と修羅第三集〉作品の発展形でない作品で、専用詩稿用紙に記された54篇を新校本全集編集時にまとめたものです。発想時期はほとんどが大正15年4月から、昭和3年7月まで、羅須地人協会時代のもので、「詩ノート」時代とほぼ一致しています。
 
みどりの巨きな犀ともまがふ
こんな巨きな松の枝が
そこにもここにも落ちてゐるのは
このごろのみぞれのために
上の大きな梢から
どしゃどしゃ欠いて落されたのだ
その松なみの巨きな影と
草地を覆ふ月しろの網
あすこの凍った河原の上へ
はだかのまゝの赤児が捨ててあったので
この崖上の部落から
嫌疑で連れて行かれたり
みんなで陳情したりした
それもはるか昔のやう
それからちゃうど一月たって
凍った二月の末の晩
誰か女が烈しく泣いて
何か名前を呼びながら
あの崖下を川へ走って行ったのだった
赤児にひかれたその母が
川へ走って行くのだらうと
はね起きて戸をあけたとき
誰か男が追ひついて
なだめて帰るけはひがした
女はしゃくりあげながら
凍った桑の畑のなかを
こっちへ帰って来るやうすから
あとはけはいも聞えなかった
それさへもっと昔のやうだ
いまもう雪はいちめん消えて
川水はそらと同じ鼠いろに
音なく南へ滑って行けば
その東では五輪峠のちゞれた風や
泣きだしさうな甘ったるい雲が
ヘりはぼんやりちゞれてかゝる
そのこっちでは暗い川面を
千鳥が啼いて溯ってゐる
何べん生れて
何べん凍えて死んだよと
鳥が歌ってゐるやうだ
川かみは蝋のやうなまっ白なもやで
山山のかたちも見えず
ぼんやり赤い町の火照りの下から
あわたゞしく鳴く犬の声と
ふたゝびつめたい跛調にかはり
松をざあざあ云はせる風と
 
 嬰児の死体遺棄事件を主な内容としています。冒頭の松の木の描写と、川の風景、〈五輪峠とちゞれた風〉、遠望する町、〈跛調〉の風はおなじですが、嬰児の死体遺棄事件を反映して、
 
千鳥が啼いて溯ってゐる
何べん生れて
何べん凍えて死んだよと
鳥が歌ってゐるやうだ
川かみは蝋のやうなまっ白なもやで
山山のかたちも見えず
 
と千鳥の声に、繰り返されてきた間引きの歴史と、遺棄された嬰児の悲しみを聞き取り、風景も靄に包まれます。
〈アイアンビック〉という外来語から、〈跛調〉という漢字表記に変わるのも、その流れの中で起こったことだと思います。
 
またこの詩を文語詩化したものが〔月光の鉛の中に〕(「文語詩未定稿」) で
  
月光の鉛のなかに
みどりなる犀は落ち臥し
 
松の影これを覆へり
 
暗い月光の中に落ちた松の枝の風景のみが残されます。
 
 
 関連作品として、嬰児遺棄事件を中心にした「夜」(「補遺詩篇T」)があります。「補遺詩篇T」は新校本全集編集時に、専用に詩稿用紙以外の独立した用紙に書かれた詩篇あるいはその断片のうち新校本全集の他の部分に掲載された作品の逐次形として扱われなかった口語詩25篇を含み、発想年月日も執筆時期も多様なものがあります。
 
 
    ……Donald Caird can lilt and sing,
                   brithly dance the hehland
                             highlandだらうか
誰かゞ泣いて
誰か女がはげしく泣いて
雪、麻、はがね、暗の野原を河原を
川へ、凍った夜中の石へ走って行く、
わたくしははねあがらうか、
あゝ川岸へ棄てられたまゝ死んでゐた
赤児に呼ばれた母が行くのだ
崖の下から追ふ声が
あゝ その声は……
もう聞くな またかんがへるな
    ……Donald Caird can lilt and sing,
もういゝのだ つれてくるのだ 声がすっかりしづまって
まっくろないちめんの石だ
 
 ここには、放浪の鋳掛屋をユーモラスにリズミカルに詠った、イギリスの詩人 Sir Walter Scott(1771〜1832)の長詩「Donald  Caird’s Come Again」を 引用しています。作品の内容がわからなくても、そのリズムや押韻が、暗い事件の思考を遮るような効果が感じられ、作者の新たな試みと、暗さを耐えがたい心情の一端をうかがえます。
 
 一つの詩が、推敲され、また新しい事実を詠う詩の背景となり、その詩が発展していく様は、作者の表現へのとどまることのない追求を感じさせます。
 また、これは、これまでの多くの綿密な論証の積み重ねで初めて理解できることで、作者の表現を理解することの難しさを感じさせます。
 私感では、推敲された最終形が表現者にとってのすべてではないのか、という思いもあり、先駆形を読んで初めて解明できる世界は、詩の生成の面白さはあっても、作品として受容できない気もします
 今回は、まず〔暗い月あかりの雪のなかに〕を読み、最初に描かれた風に包まれた世界を肌で感じ取れました。作者の意図ではありますが、〔鈍い月あかりの雪の上に〕への推敲で、整理され、叙景詩として完成した分、作者の心のありようが見えなくなり、生き生きした風景を感じられなくなり、巧みな比喩がなくなって、詩の感動が薄れていく気がします。また〈玉葱と ペントステモン〉は唐突で、状況を読み取るのが不可能です。
 しかし作者が到達したい表現が最終形である以上、一つの別な作品として受け入れ、理解しなければなりません。これからの課題です。
 
 
注1
杉原正子「宮沢賢治とウオルター・スコット―比較詩学へのノート」(『比較文学・文化論集第一四号』 東京大学比較文学・文化研究会1997,5)
注2
麦田穣「風の証言―童話「風の又三郎」のオノマトペ」
(『火山弾第四二号』 火山弾の会1997,5)
 
 参考文献
小林俊子『宮沢賢治 風を織る言葉』(勉誠出版 2003)
渡部芳紀編『宮沢賢治大事典』(勉誠出版 2007)
 
テキストは『新校本宮沢賢治全集』に拠った。

 







永野川2017年2月下旬

 27日

この頃少しずつですが暖かくなって来ています。風もなく穏やかです。

上人橋近くまで来ると、ホオジロがさえずり始めていました。

久しぶりで赤津川を先に遡ることにしました。

上人橋上の河川敷でダイサギ1羽、ハクセキレイ1羽、セグロセキレイ1羽見つけました。セグロセキレイは囀り始めていました。

保育園の桜の木にシメが1羽、ごく普通に留まっていました。このところ住宅地にまで広がっているようです。

河川敷の草むらから、アオジが2羽、カワラヒワ2羽が飛び立ちました。その後、カワラヒワ20羽の群れが川下に下っていきました。

合流点で、コガモ10羽とカワウが1羽、カワウはいつもここに1羽でいるようです。ここは足りるだけの魚がいるのでしょうか。

合流点の上流では、カルガモ3羽とともに、マガモ1羽、いつも1羽だけです。

赤津川に入ると、カルガモ、コガモが2羽、3羽と川岸に丸まっていたのが、泳ぎ始めたりしていました。バンも2羽いました。

栃木陶器カワラの手前の東側の田で、今季初、ヒバリが囀っていました。2羽はいるようでした。もうその季節なのか、驚きました。このところ感覚がずれています。

西側を下っているとき東側の田んぼで白いものが動き、よく見るとケリでした。近くにもう1羽いて、2羽一緒なのを見たのは、今季初めてです。ホオジロやモズも時に飛び立ちます。

調整池にはヒドリガモが21羽戻っていました。

公園の中では、シメが時々1羽で飛び、ハクセキレイも4羽、セグロセキレイ4羽。ここでもセグロセキレイが囀っていました。

大岩橋の河川敷で次々とキジバトが飛び立ち7羽となりました。この公園一帯で、こんなに沢山いたのは初めてです。タイミングもあるのかもしれません。

橋から見下ろす河原でイカルチドリが2羽けたたましく鳴いて争っているようでした。アイリングは確認できません。

山林で、一瞬カケスの声がして動きがありましたが、見えませんでした。そのほかウグイス、シジュウカラの声、エナガ数羽の声が聞こえました。この山林にも、もう少し近づいてみたいのですが、個人の所有地のような部分もあって、果たせません。

永野川を下っていくと、アオサギ、コガモ6,3.9の群れ、カルガモ17羽、12羽の群れ、カイツブリ2羽、3羽、やはりここは、鳥の数が多いようです。

二杉橋上の河川敷で、珍しくキジ1羽みつけました。ウグイスの地鳴きは、ここの定番です。

東岸を登っているとの川岸の藪のなかに、ウグイスの姿を確認できました。

今日は回り方を変えてみたので、見えなかったものも見えてきたところもあります。菜の花や、オオイヌノフグリの花が咲き始め、梅も紅梅白梅が揃って咲きました。ウグイスは地鳴きですが、ヒバリやホオジロ、セキレイも囀って、何かやり残したように、冬が去って行きます。

 

鳥リスト

キジ、カイツブリ、カルガモ、コガモ、マガモ、ヒドリガモ、キジバト,カワウ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、モズ、カケス,ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒバリ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ムクドリ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ








永野川2017年2月中旬

16日

風が無く、暖かい日です。

二杉橋から入ると、まずウグイスの地鳴きが聞こえました。上旬と違って、コガモガ12羽、ハクセキレイが1羽、と少なめです。鳥も、気温や時間で移動しているのでしょうか。

ホオジロが1羽、土手の枯れ草の上に出てきました。カイツブリが2羽、1羽と二カ所で見えました。

上人橋に平行する南側の電線に、今日もシメが停まっていました。定位置になってきたのでしょうか。河川敷には、カワウ1羽、セグロセキレイ2羽、これも定番のようです。

公園のハリエンジュには、全く鳥がいません。ワンド跡に、モズが一羽、どこかでシジュウカラの声が聞こえました。

カワラヒワが11羽、モズを恐れたのか飛び立ちました。

公園内の川に、イソシギ1羽、イカルチドリ2羽、コチドリの特徴を見ようと思いましたが、今日は確認できませんでした。ただ、1羽の過眼線が薄いのがわかりました。

シメが分散して1羽、2羽ずつ、公園のなかで6羽見えました。

ツグミも分散して、公園だけでも7羽、大岩橋でも滝沢ハムでも確認しました。

鳴き声につられてみると川岸の草むら枯れ草にアオジ1羽が出てきていました。かなり腹部の黄色みが強い個体でした。

土手の桜の木にムクドリ7羽、一名サクラ鳥とも云うそうですが、ここでは初めて見ました。

調整池西にはアオサギ1羽、ここで生まれた個体かもしれないカイツブリ若鳥が1羽、東にヒドリガモ1羽とカルガモ1羽のみでした。ヒドリガモは何が原因で減ってしまったでしょう。今

市街地を流れる巴波川に沢山みかけるのですが、あるいは人の撒く餌を求めて移動したのかもしれません。

大岩橋の河川敷林で、モズ1羽、ツグミ1羽、シメ1羽、少なめでした。

滝沢ハムの近くの草むらで、カシラダカ3羽、このところ見えなかったのでほっとしました。

公園の川岸の梢で、何か変わった声がするので見るとホオジロでした。さえずりが完成していないという感じでした。

泉橋下で、珍しくマガモ1羽がカルガモ3羽とともに、川岸の草むらの下に隠れていました。

赤津川に入って、カルガモ11羽、カワラヒワ10羽、ケリ1羽、ムクドリ10羽、とやはりこのあたりは鳥種が豊富です。

バンが2羽、いくらか額板がオレンジになり始めていました。

今日は、このあたりにもコガモが4羽移っていました。

永野川を下って戻ると、二杉橋付近でカルガモが17羽になっていました。

 

 11月頃、公園の草地で鳥を追う子猫3匹が気になりました。今日は調整池ですっかり大きくなった3匹を見かけました。誰かが餌をあげているのか、よく太っていました。これから鳥の天敵になっていくのか、不安です。

紅梅が咲き、サクラは堅い蕾を見せ、カワズザクラはいくらか色づき、日差しは明るくなりました。冬鳥の季節ももうじき終りでしょうか。今年は一ヶ月休んでしまったので、何か淋しい気がします。

 

鳥リスト

カイツブリ、カルガモ、コガモ、マガモ、カワウ、ヒドリガモ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、イソシギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス,ムクドリ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ

 

 








永野川2017年2月上旬

 

6日

骨折した膝がどうにか回復したので、足慣らしのつもりで、永野川緑地公園だけの予定で出かけてみました。

気温は低くないのですが、風が時折強く吹き付けるので、公園の中を中心に1時間ほどで帰りました。でも鳥には沢山会いました。

公園東のハリエンジュの大木と、ワンド跡の草むらを行き来して、シメが12羽、風に巻き上げられるように飛んでいました。何かスズメ並という感じでした。

公園の中の川の下流で、カイツブリが2羽、カルガモが10羽、思いがけないところで沢山集まっていました。

セグロセキレイ1羽、と思うとハクセキレイも来て、ツグミも来て、ダイサギもいて、探鳥会向きの出足です。少し上流の川岸にイソシギが1羽見えました。

ピオピオという声がずっとしていて、イカルチドリ2羽、と思って見ると、アイリングがはっきりしていて、コチドリでした。ここでは滅多に出会ったことがなく、何ともラッキーな偶然です。なぜか2羽で中州の狭い範囲を、ずうっと鳴きながら駆け回っていました。

対岸をカワラヒワの15羽の群れが木から木へ渡っていきました。

大岩橋の上から上流を眺めると、中州にキジバトが1羽じっとしていました。ちょっと珍しい光景です。

滝沢ハムの草むらの中では、鳥の小さな声と動きが感じられるのですが、風の中に出てくるものは無く、やっと雑木の頂にホオジロが1羽、留まっているのを見つけました。

赤津川との合流点に、アオサギ1羽、カワウが1羽見えました。

錦着山裏の休耕田にケリが1羽、この場所も、1羽でいるのも珍しいことです。

短い時間でしたが、鳥種が豊富でした。明日にでも残りの場所を歩き、上旬記録をまとめたいと思います。

 

鳥リスト

カイツブリ、カルガモ、キジバト、カワウ、ダイサギ、アオサギ、コチドリ、ケリ、イソシギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、エナガ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ

 

8日

昨日は強風で出かけられなかったので、一日間をおいての観察になりました。永野川と赤津川を往復する予定で出かけました。風もなく暖かくて探鳥日和です。

二杉橋から入りました。

二杉橋付近は、川の水が減って中州が広く、ダイサギ、セグロセキレイ、カルガモ、コガモ、カイツブリ、イカルチドリが揃っていました。

コガモが、睦橋までの間に、20羽、10羽、8羽、3羽、2羽、1羽と近い場所に分散して、合計44と今年最大となっていました。

川岸ではウグイスが地鳴きして、上人橋までの間にカルガモ、カワラヒワ、アオサギ、ハクセキレイ、カワウなどが次々に現れ、みんな元気だったね!といいたくなりました。

このあたりの工事は80パーセント終わったようです。

上人橋上で、イソシギが鳴いて飛び立ち、カワセミが錦着山裏の田んぼから飛び立ち川に向かいました。

泉橋上では、バン2羽、カルガモ7羽、3羽、ここも工事は一部を残して終了しつつあります。

新井町に入るとツグミが次々に田んぼから飛び立ち川を越えて行きました。

カワセミがずっと川岸に留まって、鮮やかな青を十分に見せてくれました。嘴も十分見る時間があり、でした。

いつもの田で、ケリが1羽だけ見えました。もうは分散してしまったのでしょうか、今日も錦着山裏で1羽見つけました。

草むらに隠れていて見えませんが、カワラヒワが10羽以上はいるようでした。

上人橋に平行する電線にムクドリが7羽、並んで留まっていました。ほんとにスズメ状態です。

調整池のヒドリガモは11羽、カルガモ7羽でした。

3日間になってしまいましたが、いつもの顔ぶれに会うことができて幸いでした。中旬には1回で見られるよう、頑張りたいと思います。

 

鳥リスト

カイツブリ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、カワウ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、イソシギ,モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ

 








〔フランドン農学校の豚〕―体を吹き抜ける冬の風 ―
 この物語は、人間の言葉や表情を理解できる豚が人間の放つ言葉に傷つく姿を描きながら、命を取るものと取られるものとの関係を冷徹に見つめます。風は時折吹いて、その場の雰囲気や、登場者の心象を象徴します。
 
 〈フランドン農学校〉の豚は、参考書に、豚は〈…原稿無し…以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白質となし、その体内に蓄積す。〉と書かれていたため、〈金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来て〉食べさせられます。生徒の一人が言った、
 
「ずゐぶん豚といふものは、奇体なことになってゐる。水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらへる。豚のからだはまあたとへば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機態では豚なのだ。考へれば考へる位、これは変になることだ。」
 
を聞いて豚は、自分が白金と並べられたのを知って喜んでいましたが、あるとき、餌の中に豚毛の〈ラクダ印の歯磨楊子〉(歯ブラシ)を見つけます。
 
豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔して、眺めてゐたが、たうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった。いきなり向ふの敷藁に頭を埋めてくるっと寝てしまったのだ。
 
 風は、豚の心を表して、〈からだ中の毛が、風に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。〉とその寒々しさの比喩に使われます。〈ザラッザラッと〉というオノマトペは、古くなった歯ブラシの反り返った毛の様子とともに豚の心が傷ついている様子も表しているようです。
 
晩方になり少し気分がよくなって、豚はしづかに起きあがる。気分がいゝと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のやうにさくさくし、青ぞらのやうに光るわけではもちろんない。これ灰色の気分である。灰色にしてやゝつめたく、透明なるところの気分である。さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。
 外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考へない。最も想像に困難なのは、豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられたとき何と感ずるかといふことだ。さあ、日本語だらうか伊太利亜語だらうか独乙語だらうか英語だらうか。さあどう表現したらいゝか。さりながら、結局は、叫び声以外わからない。カント博士と同様に全く不可知なのである。
 
 作者は豚の心情を書きながら大変冷静です。本来は絶対わかることのない動物の心情や、それに寄せる自分も含めた人間の身勝手さも含めて、皮肉を込めて書いています。
 豚はどんどん太っていきますが、毎日、豚の太り具合を見に来る畜産科の教師が気になります。自分を太らせることのみ考えている人間を見透かした豚は、いたたまれない気分です。
 ある時、その国の王は、家畜撲殺同意調印法―誰でも家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、また、その承諾書には家畜が調印すること―という布告を出しました。これほど人間の身勝手さを表すものはありません。殺されるものが自分で承諾したことで、殺すものは免罪符を得るのです。 豚のところにも、フランドン農学校の校長が承諾証書をもって来ました。ここでは風は冷たく吹き込んで、小屋の中に雪をためて、豚のつらさを暗示するようです。
 
そのあとの豚の煩悶さ、(承諾書といふのは、何の承諾書だらう何を一体しろと云ふのだ、やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だらう。一体何をされるんだらう。どこか遠くへ売られるのか。あゝこれはつらいつらい。)豚の頭の割れさうな、ことはこの日も同じだ。その晩豚はあんまりに神経が興奮し過ぎてよく睡ることができなかった。
 
(見たい、見たくない、早いといゝ、葱が凍る、馬鈴薯二斗、食ひきれない。厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるだらう。ああつらいなあ。)
 
 豚が何かを感じ取ったのを知って、いったん校長は去って行きますが、その後にやってくる、畜産学の教師や生徒たちの放つ撲殺をほのめかす言葉に、豚は傷つきます。
 
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た、大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずゐぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずゐぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でさう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらゐ、待遇のよい処はない。」……「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云ふことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰ひたい。それだけのことだ。」
 
「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫にさへ劣ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。
「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣ってゐますよう。わあ」豚はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしまふ。その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。
 
  そんな豚の気持ちも知らず、また校長がやってきて、承諾書の押印を迫ります。校長の言葉はまさしく人間の身勝手な言い分です。承諾書の内容を知った豚の抵抗の言葉は激しく切ないものですが、校長は怒りしか感じず、その場を去ります。 
 まもなく来る死を悟った豚はやせてしまいます。太らせることのみ考えている人間、まず畜産科の教師は、まずは豚の気分を直そうと、おいしいキャベツを与えたり散歩させたり、という方法をとります。助手は、〈チッペラリー〉を口笛で吹きながらやってきます。〈チッペラリー〉は 原題「It’s a long long way to Tipperary」という曲で、第一次大戦の時、イギリス軍兵士の間で広く歌われ大戦後はヨーロッパやアメリカでも大流行したもので、日本では浅草オペラに取り入れられ、広まりました。作者は自作の劇「飢餓陣営」の開幕前に、この旋律で〈私は五聯隊の古参の軍曹〉を歌わせました。人の無情さ、気楽さを豚の心情と対比させる小道具です。
 散歩に連れ出す助手の言葉が〈「少しご散歩はいかがです。今日は大へんよく晴れて、風もしずかでございます。それではお供いたしましょう、」〉で、風はごくうわべの機嫌取りの言葉の中に使われます。
しかし豚は回復せず、校長は強制的に承諾書に押印させて、教師は強制肥育という手段を執ります。豚は口に管を押し込まれ食べ物を流し込まれます。この描写は読むのがつらいくらい過酷です。
 
 こんな工合でそれから七日といふものは、豚はまるきり外で日が照ってゐるやら、が吹いてるやら見当もつかず、ただ胃が無暗に重苦しくそれからいやに頬や肩が、ふくらんで来ておしまひは息をするのもつらいくらゐ、生徒も代る代る来て、何かいろいろ云ってゐた。
 
 豚はその状況でも確実に太って行きました。胃が重く、体が膨らんでいるのを感じるだけで、外の日の光も、風も全く感じられません。ここでは風は、外界を象徴する良きものとして使われます。生徒たちの話は、豚の体の比重を考えたり肉の量を推測したり、豚は傷つきます。
 7日が過ぎ、豚は周囲の人間の言葉から、撲殺の日を悟ってしまいます。豚の心情にかまわず進められる撲殺の準備からその瞬間までの描写が非情です。豚は人間のために清潔にした豚小屋で、きれいに体を洗われ、太陽のまぶしい雪の上で撲殺され切断されます。
 
一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、廏舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。
 さて大学生諸君その晩空はよく晴れて金牛宮もきらめき出し二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそゝぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のやうに積みあげられた雪の底に豚はきれいに洗はれて八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
 
 雪の中に埋められた豚の上には、〈金牛宮もきらめき出し二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、〉という風景を豚への鎮魂のように作者は用意しています。それまでの文中にはなかった、美しい光の描写です。この作品では、風は現実を象徴し、最後に光が作者の祈りを表しています。
 
 この作品の初期形が書かれたのは1922〈(大正11)年後半から1923(大正12)年前半と推定されます。 
では、作者は、命を取るもの取られるものについて、どのように考えてきたでしょうか。
 書簡38、1917(大正六)年8月31日、保阪嘉内宛て書簡には、土性調査で行った岩手県江刺郡の風景のなかに、理想的な世界像、「マコトの世界」を感じ取っています。
 書簡46、1918(大正7)年2月23日の、父政次郎宛ての徴兵検査の延期の提案に対する反論のなかでは、自然現象と並べて戦争や病気という社会現象における生と死に言及し、〈その戦争に行きて人を殺すと云ふことも殺す者も殺さるゝ者も皆均しく法性に御座候。 起是法性起滅是法性滅という様の事の例へ〉、〈十界百界の依って起こる根源妙法連華経にお任せ下されたく候〉と、法華経の教理に基づく世界観を展開する中で、牛の撲殺について触れ、〈牛が頭を割られの咽喉を切られて苦しみ候へどもこの牛は元来少しも悩みなく喜びなくまた輝き又消え全く不可思議なるやうの事感じ候。それが別段に何の役にたつかは存じ申さず候へども只然くのみ思はれ候。〉があり、実感というよりも、法華経の教義に基づいた理解だったと思います。
 作者は1922(大正11年)冬に、稗貫農学校の畜産の実習で豚の撲殺を経験しています(注1)が、それ以前、盛岡高等農林学校の実習でも経験しています。
 書簡63、友人保阪嘉内宛て (1918年5月19日)は、高等農林学校の撲殺を見た後のものと推測されますが、そこには、食物連鎖への罪悪感と離脱の思いを語る中で、そのときの様子が書かれています。それは自分の身を削るような、祈りに似た言葉です。
 
私は春から生物のからだを食ふのをやめました。けれども先日「社会」と「連絡」を「とる」おまじなゑにまぐろの刺身を数切食べました。(…中略…)食
はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。(…中略…)
 
又屠殺場の紅く染まった床の上を豚が引きずられて全身赤く血がつきました。転倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として死はいたり、豚は暗い、しびれのする様な軽さを感じやがてあらたなるかなしいけだものの生を得ました。これらを食べる人とてもなんとてもこうふくでありませうや。
 
 この書簡に作者が綴ったものは、生物の命を取る人間と、人間である自分を認められず、苦しんでいる姿です。
 食物連鎖を風刺的に捉えた作品に1921(大正10)年に書かれたと推定される「ビヂテリアン大祭」があります。仏教の殺生戒の思想を基にしていますが、ビヂテリアン(菜食主義者)には、動物への同情派(食べたら可哀想)と予防派(肉食は体に悪い)とがあり、その方法には大乗派(菜食動物を食べる動物を食べる事はよい)と絶対派(決して動物の肉は食べない)と折衷派(ミルク、バターなど動物の命を取らないものはよい)があるという人間中心の考えや、大会そのものが演出されたものだったこと、周辺の人々の無関心ぶりも描き、人間の身勝手さや、理論と現実、組織と個人の関係など、現実の重さが描かれます。
 
 〔フランドン農学校の豚〕では、作者は、宗教的な観念や、主義主張ではなく、豚の撲殺という事象のみを描きますが、「童話」という方法をとることで、命を取られる動物の心情を描き出し、非情さが伝わってきます。その非情な世界の中で、人間も生きていかねばならないことの悲しみを言外に伝えているものと思います。
 
注1
岡澤敏男「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」
(『国文学 解釈と鑑賞 69−8』 至文堂 2003 3
 
参考文献
栗原敦「〔フランドン農学校の豚〕」考
(『作品論宮澤賢治』 双文社出版 1984