宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
『春と修羅』における直喩の含むもの    
  直喩は、喩義と本義の類似性によって成り立つものである。賢治の直喩は、複数の感覚によって感じ取られた対象の含む多様な意味から、類似性を見つけることによって、豊かな表現となっている。ここに賢治は何を意図してこの表現を選んだか。
 
  先に、筆者は「小岩井農場」では、人間やその職業を喩義とする例が多いことを見出した(注1)。この稿では、範囲を詩集『春と修羅』に拡げ、喩義と本義の類似性とそれをつなぐ感覚の多様さを重点に考察したい。
 
 比喩については、国語学会編『国語学大辞典』(東京堂出版 一九七九)の説に拠って以下のように規定する。
 比喩(ある表現対象を他の事柄を表す言葉をもちいて効果的に表そうとする表現方法)には、直喩、暗喩、諷喩、提愉、換愉等がある。
 喩えられる対象を本義と呼び、喩える言葉を喩義と呼ぶ。
 直喩とは、喩えられる対象 (本義)と喩える言葉を(喩義)を、はっきりと区別して〈ようだ〉、〈ごとし〉などの説明語句をもちいて喩えを喩えとして明示する方法で、〈まるで〉、〈あたかも〉などの副詞を関することができる。それらの語を使わないで、直喩の関係を示すことができる場合もある。
 
 賢治の場合、〈まるで〉を使って、〈ようだ〉等の説明語句を省略する場合がある。
 
 登場する本義はおおむね次のようなものである。
自然(月・雲・霧・雪・風・水・露・空気)、植物、動物、場所、物体、人(脚・感情・幻想・声・言葉・動作・表情・夢・頬)、主体、トシ、農夫・

 喩義は次のようなものである。
神、人 (感情、動作、職業、体)、状態、動作、自然(雨、風、空気、月、星雲、雲、けむり、光、淵、氷河)、植物、動物、物体・物質、社会
 
 『春と修羅』の直喩一覧は別の機会に掲載し、作品における直喩の位置、役割について記す。
 引用文のルビは省略する。
 
 以下、次の各章において考察する。
一、視覚から捉える―植物と動物
二、聴覚から捉える―声と言葉
二、自然への喩義に感じられる人間
三、主体への直喩―前進することの意味
四、トシへの直喩―生きているトシ
五、生活する賢治―農夫、農学性、恩師、同僚たち
六、賢治の直喩の含むもの
 
一、視覚から捉える―植物と動物―

 全体に視覚を通じての直喩が多い。動物、植物への喩義は、ほとんどが視覚から捉えた形態の類似性によるものであるが、天体から人、植物まで多様である。
 「オホーツク挽歌」でハマナスは、その美しさを牡丹に、「習作」でノバラの実は、その硬さ、なめらかさ、輝きを硝子に、「習作」での二例で、藪はその頑丈さを船、岩に喩える。
 「火薬と紙幣」でマルメロはシジュウカラに喩えられる。マルメロはバラ科マルメロ属の落葉高木で、成熟した果実は、洋ナシ型の橙黄色で長さ七~一二センチ、幅六~九センチという。シジュウカラのイメージは小型で、それに喩えるには少し大きすぎる。〈枝も裂けるまで実つてゐる〉と賢治が記していることから、形態というよりも数の多さを類似点としているようだが、なぜマルメロだったかは疑問が残る。
 サクラは「小岩井農場パート四」の一例のみ、〈とほざかる〉という距離を表すのに、〈記憶のやうに〉という、人間の営みを表す語を使う。主体の心にあるものがそのまま直喩として使われるのは、賢治が、サクラを性の象徴として心を動かされる例が多く、サクラの風景を見て、心を動かした結果なのかもしれない。
 動物への直喩で、最も多いのが鳥へのもの七例、うち数の多さと拡がりを比喩するものが「自由画検定委員」、「冬と銀河ステーション」の、〈ちり〉、〈ごみ〉という無数を意味するものである。「青森挽歌」では〈たねまき〉という人の行為から派生する拡がりを使うものがある。
 聴覚からの表現を加えた、にぎやかさの直喩、「小岩井農場パート三」の、〈小学校〉という人社会に由来するもの、声の多さと継続を〈湧いているやう〉と、水など無機質なものに使う自然発生を表す動詞で表すものがあ る。
 「小岩井農場パート二」では、翼の動きの速さを、虫の羽の構造に喩えている。
 「津軽海峡」で、イルカのひれを人間の手に、「第四梯形」で、トンボは、萱という植物に喩える。いずれも形状の直喩である。
 馬への直喩は、「小岩井農場パート三」でその細い眼を〈三日月のやう〉と天体に喩える。一般的な比喩でもある。それがむしろ馬への憐みや揶揄の気持ちも反映させている。
「旭川」馬のたてがみの揺れる激しさと形状を、火―炎の形状と火の激しさに喩える。
 
二、聴覚から捉える―鳥の声、人の声、言葉―

 動物への比喩で数少ない、聴覚から捉えた例、「小岩井農場パート七」のボトシギの声の喩義〈ビール瓶のやう〉は、人が行う行為によって出る音に喩えている。
 「青森挽歌」で〈凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は〉は《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》に対するものである。E.ヘッケル(1834~1919)はドイツの生物学者、優生学・発生学の権威で、日本では『進化要論』が1888年、『宇宙の謎』が1906,1917年に出版されている。
 この部分ついては多数の論考があるが、ここでは、浜垣誠司(注2)の説に従って「反復説」として論を進めたい。「反復説」とは、「個体発生は系統発生を反復する」という生物学的仮説で、これは賢治にとっては、「輪廻転生説の科学化」のようにとっていたのではないかと思われる。
この、〈凍らすやうなあんな卑怯な叫び声〉という否定的な形容となるのは、賢治はその時、輪廻転生説が肉親の情への過度の執着と重なっていると思え、仏教の教えに反していると考えた、自己へのさらに厳しい眼の表れである。
 言葉も聴覚から捉えるものであるが、「小岩井農場第五綴」の〈烈しい白びかりのやうなものを…どしゃどしゃ投げつけてばかり居る〉は、心ならずも言ってしまう同僚への言葉への喩義である。〈白びかり〉は文字通り白い光であるが、賢治作品中では、〔いくつの 天末の白びかりする環を〕(下書稿) 、三、三一、)、「ひかりの素足」など、太陽光を感じられない、雪の寒々しい風景に用いられる。ここでも、その厳しさ、冷たさの類似性で人間の感情繋がる直喩である。喩義が自然物であるとき一層その冷たさを感じさせる。
 「習作」の〈黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい〉では、明るい花に満ちた草地を黒砂糖の濃厚な甘さで形容する。そこには聴覚で捉えたものを味覚で表し、さらに解放されていく自分を表している。
聴覚から捉えたものへの喩義は、聴覚から捉えた類似性ではなく、さらに進んで抽象的なものや人の内面である。
 
三、自然への喩義に感じられる人間

 「風の偏倚」の〈呼吸のやうに月光はまた明るくなり〉では、月光の明滅の変化は視覚から捉えられるものだが、人の呼吸に喩える。それによって、月への親近感に加えて、規則的ではありながら、途切れることもある不確かさも表現できる。
 同詩において、〈意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲〉と雲の変化を人の意識に喩える。類似性は意識の状態、移りゆくもの、という観念である。
 もう一例、〈風が偏倚して過ぎたあと〉の空の大きな雲のかたまりを〈星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片〉に喩える。その大きさ、複雑な彩色の直喩に加えて、天盤―坑道もしくは切羽(採掘場)の天井―の覆いかぶさるような冷たい雲の喩義としている。
 もう二例は、雲の動きへの喩義、「火薬と紙幣」では、広さ、白さ・冷たさ・多さを、氷河の流れに、「真空溶媒」ではその速さを〈天空のサラブレット〉に喩える。
 風への比喩は、二例とも「鈴谷平原」のもので、聴覚から捉えたものである。〈だから風の音が汽車のやうだ〉、〈みんなのがやがやしたはなし声にきこえ〉と、人間社会のものに喩えられている。これは「鈴谷平原」の書かれた状況―長い北への旅からの帰途―という人間社会への回帰の想いが込められている。風の中には様々な音を聞き取ことが可能なので、その時々の作者の心象を映し出すことができると言えよう。
 霧は「宗谷挽歌」の〈超絶顕微鏡の下の微粒子〉は霧の粒の微細さの比喩である。ここでは動きは〈どんどんどんどん〉というオノマトペによって形容する。
 「冬と銀河ステーション」の露と霧への比喩では、露に力点がかかり、太陽光も加わって、色彩〈はねあがる青い枝や/紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや〉とともに〈市場のやうな盛んな取引です〉という人間界のにぎやかさを類似点とした比喩となる。背景に〈土沢の市日〉があるので、それに影響されているところもある。
 空気への比喩は、一例は「真空溶媒」の〈液体のやう〉で、気体を液体と形容することで、重さ、冷たさ、透明感を表そうとしている。そこには液体酸素のイメージがある。液体酸素は、空気に加圧した空気を通じ、窒素の分留を促進させて得られる。酸素 95%以上を含み、比重 1.14,沸点 90K (-183℃) 、淡青色の液体で、工業用としては、製鉄、溶接、ロケット用酸化剤に、医療用として窒息者や重病患者の吸入などに広く利用される。実際に重く冷たく青いものである。
 もう二例は、「樺太鉄道」の、〈葡萄の果汁のやう〉、〈フレツプスのやうに甘くはつかうさせる〉で、太陽に色づく空の色彩の直喩であるが、同時に、そこに香りと味をも感じ取らせる。
〈フレップス〉はコツツジ科スノキ属コケモモで、主として野生の果実を果実酒やジャムなどに加工することが多い。賢治は果実酒を思って〈発酵させる〉という言葉になったのかもしれない。果汁、果実酒という人間の手の加わったものを喩義に使っていることも注目できる。
「風景とオルゴール」で、水の流れを〈葱のやうに横に外れてゐる〉と、具体的な野菜の色や形態を使って流れを表現している。水も、暗喩による表現が多いが、直喩はこの一例のみである。
 自然への喩義も、本義との間に、人の関わりを介在させる例が多い。
 
四、主体への喩義―前進することの意味

 前章の傾向は、主体への喩義となると、その言葉の持つ精神性の類似性を使うことが多くなる。
 主体への直喩は九例、一例を除いて、動作へのもので、うち七例までが、進む、歩く等の前進の動作である。このことは、賢治が前進に際して特になにかを意識していることを表すだろう。
 「真空溶媒」における〈犬神のやうに〉は、幻想の中で絶えず登場者たちへ闘志を燃やしてきた主体のもとに、最後に登場していたのが犬であり、すべてに勝ち、颯爽と立ち去るという流れの結果、犬に乗ることになった。  〈犬神〉は、カラフト北方アムール川下流域に住む少数民族ギリヤークの伝説に登場する神で、「サガレンと八月」、「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」にも、禁忌を犯した子供への罰として登場する。 西日本に広く伝わる「犬神」のように憑きものとしての性格はない。
 ここでの〈犬神〉という喩義は、その伝説上の意味はなく、犬に乗ったということと、勝ち誇った様子を強く描くために〈神〉という文字が使われたのである。
 先論(注1)でも触れたが、喩義が職業によることも多い。「小岩井農場パート四」、〈歩測のときのやう〉には正確に、〈林務官のやうに〉は権限と余裕を持つもの、という性質を自分への喩義として、明るさ、気持ちの高ぶりを出した。
 同様に「屈折率」の〈郵便脚夫〉には、その黙々と任務のために歩く状態を、雪の荒野を歩く自分と重ね、これから始めようとする〈心象スケッチ〉制作への期待と重荷も感じとるべきだろうか。
一転するように二字下げてカッコでくくられる(
またアラツデイン 洋燈とり)
は何を意味するか。
 宮沢清六 (注3)によれば、賢治が「アラジンと魔法のランプ」に触れたのは、英訳書であったという。英訳版は何種類かあるが、一八八五年~一八八八年に刊行されたR.F.バートン(一八二一年~一八九一年)の、バートン版は本巻全十巻と補遺七巻に完璧に近く収録されていて、「アラジン、と不思議なランプ」は補遺第七巻におさめられていた。
 明治期に邦訳された主な「アラジンと魔法のランプ」を含む「千夜一夜物語」は、永峰秀樹『開巻驚奇暴夜物語』(一八七五)は完訳とは言えず、また、巌谷小波『世界お伽噺』(一八九六~一九八〇)などに掲載の「奇体の洋灯」は、児童文学として翻案されたものである。
 賢治がどの英訳版を入手していたかは不明であるが、より完璧な作品をよんでいたことになる。バートン版の邦訳「アラジン、または不思議なランプ」(注4)を読むと、見知らぬ魔法使いの命ずるままに未知の世界にランプを探しに行く行程の期待と不安には、翻案にはないリアリテイーが感じられる。
 二つの喩義を並べることで、地を這うような制作の苦しみと、未知のもの制作という高い希望を、同時に表し、自分の問題に留まらず、広く詩の問題として捉えようとする意志を伝えたのであろう。
「小岩井農場パート四」の〈刀のやうに〉は、刀の形状、硬さ、鋭さを前進への意思の直喩とする。
  「永訣の朝」の〈まがった鉄砲玉のやうに〉は、死に瀕する妹のために、みぞれを取りに走る主体の行為への直喩である。
〈鉄砲玉〉という速さの類似性に加えて〈まがった〉の意味するものは何か。廊下が直角に曲がっていたという説など種々の説がある。坐していた主体が、急に立ち上がって飛びだすその角度も含まれるのではないか。あるいは、思いもかけない妹の申し出を受けた心の動きを表しているのかもしれない。
 賢治は、意思を前進という動作で表し、直喩によって内面を表している。
「過去情炎」の二例、〈たくらむやうに〉において、は主体の行為ではない〈たくらむ〉という直喩によって、他への警戒感をあらわし、〈待つてゐたこひびとにあふやうに〉は、自分の目的を達成した喜びを表す。二例は、感情表現を人の行為で表す可能性を示している。
 
五、トシへの喩義―生きているトシ

 一二例中一一例までが動作およびその状態へのものである。そしてトシの元 気な時の動作を表す言葉を使っているのが大半であることも特徴的である。
 「青森挽歌」の〈さう甘えるやうに言ってから〉、〈あいつは二へんうなづくやうに息をした〉、〈ちいさいときよくおどけたときにしたやうな/あんな偶然な顔つきに見えた〉は、トシの死を認めたくない心情を表わしている。
 また、「無声慟哭」の〈まるでこどもの苹果の頬だ〉では、死に瀕したトシの頬に、〈苹果〉という健康色をそのまま表す言葉を喩義として贈っている。
 「松の針」、「噴火湾(ノクターン)」の〈鳥のやうに栗鼠のやうに〉も健康なトシの姿を象徴する言葉である。鳥やリスの生態から、〈林を慕〉うことの比喩に限定することもできるが、トシの思い出の中に語られ、トシが林を好んでいた、という背景なしには生まれない比喩である。〈鳥〉は愛しいものの象徴でもあり、〈栗鼠〉はトシの面影を映しているとも言われる(注5)。
 「青森挽歌」で、死の瞬間を回想している場面、〈なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた〉、〈ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない〉も、生きている姿を喩義に使っている。
 トシの感情への直喩、「松の針」の〈林のながさ来たよだ〉、松の葉をほおに押し当てての感情で、松の葉の香りと林という類似性、トシが林を好んだという背景によって生まれた喩義である。
 暗く恐ろしい死後の世界を想像しての言葉、「青森挽歌」の〈頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち〉は、その恐ろしさが現実ではなく〈ゆめそのもの〉であってほしいという願望のあらわれである。
 すべてがトシの死の九カ月後に発想された詩なのだが生々しく、思い出とはなっていない。それは喩義が生前の動作に共通する言葉を使っているからではないだろうか。
 
六、生活のなかで―農夫、農学生、恩師、同僚たち
 
 主体、トシ以外の人間の本義で、最も多いのは農夫で、すべて「小岩井農場」のもので、喩義はすべて農夫の動作へのものである。
 「パート七」の〈富士見の飛脚のやうに〉では飛脚という職業を表す語の、規則正しい動きと速さをとらえたものである。同じくパート七の〈行きつかれたたび人だ〉は状態で速度を表す。
 「第五綴」の〈これではまるでオペラぢゃないか〉、〈動き出した彫像といふやう〉は、農夫が主体の問いに答える朗々とした声、あるいは崩さない言葉、大仰さへの直喩で、農夫への尊敬とともに、こちらに距離を置いている農夫への困惑を感じさせる。これらはすべて壮年の農夫へのものである。
 一方、「パート七」の〈まつ赤になつて石臼のやうに笑ふのは〉は、若い農夫の体型に加えて、豪快さ、粗野な部分などへの直喩で、物体を使って、現実の農夫の姿をとらえている。
 同じく物体を使った直喩に、「パート四」の、〈磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた〉は、農学校の農作業の素早さ、確実さの直喩で、磁石といういわば優れた物体で、その楽しさ、希望的な仕事を表している。
以下二例は、農学校の同僚との少しの心の齟齬が背景にある。喩義は明確に理解できる言葉であるが背景を考慮しないと類似性はつかめない。
 「小岩井農場第五綴」の〈つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。〉は車窓の風景の美しさ・厳しさに、魂を奪われ得たような状態だが、前に同僚の〈堀籠さん〉とのかみ合わない会話の記述があり、それによる状態を比喩したものである。
 「習作」の〈すぎなを麦の間作ですか/ 柘植さんが/ひやかしに云つてゐるやうな〉同僚と思われる〈柘植さん〉に冷やかされた思い出が心の中にる。
 「小岩井農場パート一」の〈このひとはもうよほど世間をわたり/いまは青ぐろいふちのやうなとこへ/すましてこしかけてゐるひとなのだ〉は抽象的な場所への喩義であるが、  
 主体の恩師を思わせる人が馬車に乗って先に行ってしまったことが背景にある。この〈とこ〉が揺れる馬車の上の位置の不安定なところなのか、〈このひと〉の生き方を想像したものか、断定できないが、主体のこの人物への複雑な心情が象徴されるようだ。先論(注1)で言及した通り、この人物の影は、その後の詩に見え隠れする。
 人への直喩ではないが〈いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。〉は、前出の紳士が一人で乗ってどこかへ行ってしまった馬車への喩義で、〈忘れた〉という人の記憶に関する直喩である。これは主体が忘れるくらい、遠くまた以前のこと、という意味か、あるいは紳士が自分のことなど忘れているであろうということか、いずれにしても主体の心象が深く関わっていることが、前後の文脈から読みとることができる。  
              
七、賢治の直喩の含むもの

 『春と修羅』における直喩では、本義の多くは視覚から感じとった対象であったが、それを喩える喩義は、人の心情や主体の心象、社会の営みも含み多岐にわたる。またそれは、詳しい比較は未着手だが、他の作家に比べて自分の内面や体験などと関連する事象が多い。
 植物、動物への喩義は、ほとんどが、その形態等の視覚から捉えた類似性により選ばれる。より明確に読み手に伝わり、そのものへの愛着や称賛まで感じとることができる。
 聴覚から感じとる対象への喩義は、音ではなく心の内面を映す言葉が多い。〈聴く〉という作用は、より心情を通して感じるものであったためであろう。
 自然も、視覚、聴覚から捉えても喩義は心情を映す言葉、またその対象と人間の関わりを表す言葉となる。自然とは、賢治がそこに多様な思いを反映できるものだったと言える。
 人への喩義は、人の職業を喩義に使う例のほかに、動作に対して物体の形状の喩義を充てるなど、より具体的でありながら、主体の心情を表すものになっている。
 妹トシへの喩義は、ほとんどが明るく、賢治が現前の状況を超えて、トシの生前の姿を求めていたことを示す。

 賢治にとって直喩とはなにか
 直喩は喩えるものと喩えられるものとが明確に表され、書き手の意図を正確に伝えることができるものである。賢治はそこに、自己の心象を映しだそうと試みた。これは賢治の意図していた〈心象スケッチ〉の一つの方法だったのではないだろうか。
 
注1、小林俊子「宮沢賢治の直喩Ⅰ 『春と修羅』、「小岩井農場」を中心 に―人間への思い―」(個人ブログ 「宮澤賢治、風の世界」二〇一四、一一、一五)

注2 浜垣誠司「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」
(個人ブログ「宮澤賢治の詩の世界」二〇〇五、一一、六)

注3、宮沢清六『兄のトランク』(ちくま文庫 一九九一)

注4、大場政史訳・バートン版『千夜一夜物語』第八巻 (河出書房 一九六七)

注5、浜垣誠司「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」
(個人ブログ「宮澤賢治の詩の世界」二〇一一、六、一九) 

参考文献
国語学会編『国語学大辞典』(一九七九 東京堂出版)
中村明『比喩表現辞典』(角川書店 一九七七
西尾哲夫『アラビアンナイト 文明のはざまに生まれた物語』(岩波新書 二〇〇七)

テキストは『新校本宮澤賢治全集』に拠った。

 





     コメントする
タイトル*
コメント*
名前*
MailAddress:
URL:
削除キー:
コメントを削除する時に必要になります
※「*」は必須入力です。