宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
CATEGORY:研究報告-(未発表のレポートです。)

宮沢賢治「少年小説」と賢治生存中の少年小説(大衆的児童文学)の出版状況について 後編 

一―5大正期における賢治との関わり

賢治の弟清六の記憶によると、盛岡高等農林学校で研究生として学んでいた一九一八(大正7)年八月、弟妹たちに初めて書いた童話「蜘蛛となめくぢと狸」や「双子の星」を読み聞かせたとい(10)

鈴木三重吉の『赤い鳥』創刊は前月七月である。前章でも述べたように、鈴木三重吉の理想は従来の少年小説や説話を否定、子供の純正を保全開発するために一流の芸術家をあてる、という画期的なもので、賢治が読んで創作を啓発されたということは十分に考えられる。賢治が生前に最初に出版した、『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』の「序」、新刊案内の賢治の理想を読むとき、そこに、三重吉から引き継いだものを感じることができるという(11)

ただ賢治童話の底に流れる、自然や科学の裏付け、人間への凝視、光や風の描写は、独特の世界になっていると感じられるが、三重吉の子供の文学への理想への取り組みには十分刺激されたと思われる。

一九一六(大正5)年から連載が始まった吉屋信子「花物語」は、一九二〇(大正9)年二月に『花物語第一集』、『花物語第二集』として落陽堂から発行される。

同性の友人や教師に抱く友情や尊敬を、一作ごとに取り上げた花が象徴するものを物語に反映させ、主人公の思いの一途さと対象となる花や風景が美しい整った文体で描かれる。対象の持つ美への憧れに近い思いを表現しようとする意識が感じられる。『花物語 第一集』に所収の一七作は、すべて何らかの形の別れの切なさが主題で、わびしい、かなしいという言葉も多用される。

「マリブロンと少女」は、師への憧れと別れを題材にし、吉屋の「鈴蘭」、「紅薔薇白薔薇」と、大変似通っている。また、作者のその対象を究極的な美とする描き方も類似している。

同時に先行作品「めくらぶだうと虹」のメクラブドウの虹への憧れの描き方も強い類似性が感じられる。影響を受けたとすれば「めくらぶだうと虹」(一九二一(大正10)年秋頃と推定)が最初であろう。

同年夏ころ成立の短篇「いてふの実」、「おきなぐさ」、「まなづるとダァリア」を見ると同様の意図と表現を感じる。対象は人間ではないが、生物の生命の終わりと再生への限りない賞賛を描いて、対象に対する突き詰めた眼はそれまでの寓話には感じられなかったものである。

この時期は、『花物語』の普及した年月にかなり近い。ここからは推定になるが、この年、妹トシは花巻高当女学校女教諭となっており、少女向け小説に触れる機会も多く、また賢治と接する時間も多くなり、或いはそこで伝えられた可能性もあるのではないか。

「マリブロンと少女」の女教師のモデルを、盛岡バプティスト教会牧師ヘンリータッピングの娘で賢治にオルガンの手ほどきをしたヘレンとする説(12) もあるが、ここでは作品の中から感じられる影響について考える。

 

一―6昭和期

一九二五(大正14)年終わり、『少年倶楽部』は全盛期を迎え、その力をバックに、吉川英治(歴史小説)、高垣眸(伝奇小説)、佐藤紅綠(友情と正義物語)など一流の作家を集め、少年雑誌界を独走した。さらに大佛次郎は一九二七(昭和2)年三月~一九二八年五月「角兵衛獅子」をはじめとして一九三三年(昭和8)年まで七作品が掲載され、近代的少年小説を定着させる結果となる。加えて山中峯太郎は「敵中横断三百里」(一九三〇(昭和5)年四月~九月)で、優れた主人公の記録としての日露戦争従軍記を描き、読者の共感を得た。南洋一郎は、密林の冒険物語を一九二九(昭和4)年から発表していたが、一九三二(昭和7)年四月~一二月の「吼える密林」は、決定的な人気作品となり、池田宣正の名で発表した「桜ん坊の少年」のような感動小説とともに人気を得た。

賢治の死後、一九三六(昭和11)年から江戸川乱歩「怪人二十面相」が連載される。探偵小説は、一九二二(大正11)年横溝正史『恐ろしき四月馬鹿』、一九二二年江戸川乱歩「一銭銅貨」が雑誌『新青年』に掲載されたことが始まりと言われる。乱歩は、そこで探偵小説のレギュラー作家森下雨村の影響を受けながら成長した。

少年雑誌ではないが、森下雨村の編集で創刊された『新青年』(一九二〇~一九五〇年 博文館~江古田書店~文友館~博友社)は一九二〇年~一九三〇年のモダニズムの時代の代表的な雑誌で、現代小説から時代小説、さらには映画・演芸・スポーツなどの話題と共に、国内外の探偵小説を紹介し、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。平均発行部数は三万部前後、多い時は五、六万部に達していたと言われている。また内務省警保局による調査では、一九二七(昭和2)年当時約一万五〇〇〇部という。

弟清六が賢治の童話を持参して面会した、といわれる『コドモノクニ』社の小野浩は、『赤い鳥』に移って後、昭和三年に退職、『新青年』に「意外つづき」(ブラックウッド著)など、多くの翻訳を寄稿している。また『赤い鳥』の挿絵を手がけた深沢省三とも関係が深く、賢治が個人的にこの名前を認識していて『新青年』を手にしたかも知れない。賢治が当時の文化の最先端の雑誌にも目を向けていたことは考えられる。

この少年小説の全盛期、一九二九(昭和4)年三月、童話誌『赤い鳥』が休刊となった。一九三一( 昭和6)年会員制によって復刊したが、鈴木三重吉の死により、一九三六(昭和11)年終刊する。

さらに一九三三(昭和8)年、詩人佐藤一英の編集した『児童文学』が廃刊となる。第一集(昭和6年7月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集(昭和7年3月)に「グスコーブドリの伝記」を掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。

 

二、宮沢賢治と少年小説―改稿と発表の意志

二―1改稿への意志

生前発表作品についてみると、「雪渡り」(一九二一(大正10)年一一月~一九二二年一月 『愛国婦人』)、「やまなし」(一九二三(大正12)年四月、「岩手毎日新聞」)、「シグナルとシグナレス」(一九二三(大正12)年五月「岩手毎日新聞」)までは数少なく、推敲による変化は著しくない。

『注文の多い料理店』は、一九二四(大正13)年、杜陵出版部、東京光原社から一千部発行された。賢治初めての童話集で、その意気込みは序や広告文からも感じられる。しかし当時の映画館入場料が三〇銭ほどだったのに対し一円六〇銭と高額だったためもあって売れず、賢治は二〇〇部を自費で買い取ったという。 

賢治は作品に対して、「売れる」事よりも、共感してくれる人が一人でもいれば、という思いだった。「心象スケッチ」についての書簡421母木光あてに、「ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまずのぞみといふところです。」がある。だが周囲の出版状況が耳に入る時代となって、また恐らくは商才のある父政次郎の眼なども感じて、心穏やかならぬ事もあったのではないか。

大正十五年以降では、「オツベルと象」『月曜』一九二六(大正15)年一月、「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」(『月曜』一九二六(大正15)年二月)、「寓話 猫の事務所」(『月曜』一九二六(大正15)年三月)「北守将軍と三人兄弟の医者」(『児童文学』第一集 一九三一(昭和6)年七月)、「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』第二集 一九三二昭和()年三月)「朝に就(つい)ての童話的構図」(『天才人』第六輯一九三三(昭和8)年三月)、と数を増していると同時に、ほとんどが既存作品を改稿したものである。この時期、賢治のなかに、「少年小説」―大衆的児童文学の意識が生まれ、既存の作品を発表に向けて改作したのではないだろうか。

さらに創作メモ53にある「銀河鉄道の夜」第四次稿、「ポラーノの広場」最終稿、「グスコーブドリの伝記」、「風の又三郎」も改稿されている。

この時、「少年小説」として自作の童話を位置づけようとし改稿を思い立ったのは、少年小説、特に『少年倶楽部』の成功と内容の充実に心を動かされたのではないだろうか。

その意識の流れの中で、一九二九(昭和4)年三月、『赤い鳥』が休刊する。童話制作のきっかけとも、理想としていたと推定される雑誌の休刊にはショックを受け、さらなる少年小説を目指し、昭和六年以降の改稿が始まったと推定する。

一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊となる。書簡459(一九三三年三月七日)母木光宛て)には、『児童文学』廃刊や児童文学界の行き詰まりを直感していた事実が残されている。『児童文学』は第一集(一九三一(昭和()年七月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集一九三二(昭和7)年三月に「グスコーブドリの伝記」掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。病との戦いの中で、さらなる改稿や創作を考えていたかも知れない。

他の作品の改稿については、「まなづるとダァリア」の一九三〇年と推定される第五形態への改稿段階での巌谷小波「菊の紋」の影響が指摘されている13

これは昭和初年代に功績が集大成され、「小波お伽全集一二巻」(小波お伽全集刊行会一九三〇(昭和5)年として出版された巌谷小波の全集からの影響と見られ、賢治が出版物への多くの興味を持ってアンテナを広げていたと言える。 

 

二―2「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ 黎明行進歌」

創作メモ26の、「ポラーノの広場」初期形原稿に残された「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ (青少年向け物語のエスペラント語)黎明行進歌」のメモには、少年を主人公にして、具体的な家族構成や生活状況が設定され、学校行事に沿って具体的に物語を進展させる構想が書かれている。家の貧しさや母の死や上級学校への諦めなど、当時の少年小説、「ああ玉杯に花受けて」を感じさせる。

〔或る農学生の日誌〕の下書き稿とされるこのメモを、ここでは「少年小説」の試みのメモとして捉え、ここから、賢治の「少年小説」の意図を感じ取りたい。  

成立は「ポラーノの広場」初期形原稿成立の一九二四(大正13)年以降、作品中の日付の最後「一千九百二十七年」の間と推定される。

主人公は「岩手県稗貫郡湯本村日居城野/徳松長男 栂沢舜一」、「一千九百廿五年、十七才/稗貫農学校の第三学年」と設定される。父は自作農で土地はすべて抵当に入っていること、家族構成は姉二一才、弟一〇才、妹一三才、一二才、七才、祖父である。

四月から月ごとに学校行事を中心にした出来事が、一千九百二十六年、一千九百二十六年と続く。

ここには賢治の経験した事柄が並ぶ。「校友会行事」、「校友会誌成る」、「土性調査」は高等農林学校時代の出来事である。「父との衝突」は高等農林卒後の宗教対立か。細かい時間割や「松並木問題」「修学旅行の出発前の不安」、「旱害」、「県視学来校」、「一学期試験」、「カンニング」、「夏季実習」、「家事労働」、「遊園地遠足」「凶作」、「雄辯大会」、「授業料滞納」」などは、花巻農学校の教師時代の経験、教え子の事件である。「ヴァイオリン」、「肥料設計」、「グラジオラス」、「レコードコンサート」は、農学校退職後の出来事であろう。その他、人の世の悲哀を描くための、祖父(祖母)、母(姉)、妹の死を配している。

そこから創作された〔或る農学生の日誌〕は、さらに自分の体験や心情―上級学校へ行けなかった自分、退学した友への思いを重ねる。さらに桜の花への複雑な思いとたんぽぽの綿毛を染める夕日の美しさが語られ、修学旅行の楽しさ、稲作への希望など、周囲の事象への感情が書き込まれている。

賢治は「少年小説」について、『少年倶楽部』の作風の中から、少年への道標となるような作品を目指し、貧しさという社会の現実を設定し、そこに自分の体験を具体的に書き、未来の農業への希望に向けての作品にしようとしたのであろう。

『少年倶楽部』の掲載の作品に比べれば、物語の展開は少なく、人間関係、社会状況についての描写がないのは、一つには少年小説の大きな課題「立志」を書き込んでいないからであろう。

しかし自分の内面や自然描写、農業への視線は美しく、賢治作品の特徴が見える。前述の一面に加えて、この特徴は、その後の、創作メモ535456に記された四作品の改稿において、どのように生き続けるのだろうか。

一九二九(昭和4)年三月の童話誌『赤い鳥』が休刊、一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊は、さらに賢治の創作への思いを変えていったであろう。四作品は、どのように改稿され、賢治の「少年小説」となったか。次の課題としたい。

 

 

12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)

13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)

 

参考文献

『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社 

一九七一

蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf   dpt.sophia.ac.jp

 

テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。

 







宮沢賢治「少年小説」と賢治生存中の少年小説(大衆的児童文学)の出版状況について 前編           

宮沢賢治は、「歌稿B」第一葉余白(創作メモ53)に、「少年小説/ポラーノの広場/風野又三郎/銀河ステーション/グスコーブドリの伝記」、のメモを残しており、創作メモ54、創作メモ56にも同様の書き込みが見られる。

また、時期を明確に出来ないが、時を前後して、創作メモ26「ポラーノの広

場」初期形原稿に「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ(筆者注:青少年向け物語の意のエスペラント語) 黎明行進歌」のメモと少年の生活を表す内容のメモが残されている。

これを賢治の「少年小説」の最初の試みだったと仮定し、明治期から賢治没年までの、賢治の周辺にあった大衆的児童文学(以下少年小説と記す)の流れの中での賢治の活動を辿り、この時期に、なぜ賢治が少年小説を意識したかを明確にし、「少年小説」と規定した四作品を知る為の手がかりとしたい。

 

一、「少年小説」の流れの中の賢治

一―1明治期

江戸時代までは、女性、年少者は「婦女子」としてまとめられ、「子供・児童」の概念はなかった。初めて「児童」が意識されたのは、一八七二(明治5)年学制発布の後で、日本の児童文学は、明治十年代、ヨーロッパですでにあった作品を翻訳、翻案して出版されたのが最初である。 

単行本で、一八七八(明治11年ジュール・ヴェルヌ作川島忠之助訳『新註八十日間世界一周』(出版も訳者)、一八八〇(明治13)年鈴木梅太郎訳『二万里海底旅行』(出版は不明)、一八八四(明治17)年井上勤訳『全世界一大奇書』(「アラビアンナイト」の翻訳)報告堂)などがある。

雑誌では、一八八五(明治18)年発刊の『女学雑誌』(萬春堂)に、「不思議の新衣装」(アンデルセン「裸の王様」の翻案)、一八九〇(明治23)年には、F.H.バーネット作、若松賤子訳「小公子」が掲載される。

『少年園』(小年園発行所・一八八八(明21))は、イギリスの児童雑誌の影響を強く受けて創刊された日本最初の本格的児童雑誌といわれる。文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、教育・啓蒙を発刊の主旨とした。以後少年向け雑誌の創刊も盛んとなった

幸田露伴は、少年小説「鉄之(三)鍛」(『少年園』一八九〇(明治23年)、歴史小説「二宮尊徳翁」(『少年文学⑦』一八九一(明治24)年、再話「宝の蔵」一八九二(明治25)年 学齢館)、科学読み物「北氷洋」(『少国民』一八九四(明治27))など広範囲な作品で、少年小説の出発点を作った。「鉄之()鍛」では逆境と苛酷な人との関わりのなかで、発憤して頑張り、援助者と遭遇して成功する姿を描く。

村井弦齋『近江聖人』は『少年文学叢書』第一四編として一八九二(明治25)年から一九〇五(明治38)年末までに二九版を重ねた。中江藤樹の少年時代を描き、被虐者を助け、病気の母に孝行を尽くし、出世の後も周囲のものに学問や徳を施すという徳性を描き、語り口も面白く、伝記物の傑作といえる。

原抱一庵 『少年小説 新年』(青木嵩山堂 一八九二(明治25)年) は、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年を描き、「少年小説」を冠する作品の初期のものである。主人公の頑張りと少女との出会いを描くが、虐め、失敗など人と人との関わりは描かれない

森田思軒「十五少年」は『少年世界』に一八九六(明治25)年三月から連載後同年一二月博文館より刊行、ジュール・ヴェルヌ「二年間の休暇」の翻訳として現在でも読み継がれる。

押川春浪『海島冒険奇譚 海底軍艦』(一九九〇(明治33)年 文武堂)は行方不明を伝えられていた海軍大佐桜木が、無人島に籠もり海底軍艦(潜水艦)作っていた所に遭遇した日出雄少年が仲間に加わることからの展開の見事さは、少年の海外進出の抱負を抱かせ、国威発揚の役割をも持たせたが、冒険小説の傑作であると言える。

 泉鏡花「金時計」(『少年文学』一八九三(明治26)年)では西洋人と日本人の魂の違いを描き、尾上新兵衛「近衛新兵」(『少年世界』一八九四(明治27)年)では日清戦争を描いた。

単行本も、旅順戦記桜井忠温『肉弾』(一九〇六(明治39)年 丁未出版社)、ユーモア小説佐々木邦『いたづら小僧日記』(一九〇九(明治42)年 内外出版協会)など、多様な内容を持ち、このころから大人向け雑誌への少年の読者も増える。

「少年小説」とほぼ並行して女子を対象にした「少女小説」というジャンルがあった。初期には北田薄氷が「おいてけぼり」、「食辛棒」(『少年界』(金港堂明治30)は、少女向けに書かれた短篇で、家庭生活の出来事を面白く描くが、物語性などに欠けていた。一九〇二(明治35)年、金港堂書籍から日本最初の少女雑誌として『少女界』創刊、全く少女向けの読み物のなかった時代に、少女のみならず一般の婦人達も読者に加わった。

一九一一(明治44)年、「立川文庫」(立川文明堂)が創刊される。作者は山田敬を中心に、「真田十勇士」や「猿飛佐助」など、講談本、大衆小説の先駆的存在となり、勧善懲悪のモラルを脱し新しいヒーロー像を造った。

 

一―2明治から昭和に向けての出版状況について 

少年小説の販路は何処まで広がっていただろうか。

江戸時代は出版業者の組合に「本屋仲間」と「地本問屋」があり、(本や仲間)は書籍版元・書 籍取次・書籍店を、地本問屋は雑誌版元・雑誌店を兼ねてそれぞれの販路を 持っていた。一八五一(嘉永4)年以前刊の『庭訓往来』に付載されている取次所の広告の書店名は二十九店舗、全国的に散らばっており、東北では「奥州仙台国分寺」、「会津若松市の町」「奥州相馬浪江」、「出羽山形十日町」、の書店所在地が見られる()

明治初期には出版社と小売店とは同一業種だったが、出版業と小売業に分化し始め、一九一〇(明治43)年には、雑誌大取次中取次雑誌店のルートが形成された。一九一四(大正3)年前後から雑誌・出版物の普及によって小売りと卸が分化する。さらに大取次、中取次(地方まで取り次ぐ)、小取次(市内の小売店にも取り次ぐ)に分化した。「せどりや」は小売店を廻って注文を取り見込み仕入れをする業種で、明治大正期は市内回りの取次人として確立した。雑誌出版の隆盛と取次業の整備は車の両輪のようにして発達した。

書籍の委託販売は返品条件付き販売で、一九〇八(明治41)年大学館が東京市内を範囲として始まり翌一九〇九(明治42)年、実業之日本社が『婦人世界』でその方法を取り入れ、講談社も雑誌の大量販売を機に一般化し、主に雑誌の形で広まった少年小説はそのルートに乗った。取次大手の東京堂の社史によると、発送方面区劃に従って鉄道の番線ごとに大量の雑誌が発送されて行く様が描かれる()

これが、花巻周辺まで届いていたのか、実証は掴めなかったが、少なくとも県都盛岡には一九一四(大正3)年前後の段階で到達したであろう。

一九〇一(明治34)年生まれの賢治の妹シゲの回顧録(4)に拠れば、幼少期には、東北大飢饉の記事の載った古い写真総合誌『太陽』(一八九五(明治28)~一九二八(昭和3)年 博文館)が、宮澤家にあったという事実があるが、ただ、それが花巻の商店で扱われたものなのか、父政次郎氏が注文して取り寄せたものなのかについては調査が及ばなかった。                               

 

一―3明治期における賢治との関わり

賢治誕生一八九六(明治29)年~賢治一六才(一九一三(明治45)年 )まで賢治と少年小説との関わりが実証される事実はほとんど無い。

宮澤家の読書環境を示すものとして、前述の妹岩田シゲの回想に、宮澤家の古い土蔵「北小屋」に父政次郎の蔵書があり、子どもたちは忍び込んで本を読んだという記述がある。前述の『太陽』のほか、少し成長してからのことだが賢治の一九一六(大正5)年ころ、そこで「伊勢物語」を読んでいたことが記されている。たやすく本に触れられない環境で、密かに蔵の中で古い本を読む、という状況もうかがえる。

唯一の記録は、一九〇五(明治38)年、花巻川口尋常小学校三年のとき、担任の八木英三から、「太一の話」などを聞き感銘を受けたというものである。これはエクトール・マロ原作「家なき子」の五来素川による翻案、『家庭小説 未だ見ぬ親』である。一九〇二(明治35) 年三月一一日から七月一三日まで『読売新聞』に全九十四回にわたり連載され、一九〇三(明治36) 年七月に警醒社,東文館,福音新報社から単行本が出版された

賢治がなぜこの一点のみを記憶していて、それが語り継がれているのか。可能性としては、この時代の子供向け出版物がほとんどの雑誌であり、保存されるものではなかったか、花巻まで出版物の流通網が到達していなかったかでる。

また、賢治の幼少時代、少年小説は排すべきものであり、厳しい家庭になればなるほど、禁じられることが多かった可能性もある。それ故、八木英三の語り聞かせた物語は、後々まで強い感動を残したのかもしれない。

一方、この物語は新聞連載中から「家庭小説」の角書が付され、原作に加味された報恩の観念は、家族主義から個人主義への過渡期にあると見なされた日本の「家庭」にふさわしい親子道徳として、その欠点を補うものとして期待されたと考えられ(5)、小学校のなかでも読み聞かされることが多かったのかも知れない。

一九〇九(明治42)年一三才、盛岡中学校に進学、家を離れ寮生活を送る県庁所在地盛岡では、出版の状況も変わったであろう。

一九一一(明治44)年、賢治は一五才になり、寮の同室の藤原文三の記憶によると、すでに「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたと いう(6)

 

一―4大正期

 一九一三(大正2)年、中里介山「大菩薩峠」は都新聞で連載が開始され、以後毎日新聞、読売新聞と変わりながら一九四一年まで連載、作者死亡により未完に終わった。虚無思想に取り憑かれた主人公と周辺の生き様を描き、作者によれば仏教思想に基づいて人間の業を描こうとしたといい、大衆小説の先駆けとも言われる。 賢治作詞作曲の「大菩薩峠の歌」が出来たのは、藤原嘉藤治の採譜などから、その知己を得た一九二〇(大正10)年以降と思われる。

一九一四(大正3)『少年倶楽部』(大日本雄辮會 一九二五年大日本雄辮會講談社となる。以下講談社と略す。)が創刊された。創刊間もなく社長野間清治が打ち出した編集方針は、学校以外で児童が自ら進んで読んで面白いもので、なおかつ知らず知らずのうちに利益になるものを雑誌の目標とすることであった。利益になるとは精神教育で、「偉大なる人」にならなければならないこと教えることを中心とした。「面白くてためになる」は児童だけでなく、教育関係者、父母にも認められた。雑誌の隆盛は、販売ルートを成立させ、さらに雑誌の隆盛を生むという相乗効果で広まっていった。    

一九二六(大正15)年の東京都社会局の調査「小学児童思想及読書傾向調査」によれば、少女雑誌を含めて、『少年倶楽部』の占有率は三五パーセントに及んだ(7)

一九二一(大正10)年から講談社の編集長を務めた加藤謙一によると、当時最盛期だった『日本少年』(実業之日本社)が二〇万部を誇る中、まず一〇万部の売り上げを目指したという8)

著名な文学者の寄稿に加えて、投稿による討論会、飛行機搭乗体験記、少年発明家の訪問記、読者の原稿募集、相撲の記事、千葉耕堂「滑稽大学」など多彩な記事に加えて魅力ある付録もついた。表紙に高畑華宵を起用したのも人気だった。発行部数は、新年号のみの比較で、一九一四(大正3)年の創刊当時三万部から、一九二〇(大正9)年八万部、一九二四(大正13)年三〇万部、翌一九二五年四〇万部と飛躍的に伸びを見せている(9)

一九二五(大正14)年、挿絵画家高畑華宵とのトラブル後、表紙に頼らぬ編集方針が生まれ、さらに大きな飛躍を生むことになる。一九二三(大正12)年『少女倶楽部』も発刊され、その年の九月の関東大震災の大打撃や児童誌再編制も逆手にとって『少年倶楽部』は飛躍、少年小説黄金時代を迎える。

吉川英治「神州天馬峡」(連載一九二五(大正14)年五月~一九二八(昭和3)年)は、講談的少年小説から近代性ある少年小説への展開がある。文体の美しさと、敗軍の主人公の宿命を見つめる滅びの美学に加えて歴史の展開やキャラクターの面白さは、後続の作品の要素が見られる。「風神門」(一九三二(昭和7)年五月から一一月 『少年世界』)など、完成度がたかまっていく。

 高垣眸「龍神丸」は一九二三(大正14)年4月から連載され、「宝島」をヒントの秘宝探しで伝奇小説の源流となった。「豹の眼」は成人のための小説へ向かった。

佐藤紅緑「ああ玉杯に花受けて」(一九二七(昭和2)年五月~六年三月)で、逆境にあって進学できない青木と、有力者の息子で青木を虐める坂井、金持ちの息子で友人全体に愛情を示す柳という典型的人間関係の中で、良き師と先輩と巡り会い、常に正しいものとは何かを考えて行動する姿を描く。究極の将来図が第一高等学校なのは当時の理想像の象徴だったのかも知れない。それと同時に、中学生と働くものたちの野球大会、柳の妹を誘惑する金持ちの医者の息子との事件、中学生の弁論大会、など幅広いストーリー展開は人気を集めた。この路線は「一直線」講談社 一九三一(昭和6)年などにつづく。 

一九一八(大正7)年、鈴木三重吉による童話誌『赤い鳥』は、既存の少年小説、説話、昔話を中心とした旧来の読み物への批判から、純文学としての児童文学を目指して創刊された。出版数創刊当時三万部で、芥川龍之介、有島武郎、川未明、北原白秋ら一流の文学者が子供のために執筆するというスタンスを取り、児童文学の理念を「童心主義」に置き、子どもには大人とは異なる価値があり、価値の本質は純真無垢であるとした。

一九一九(大正8)年 西条八十の詩、成田為三の作曲の「かなりや」が楽譜付きで掲載され、唱歌とは違う芸術性を求め、音楽運動としての先駆けとなった。

また新美南吉など次世代の作家の育成発掘を試みたが、三重吉の意に沿わない作家は退けられるなど限界も生まれた。「童心主義」も現実の子供から遊離しているという批判が生まれ、後のプロレタリア児童文学の台頭も加わっていく。

少女小説は大正時代に入ると隆盛期を迎える。なかでも吉屋信子川端康成など同性に向けた憧れを描く作品の原型が生まれた。

吉屋信子が一九一六(大正5)年から『少女画報』に連載した「花物語」は、花をモチーフに少女たちの友愛を描き、七話完結の予定が八年間続き少女小説界を独走した感がある。

 

(後編に続く)

 

(1)少女雑誌も含めて一八八九(明治22))『日本之少年』(博文館)・『少国民』(学齢社)、一九〇二(明治35)年『少年界』・『少女界』(金港堂)、一九〇三(明治36)年『少年』(時事新報社)、一九〇六(明治39)年『日本少年』(実業之日本社)、一九〇八(明治41)年『実業少年』(博文館)・『少女の友』(実業之日本社)、一九〇九(明治42)年『少女』(女子文壇社)、一九一一(明治44)年『少年園』(盛文社)・『幼年世界』(博文館)、一九一二(明治45)年『武侠世界』(興文社)・『少女画報』(東京社)、一九二三(大正12年)『少女倶楽部』など。(二上洋一「少年小説年表」(『少年小説の系譜』幻影城一九七八)一六七ページ~一八二ページ)

(2)鈴木俊幸「近世日本における薬品・小間物の流通と書籍の流通」(『書籍流通資料論序説』第二章一三七~一三九頁 勉誠出版 二〇一二年)

()田中治男『ものがたり東京堂史』二六七~二七六頁 東販商事一九七五(4)岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』 蒼穹書林二〇一七)

(5)渡辺貴規子「エクトール・マロ原作、 五来素川訳『家庭小説未だ見ぬ親 』の研究」京都大学大学院人間・環境学研究科「人間・環境学」第 20 巻,八三―九六頁 二〇一一年)

(6)堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房一九九一 四四ページ。

(7)二上洋一『少年小説の系譜』幻影城一九七八 四九ページ 

(8)加藤謙一『少年倶楽部時代』一九六八 一九ページ

(9)前掲書三九ページ

10)宮澤清六「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』筑摩書房一九九一) 二五一ページ

11) アミーラ サイード アリー ユーセフ「宮沢賢治の童話の特質について」(『国際日本研究』第2号 (筑波大学人文社会科学研究科国際日本研究専攻)

12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)

13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)

 

参考文献

『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社 

一九七一

蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf   dpt.sophia.ac.jp

 

テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。

 







佐々木喜善『聴耳草紙』と宮沢賢治作品における非慣習的オノマトペ
はじめに
昨年、佐々木喜善『聴耳草紙』に初めて触れ、描かれる人々のたくましさと同時に、オノマトペの豊かさに圧倒された。川越めぐみ(注1)は東北方言の日常語のオノマトペと比較して賢治のオノマトペの特徴が類似しているという印象を持ったという。
宮沢賢治のオノマトペに惹かれてきた筆者も、そこに共通する何かを感じた。それは何か。オノマトペを拾い出すと、その成り立ちが賢治と共通する部分があり、またそれぞれ独自性も感じられた。言葉を整理しながら、その特色を解明していきたい。
 
佐々木喜善と宮沢賢治
佐々木喜善(一八八六~一九三三)は、一九〇八(明治四十一)年、二十二才の時、同じ下宿だった新進作家水野葉舟を介して柳田国男を知り、喜善の知る遠野市土淵町周辺の昔話を柳田に伝えた。柳田はそれをもとに1910(明治四十三)年『遠野物語』を完成する。それ以後喜善は柳田の影響を受けながら、座敷童子、オシラサマの研究に取り組み、1922(大正11)年、『江差郡昔話』(郷土研究社)、一九二六(大正十五)年『紫波郡昔話』を完成する。
さらに、辷石谷江という語り手と出会う。その身振りを交え、リズムや韻律を感じさせる話しぶりに、語り手と語りの場の重要性を認識し、その結果を一九二七(昭和二)年、『老媼夜譚』に著わす。そのオノマトペをはじめ豊かな表現は、喜善が優れた聞き手であったことに加えて、臨場感を大切に書き留めたことによる。   
『聴耳草紙』は、一九三一(昭和六)年成立、それまでの資料を集大成し、三〇三話を一八三番にまとめている。著者凡例によると「昔話」だけでなく、伝説や神祠由来譚、言葉の調子の面白さのみで成り立つ話まで収集したという。
宮沢賢治との接点は、『月曜日』第一巻第2号一九二六(昭和三)年に発表した「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を読んだ佐々木喜善が、そこに民俗学とは違う「詩の領分」を感じ、賢治に『月曜』を求めたのが最初である。
昭和七年、喜善に『民間伝承』第二号を送られた宮沢賢治は、喜善宛ての手紙で「方言の民話」に心引かれた旨を記している。
この年、喜善は五月二〇日から二八日まで、花巻と黒沢尻でエスペラントの講習会を開いた際、三度賢治を訪問し、意気投合していたことが窺える。
一方、賢治作品のオノマトペの部分は、ほとんどが初稿成立の段階のままで推敲されていない。初稿成立の時期は、『聴耳草紙』成立以前で、また、賢治が『聴耳草紙』に触れたという記録はなく、直接の影響を受けたとは考えにくい。賢治の生まれ育った土地と喜善が昔話を収集した地域とが共通であったこと、両者の言葉への想いが相通ずるものがあったことなどのためであろう。
 この稿では、そのことも踏まえた上で、賢治作品と『聴耳草紙』のオノマトペの共通性と独自性を検討したい。
 一方、伊能梅陰(嘉矩)『遠野方言誌』(注2)によると、遠野方言の特徴一つとして、標準語と比べて、一部の音の転換があるという。それは概ね以下のようになる。
母音の転換:ア音→イ(ボオフラ→ボオフリ)、イ音→ア・ウ・エ・オ・、ウ音→ア・イ、エ音→イ、オ音→エ・ウである。
母音イの発音転換は→エ(イヌ→エヌ)・ユ、母音ウの発音転換は→イ(ウゴク→イゴク)・オ、である。
その他、促音の挿入、子音の直音と拗音の相互転換、拗音、重母音の拗音化―OE→YE、IE→YE、UI→YE、発頭語Uの消滅、子音ではK→H、S⇄H、M⇄Bの転換、語の文字の位置を転換することなどである。
賢治は、効果的な表現を生むために、慣習的オノマトペの音の転換が見られるが、方言とどう関わってくるのだろうか。
さらに話し手の言葉が聞き取り手によって書き取られた『聴耳草紙』の場合、賢治作品の場合、この音韻転換がそれぞれにどう関わってくるのか検討したい。
 
方言の認定については以下の文献の記載を基準とした。文中ではアルファベットで表記する。
A、小野正弘編『日本語オノマトペ辞典』 小学館 二〇〇七
B、PDF東北方言オノマトペ用例集 国立国語研究所 二〇一一
C、藤原与一編『日本語方言辞書』 東京堂 一九九六
D、『日本方言大辞典』三冊 小学館 一九八八     
E、『日本国語大辞典 第二版』小学館
 
Ⅰ、賢治作品と『聴耳草紙』に共通して出現する非慣習的オノマト
賢治作品における、方言由来の非慣習的オノマトペは、主に童話において、村人や動物の言葉に用いて、その時代や地域性を象徴する。ここでは、両者に共通する言葉を拾って検討する。同じ意味を持つ慣習的オノマトペは←で記す。
 
①  にがにが、にかにか←にこにこ
にがにが
『聴耳草紙』では、「爺と婆の振舞」で、娘や孫が大勢集まった喜びの形容一例である。
賢治作品では「短い木ペン」で二例、「サガレンと八月」一例で、これも喜びの笑いの形容である。主体はいずれも村童である。
 詩〔鉄道線路と国道が〕(「春と修羅・第二集」)では、この国に〈むかしから棲んでゐる/三本鍬をかついだ巨きな人が/にがにが笑ってじっとながめ〉、〔このひどい雨のなかで〕    (「春と修羅 詩稿補遺」) では、〈オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る/そしてにがにがわらってゐる〉と、山男を思わせる巨人と農民への、少し皮肉を込めた書き手の思いを含んでいる。
にかにか
『聴耳草紙』には例がない。
「なめとこ山の熊」の商店主が下心を隠して笑う様の形容と同時に、毛皮を買って貰った猟師の喜びも同形で表している。
 「イーハトーボ農学校の春」では、生徒が春を迎えて喜ぶ笑いの形容、「税務署長の冒険」では、密造の探索の為に変装した署長が満足げに笑う様で語基の四回繰り返しが使われる。
Aでは方言として、「なめとこ山の熊」を例に引いて思惑ありげで嫌みを帯びた笑い、と捉えている。
 Eでは〈にかにか〉は方言(秋田)として愛想よく笑う様、〈にがにが〉は思惑ありげな笑いと、両方を採っている。
 賢治作品では、その差はあまり感じられないが、〈にがにが〉は農村の子ども、詩では田舎者や山男へ風刺的な描写として描き、書き手の作中人物への心情によって変化しているようにも思える。
 
②  そっこり←こっそり
伊能前掲書では、遠野方言の語法として、語中の文字の位置転換をあげている。Bに、方言として〈そこそこ、そっこら〉の項に、〈忍びやかにひとしれず物事をする様。こっそり、こそこそ〉がある
『聴耳草紙』では、「雁々弥三郎」で、雁が咥えていた弥三郎を野原の草の上に落とすことの形容である。 
賢治作品でも「鹿踊りのはじまり」で鹿の歌う挿入歌の中に、ススキの下に隠れ咲くウメバチソウを形容し、鹿の言葉として方言を賢治が意図して使ったといえる。
 
③  ペかペか、ポッカ、ぽかっ←ピカピカ・ポカン
二語基の〈ペカペカ〉(「蛇の嫁子」)と、一語基+りの〈ペカリ〉(「糸績女」・「貉堂」)、〈ペサッ〉(「旗屋の鳩」)、〈ペッカリ〉、〈ぽかっ〉、〈ポッカッ〉(「大工と鬼六」)があり、前者は現れたり消えたり意味、後者は消える意味合いが強い。
賢治作品では、〈ぺかぺか〉(「銀河鉄道の夜」)二例、「光の素足」一例で、点滅を表す。〈ぽかっ〉(「山男と四月」・「シグナルとシグナレス」))は一例ずつ三例とも消える意味、「ひのきとひなげし」では、あっけにとられる意味である。
〈ペカペカ〉につては        共通語では〈ピカピカ〉だが、い→えの母音転換の効果によって、弱くはかなげな明かりを表現できる。〈蛍のやうに〉(「銀河鉄道の夜」)のごとくである。                         
④  わりわり、ワリワリ
『聴耳草紙』では、「樵夫の殿様」、「豆子噺」、「猿の聟」、「屁っ放り嫁」で、林を鳴らす、逃げる、猿が出てくる、吹き倒れる、などにおいて、物事が続けて起こることの形容である。
賢治作品では、「牛」(文語詩稿一百篇)で、海上で波が打ち寄せる様の形容で、
震える意味合いが加わる。
Aでは、力まかせに押したり引いたりする様、音、方言で「状態が激しい様、」とあり、その状態の強烈さも表したのかも知れない。
 
⑤  のんのん、のんのんのんのん
『聴耳草紙』では一例、「夢見息子」で、続けて追いかけていく様の形容である。
賢治作品では、「グスコーブドリの伝記」、「グスコンブドリの伝記」一例、「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」六例、「オツベルと象」三例、自動車、地震、脱穀機などで地面が揺れる形容で、またそれが次々と続いていることを表す。四語基の繰り返しはそれを強調している。
東北方言においては、Aでは、勢いの盛んな様を表すとあり、雪が継続して降る状態なども表す。継続ということが条件なのであろう
 
Ⅱ『聴耳草子紙』と賢治作品における非習慣的オノマトペ
方言によるオノマトペは、方言話者には、習慣的オノマトペだが、標準語使用者から見ると非習慣的オノマトペであり、新鮮な表現となる。
一、方言と認定できるオノマトペ
方言の認定は、認定者の知識や感覚に左右される。ここでは数は少ないが、前記文献に方言と記載のあるものについて言及したい。
 
①  〈グレグレ〉めかして(「蛇の嫁子その1・その2」)は、Aによれば、(青森・岩手)で、急いで事をなす、または「ぐるぐる」の意である。
 
②  〈ザンブゴンブ〉と酒を飲ませた(「炭焼長者」)は、Cによれば仙台で「ザブザブ」 の意味である。
 
③〈チンプカンプ〉と瓜がと流れてきた(「蛇の嫁子その1」)は、Dによれば岩手方言で「浮き沈みながら水の上を流れる意」である。
〈チンボコ カンボコ〉(「瓜子姫子」その1)、〈ツプカプカ〉(「蛇女退治」)、〈ップカプン〉(「蛇女退治」)、〈ツンプカプ〉(「蛇女退治」)、〈ツンプコ、カンプコ〉 「きりなし話」)、〈ツンブツンブ〉(「瓜子姫子その3」)は、いずれもこの語からか派生した言葉であろう。促音から始まる言葉が採録されていることは興味深い。〈ツブン〉と橡の実が沈む(「きりなし話」)、〈ツポリ〉と橡の実が回転して (「きりなし話」)も同様の派生語と思われるが、語尾の撥音によって沈むこと、回転を表している。
 
④  〈ションション〉(と狐がやってきて 「獺と狐」その2)・ションションションション(「田螺と狐」)は、Eでは、滋賀の方言ではあるが、得意げな様、洒落ている様、しゃんしゃん、とある。地方は違うが、『聴耳草紙』ではすべて狐の歩き方の形容であり、狐の気取った様を表しているのかも知れない。
 
⑤〈ガッパリ〉と重い蓋が開く(「お月お星譚」)は、Eでは山形の方言として、たくさん、甚大の意味とする。
 
、慣習的オノマトペの変化による非慣習的オノマトペ
『聴耳草紙』では、方言のほかに、慣習的オノマトペとは一部が入れ替わっていることで、成り立つものがある。前章で、方言として取り上げた言葉も同様の成り立ちのものもあり、賢治作品とも共通する。ここでは、比較することで、双方の独自性を確認する。賢治作品については田守育啓による非慣習的オノマトペの作り方の分類(注3)、滝浦真人の造語論(注4)を援用して比較したい。
 
①  語基の繰り返し
語基を繰り返して三語基の語は、『聴耳草紙』には、〈クルクルクル〉(「三人の大力男」・「狐がだまされた話」)、〈パンパンパン〉(「鼻と寄せ太鼓」)、〈ゴロゴロゴロ〉(「きりなし話シダクラの蛇」)〈コロコロコロッ〉(「豆子噺」)の五例ある。確実に三回の現象は一例で、あとは話の調子を整えるためである。
 四語基の語は〈どんどんどんどん〉(「糞が綾錦」)一例で、これは変わらず続くことの表現である。 
語基+撥音の二回繰り返しは、〈ピシャンピシャン〉(「夢見息子」)一例、基+りの二回繰り返しは、〈ニヤリニヤリ〉(「糸績女」)、〈びしりびしり〉・〈スルリスルリ〉(「田螺と狐」)、〈ソロリソロリ〉(「窟の女」・「瓜子姫子その7」・「物知らず親子と盗人」)、とぼりとぼり(「夢見息子」)、パタリパタリ(「獺と狐その2」)の八例で、       これらは慣習的オノマトペとしても使われる語だが、ゆっくりした感じを出す。
賢治は、作品数も多いが童話に限っても多数の例があり、それぞれ表現上の意味を持って使われている(注5)。三語基は五十一例、時間の短さ、三拍の囃し詞を表す。語基+りの二回繰り返しは、四十七例あり、〈と〉を伴わない場合があるが、『聴耳草紙』ではほとんどが〈と〉を伴って安定した形である。語基+撥音の二回繰り返しは二十一例あり、発音の共鳴・響きを効果的に使っている。
四語基の語は一八二例と特に多く、継続、数の多さ、を表すが、状態の強調も含めた感情も伝える。また文中のところどころに同じ四語基の語をくり返すことでで、読むものの緊迫感も増す。
賢治が、繰り返しの持つ効果を考えて使っていたことがうかがえる。
 
②  〈ら〉の添加
川越めぐみ前掲書では、山形寒河江市方言のオノマトペには〈ら〉が語基の後
につき程度が大きくなったことを表すという。筆者の周辺(栃木県南部・東北系方言圏)でも、男性や老人は時に〈ら〉をつけ、〈ちょいら〉←〈ちょい〉、〈ぐいら〉←〈ぐい〉などと使う。
◎+促音+〈ら〉
〈カッチラカッチラ〉(「兎の仇討ち」)・カチッカチッ(「雷神の手伝い」)←カチカチは、火打ち石の音で、促音と〈ら〉で独特のリズムを生み、ユーモアを感じさせる。
◎母音(い→え)・子音転換(ち→も)+促音+ら
ぐいら(「和尚と小僧譚」)←ぐい、グエラ(「瓜子姫子・鬼の豆」)←ぐいら←ぐい、バエラ(「蕪焼笹四郎」)←ばあッ、〈ベッチャラ、クッチャラ〉(「爺婆と黄粉」)←ベチャクチャ、〈ちっくらもっくら〉(「田螺長者」)←チクチクと広範囲に使われる。方言として定着していた〈ら〉の添加、い→えの転換、子音転換に加えて、話の場を盛り上げようとする、話者の創意によるものと思われる。
 
③  +撥音
ごおんごおん(姉のはからい)←ごおごおは鼾の音と響きの大きさを象徴する。
 
④  母音転換
母音は一般に、あ(外への広がり・大きい)→え(横に広い)→う→お(内部への広がり・細い・丸い)→い(細い・鋭い)という印象を与える役割があり、オノマトペでもその語感を象徴的に用いているものもある。
◎い→あ
伊能梅陰前掲書で遠野方言では、イはア・ウ・エ・オすべてに転換する。
『聴耳草紙』では、〈ひょっくら〉(山男と牛方・傘の絵)←ひょっくり、〈むッ
くら〉(「和尚と小僧譚」) 〈むっくらむっくら〉(「眼腐・白雲・虱たかり」)←むっくり、がある。母音転換によって、のどかさ、動作の緩慢を表現し、言葉の面白さを強調しているとも取れるが、効果は明確ではない。〈ら〉の添加とともに方言であった可能性もある。
賢治では〈どかどか〉(胸がどかどか) 「タネリはたしかにいちいち噛んでいたやうだった」・「風の又三郎」)←どきどきで、胸の高鳴りの大きさを強調し、体感的で臨場感があり、〈ア〉への転換効果を感じられる。
◎い→え
〈しんめりしんめり〉食って(「猿と蟹」)←しんみりは、餅を横取りして食う蟹への話者の皮肉が〈エ〉に感じられるが、これも方言の可能性が高い。        
賢治作品では、前述のように〈ぺかぺか〉←ピカピカがあるが、母音転換によって鋭さを和らげる効果がはっきりしている。
◎う→あ
〈ぱんぱん〉(「雁の田楽」)←ぷんぷん   では、匂いの広がりを〈あ〉の効果によって象徴する意図あるいは話者の創意による強調表現ともいえるが、伊能梅陰前掲書に従えば方言の可能性がある。
◎う→い
〈ザッキリ〉眉間に切りつけ(「夢見息子」)←ザックリ、〈ジタジタ〉に切り裂く(蛇の聟その4)←ずたずたは、いずれも〈い〉の効果によって切り口の鋭さが感じられるが、伊能梅陰前掲書に従えば方言による一字転換の可能性もある。
賢治の〈ぷりぷり〉・〈プリプリ〉←プルプルは、「めくらぶだうと虹」、「風野又三郎」、「土神ときつね」、「インドラの網」、「ツェねずみ」、「二十六夜」、「マリブロンと少女」、など童話で八例使われ、いずれも怒りや緊張による震えを表す。  
『聴耳草紙』では形状を表すが、賢治は精神的な震えの繊細さを表現する効果を上げている。あるいは、そのために方言を用いたとも思われる。
お→あ
伊能梅陰前掲書には、お→あの転換の記載は無い。
〈ペラリ〉と食べる(「鬼の豆」・「糞が綾錦」)←ペロリは動作の大きさ、〈ペラリ〉とよくなって (「人間と蛇と狐」)←ケロリ、は動作・進行の速さを感じる。
〈マヤマヤ〉(「蜂聟」)←もやもやは、霧の状況の強調と思われるが、母音転換の効力を使うのでなく、語感で語りの面白さを演出していると思われる。
賢治では、〈ガツガツ〉←ごつごつでは、二例とも岩石の堅く厳しい様(「マグノリアの木」・「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」)で、転換によって岩の状態の大きさを表す
◎お→え
伊能梅陰前掲書には、「お→え」への転換を指摘している。
〈ぽれぽれ〉(「地蔵譚」)←ぽろぽろは、地蔵が金の粒を排泄するという特殊な場面の強調を感じるが、方言の可能性がある。
賢治の〈ケホン〉←ごほん(「カイロ団長」)では、雨蛙がウイスキーを飲んで咳き込む様子で、後述する静音の効果で雨蛙の小さな体から出る咳の軽さを表す。一方、愚かなネズミの頭の割れる音〈ペチン〉←パチン(「クンねずみ」)と同様、賢治の〈え〉には、主体に対する皮肉や侮蔑の意味を含まれると思う。
 
⑤  母音省略四語基繰り返し
〈わわわわ〉(「瘤取り爺々1」) ←わあわあは、泣き声の激しさ、性急さを表す、話者の演出と思う。
                                
⑥  子音転換
伊能梅陰前掲書では子音ではK→H、⇄H、M⇄Bの転換が指摘される。   
◎〈タチリタチリ〉(「地蔵譚」)←タラリタラリは、酒の垂れる音で少量さを
強調する。話者の演出と思うが、大変体感的である。     
◎〈テラリ〉と撫でる(「御箆大明神」)←サラリは、篦でなでると放屁するという話の中で、〈テラテラ〉にも通じる肉感的で不潔な音は、話者の悪意も感じられる。これも特殊な場面の演出であろう。
◎〈ドチン〉と坑が堕ちた(「黄金の牛」)←ドシンは、重みを強調して効果的である。
〈ぽやぽや〉と湯気がたつ(「馬鹿聟噺饅頭と素麺」)←ほかほかは、湯気の暖かさの強調である。
◎ヒンともシンとも(三人の大力男)←ウンともスンともは、人気の無い静かさ、
状況の厳しさを強調する。ここでは母音〈い〉の効果も大きい。または方言のS音とH音との相互転換を考えると、〈シン〉を二つ重ねた強調的言い方か、とも思われる。
賢治の、〈どしゃっ〉(「フランドン農学校の豚」)←びしゃつは、恒常的に豚が殴られている音だが、適当に扱われる豚の状況を象徴するように、適切な言葉を当てたようにも思える。あるいは「通常は使わない動詞と共に使う」、という賢治の方法にも当てはまる。
◎拗音化+促音+り
伊能梅陰前掲書は子音の直音と拗音の相互転換を指摘する。
〈ジャクリ、ジャクリ〉」と搗きながら(「豆子噺」・「爺婆と黄粉」) ・〈ジャックリ〉と掘る(「きりなし話蛇切り」) ←ざくざく は、促音を加えて、〈り〉によってリズム感と動作の遅速を表す。
◎濁音化+り
伊能梅陰前掲書では清音が濁音化し、濁音が半濁音化するが、濁音が静音化することは希であるという。
〈どがどが・ドガドガ〉と火を燃やす(「南部の生倦」・「隠れ里」)←どかどか、〈ドガリ〉と坑が堕ちて(「黄金の牛」)←ドカリは、規模の大きさが感じられる。
賢治の、「時計ががちっと鳴る(「耕耘部の時計」))←かちっ、も同様に、大きな時計の針の動きと音の大きさを象徴しようとしたものである。
賢治には清音化を効果的に使った場面の方が多い。薬を〈かぷっ〉と呑む(「山男の四月」)←がぶっ、〈キクッ〉とのさまがえるの足が曲がる (「カイロ団長」)←ギクッのように、主体の置かれた特殊な立場を、皮肉を込めて描くのに効果的である。
    
⑦  動詞にする。
〈ぶらめかす〉←ブラブラ・〈わくめかす〉←わくわく(「話買い2」)では、一般的にオノマトペの動詞化は、「擬態語+する」であるが、「+めく」、「+つく」の形を取ることもある。賢治にも見られるのは、ざわつく(「ひのきとひなげし」)、〈ざわっとする〉」(「かしはばやしの夜」)など擬音語でも作られるが、通常の範囲で理解できる。
『聴耳草紙』では、この言葉に対する〈めく〉→〈めかす〉という他動詞化は一般的ではなく理解できにくい。これも方言か、あるいは話者の演出であろうか。
 
三物音や動物の声、・聞きなし・囃し詞
『聴耳草紙』の、物音や動物の声は、狐の声〈グエゲラグエンのグヮエン〉(「狐の話」)、猿の声が〈クヮエンヒ〉 (「猿になった長者」)など多数あるが、東北出身者にも分らなかった。一人だけ花巻在住者のお話では、キツネの声は擬音語としては標準語と同じ〈コンコン〉を使うが、キツネの実際の声は、〈ギャー〉に近い声という。とすれば、むしろ〈グエゲラグエンのグヮエン〉の方が近いといえる。これらは、擬音語となっていない擬音で、話し手が表現効果を上げるために、その場で創作し、それを採話者が文字に当てはめたと思われる。
賢治の場合、マナヅルの声〈ピートリリ、ピートリリ〉(「連れて行かれたダアリア」)、ヨタカの声〈キシキシキシキシキシッ〉(「よだかの星」)など通常の使われ方ではないが、作品の内容を象徴して、読者は納得でき、表現上の効果が上がっている(注6)。また詩では、ホトトギスの声〈to-te"-to-to……〉(〔鳴いてゐるのはほととぎす〕口語詩稿)、羯阿迦(ぎやあぎあ)(「春谷暁臥」「春と修羅・第二集」)など、音感を捉え作品の雰囲気に合わせてアルファベットを使ったり、漢字の意味や視覚からの印象も加えたりして新しい語形を作っている(注4)。あくまで、文字表記による作品の表現上の効果を考えている点が異なる。
聞きなしでは、『聴耳草紙』では、〈シンパシンパ ゴヘゴヘッ〉(「新八と五平」)酒を注ぐ音)←新八・五平、など、物語の内容から聞きなされることがほとんどで、駄洒落に近いが、わかりやすく、聴くものへのサービスである。また、オオヨシキリの声で比較すると、〈アタタチ、アタタチ〉(「鳥の譚葦切鳥」)←痛いに対して、賢治「よく利く薬とえらい薬」では、〈「清夫さん清夫さん、/お薬、お薬お薬、取りですかい?……〉は速く連続して鳴く声のリズムにストーリーを読み込んでいる。詩「陽ざしとかれくさ」では、カラスの声を〈(これかはりますか)/(かはります)……)で表し人の内面を象徴させている(注6)。賢治が文字で表す文学作品としての表現効果を考えていることが分る。
囃し詞では、『聴耳草紙』の囃し詞は、ほとんどがオノマトペや擬音をもとに元に作られている。「盲坊と狐」で、僧侶が村人と共に、悪い狐を琵琶の音に合わせて退治する場面で歌われる歌は、〈ジャンコ、ジャンコッ(僧侶の琵琶の音)/あっグエゲラグエンのグヮエン(狐の鳴き声)/そうらっジエンコ、ジエンコッ(琵琶の音)/やらッどっちり、ぐわッチリ(槌の音)……〉 (括弧内は筆者注)で、 歌がすべてオノマトペを使った囃し詞で、リズミカルで、ユーモアに満ちたものになっている。また「御箆大明神」の囃し詞十九例はすべて放屁の音で、話者によって様々な囃し詞が創作される。
賢治の場合は、〈どっどど どどうど どどうど どどう〉(「風の又三郎」)のように、独自のリズムを作り(注7)、さらに挿入歌の各節の定位置にオノマトペを変形した同形の囃し詞を使うなど、脚韻の効果を持たせることも多い(注6)。 
この章に関してはさらに詳しい比較、分析を、次の機会に公表したい。
 
おわりに
『聴耳草紙』は、情報の送り手―語り部―は出身地の方言で話し、受け手―採話する佐々木喜善が文字化した作品を読者は読むことで成りたつ。
喜善と話者との関係は伝承社会内のものではないが、喜善が語りの場や語り部を重視して採話しているので、柳田国男の『遠野物語』が、柳田による古典日本語で綴られるのと比べて、方言や地方色がにじみ出て、伝承社会内の話にかなり近いとはいえる。特にオノマトペに関しては、物語の状況を直接伝えるもので、語られる言葉に最も近い形で文字化されていると思われる。
方言という非慣習的オノマトペが、慣習的オノマトペの一部転換によることが多いのも、一つの特色である。これは制定された標準語が、方言の一部転換があったか、という方が正しいのかも知れない。これは標準語と方言の、地域的な違いというだけの理由だろうか。
賢治の作品は、ほとんどの場合、標準語で書かれている。賢治の標準語との接点は、 1904(明治37)年~1909(明治42)年1900(明治))の小学生時代、1900(明治33)年、第三次小学校令改正により、国定読本を通して「標準語」が学校教育を通じて全国に広められた時代と重なる。周囲の言葉と違う標準語を学校で正しい言葉として教えられ、それを実行したのである。また短いが滞京期間にも、正しい言葉として東京語になじむ努力をしたと思われる。
賢治が方言を使うのは、村人の言葉、山野に住む動物の言葉で、これは表現効果のためである。そこに慣習的オノマトペの一部変化が多いのは、あるいは方言と標準語と双方を知る為かも仕入れない。今後の考察の課題としたい。
そして、賢治は登場者の会話に使う方言の表記には苦心している跡が窺える。短歌に見える、〈は+a〉は〈ぴゃ〉、等、当時の国語調査委員会の調査表に登場する表記が使われているという (注8)。また、調査表には見られないが、〈な+ぃ〉で、中間母音æを著わす方法などを取る。正しい標準語を使うという意識と同時に、方言の音感も正しく伝えようとしている。また使われる方言の響きは美しく、最愛の妹の言葉に花巻方言を使っていることからも、賢治が方言を尊重していたことが窺える。
『聴耳草紙』と賢治作品におけるオノマトペの相違は、伝達関係の仕組みの違いによる。前者が地方の言葉を話し、それを採話者も忠実に再現しているが、賢治は書き言葉による効果的な伝達を目的とし、賢治自身の個性によって、独自の方法を用いて作られた言葉である。
地から生まれた言葉と、それに文学作品としての輝きを加えた言葉との、共通性と相違点を感じ取るべきなのであろう。
 
注1:「東北方言オノマトペの特徴についての考察―宮沢賢治のオノマトペの場合」(東北大学大学院文学研究科 言語科学専攻05,12)
注2:国書刊行会 1975復刻、原本1926
3:「解明!宮沢賢治のオノマトペの法則5賢治オノマトペの法則一覧」(『賢治オノマトペの謎を解く』 大修館書店 2010) では、賢治が慣習オノマトペを一部変化させて、音感、音の象徴するものを表現するために非慣習オノマトペにする場合を次のように分類した。
☆子音の転換―1濁音→清音、2清音→濁音、3しゃ→ちゃ、4にょ→の
☆母音の転換―1う→お、2う→い、3う→え、4あ→お、5あ→い、6あ→う、7あ→え、8い→え、9い→あ、10い→う、11お→あ、12お→え、13え→あ
☆モーラの転換―1ぴ→ど、2きゅ→き
☆音の挿入
1促音の挿入、2撥音の挿入、3母音挿入、4モーラの挿入
☆音の位置を変える
☆語基の反復
 また、用法による特殊性については下記の通りである。
☆通常使われない動詞と一緒に使ったもの☆通常一緒に用いられている動詞と正反対の意味の動詞と一緒に使われるもの☆通常使われない名詞(主体・対象)と一緒に使われたもの☆通常使われない名詞、動詞といっしょに使ったもの☆比喩的な使用☆動詞として使う☆様態副詞のオノマトペを結果副詞的に使う☆動詞の省略
注4:「宮沢賢治のオノマトペ 語彙・用例集(詩歌篇)補論・〈見立て〉られたオノマトペ」(『共立女子短期大学文化紀要第39号』 1996)では「宮沢賢治のオノマトペ 語彙・用例集 (詩歌篇) 補論・〈見立て〉られたオノマトペ」(『共立女子短期大学文化紀要第39号』 1996)は、造語論の立場から、次にように分類する。
☆語形、用法とも、通常の範囲☆語形自体は既存のもので、連語関係にずらしがあるもの☆既成語の語幹や接辞から派生させた新語形 語のオノマトペ化☆既成語の語感に基づいて造られた新語形☆音感を語彙化することによって造られた新語形 音の疑似語彙化 ☆文字の視覚印象や字義からの連想等に訴えた新語形
注5小林俊子「宮沢賢治のオノマトペ―慣習的オノマトペの〈繰り返し〉と
〈組み合わせ〉(『宮沢賢治 絶唱 悲しみとさびしさ』 勉誠出版 2011)
注6:小林俊子「宮沢賢治のオノマトペ」(『宮沢賢治 風を織る言葉』第二部 
勉誠出版 2003)
注7:中村節也『宮沢賢治の宇宙音感』 コールサック社 2017
注8:大野真男・竹田晃子「宮沢賢治による方言表記の工夫と地域に根ざした
国語観『賢治学第4輯』 岩手大学宮澤賢治センター編 東海大学出版部2017)
 
テキストは、佐々木喜善『聴耳草紙』(筑摩書房 1933)、『新校本宮澤賢治全集』による。
 
参考文献
『佐々木喜善と宮沢賢治』(遠野市立博物館平成25年度夏季特別展図録2013) 
石井正己『遠野の民話と語り部』(三弥井書店2002)
大野真夫「昔話を対象とした談話記述のための枠組み」岩手大学教育学部附属教育工学センター教育工学研究第10号p63-71) (1988)
大野真夫「辷石谷江と昔話のことば」(石井正己編『昔話を語る女性たち』三弥井書店2008)・「昔話を語る言葉」(石井正己編『昔話を愛する人々へ』三弥井書店 2011)

 
 






『春と修羅』における直喩の含むもの    
  直喩は、喩義と本義の類似性によって成り立つものである。賢治の直喩は、複数の感覚によって感じ取られた対象の含む多様な意味から、類似性を見つけることによって、豊かな表現となっている。ここに賢治は何を意図してこの表現を選んだか。
 
  先に、筆者は「小岩井農場」では、人間やその職業を喩義とする例が多いことを見出した(注1)。この稿では、範囲を詩集『春と修羅』に拡げ、喩義と本義の類似性とそれをつなぐ感覚の多様さを重点に考察したい。
 
 比喩については、国語学会編『国語学大辞典』(東京堂出版 一九七九)の説に拠って以下のように規定する。
 比喩(ある表現対象を他の事柄を表す言葉をもちいて効果的に表そうとする表現方法)には、直喩、暗喩、諷喩、提愉、換愉等がある。
 喩えられる対象を本義と呼び、喩える言葉を喩義と呼ぶ。
 直喩とは、喩えられる対象 (本義)と喩える言葉を(喩義)を、はっきりと区別して〈ようだ〉、〈ごとし〉などの説明語句をもちいて喩えを喩えとして明示する方法で、〈まるで〉、〈あたかも〉などの副詞を関することができる。それらの語を使わないで、直喩の関係を示すことができる場合もある。
 
 賢治の場合、〈まるで〉を使って、〈ようだ〉等の説明語句を省略する場合がある。
 
 登場する本義はおおむね次のようなものである。
自然(月・雲・霧・雪・風・水・露・空気)、植物、動物、場所、物体、人(脚・感情・幻想・声・言葉・動作・表情・夢・頬)、主体、トシ、農夫・

 喩義は次のようなものである。
神、人 (感情、動作、職業、体)、状態、動作、自然(雨、風、空気、月、星雲、雲、けむり、光、淵、氷河)、植物、動物、物体・物質、社会
 
 『春と修羅』の直喩一覧は別の機会に掲載し、作品における直喩の位置、役割について記す。
 引用文のルビは省略する。
 
 以下、次の各章において考察する。
一、視覚から捉える―植物と動物
二、聴覚から捉える―声と言葉
二、自然への喩義に感じられる人間
三、主体への直喩―前進することの意味
四、トシへの直喩―生きているトシ
五、生活する賢治―農夫、農学性、恩師、同僚たち
六、賢治の直喩の含むもの
 
一、視覚から捉える―植物と動物―

 全体に視覚を通じての直喩が多い。動物、植物への喩義は、ほとんどが視覚から捉えた形態の類似性によるものであるが、天体から人、植物まで多様である。
 「オホーツク挽歌」でハマナスは、その美しさを牡丹に、「習作」でノバラの実は、その硬さ、なめらかさ、輝きを硝子に、「習作」での二例で、藪はその頑丈さを船、岩に喩える。
 「火薬と紙幣」でマルメロはシジュウカラに喩えられる。マルメロはバラ科マルメロ属の落葉高木で、成熟した果実は、洋ナシ型の橙黄色で長さ七~一二センチ、幅六~九センチという。シジュウカラのイメージは小型で、それに喩えるには少し大きすぎる。〈枝も裂けるまで実つてゐる〉と賢治が記していることから、形態というよりも数の多さを類似点としているようだが、なぜマルメロだったかは疑問が残る。
 サクラは「小岩井農場パート四」の一例のみ、〈とほざかる〉という距離を表すのに、〈記憶のやうに〉という、人間の営みを表す語を使う。主体の心にあるものがそのまま直喩として使われるのは、賢治が、サクラを性の象徴として心を動かされる例が多く、サクラの風景を見て、心を動かした結果なのかもしれない。
 動物への直喩で、最も多いのが鳥へのもの七例、うち数の多さと拡がりを比喩するものが「自由画検定委員」、「冬と銀河ステーション」の、〈ちり〉、〈ごみ〉という無数を意味するものである。「青森挽歌」では〈たねまき〉という人の行為から派生する拡がりを使うものがある。
 聴覚からの表現を加えた、にぎやかさの直喩、「小岩井農場パート三」の、〈小学校〉という人社会に由来するもの、声の多さと継続を〈湧いているやう〉と、水など無機質なものに使う自然発生を表す動詞で表すものがあ る。
 「小岩井農場パート二」では、翼の動きの速さを、虫の羽の構造に喩えている。
 「津軽海峡」で、イルカのひれを人間の手に、「第四梯形」で、トンボは、萱という植物に喩える。いずれも形状の直喩である。
 馬への直喩は、「小岩井農場パート三」でその細い眼を〈三日月のやう〉と天体に喩える。一般的な比喩でもある。それがむしろ馬への憐みや揶揄の気持ちも反映させている。
「旭川」馬のたてがみの揺れる激しさと形状を、火―炎の形状と火の激しさに喩える。
 
二、聴覚から捉える―鳥の声、人の声、言葉―

 動物への比喩で数少ない、聴覚から捉えた例、「小岩井農場パート七」のボトシギの声の喩義〈ビール瓶のやう〉は、人が行う行為によって出る音に喩えている。
 「青森挽歌」で〈凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は〉は《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》に対するものである。E.ヘッケル(1834~1919)はドイツの生物学者、優生学・発生学の権威で、日本では『進化要論』が1888年、『宇宙の謎』が1906,1917年に出版されている。
 この部分ついては多数の論考があるが、ここでは、浜垣誠司(注2)の説に従って「反復説」として論を進めたい。「反復説」とは、「個体発生は系統発生を反復する」という生物学的仮説で、これは賢治にとっては、「輪廻転生説の科学化」のようにとっていたのではないかと思われる。
この、〈凍らすやうなあんな卑怯な叫び声〉という否定的な形容となるのは、賢治はその時、輪廻転生説が肉親の情への過度の執着と重なっていると思え、仏教の教えに反していると考えた、自己へのさらに厳しい眼の表れである。
 言葉も聴覚から捉えるものであるが、「小岩井農場第五綴」の〈烈しい白びかりのやうなものを…どしゃどしゃ投げつけてばかり居る〉は、心ならずも言ってしまう同僚への言葉への喩義である。〈白びかり〉は文字通り白い光であるが、賢治作品中では、〔いくつの 天末の白びかりする環を〕(下書稿) 、三、三一、)、「ひかりの素足」など、太陽光を感じられない、雪の寒々しい風景に用いられる。ここでも、その厳しさ、冷たさの類似性で人間の感情繋がる直喩である。喩義が自然物であるとき一層その冷たさを感じさせる。
 「習作」の〈黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい〉では、明るい花に満ちた草地を黒砂糖の濃厚な甘さで形容する。そこには聴覚で捉えたものを味覚で表し、さらに解放されていく自分を表している。
聴覚から捉えたものへの喩義は、聴覚から捉えた類似性ではなく、さらに進んで抽象的なものや人の内面である。
 
三、自然への喩義に感じられる人間

 「風の偏倚」の〈呼吸のやうに月光はまた明るくなり〉では、月光の明滅の変化は視覚から捉えられるものだが、人の呼吸に喩える。それによって、月への親近感に加えて、規則的ではありながら、途切れることもある不確かさも表現できる。
 同詩において、〈意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲〉と雲の変化を人の意識に喩える。類似性は意識の状態、移りゆくもの、という観念である。
 もう一例、〈風が偏倚して過ぎたあと〉の空の大きな雲のかたまりを〈星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片〉に喩える。その大きさ、複雑な彩色の直喩に加えて、天盤―坑道もしくは切羽(採掘場)の天井―の覆いかぶさるような冷たい雲の喩義としている。
 もう二例は、雲の動きへの喩義、「火薬と紙幣」では、広さ、白さ・冷たさ・多さを、氷河の流れに、「真空溶媒」ではその速さを〈天空のサラブレット〉に喩える。
 風への比喩は、二例とも「鈴谷平原」のもので、聴覚から捉えたものである。〈だから風の音が汽車のやうだ〉、〈みんなのがやがやしたはなし声にきこえ〉と、人間社会のものに喩えられている。これは「鈴谷平原」の書かれた状況―長い北への旅からの帰途―という人間社会への回帰の想いが込められている。風の中には様々な音を聞き取ことが可能なので、その時々の作者の心象を映し出すことができると言えよう。
 霧は「宗谷挽歌」の〈超絶顕微鏡の下の微粒子〉は霧の粒の微細さの比喩である。ここでは動きは〈どんどんどんどん〉というオノマトペによって形容する。
 「冬と銀河ステーション」の露と霧への比喩では、露に力点がかかり、太陽光も加わって、色彩〈はねあがる青い枝や/紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや〉とともに〈市場のやうな盛んな取引です〉という人間界のにぎやかさを類似点とした比喩となる。背景に〈土沢の市日〉があるので、それに影響されているところもある。
 空気への比喩は、一例は「真空溶媒」の〈液体のやう〉で、気体を液体と形容することで、重さ、冷たさ、透明感を表そうとしている。そこには液体酸素のイメージがある。液体酸素は、空気に加圧した空気を通じ、窒素の分留を促進させて得られる。酸素 95%以上を含み、比重 1.14,沸点 90K (-183℃) 、淡青色の液体で、工業用としては、製鉄、溶接、ロケット用酸化剤に、医療用として窒息者や重病患者の吸入などに広く利用される。実際に重く冷たく青いものである。
 もう二例は、「樺太鉄道」の、〈葡萄の果汁のやう〉、〈フレツプスのやうに甘くはつかうさせる〉で、太陽に色づく空の色彩の直喩であるが、同時に、そこに香りと味をも感じ取らせる。
〈フレップス〉はコツツジ科スノキ属コケモモで、主として野生の果実を果実酒やジャムなどに加工することが多い。賢治は果実酒を思って〈発酵させる〉という言葉になったのかもしれない。果汁、果実酒という人間の手の加わったものを喩義に使っていることも注目できる。
「風景とオルゴール」で、水の流れを〈葱のやうに横に外れてゐる〉と、具体的な野菜の色や形態を使って流れを表現している。水も、暗喩による表現が多いが、直喩はこの一例のみである。
 自然への喩義も、本義との間に、人の関わりを介在させる例が多い。
 
四、主体への喩義―前進することの意味

 前章の傾向は、主体への喩義となると、その言葉の持つ精神性の類似性を使うことが多くなる。
 主体への直喩は九例、一例を除いて、動作へのもので、うち七例までが、進む、歩く等の前進の動作である。このことは、賢治が前進に際して特になにかを意識していることを表すだろう。
 「真空溶媒」における〈犬神のやうに〉は、幻想の中で絶えず登場者たちへ闘志を燃やしてきた主体のもとに、最後に登場していたのが犬であり、すべてに勝ち、颯爽と立ち去るという流れの結果、犬に乗ることになった。  〈犬神〉は、カラフト北方アムール川下流域に住む少数民族ギリヤークの伝説に登場する神で、「サガレンと八月」、「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」にも、禁忌を犯した子供への罰として登場する。 西日本に広く伝わる「犬神」のように憑きものとしての性格はない。
 ここでの〈犬神〉という喩義は、その伝説上の意味はなく、犬に乗ったということと、勝ち誇った様子を強く描くために〈神〉という文字が使われたのである。
 先論(注1)でも触れたが、喩義が職業によることも多い。「小岩井農場パート四」、〈歩測のときのやう〉には正確に、〈林務官のやうに〉は権限と余裕を持つもの、という性質を自分への喩義として、明るさ、気持ちの高ぶりを出した。
 同様に「屈折率」の〈郵便脚夫〉には、その黙々と任務のために歩く状態を、雪の荒野を歩く自分と重ね、これから始めようとする〈心象スケッチ〉制作への期待と重荷も感じとるべきだろうか。
一転するように二字下げてカッコでくくられる(
またアラツデイン 洋燈とり)
は何を意味するか。
 宮沢清六 (注3)によれば、賢治が「アラジンと魔法のランプ」に触れたのは、英訳書であったという。英訳版は何種類かあるが、一八八五年~一八八八年に刊行されたR.F.バートン(一八二一年~一八九一年)の、バートン版は本巻全十巻と補遺七巻に完璧に近く収録されていて、「アラジン、と不思議なランプ」は補遺第七巻におさめられていた。
 明治期に邦訳された主な「アラジンと魔法のランプ」を含む「千夜一夜物語」は、永峰秀樹『開巻驚奇暴夜物語』(一八七五)は完訳とは言えず、また、巌谷小波『世界お伽噺』(一八九六~一九八〇)などに掲載の「奇体の洋灯」は、児童文学として翻案されたものである。
 賢治がどの英訳版を入手していたかは不明であるが、より完璧な作品をよんでいたことになる。バートン版の邦訳「アラジン、または不思議なランプ」(注4)を読むと、見知らぬ魔法使いの命ずるままに未知の世界にランプを探しに行く行程の期待と不安には、翻案にはないリアリテイーが感じられる。
 二つの喩義を並べることで、地を這うような制作の苦しみと、未知のもの制作という高い希望を、同時に表し、自分の問題に留まらず、広く詩の問題として捉えようとする意志を伝えたのであろう。
「小岩井農場パート四」の〈刀のやうに〉は、刀の形状、硬さ、鋭さを前進への意思の直喩とする。
  「永訣の朝」の〈まがった鉄砲玉のやうに〉は、死に瀕する妹のために、みぞれを取りに走る主体の行為への直喩である。
〈鉄砲玉〉という速さの類似性に加えて〈まがった〉の意味するものは何か。廊下が直角に曲がっていたという説など種々の説がある。坐していた主体が、急に立ち上がって飛びだすその角度も含まれるのではないか。あるいは、思いもかけない妹の申し出を受けた心の動きを表しているのかもしれない。
 賢治は、意思を前進という動作で表し、直喩によって内面を表している。
「過去情炎」の二例、〈たくらむやうに〉において、は主体の行為ではない〈たくらむ〉という直喩によって、他への警戒感をあらわし、〈待つてゐたこひびとにあふやうに〉は、自分の目的を達成した喜びを表す。二例は、感情表現を人の行為で表す可能性を示している。
 
五、トシへの喩義―生きているトシ

 一二例中一一例までが動作およびその状態へのものである。そしてトシの元 気な時の動作を表す言葉を使っているのが大半であることも特徴的である。
 「青森挽歌」の〈さう甘えるやうに言ってから〉、〈あいつは二へんうなづくやうに息をした〉、〈ちいさいときよくおどけたときにしたやうな/あんな偶然な顔つきに見えた〉は、トシの死を認めたくない心情を表わしている。
 また、「無声慟哭」の〈まるでこどもの苹果の頬だ〉では、死に瀕したトシの頬に、〈苹果〉という健康色をそのまま表す言葉を喩義として贈っている。
 「松の針」、「噴火湾(ノクターン)」の〈鳥のやうに栗鼠のやうに〉も健康なトシの姿を象徴する言葉である。鳥やリスの生態から、〈林を慕〉うことの比喩に限定することもできるが、トシの思い出の中に語られ、トシが林を好んでいた、という背景なしには生まれない比喩である。〈鳥〉は愛しいものの象徴でもあり、〈栗鼠〉はトシの面影を映しているとも言われる(注5)。
 「青森挽歌」で、死の瞬間を回想している場面、〈なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた〉、〈ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない〉も、生きている姿を喩義に使っている。
 トシの感情への直喩、「松の針」の〈林のながさ来たよだ〉、松の葉をほおに押し当てての感情で、松の葉の香りと林という類似性、トシが林を好んだという背景によって生まれた喩義である。
 暗く恐ろしい死後の世界を想像しての言葉、「青森挽歌」の〈頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち〉は、その恐ろしさが現実ではなく〈ゆめそのもの〉であってほしいという願望のあらわれである。
 すべてがトシの死の九カ月後に発想された詩なのだが生々しく、思い出とはなっていない。それは喩義が生前の動作に共通する言葉を使っているからではないだろうか。
 
六、生活のなかで―農夫、農学生、恩師、同僚たち
 
 主体、トシ以外の人間の本義で、最も多いのは農夫で、すべて「小岩井農場」のもので、喩義はすべて農夫の動作へのものである。
 「パート七」の〈富士見の飛脚のやうに〉では飛脚という職業を表す語の、規則正しい動きと速さをとらえたものである。同じくパート七の〈行きつかれたたび人だ〉は状態で速度を表す。
 「第五綴」の〈これではまるでオペラぢゃないか〉、〈動き出した彫像といふやう〉は、農夫が主体の問いに答える朗々とした声、あるいは崩さない言葉、大仰さへの直喩で、農夫への尊敬とともに、こちらに距離を置いている農夫への困惑を感じさせる。これらはすべて壮年の農夫へのものである。
 一方、「パート七」の〈まつ赤になつて石臼のやうに笑ふのは〉は、若い農夫の体型に加えて、豪快さ、粗野な部分などへの直喩で、物体を使って、現実の農夫の姿をとらえている。
 同じく物体を使った直喩に、「パート四」の、〈磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた〉は、農学校の農作業の素早さ、確実さの直喩で、磁石といういわば優れた物体で、その楽しさ、希望的な仕事を表している。
以下二例は、農学校の同僚との少しの心の齟齬が背景にある。喩義は明確に理解できる言葉であるが背景を考慮しないと類似性はつかめない。
 「小岩井農場第五綴」の〈つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。〉は車窓の風景の美しさ・厳しさに、魂を奪われ得たような状態だが、前に同僚の〈堀籠さん〉とのかみ合わない会話の記述があり、それによる状態を比喩したものである。
 「習作」の〈すぎなを麦の間作ですか/ 柘植さんが/ひやかしに云つてゐるやうな〉同僚と思われる〈柘植さん〉に冷やかされた思い出が心の中にる。
 「小岩井農場パート一」の〈このひとはもうよほど世間をわたり/いまは青ぐろいふちのやうなとこへ/すましてこしかけてゐるひとなのだ〉は抽象的な場所への喩義であるが、  
 主体の恩師を思わせる人が馬車に乗って先に行ってしまったことが背景にある。この〈とこ〉が揺れる馬車の上の位置の不安定なところなのか、〈このひと〉の生き方を想像したものか、断定できないが、主体のこの人物への複雑な心情が象徴されるようだ。先論(注1)で言及した通り、この人物の影は、その後の詩に見え隠れする。
 人への直喩ではないが〈いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。〉は、前出の紳士が一人で乗ってどこかへ行ってしまった馬車への喩義で、〈忘れた〉という人の記憶に関する直喩である。これは主体が忘れるくらい、遠くまた以前のこと、という意味か、あるいは紳士が自分のことなど忘れているであろうということか、いずれにしても主体の心象が深く関わっていることが、前後の文脈から読みとることができる。  
              
七、賢治の直喩の含むもの

 『春と修羅』における直喩では、本義の多くは視覚から感じとった対象であったが、それを喩える喩義は、人の心情や主体の心象、社会の営みも含み多岐にわたる。またそれは、詳しい比較は未着手だが、他の作家に比べて自分の内面や体験などと関連する事象が多い。
 植物、動物への喩義は、ほとんどが、その形態等の視覚から捉えた類似性により選ばれる。より明確に読み手に伝わり、そのものへの愛着や称賛まで感じとることができる。
 聴覚から感じとる対象への喩義は、音ではなく心の内面を映す言葉が多い。〈聴く〉という作用は、より心情を通して感じるものであったためであろう。
 自然も、視覚、聴覚から捉えても喩義は心情を映す言葉、またその対象と人間の関わりを表す言葉となる。自然とは、賢治がそこに多様な思いを反映できるものだったと言える。
 人への喩義は、人の職業を喩義に使う例のほかに、動作に対して物体の形状の喩義を充てるなど、より具体的でありながら、主体の心情を表すものになっている。
 妹トシへの喩義は、ほとんどが明るく、賢治が現前の状況を超えて、トシの生前の姿を求めていたことを示す。

 賢治にとって直喩とはなにか
 直喩は喩えるものと喩えられるものとが明確に表され、書き手の意図を正確に伝えることができるものである。賢治はそこに、自己の心象を映しだそうと試みた。これは賢治の意図していた〈心象スケッチ〉の一つの方法だったのではないだろうか。
 
注1、小林俊子「宮沢賢治の直喩Ⅰ 『春と修羅』、「小岩井農場」を中心 に―人間への思い―」(個人ブログ 「宮澤賢治、風の世界」二〇一四、一一、一五)

注2 浜垣誠司「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」
(個人ブログ「宮澤賢治の詩の世界」二〇〇五、一一、六)

注3、宮沢清六『兄のトランク』(ちくま文庫 一九九一)

注4、大場政史訳・バートン版『千夜一夜物語』第八巻 (河出書房 一九六七)

注5、浜垣誠司「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」
(個人ブログ「宮澤賢治の詩の世界」二〇一一、六、一九) 

参考文献
国語学会編『国語学大辞典』(一九七九 東京堂出版)
中村明『比喩表現辞典』(角川書店 一九七七
西尾哲夫『アラビアンナイト 文明のはざまに生まれた物語』(岩波新書 二〇〇七)

テキストは『新校本宮澤賢治全集』に拠った。

 






宮沢賢治の直喩Ⅰ 『春と修羅』、「小岩井農場」を中心に―人間への思い―
  この稿は、2014年9月23日の宮沢賢治学会イーハトーブセンター研究発表会(花巻市)での発表原稿を、会場でご教示いただいた点などを訂正し、加筆して、まとめたものです。
  多くの問題を抱えるこのタイトルの、序章としたいと思います。
  
一、直喩について 
直喩の認定
  以下、言語学上の事項の典拠を国語学会編『国語学大辞典』(1979東京堂出版)とする。
  比喩(ある表現対象を他の事柄を表す言葉をもちいて効果的に表そうとする表現方法)には、直喩、暗喩、諷喩、提愉、換愉等がある。
直喩とは、喩えられる対象を(本義)と喩える言葉を(喩義)を、はっきりと区別して〈ようだ〉、〈如し〉などの説明語句をもちいて喩えを喩えとして明示する方法で、〈まるで〉〈あたかも〉などの副詞を関することができるものである。以下喩えられる対象を本義と呼び、喩える言葉を喩義と呼ぶ。
  賢治の場合、〈まるで〉を使って、〈ようだ〉等の説明語句を省略する場合がある。
本義と喩義の類似性
  直喩は、本義と喩義の類似性によって成り立つが、その類似性が常識的な意味合いを越えたところに文学的な独自性が生まれ、読み手の受け取りかたで、その評価は決まる。また類似性にとどまらず、象徴の域にまで高めることもできる。賢治の直喩は、言葉の含む意味の多様性を使ってそれを実現している。この問題については、次稿で詳考したい。
直喩と感覚
  直喩は作者の五感―視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚(体感も含める)、からの刺激、感情からの影響などによって生まれる。
  また共感覚を基として、二つの感覚にわたるもの、感覚で感情を表現するものがある。このことについても次稿で詳考したい。
〈心象スケッチ〉のなかで表現という意識はいかに働くか。あえて直喩を検討する意味は何か。
  直喩は喩義と本義が明示されるので表現者の意識を確実に知ることができるが、逆に無意識に使われる場合も多く、表現者の心に潜むものも知ることができる。
  加えて賢治が〈心象スケッチ〉とした詩で、直喩をいかに表現法として活用しいていたかを考えたい。
 
二、『春と修羅』における直喩
○『春と修羅』に登場する直喩は圧倒的に視覚からの刺激によるものが多い。
○喩義はほとんどが一文節で長くても三文節である。
○人の属性、職業を喩義とすることが3例ある。今回参照した「春と修羅第二集」、北原白秋『東京景物詩及其他』、萩原朔太郎『月に吠える』、草野心平『第百階級』には見いだせなかった。
○人を本義とする例が多い。
『春と修羅』では、妹トシの死を題材にした挽歌群があり、人間の内面の追及と、妹への追慕の気持ちの記述が多く、人への直喩が多いのはそのためで、24例中15例がここにある。
単純に同じものとして比べるのは難点があるが、それに次いで多いのが「小岩井農場」である。
以上の点で『春と修羅』と「小岩井農場」の直喩を同傾向にあると仮定し、「小岩井農場」を中心に検討し、『春と修羅』の特性を理解したい。
 
三、作品に即して考える
  「小岩井農場」では、そこにある現実の風景、自己の内面、さらには幻想の世界、と重層的に重なり直喩は変化して行く。前記『春と修羅』における特性とともに列記すると、次の特性があった。
 
1、本義を人とする場合が多い。
2、〈記憶〉、〈忘れた〉など人の営み、〈歩測〉等の動作、特に学生・教師としての賢治の体験を感じる言葉を、喩義として使うことが多い。
4、動作による直喩では、速度によって感情を表現して効果的である。
5、上記とも関連するが、鉱物、金属など具体的な物質を人、感情の喩義に使う。
6、現実の風景の描写では、鳥、特に雲雀の直喩が多く、季節感、作者の自然への対し方を感じさせる。
7、幻視への直喩は作者の心―憧れや崇拝の念―を映し出すものである。
以下作品に沿って検討する。
なお、問題がない限り引用文のルビを省略する。
 
1、本義を人とする場合。
1―1紳士 
 
わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
けれどももつとはやいひとはある
化学の並川さんによく肖たひとだ
あのオリーブのせびろなどは
そつくりをとなしい農学士だ
 
(中略)
 
このひとはもうよほど世間をわたり
いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
すましてこしかけてゐるひとなのだ(後略)
 
  パート一に登場する紳士、〈化学の並川さんによく肖たひと〉は、宮沢家本では〈化学の古川さん〉に訂正されている。〈古川さん〉は盛岡高等農林学校教授古川仲右衛門(明治11年~昭和36年)と推定される。出版時には、現存人物の名前を避けていた結果と思われる。
  古川は、大正3年から10年まで在職し、担当科目は、土壌、肥料、化学、分析化学、同実験、食品化学、農学大意だった。
  大正4年~7年に在校した賢治は、指導を受け、得業論文の終りに古川の名前をあげて次のような謝辞を述べている。(注1)
  〈終リニ臨ミテ本論ヲ草スルニ際シ、終始指導ノ労ヲ執ラレタル古川教授、並ビニ多クノ注意ヲ賜ハリタル関教授ニ深謝ス。〉
  この詩のほかに、歌稿A546に〈ゆがみたる青ぞらの辺に仕事着の古川さんはたばこふかせり〉(歌稿B〈ゆがみたる蒸溜瓶の青ぞらに黒田博士はたばこふかせり〉)がある。
  古川は大正10年同校を退職して大垣に帰り、サツマイモからのアルコールの抽出などの実験、トマトの栽培の普及、電線の敷設や、医師の招聘、土壌調査、天然ガスの採掘など、農村振興に寄与した(注2)。在任中からの姿勢も同様であれば、賢治のその後の農業への姿勢は、古川の教育の影響とも言える。
  盛岡駅で乗車した時からその紳士のことは気になっていたが、小岩井駅で下車した時、〈黒塗りのすてきな馬車〉に一人乗って先に行ってしまった。恩師への敬意やよい思い出があり、もしかしたら乗せてくれるか、という期待を抱いたのかもしれない。
  一人、馬車に乗って行く紳士が、馬車が揺れるので体が跳ね上がる危うさの形容である。〈青ぐろいふち〉は深い水をたたえた淵とおもわれる。
 「あおぐろい」の表記は5種ある。
 詩では、全14例、青黝い1例(「冬のスケッチ第三九葉」)、蒼黝い1例(「東京」)、蒼ぐろい1例(「春光呪阻」)、青ぐろい4例(小岩井農場2例、〔地蔵堂の五本の巨杉が〕、「法印の孫娘」)、青黒い7例(小岩井農場2例、〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕、「山火」、「憎むべき「隈」弁当を食ふ」、「病」、〔朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて〕)である。表記による内容の厳密な区別はないようだが、山火」、「〔朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて〕をのぞいては、すべて心の描写か、心を通して描いた事象である。(注3)
  概して、『春と修羅』、冬のスケッチなど、初期と言える作品に7例が集中している。
  「小岩井農場」には、表記は2通り、4例も使われる。
童話での例では、暮れかかった空や深い水の色を表すことが多く、不安を感じさせるものとして描かれている。(注4)
 〈黝〉は、『大鉱物学中巻』佐藤傳蔵(1915 六盟館)によると、本来金属色で英語ではGrayである。steal gray は、鋼鉄の新鮮なるものとある。〈青黝い〉は灰色がかって、なおかつ暗い青、ということであろう。
  同書は、賢治在学中、盛岡高等農林学校に蔵書があり、賢治も手に取っていた可能性があり、平仮名表記の中には、〈黝〉を意識していたものもあるかもしれない。
  この場合、〈青ぐろい〉は、対象を見て使った形容ではない。深い淵を意味し、危険性・不安定な状態という類似で繋がっている直喩である。
  〈このひとはもうよほど世間をわた〉っているので、〈すましてこしかけてゐる〉という言葉は、感じないのか、という揶揄にも聞こえるが、この紳士への思いが、恩師〈古川さん〉に重なっているとすれば、危険をものともしないのか、という、尊敬の念なのだろうか。
  パート2では、遥かかなたに去った馬車の航跡を何時までも気に掛け、〈しかし馬車もはやいといったところで/そんなにすてきなわけではない〉と言う少し負け惜しみのような言葉。パート4では〈さつきの光沢消しの立派の馬車は/いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。〉〈忘れたやうに〉という比喩は、忘れることなく、パート1で現れた馬車が心のどこかでずっと思っていることの表れである。
  恩師に似た紳士への印象は、この詩の成り立ちと深く関わっていると思われるが、その想いは何だろうか。
 
1―2農夫
農夫1
   第五、第六綴では、賢治は歩きながら農学校の同僚堀籠との、職場や、かつて列車に乗り合わせたときの心の行き違いを考え続けている。
  そこで時間を訪ねた農夫の言葉は〈オペラのやうに〉荘重で、〈彫像のやうに〉静かでゆっくりである。
  非人間的なものに喩えているが、オペラも彫像も、周囲の風景には溶け込で、〈しづかにこっちを見やりながら/正しくみんな行きすぎ〉端正で〈希臘彫刻〉を感じさせる好ましい存在であった事を感じさせる。これは賢治自身の心の平明さを物語るものであろう。日の光は静かであることを書き添える。
  ちなみに第二集では、「発動機船第二」において、見知らぬ船上の人を木彫り、石彫と喩えている。

農夫2
  パート七は雨の中を歩き、そろそろ引き返すかと思い迷いながら歩くなかで多くの人間が登場する。
  〈まるで行きつかれたたび人だ〉は、年とった農夫の動きの速度についての直喩である。その後の記述からても疲れた感じは少ない。
〈博物館の能面にも出てゐるし/どこかに鷹のきもちもある〉という形容は、無表情で厳しい感じのなかに、賢治は好ましい感情も含ませている。

農夫3
   同じくパート七で、〈まつ赤になつて石臼のやうに笑ふ〉のは若い粗野な農夫の直喩である。
 〈臼〉の実際の機能や堅さや色や用途ではなく、大きさ、強さ、田舎の象徴に使う。
  同時にけらを来た若い女性はその愛らしさを暗喩〈Miss Robin〉、農夫のいでたちを〈農夫は富士見の飛脚のやう〉と例える。
  雨の農場の風景を中心として多様な人間が描かれ、それぞれの人間にそれぞれの比喩で飾られる。
 
2、喩義が職業であるとき
2―1飛脚
  パート7の一連の農夫の形容の中の一つで、〈農夫は富士見の飛脚のやうに/笠をかしげて立って待ち/白い手甲さへはめてゐると農夫のいでたちの直喩である。
  歌川広重、保栄堂版東海道五十三次「平塚縄手道」には富士を遠望して行く飛脚が描かれるが、衣服はつけておらず、もちろん笠、手甲はない。飛脚という職業からの比喩で、きちんとした身支度の直喩であろう。

2―2林務官
  パート4では〈冬きた時〉―「屈折率」「くらかけの雪」の発想された1922年1月6日の記憶―子どもの嘲笑や雪の中の彷徨、黒いコートの男―が蘇り、詩は心の内面へと向かう。
  交互して描かれる現実の牧場の風景は、耕された〈キルギス式の耕地〉やヒバリ、キジと明るい。少し明るさを取り戻した作者は〈きままな林務官のやうに/五月のきんいろの外光のなかで/口笛をふき歩調をふんでわるいだらうか〉という。
  林務官は、農商務省が国有林の管理のために設置した林区署に配置された職員で明治23年、大正12年の発布の刑事訴訟法で、ともに司法警察県も与えられていた。
 〈森の中で権力をもつもの〉としての意味、同時にアウトサイダーの気楽さ、の意味を込めた直喩で、自分も少し春を満喫し、自己解放を試みようとしている。
  以上は職業―人間の属性―に一つの性格を見出し、それを自分への喩義に使っているもので、ある。
  この詩の中で〈冬きた〉と記される時の詩、「屈折率」の比喩〈郵便脚夫のやうに〉、〈アラヂンランプ取り〉も人間や職業に関するものであることは注目できる。
  自分への喩義が、職業であるということは、賢治が自分の職業について何らかの思いを、抱いていた、ということではないだろうか。
 
3、人の行為などを作者の喩義に使う。
3―1〈歩測のときのやう〉
  パート一で、駅付近の風景や温泉に行く人々などとは別方向に歩きだすことを、歩測―一定の歩幅で歩いてその歩数で距離を測ること―に喩える。同じ姿勢で正確な歩幅で歩くことの直喩で、風景を次々後にして行く姿が補足される。
  これも、詩の中に一貫している、人間への関心だったようにも思える。何の関係もない人々ではあっても一抹の孤独を感じ、それを振り切っている。

3―2〈忘れたやうに〉
  パート4に冒頭に、パート1で描かれた、作者を置き去りにするように紳士を載せて行った馬車が、また思いだされる。
〈さつきの光沢消しの立派の馬車は/いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。〉
 〈忘れたやうに〉という比喩は、作者の心の中で、忘れることなく、馬車が心のどこかでずっと思っていることの強調であろう。本来なら〈忘れられたやうに〉というべきところを、〈忘れたやうに〉というのは、思っている相手―紳士が、作者や過ぎた時間のことなど忘れた、という意味なのかもしれない。
3―3〈記憶のやうに〉
  同じくパート4の最終章では、〈むら気な四本の桜も/記憶のやうにとほざかる〉は〈記憶〉という人間の行為に属する言葉を、風景の喩義に使う。
本当は、遠ざかる記憶について書こうとして、〈風景のように遠ざかる記憶〉なのではないか。この記述によって、風景にまぎれて行く、サクラに象徴される重い記憶を一層鮮明にしているように思える。
 
4鉱物、金属、光を人、感情の喩義に使う。
4―1磁石
  パート四で、〈林務官のやうにきままに〉歩けるやうになった作者は、農学校の授業での液肥運びを思い起こす。太陽の恵みを受けた、大切な液肥は〈磁石のやうに〉迅速に確実に人から人へと移って行った。磁石との類似性は、早さ、確実さ、仕事の見事さであろう。ここでは自分の職業への誇りの部分を感じさせる直喩である。
 
4―2銅版
  パート九で、幻視に心を奪われている自分への直喩で、〈…さっきからの考えやうが/銅版のやうなのに気づかないか〉という。
 〈銅版〉は印刷技法のひとつ、銅板の表面を凹版にしてインクを流して印刷する方法で、直接画像を描くエングレービング、ドライポイント、メゾチメントなどと、防食剤をコーティングした銅板に酸を使って描くエッチングがある。エッチングは薬剤の調節により一層精密な線を描くことができる。
わが国の銅版画の始まりは近世初頭キリシタンによる彫刻銅版画だった。
日本で最初の銅版画(エッチング)家は司馬江漢(1747~1811)で、1783(天明3)年に「三囲景図(みめぐりけいず)」の制作に成功した。これは色彩が施された美しいものである。
  流れをつぐ亜欧堂田善(1748~1822)の「銅版画東都名所図」、「コロンブス謁見図」、「江戸名所」なども彩色画として流布した。
  明治期には、銅版画家ハインリッヒ、フォーゲラーへの関心が高かった白樺派同人が、文芸誌『白樺』(1910~1923)の創刊間もないころからその銅版画を表紙絵として使った。
  賢治がこれらを眼にした可能性は高いが特定はできない。これらの絵画は美しく〈銅版のやうな〉〈考えよう〉とは結びつかない気がする。
  賢治の時代は、銅版画と言えばエッチングが主流であったと思われ、前述の絵画は別として、一般にエッチングによる銅版画は無彩色で精密なものが多いという。
  幻視の世界に心奪われている不自由さ、を表そうとしているとすれば、あるいは銅版原版そのものの暗さ、硬さを指すのか、細密な絵画を見るような息詰まりそうな思いを描こうとしたのか、宗教画の内容の発想の不自由さをいうのか、さらなる検討が必要である。
 
4―3〈烈しい白びかりのやうなものを…どしゃどしゃ投げつけてばかり居る〉
  第五綴で、心ならずも攻撃してしまう同僚〈堀籠〉への言葉の形容で、冷たさ、激しさの直喩である。
  それに対して、堀籠への直喩、〈 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。〉は作者の激しさと対極的なものとなっている。
 
4―4〈かたなのやうにつきすすみ〉
  パート四で、青葉を茂らせ始めているサクラにも〈鴇いろ〉の幽霊―性的な葛藤―を見るが、その自身の内面を振り切るよう歩むことの直喩でる。
  〈かたな〉の形状、切るものとしての役割を介して、心象のなかの人間の行為の形容である。〈さびしい反照の偏光を截れ〉を導き出すための言葉でもある。
 
5、自然への比喩 
5―1ヒバリ
〈甲虫のやうに四枚ある〉
  ほとんどが風景描写のパート二では、飛翔するヒバリが様々に描かれる。
〈ひばり ひばり/銀の微塵のちらばる空へ/たったいまのぼったひばりなのだ/くろくてすばやくきんいろだ/そらでやるBrownian movement/  おまけにあいつの翅ときたら/甲虫のやうに四枚ある/飴色のやつと硬い漆ぬりの方と/たしかに二重にもっている〉は、視覚でとらえた、ヒバリが高空で飛翔する際のはばたきの速さ、回数の多さの直喩である。
  鳥の翼は、前足が進化した結果で2枚、はっきりと分かれた4枚の翅はない。〈飴色のやつと硬い漆ぬりの方と/たしかに二重にもっている〉はそのまま甲虫の翅についての記述だが、ヒバリへの温かい目とユーモアが感じられる。
  さらに雲雀の動きの暗喩〈そらでやるBrownian movement〉が加えられる。Brownian movementは、液体(固体・気体もありうる)のような溶媒に浮遊する微粒子が不規則に運動すること。1827年ロバート・ブラウンが顕微鏡下で発見し、1905年アインシュタインによって、熱運動をする媒質の分子の不規則衝突によって引き起こされる運動であると原因が明らかになった。これによって、原子・分子の存在が初めて確認された。1921年、「光量子仮説による光電効果の理論的解明」によって、ノーベル賞を受賞したアインシュタインに関心を強くしていた賢治が、その不規則に続けて飛びまわるヒバリの愉としたのである。
  詩の冒頭の遠雷の暗喩〈たむぼりん〉も効果的である。
〈鳥の小学校にきたやうだ〉
  パート三も、主に風景描写で、やはりヒバリの声に迎えられる。ヒバリの声の形容で数少ない聴覚からの直喩である。しかし〈鳥の小学校〉は、音というよりむしろ「小学校」という子供の声の数の多さ騒がしさを介した直喩ではないだろうか。
〈雨のやうだし、湧いてるやうだ〉
  これも、聴覚というよりも、終わることない継続を表している。
さらに前例と同じに、〈なんといふ数だ 鳴く鳴く鳴く/Rondo Capriccioso/ぎゆつくぎゆつくぎゆつくぎゆつく〉が加えられる。
  Rondoは音楽用語、同じ旋律が違う旋律を挟みながら何度も繰り替えされる形式である。Capriccioso(カプリチオーソ)は幻想的な、気まぐれなの意で、〈Rondo Capriccioso〉はサンサーンス作曲「序奏とロンドカプリチオーソ」を連想しているものであろう。
  動詞の繰り返し、繰り返しの暗喩で、鳥の声の継続の表現を一層に効果的にしている。
 
5―2 ボトシギ
〈遠くのそらではそのぼとしぎどもが/大きく口をあいてビール瓶のやうに鳴り〉
  多くの人間の登場するパート七の、背景としての鳥は〈ボトシギ〉(オオジシギ)である。
  ガラス瓶を風にかざすと音が出るように、口いっぱいあけて、そこに空気を取り込むように見えることの直喩であろう。音と同時に見た眼からの類似点でもある。ここでも〈ぼとしぎはぶうぶう鳴り〉、〈ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす〉と加えられていく。
 
5―3馬
〈おい ヘングスト しつかりしろよ/三日月みたいな眼つきをして〉
  パート三で、〈ヘングスト〉は種牝馬を意味するドイツ語で、今は轢き馬となっても由緒ある馬への敬意を込めたものである。〈三日月〉という形の中に、人間を描くのと同様な現在の老いと落魄ぶりへの揶揄の意味が込められるが、同時に温かな眼も感じられる。
 
6、幻視
6-1仏のすがた
〈ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り〉
  パート四で、内面と向き合って、孤独のなかで進む時、幻視―天の鼓手、緊那羅のこどもらが現れる。緊那羅はインド神話に登場する音楽の神で、仏教では天竜八部衆のひとつである。ちなみに奈良興福寺所蔵の像は、少年のおもざしを持つ。すきとほる、ひかり、かがやく、瓔珞―これらは、賢治のイメージでは仏の世界のものである。〈うたふやうに〉その音楽との関わりや良きものとしての意味をも含む。
〈その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう。〉
  パート九で、心象風景と幻視の世界が交錯するなかで、〈わたくしの遠いともだち〉と定義づけられるユリアとペムペルという子供の姿を見る。
〈底の平らな巨きなすあし〉は、仏の身に備わる32の優れた吉相の一、足下安平立相〈土ふまずがないこと〉、四、足跟広平相(踵がおおきくてしっかりしている) (「大智度論」四)後秦の鳩摩羅什が講師四年~七年に訳した「大品般若経」の釈論)を意味するもので、仏の世界の幻視である。
  ユリアとペムペルの〈大きな紺いろの瞳をりんと張つて〉、も同書、二九、真青眼相(瞳は青蓮華のように青い)も同様である。
 〈瓔珞をつけ〉は仏の衣装、〈紅い瑪瑙の棘でいっぱいな野ばらを〉は地獄の暗喩であろう。
 〈貝殻のやうに〉は白さへの最大の賛辞で、透明感やなめらかさに加えて希少価値を感じさせる。視覚比喩だが、より感情の比重が多い。ユリアはジュラ紀(一億数千年前)、ペムペルはぺルム紀(二億数千年前)に由来している。賢治のその時代への憧れも込められている。この二人は深い崇敬の象徴である。
 
四、他の詩集との比較
1「春と修羅第二集」の直喩
  「春と修羅第二集」では、聴覚からの刺激による比喩が18例、周辺の風景の音に敏感に反応した記述が多い。人を本義とするもの13例、うち主体を本義とするもの4例で少ない。
  喩義もすぐれた情景描写の言葉が多い。これは「第二集」が、自己の内面よりも、眼が外部の社会や風景に向けられていったことに関係すると思われる。「春と修羅第二集」については次稿に詳考したい。
 
2、他の作者の詩と比較して 
  賢治への影響が強いと言われる、北原白秋、萩原朔太郎、続くものとして草野心平を管見する。
2―1北原白秋
  春と修羅以前に出版され、自序に〈「邪宗門」以後の詩を集めて〉というように、多様な詩が含まれ、その頃の白秋の詩風を幅広く収録していると思われるものとして『東京景物詩及其他』の直喩表現を、抽出してみると直喩をほとんどの詩で使っているが、総じて喩義が長く、6文節に及ぶものがある。
 
幽かな囁き…(中略)…幽かなミシンの針の薄い紫の生絹(きぎぬ)を縫ふて刻むやうな、
(「雪」(『東京景物詩及其他』1913)
 
肥満(ふとり)たる、頸輪をはずす主婦(めあるじ)の腋臭の如く蒸し暑く
(「雑艸園」『東京景物詩及其他』1913)
 
  次の詩では、第2~第7行までが、ほとんどが喩義の言葉で埋められる。
 
        わが寝ねたる心のとなりに泣くものあり――
夜を一夜、乳をさがす赤子のごとく
光れる釣鐘草のなかに頬をうづめたる病児のごとく、
あるものは「京終」の停車場のサンドウヰツチの呼びごゑのごと、
黄にかがやける枯草の野を幌なき馬車に乗りて、
密通したる女のただ一人夫の家に帰るがごとく、
げにげにあるものは大蒜の畑に狂人の笑へるごとく、
「三十三間堂」のお柳にもまして泣くこゑは、
ネル着けてランプを點す横顔のやはらかき涙にまじり
理髪器の銀色ぞやるせなき囚人の頭に動く。
そのなかに肥満りたる古寡婦の豚ぬすまれし驚駭と、
窓外の日光を見て四十男の神官が
死のまへに啜泣せるつやもなく怖しきこゑ。

ああ夜を一夜、
わが寝たる心のとなりに泣くもののうれひよ。
(「心とその周辺Ⅲ 泣きごゑ」 『東京景物詩及其他』1913)


次の詩では、まったく直喩を使っていない。
 
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋の薄着のねるのわがうれひ
「曳舟」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。(「片恋」『東京景物詩及其他』1913)
 
  長い直喩は全体で雰囲気を作ることができるが、喩義の意味を理解することにも一呼吸の時が必要で、リズム感は消える。類似性を共有できないものもある。
  一概に比較できないが、直喩を使わない詩の方が、リズミカル、簡潔で、暗喩表現がきいている。
 
2-2萩原朔太郎
  朔太郎は、直喩に大きな期待を込めている。時代が『春と修羅』より下るが、「青猫スタイルの用意に就いて」(『日本詩人』1926,11)において、直喩への時代遅れ、幼稚という批判(佐藤惣之助)にたいして、直喩を単に文法上の解釈で無く、その詩全体を象徴するものとしようとしたと述べている。そこであげている例では、
 
地獄の鬼がまはす車のやうに
冬の日はごろごろとさびしくまはって
輪廻の小鳥は砂原の蔭に死んでしまった
ああ こんな陰鬱な季節がつづくあひだ
私は幻の駱駝にのつて
ふらふらとかなしげな旅行にでようとする。
どこにこんな荒寥の地方があるのだらう!
年をとつた乞食の群は
いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき
禿鷹の屍肉にむらがるやうに
きたない小蟲が焼地の穢土にむらがつてゐる。
なんといふ傷ましい風物だらう!
どこにも首のながい花が咲いて
それがゆらゆらと動いてゐる。
考へることもない かうして暮れ方がちかづくのだらう。
戀や孤獨やの一生から
はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽靈のやうに見えるばかりだ。
どこを風見の鶏が見てゐるのか
冬の日のごろごろと廻る瘠地の丘で 
もろこしの葉つぱが吹かれてゐる。(「輪廻と転生」『青猫』)

 
 
 
  喩義〈地獄の鬼がまはす車のやうに〉は冬の日にかかるだけでなく、詩全体にも影響を与え、輪廻における地獄の心像を描くものであるという主張である。
『春と修羅』以前のもので、賢治が読んでいたという『月に吠える』の後期作品にすでに、この考えが生まれ、『青猫』で実現されたとすれば、賢治への影響も考えられる。小関和弘氏は、影響関係だけでなく、同時代の言語意識・空間体験によるものとも言えるとする。(注5)
他の喩義にも、直喩でありながら、そこに含むものが大きく暗喩のような効果を出して、感情を感じさせるものがある。
 

 
おれは病気の風船のりみたいに/憔悴しきった方角で/ふらふらふらふらあるいてゐるのだ(「危険な散歩」『月に吠える』1917)
わたしは蛇のやうなあそびをしやう(「愛憐」『月に吠える』1917)
地面には春が疱瘡のやうにむっくりと吹き出して居る(「雲雀の巣」『月に吠える』1917)
すべての娘たちは、猿に似たちさな手脚をもつ……白い大きな寝台の上で小鳥のやうにうづくまる(「寝台を求む」 『青猫』)

 
2-3草野心平
  喩義は主に一文節で、含む意味を効果的に使う。
 

 
クラリネットのやうに笑ひ出した「く僂もいる風景」(『第百階級』1928)
電気飴のやうな陽の光がはいってくる「蛙になる」(『第百階級』1928)
 
 
  文学作品の比喩表現を集めた『レトリカ』所収の喩義は、散文の例が多いせいもあるが、管見して長く、喩義そのものにレトリックの意味をもたせているようだが、喩義と本義との関わりが薄くなっているものもある。
 
終りに
  「小岩井農場」の直喩を追ってみて、その喩義、本義が、人間に関するものが多いことに驚く。これは、発想時の賢治が、周囲の人への思いを強く感じ続けていたことの現れであろう。
  まず、一人馬車でいってしまった恩師に似た紳士(青ぐろい淵のような場所に腰掛けている)、の登場は、高等農林学校の記憶を想起させた。それは高等農林学校が充実した希望ある場所としてあったことが推定できる。
  それに相照らすように、現在の農学校の教師としての思いが広がる。同僚堀籠との確執(白びかり)、農学の教師として、近づきたいと思うが近づけない農夫(オペラ・彫像・能役者)、若い農夫(臼)、若い娘(ロビン) 。 農学校の生徒との農作業(磁石)は楽しいものとしてある。
  さらに、昨年の農場での思い出―子どもの嘲笑と冷たく清らかな吹雪のheilige Punkt(聖なる地点)―、鉄砲を構える黒いコートの男の幻視、サクラの幽霊など、自己の内面の影が歩行にそって浮かび上がる。
直喩を表現上の技法として、意識的に使ったのであろうか。
  白秋に見る、多文節の喩義、朔太郎の、詩全体に影響を及ばせる喩義は、はっきり意識して書かれたものと見ることができる。
  賢治の喩義は、直截的でありそれを感じさせない。しかし喩義と本義との間にある類似性の幅を広げ、多様な意味や象徴するものを取り上げて、新鮮な表現となっている。
  自ら〈(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげと光のひとくさりづつ/そのとほりの心象スケッチです〉と定義づけたこの『春と修羅』で、意識的な技法はないのだろうか。説明語句〈ようだ〉などが省かれることも、心に現れる心象を性急に書きとめようとする結果であろうか。
  しかし、それは大きな感動として読むものに伝わってくる。それは技法としていかになされたか、どんな意味を持つか、今後の課題である。
 
注1「腐植質中ノ無機成分ノ植物に対する価値」
 『新校本宮澤賢治全集 第十四巻 雑纂』
注2「宮沢賢治の恩師 古川仲右衛門と西美濃」
「すいとぴあまっぷ・58」(スイトピア友の会2012)
注3 詩における「あおぐろい」の例
1、青黝い
 

 
 たゞよひてみゆ
 かなしき心象
 なみださへ
 その青黝の辺に
 消え行くらし。(「冬のスケッチ第三九葉」)

 
 2、蒼黝い
 

 
林間に鹿はあざける
  (光はイリヂウムより強し)
げに蒼黝く深きそらかな
却って明き園の塀 (「東京」東京 )
 
3、蒼ぐろい
 

 
…(ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)(「春光呪詛」『春と修羅』)
 
4、青ぐろい
 

 
……このひとはもうよほど世間をわたり
いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
すましてこしかけてゐるひとなのだ((「小岩井農場パート1」『春と修羅』)
 
 
教員室の青ぐろい空間
チョコレートと椅子(「小岩井農場第六綴」『春と修羅』)
 
 
      
そこらあたりで遊んでゐて
あの青ぐろい巨きなものを(〔地蔵堂の五本の巨杉が 〕「春と修羅第二集」)
 
新時代の農村を興しさうにさへ見える
うつくしく立派な娘のなかにも
その青ぐろい遺伝がやっぱりねむってゐて
こどもか孫かどこかへ行って目をさます (「法印の孫娘」 口語詩稿)
 
5青黒い 
 

 
田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ
それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……(「小岩井農場パート四」『春と修羅』)
 
けれども何だかわからない。
山の方は青黒くかすんで光るぞ。(「小岩井農場第五綴」『春と修羅』)  
 
味のないくらゐまで苦く
青黒さがすきとほるまでかなしいのです。(〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕『春と修羅』)
 
風がきれぎれ遠い列車のどよみを載せて
樹々にさびしく復誦する   
その青黒い混淆林のてっぺんで (「山火」「春と修羅第二集」)
 
大将おそらく興奮して
味もわからずつゞけて飯を食ってゐる
然るにかうきっぱりと勝ってしまふと
あとが青黒くてどうもいけない(「憎むべき「隈」弁当を食ふ」 口語詩稿)
 
ひがんだ訓導准訓導が
もう二時間もがやがやがやがや云ってゐる
その青黒い方室は
絶対おれの胸ではないし
咽喉はのどだけ勝手にぶつぶつごろごろ云ふ  (「病」 疾中)
 
全身洗へるこゝちして立ち
雲たち迷ふ青黒き山をば望み見たり
そは諸仏菩薩といはれしもの
つねにあらたなるかたちして 
うごきはたらけばなり(〔朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて〕 補遺詩篇Ⅱ)

 
 
注4 童話における「あおぐろい」は4種類の表記がある。
〈青ぐろい〉13例
「柳沢」、「あけがた」、「風野又三郎」、「鳥を取る柳」、「よだかの星」、「きいろのトマト」、「双子の星」、「種山ヶ原」、「林の底」、「烏の北斗七星」、「なめとこ山の熊」、「種山が原の夜」、「風の又三郎」
〈青黝い〉4例
「柳沢」、「ガドルフの百合」、「まなづるとダアリア」、「ポラーノの広場」
〈蒼黝い〉3例
「山地の稜」、「風野又三郎」、「鳥を取る柳」
〈蒼ぐろい〉3例
「双子の星」、「学者アラムハラドのみた着物」、「ひかりの素足」
 
注5小関和弘「詩の「発見的認識」をめぐる一試論」(『近代のレトリック』有精堂 1995)
 
参考文献
国語学会編『国語学大辞典』1979 東京堂出版
佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社 1987)
「青猫スタイルの用意に就いて」(初出『日本詩人』1926、11 
『萩原朔太郎全集第八巻』筑摩書房)
榛谷泰明『レトリカ』(1994 白水社)
『比喩の日本語』(2002)白水社
畑英理「宮沢賢治論」(『近代のレトリック』有精堂 1995)
大藤幹夫『宮沢賢治童話における色彩語の研究 改訂版』日本図書センター 1993
 
テキスト
『春と修羅』 初版本(『新校本宮澤賢治全集第二巻』) 
「春と修羅第二集」(『新校本宮澤賢治全集第三巻』) 
北原白秋『東京景物詩及其他』(東雲堂 1913)
(明治反自然派文学集一 明治文学全集74 筑摩書房 1966)
萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社・白日社 1917)
(『日本現代詩大系 第六巻 近代詩(三)』 河出書房 1951)
     『青猫』(『萩原朔太郎全集第二巻』筑摩書房 1976)
草野心平『第百階級』(1928)
(『現代日本詩人全集12』創元社 1954)

 






[ 1 - 5 件 / 9 件中 ] NEXT >>