(9月29日に投稿した同タイトルの文に、新しい資料を加えて修正しました。) 童話「ポラーノの広場」のプロローグで、主人公キューストは、〈植物園に拵へ直すといふので……役所の方にまはってきた〉競馬場の跡地の建物に住んで毎日楽しく役所に通っています。
この〈植物園に拵へ直す〉ということついては天沢退二郎先生(注1)が、〈用途変更というそれ自体夢魔の住みつくところで少年たちをユートピアに導くのが可能な場所〉とされています。
また、岡村民夫先生(注2)は、モダンで文化的な施設が田園的なものと共存しながら発展していく「郊外」に開設される「競馬場」が、キューストの文化的な生活を可能にしているとされました。
古くは神事に始まり、ついで馬産農家の飼育した馬のコンテストの場となった競馬場は、馬産県岩手にとっても、当時の農民にとっても、ある種栄光の場所でした(注3)。
そして賢治の生存中も菜園競馬場から黄金競馬場へ、賢治の没年には新黄金競馬場へと、いつも発展的意味を持って移転が繰り返され、広い跡地は、当時農地や学校として利用されてきました。現実には〈植物園に拵へ直す〉ことはありませんでしたが、賢治の意識の中の〈植物園〉は、卒業後も足を向けていた、農業の向上を目的とした高等農林の植物園や、上京時に訪れていた、常に最新の学術的成果が見られる東大の付属植物園で、理想の場所への変更の象徴として設定されたものだと思います(注3)。
平成8年に新競馬場が現在の新庄字八木田地区に開場し、賢治の時代の名残を感じる上田の新黄金競馬場跡地はどうなるのか気になっていましたが、偶然、既に2年前に、環境教育のための「エコアス広場」や、公園となっていることを知り、賢治祭の帰りに回ってみました。
高松公園とエコアス広場のの境界は無くて、向こう端が見えない程の広大な芝生で、芝生の中にガマやヨシで囲まれた小さな池、鳥の観察台、水遊びのできる池、まだ成長していない木々、説明パネルなどが点在していました。
盛岡市のHPによると、跡地はほとんどが岩手県競馬組合の所有でしたが、平成13年から開発公社を経て市が取得し、跡地21ヘクタールのうち17ヘクタールが以下の割合で整備されました。
公園ゾーン2.07ha(面積割合12.1% 多目的芝生広場,自然いっぱいの森,桜のプロムナード,駐車場)
環境ゾーン(エコアス広場 6.09ha 35.7% 資源のリサイクルや自然エネルギーの不思議,農を通じた土,生命の不思議など様々な環境学習を通じて環境問題を考える場、ビオトープの広場,市民菜園)
自由広場ゾーン5.14ha 30.1%)
保健福祉ゾーン1.76ha(0.3%)
ミニバスターミナルゾーン0.35ha(2.0%)
道路1.67ha(9.8%)
エコアス広場の内容はいこいの花畑(バイオマス資源の活用と資源循環の仕組みを学べるゾーン)、
光のガーデン(照明灯は全て太陽光発電や風力発電により、再生可能エネルギーを身近に感じるゾーン)
観察の木陰(自然観察のために生物に出会える池・樹木など)
環境について簡単に学べるパネル、合計10カ所
この変更は、植物園ではありませんが、もしかしたら賢治の意図にも限りなく近いのではないか、と勝手に思い込んで喜んでいます。普通だったら商業施設になってしまうかもしれない場所がこのような形となり、その80パーセント近くを、自然に溶け込んだ環境学習のための広場や公園にすることが出来たのは、やはりここはイーハトーブだからだ、と思います。
ただ、近くを歩いている人さえ場所を知らず、整備されているのに利用する実態が見えてこない気もします。また自然環境の学習という点では、少し競馬場の部分を残して整備したほうがよかったのではないか、と思います。ただ実際は公園や民家の近くに「自然」を置こうとすると、様々な利害関係や衝突を生み困難なことは、以前環境関係の仕事を手伝っていた時、苦い思いとともに知りました。
これが「用途変更」という改革なのだ、と思います。仮に賢治がこの場所を任されたとしても、この広さに胸を躍らせて、全く新しい広場をつくったのではないでしょうか。
この新しく作られた広い人工的な自然が、本来の自然に近づき、本当の環境教育の場として育つには、さらに時間と人智が必要でしょう。
注1 「ポラーノの広場」あるいは不在のユートピア―プロローグをめぐって
(『国文学解釈と鑑賞』1984 『〈宮沢賢治〉鑑』 筑摩書房1986)
注2 「ポラーノの広場」の競馬場 賢治郊外学のために(『賢治学第二輯』2015)
注3 拙稿 「ポラーノの広場」の競馬場
(『宮沢賢治 絶唱 かなしみとさびしさ』勉誠出版 2011)