宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
賢治ファンが覗いた伊予原新の世界―日常から広がる、過去、宇宙、歴史、はるかな地平
 伊予原新を知ったのは『青の果て―花巻農芸高校の夏―』(新潮社 二〇二〇)で、イーハトーブを想起される物語設定ということで紹介されたからである。
 花巻農業高校を思わせる「花巻農芸高校」に突然「風の又三郎」を思わせる茶髪、都会風言葉の転入生深沢がやってくる。
 学校では地学部が賢治の「賢治のイーハトーブ」を実際に尋ねるという計画を立て、主人公で鹿踊り部の壮多、なぜか転校生の深沢も加わる。そんな時、壮多の友達七夏が姿を消す。
 種山ヶ原から奥州市、花巻市、岩手山麓を駆け巡る背景は賢治ファンにとって胸躍るものである。岩手山麓に着くころ天候が悪くなるが深沢はコースを少し変えて八幡平の裏岩手街道の湿原に行くことを主張する。リーダーの三井寺が負傷するなか、湿原にこだわる深沢が一人で消えてしまう。壮多は探しに出ると深沢は負傷して動けなくなっていた。天候が悪くなれば深沢を見捨てるか、二人で遭難するかである
 ここですべてが明かされる。深沢が目指していたこの湿原は、深沢の父の残したノートに記されていた「天気輪の柱の丘」のモデルと思われる場所で、父親はノートを記した翌日、遭難しかけた女性を救おうとして命を落とした。その女性は七夏の母親だった。そして総多の父親は、深沢の父の幼馴染で八幡平の裏岩手街道を進めたという。七夏は、そのすべてを確かめるため、だまって東京、壮多の父のいる北海道を回っていた。
 広いイーハトーブを吹き抜ける風、過酷な自然の姿、そのなかで、総多(ジョバンニの息子)、深沢(カムパネルラの息子)、七夏(ザネリの娘)が、過去に突き動かされながら、最終的に「誰がザネリになり、カムパネルラなるかわからない」という大きな命題に行きつく。
 綿密な賢治の作品と地理の考証の上に、賢治の物語のもう一つ上を行く命題を追ってのミステリーといえる。
 
 2025年度上半期の直木賞受賞者の中に伊予原新の名前を見つけ、『藍を継ぐ海』(新潮社 2024)を購入した。『藍を継ぐ海』を含む五篇からなる。
 
「夢化けの島」
 山口県萩市見島は萩沖45キロに浮かぶ離島で、萩焼で使われる土、見島土が取れる。
 地質学者で見島の地質調査の為に訪れている女性と、見島で消滅した萩焼の窯跡を求める男性との出会いが描かれる。
 萩焼の祖は、朝鮮出兵で日本に連れてこられ毛利家に預けられた陶工李勺光とされる。林窯は毛利藩の御用窯のひとつだったが、1817年に取りつぶされた。
 その時の窯元、泥平の子孫の男性は、かつて泥平が作陶していた見島の登り窯を探すことで、自分のいったん外れてしまった道を立て直そうとしている。
 女性の作った地質図や窯元の助言に基づき、二人は登り窯跡に辿り着き、そこに残された窯元の巧みな仕事に出会い、これからの望みを見出す。傷ついたものが大きな歴史の流れの中に立ちなおる姿がある。

「狼犬ダイアリー」
 狼の遠吠えが聞こえるという噂の立つ、吉野の山村、ニホンオオカミが最後に捕獲された村である。都会から移り住んだ女性ウェブデザイナーが、ただ一人気を許せるのは大家さんの小学生のみだった。
 小学生はオオカミを見たというが誰も信じない。そのうち飼い犬の紀州犬が何物かを追って姿を消してしまう。飼い犬を探すうち、以前ニホンオオカミと犬との混血、狼混を治療したことのある獣医師に出会う。
猟師、炭焼きをして、山を渡り歩く老人は雌犬を野外につなぎ、狼と交配させて「狼混」を作った。何回か繰り返すことで、次第にオオカミの地を濃くしていく。狼の狩猟の能力を得るためである。老人は亡くなり狼混は野に放たれた。人の身勝手によって作られた狼混は、山里深く住む以外にはない。
 飼い犬は、狼混に送られるよう里に帰る。それは獣医師が以前治療した後を持つ狼混だった。オオカミは自分の縄張りに入ったものを監視し追跡するという、今とは違う意味の「送り狼」の性質を持つという。
女性は狼混のようにここで生きてみようとする。
 
「祈りの破片」
 役場の空き家担当の職員は、空き家から怪しい物音がするという通報に基づいて動き始める。職員は、空き家はどんどん取り壊していけばよいと考えている。
 長崎市市街地に隣接した長与町はミカン畑にも接した農村、次々に空き家が増えていきそうな土地である。
 問題の家は、太平洋戦争が始まる前からの空き家だったが、終戦後一、二カ月、誰かが住み、青白い光がもれるようになったという。何十年も過ぎた今、また黄色い光が見えるようになったという訴えだった。  
 長崎市街で、「青白い光」は原爆関連が疑われ住民は警戒する。
 調べに入ったそこに見たものは、表面が焼けただれたガラスや陶器片、原爆に被災したものだった。そこには、ひたすら焼けた材質を調べる意識のみ、人へ感情がなかった。断片には細かい数字の資料番号が付され、「加賀谷昭一」の明記があるフィールドノート5冊に残された記録があり、協力者として「M」、「望月」の名、さらに「Mum」の綴りもあった。
 長崎市の原爆資料館の話では、原爆の正体を被害を受けたものから探ろうという調査方法があり、この重要性を感じた人物が風化前に集めたのであろうということ。資料のなかに浦上天主堂の天使像の破片もあることが判明する。
 ここから謎解きが始まる。教育関係の資料から「加賀谷昭一」が長崎師範学校の博物教師で、被爆者で一九四六年に死亡、遺族もないことが判明した。さらに「望月」は浦上天主堂の神父で唯一現場にいなくて被災を逃れた人物であった。
 その後、「望月」を追う望月の曾孫に会い、「望月」の残したノートも読むことができた。Mumは、原爆で焼き付きつけられた野菊、Crysanthemumの略だった。
 ひとつずつ明かされていく事実がすべて、「原爆」の罪、小さな野菊までも石に焼き付ける光、そこに埋もれていく人々である。
 現実の世界では、残された資料の保存は確実になり、担当職員は空き家個々の抱える問題にも取り組む意欲を感じ頑張ろうとしている。歴史を丹念に追い現実に回帰するところがよい。
 
「星隕つ駅逓」
 舞台は北海道紋別郡遠軽町白滝で、現実にも「遠軽町ジオパークセンター」があり、この地は「遠軽天文同好会」が毎年流れ星を見る会が開いている。隕石を探しに来る人も多い。
 駅逓とは開拓者や旅行者に宿泊所や人馬を貸し出し、郵便の取り扱いをしていた北海道独特の制度で、明治維新によって廃止されたが、開拓のために必要な施設として開拓使が規則を整備して、重要な道路に多くの駅逓所を設置した。 運営には半官半民の請負制がとられ、引き受け人には財産上の条件があるが、土地、建物、馬があたえられるなどの特典もあり、名誉職でもあった。交通の面からだけでなく、北海道開拓に大きな役割を果たしたが開拓の完了、鉄道の開通などによって一九四六年には制度自体が廃止になった。
 郵便配達員の男性、その出産間近の妻、義父をめぐる物語で、義父は、祖父の代まで駅逓の取扱人で、今は郵便局を受け継いでいるが、その郵便局はもうじき廃止になる。
 ある時、妻は近くで隕石を見つけたが、流星ネットワークには知らせず、少し離れた駅逓跡で見つけたことにしたいと思う。従来、隕石の命名は、その近くの郵便局の名前が付くことになっていて、気力をなくしていく父の為に、生きた証として隕石の名前にその駅逓の名前を残そうと思ったのだ。
 しかし近くでそれと同時に落ちたものと思われる二個の隕石が見つかり、離れた場所で見つかったとは言えなくなり、さらに、今は隕石の命名は、発見地の市町村名か、政令指定都市の区名がつくという。
 男性と妻は、偽りが残ることのなかったことを喜び、義父は駅逓跡の碑を立てることで再生する。
 
「藍を継ぐ海
 徳島県阿須町姫ケ浦地区のウミガメの産卵する海辺で、夜間密やかに繰り広げられるウミガメを守る人たちのミステリーだ。
 産卵のために、この場所に海を越えてくるウミガメ、そして生まれてすぐ、海へ旅立っていく子亀、カメを見守る、心に小さな傷を負う中学生沙月とその父親、古くからこの町で教師をしていた女性と保護にあたっていたその父親、海沿いを旅してカナダから来たネイティブアメリカンとの混血の男性、保護担当の町の職員、みなそれぞれの立場で保護に関係している。沙月は、なぜかウミガメの卵を4個自宅に隠して保護している。
 カナダから来た青年は、いるべきでない場所―カナダ太平洋岸ハイダ・グワイ―でタグ付きのウミガメを見つけ、タグを届ける為に浜に来たのだ。
 それは四年前、少女が取り残されたカメを見つけ、女性、父親とともに面倒を見て、少し遅れてタグをつけて放したのだった。少女は、母は幼いころ死亡、たった一人の姉は家を出て連絡もまともにつかず、取り残されている自分に置き換えてカメを見捨てられなかった。 無事にたどり着いたカメを知って、卵をもとに返すことを決意する。
 カメを保護する人々の群れ、錯綜する想いを描き、壮大なカメの生涯と背景の海流の描写が美しい。
 
 共通するのはミステリアスな始まり、そしてその奥に広がる広大な地平、海、はるかな歴史、傷ついた人間がそのなかで再生する物語である。もう一つの特徴は、それは、「科学」による立証に裏付けられていることが、作品を真摯なものにしていると思う。
 
 さらに作者がどうしても書いてみたかっという猿橋勝子(一九二〇〜二〇〇七)の伝記、『翆雨の人』(新潮社 二〇二五)を読んでみた。
 「猿橋賞」が自然科学分野で優れた業績あげた女性科学者に送られる、ということは知っていたが本人については全く未知だった。
 第六高女から帝国女子理学専門学校に進み、中央気象台で生涯師と仰ぐ三宅泰雄に会い、気象化学の分野に進み、昭和二五年海中の炭酸量の測定と研究を進め、微量拡散分析法の開発、オゾン層の変動測定に成功した。
 一九四六年から始まったアメリカの水爆実験で、一九五四年三月のビキニ環礁での実験に、日本マグロ漁船第五福竜丸も遭遇し、死者一名のほか多くの人が障害を負った。日本でも降雨の中に多量の放射性物質が含まれ放射性障害が認められ、海域の調査始まると、猿橋は微量拡散分析法の開発により一九五七年東大より学位を得た。
 水中に溶け込んだ炭酸ガスの三様態―遊離炭酸、重炭酸イオン、炭酸イオンの存在比を、人体の塩素量、温度、pHに対して求めた表は「サルハシの表」として海外の研究機関でも重視された。
 水爆実験はソ連でも始まり、アメリカ、ソ連からと同時に、身近な労働組合からも圧力と妨害を受けたが、科学的な実験結果を盾に怯まなかった。
 一九六〇年、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所(Scripps Institution of Oceanography)のセオドア・フォルサム博士(Theodore Robert Folsom)らは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度をネイチャー誌に発表し、安全性を主張した。一方、三宅、猿橋らは日本近海におけるセシウム137の濃度を報告したが、その値はフォルサムらの報告した値よりも10〜50倍の高さを示した。
 これに対して三宅はアメリカ原子力委員会に同一の海水を用いた日米の相互検定を申し入れた。一九六二年から一九六三年の間、猿橋は放射能分析法の相互比較を目的としてスクリップス海洋研究所に招聘され、フォルサムとの間で微量放射性物質に対する分析測定法の精度を競うこととなった。
 猿橋の招かれた実験現場は、粗末な研究室と、毎日100リットルの海水を汲み上げて運び分析するという重労働だったが、目的のために頑張り、リンモリブデン酸アンモニウムを使ったセシウム濃縮法(AMP法)で猿橋の分析は高い精度を示し、フォルサムは猿橋の分析を認め高く評価するようになり、日米の測定法の相互比較の結果は共著として発表されることとなった。
 一九五八年に設立された「日本婦人科学者の会」の創立者のひとりであり、一九八〇年気象研究所定年退職 集まった祝い金五百万円を基に「女性科学者に明るい未来をの会」設立、科学の分野で50歳未満の女性を年1名顕彰する猿橋賞が設けられ現在も続いている。
 不幸な第二次大戦の後も続く、不当な水爆実験の拡散、米ソの対立も、科学のみを信じることの重要性を信じ歩も逃げることがなかった姿は偉大である。
 戦前の学問を続けることの難しさや、戦争の生む非情さも描かれる。今もなお、実験による放射能被害は続いているのではないか、という不安が残る。
 でも猿橋勝子の生涯には陰りや弱さがない。それが他の五作とは異なるところかと思う。

 
 







永野川2025年10月下旬
28日 9:30〜11:30 晴 20℃
 
 久しぶりに気持ちの良い晴天になりましたが、朝から風が窓を鳴らすくらい吹いています。心配だったのですが、予定や天気を考えると今日しかないので、思い切って出かけました。
 風は時々強くなりますが、あとは体に感じる程度でした。
 睦橋から永野川に出ると、少し軽めのセキレイの声が聞こえ3羽が群れて行き来していました。確かめると久しぶりのハクセキレイでした。橋の欄干の1羽もハクセキレイで、セグロセキレイの姿はその時は見えませんでした。
 睦橋近くで、カルガモが11羽、先回にはほとんど見えませんでしたので、ほっとします。さらに二杉橋近くに17羽群れていました。
 中州にイカルチドリも1羽やってきました。
 かなりおなかが緋色に見える鳥が2羽で鳴きながら追いかけ、あたりを回っていました。動いていて細かい部分は見えなかったのですが、鳴き声と、観察例からしてジョウビタキ♂ではないかと思います。
 大きな民家の林でヒヨドリの声が盛んにして、見上げるとどんぐりがまだ若いですがたくさんなっていました。ヒヨドリ以外のものがここにはたくさん来るのでしょう。
 上人橋を渡っていると、付近の山林の手前をカケスが1羽、特徴のある羽ばたきで林に消えていきました。ほんの少しですが青い羽が見え、嬉しくなりました。
 公園の東池に行ってみるとカルガモのほかに、ヒドリガモが3羽見え、コガモも4羽いました。初飛来です。何か池の面が暗く感じるのはなぜでしょう。濁っているばかりではないのです。西池は浮草が沈んでは来ましたがまだ一面にあり、ヒドリガモが1羽いました。
 嬉しかったのは、カイツブリの幼鳥が1羽いたことです。ここで生まれたものだと思います。こんな条件の悪いところでも頑張って育ってくれたのです。
 公園の川の上流から、黄色い小さな鳥の群れがこちらの岸の木の中に飛んできました。25羽、鮮やかな黄色、おそらくマヒワと思います。年1度は記録があります。ずっといてくれるか、よく見てみたいと思います。10分くらい後に公園の中央部の草むらの中に飛び込みました。
 今回、チュウサギは季節が過ぎていなくなり、あちこちでダイサギが8羽見えましたが、アオサギは1羽のみでした。
 合流点の堰をイソシギガ1羽渡っていました。こちらも久しぶり、面白い風景でした。
 赤津川に入ると、さすがに西風が吹き付け、自転車に乗れませんでした。陶器瓦店の手前で諦めて、遠目でカルガモの数を確かめて帰ってきました。
 この頃はなぜ夏のような暑さから、突然冬の寒さになるのでしょう。冬鳥たちは結構暑いときから来ていました。温度で動くのではないらしいのですが、不確かな温度の中で生きるのは大変でしょう。
 もう少しで、本格的な冬鳥のシーズン、待ち遠しいです。
 
カイツブリ:公園西池1羽。
カルガモ:永野川二杉橋〜上人橋 11羽、17羽、合流点10羽、公園東池13羽、赤津川12羽、計63羽。
ヒドリガモ:公園東池3羽、西池1羽、計4羽。
コガモ: 公園東池4羽。
ダイサギ:永野川睦橋付近1羽、合流点1羽、公園1羽、1羽、
 滝沢ハム池3羽、赤津川1羽。計8羽。
アオサギ:赤津川1羽。
イカルチドリ: 永野川睦橋付近1羽。
イソシギ:合流点堰で1羽。
モズ: 永野川、二杉橋付近1羽、公園1羽、計2羽。
スズメ:永野川二杉橋〜上人橋、3羽、5羽、公園7羽、計15羽。
ムクドリ:赤津川水田に6羽。
ハシボソカラス: 〜上人橋1羽、公園1羽、大岩橋付近1羽、
 滝沢ハム付近1羽、計4羽。
カケス: 上人橋付近山林へ飛び込む1羽。
ヒヨドリ: 永野川二杉橋〜上人橋2羽、4羽、公園3羽、大岩橋付近3羽、  
 計12羽。
セグロセキレイ:永野川二杉橋〜上人橋1羽、1羽、1羽、公園2羽、
 計5羽。
ハクセキレイ: 永野川睦橋付近3羽、1羽、1羽、計5羽。
マヒワ: 公園25羽。
シジュウカラ:大岩橋付近山林2羽。
ジョウビタキ: 永野川睦橋付近2羽、駆け巡る。公園草むら1羽。
 計3羽。

 
 
 







永野川2025年10中旬
17日 8:30〜11:00 22℃
 
 気温は低くなりましたが、すっきり晴れて気持ちのいい日でした。
 合流点に入ろうとしたら護岸工事が始まっていて入れず、さくら保育園の東を回って少し上流に入りました。近くには全く鳥が見えず、落胆です。
 永野川ワンド跡の対岸の低木に、ダイサギ5羽が止まっていて、川にカルガモ5羽、なんとか識別できました。そこは公園に入ってからでは近づくのが難しいので、とりあえずここで判断しました。
 落胆を引き継ぐように、赤津川に入っても、ほとんど鳥が見えません。アオサギが所々で1羽ずつ、カルガモの5羽の群れ、こちらはファミリーか、普通の大きさ1羽に、少し小さめのものが4羽でした。モズがあちこちで高鳴き5羽、スズメが7羽飛び立ちました。
 滝沢ハムの池には、ダイサギ2羽、アオサギ2羽のみ、カモ類はいませんでした。
 体調があまりよくなかったのも手伝って、鳥が目に入ってこなかったのか、大砂橋の中州も静かなものでした。林からカケスの声が聞こえ、少しでも顔を見せてと、願いましたが駄目でした。
 ただ養護施設の近くで、今季初のジョウビタキが1羽、林の方に消えていきました。
 もう一つ嬉しかったのは、公園西池の表面が浮草で覆われている中に、カイツブリが2か所で元気だったことです。なんとか育ってくれたのか、あるいはどこかから来たのか。それにしてもこの池何とか綺麗にならないでしょうか。
 カルガモが11羽も見えましたが、今季初の新客はいませんでした。  
 市街地の川にはヒドリガモがたくさん来ているのですが、こちらはまだです。観光客に餌をもらっているせいで、先にそこに行ったのかもしれません。 
 気を取り直して、永野川まで探鳥区域を全部回りました。こちらもアオサギ1羽、カルガモ1羽、セグロセキレイ1羽のみ、という寂しさでした。
 また近いうちに来ようということで、今日はあきらめます。
 
カイツブリ:公園西池1羽、1羽、計2羽。
キジバト: 赤津川1羽。
カルガモ:赤津川5羽、公園西池11羽、永野川睦橋付近1羽、
 公園川5羽、計23羽
ダイサギ:赤津川1羽、1羽、公園川5羽、滝沢ハム池2羽、
 永野川1羽、計10羽。
アオサギ:赤津川1羽、1羽、滝沢ハム池2羽、公園西池1羽、
 計5羽。
モズ: 赤津川1羽、1羽、1羽、1羽、1羽、公園1羽、滝沢ハム付近 
 1羽、1羽、1羽、1羽、1羽(鳴きまね)計11羽。
スズメ:赤津川7羽、大岩橋付近15羽、計22羽。
ハシボソカラス: 滝沢ハム付近2羽。
カケス: 大岩橋附近山林3羽。
ヒヨドリ: 滝沢ハム付近1羽、1羽、1羽、計3羽。
セグロセキレイ:赤津川1羽、2羽、公園2羽、大砂橋付近2羽、
 永野川睦橋付近1羽、計8羽。
ジョウビタキ: 大岩橋付近山林1羽。
ホオジロ: 公園川の草むら1羽。
ガビチョウ:公園1羽。

 







永野川2025年10月上旬
5日 9:00〜11:00 薄曇 24℃

 涼しくなってきたので午前中の探鳥に切り替えてみました。
 日曜日でも、早朝よりも幾分、車の通行量、遊園地で遊ぶ子供、駐車場の車、人も増えています。
 合流点で、オオバン1羽、来ていました。カルガモの近くで潜水したものがいて、出てきたのがオオバンでした。印象より大きく見えました。2025年1月下旬以来、久しぶりです。定着して繁殖してくれないかな、と思います。
 赤津川に入ったところで、カイツブリが1羽、こちらもここで無事繁殖してくれるといいのですが。公園の池より水質はよく、安全かもしれません。
 赤津川の水田にはチュウサギが転々と7羽、まだいてくれたのが嬉しいです。ダイサギも1羽、少し離れていました。また永野川睦橋付近でも1羽、ダイサギは今の時季は群れないようです。
 赤津川で、カルガモ17羽に混じって、換羽中のマガモ♂が来ていました。これは嘴や、いくらか見え始めた羽の模様でわかりました。前々回きていたカモにはその後会えませんが、マガモではありませんでした。
 赤津川の電線でハシボソカラスが何かと縺れているのが見え、そのうち少し小さめで尾の細いものが逃げました。おそらくチョウゲンボウだと思います。いつも思うのですがなぜワシタカはカラスに負けるのでしょう。
 滝沢ハムの池にはアオサギ1羽のみでしたが、カワセミが1羽縁に出てきました。近かったのでよく見られるチャンス!と思ったのにすぐ飛び去りました。後に、上人橋の下でも1羽いました。
 公園のハリエンジュでモズが高鳴きしていましたが、そのうち何か別の小鳥の声に変わりました。でも小鳥にしては大きい声で、小鳥の動きも見えず、モズの鳴きまねだったようです。
 大岩橋を越えたところで、雨がぱらついてきました。家まで引き返すには遠いので、とにかく大砂橋までいってすぐ引き返しました。公園に入ったら、止んでくれたので、コースをすべて回ることができました。
上空の雲のせいで、所によって降るようで特に山際ではよく降られます。
 
 オオバンやチョウゲンボウには会えたのですが、小鳥には、コゲラ1羽以外会えませんでした。朝よりも時間的にゆっくりできるのですが、やはりもう一度早朝にしようか、とも思います。
 
カイツブリ: 赤津川 泉橋付近1羽。
オオバン: 合流点 上人橋近く1羽。
キジバト: 公園2羽、滝沢ハム林1羽、計3羽。
カルガモ:合流点、3羽、3羽、3羽、赤津川2羽、17羽、3羽、
 大岩橋付近上空14羽、5羽、公園 西池2羽、永野川 二杉橋付近  
 4羽、1羽、計48羽。
マガモ: 赤津川♂換羽中1羽。
ダイサギ: 赤津川水田1羽、公園東池1羽、計2羽。
チュウサギ:赤津川水田1羽、1羽、1羽、2羽、2羽、計7羽。
アオサギ:赤津川1羽、公園東池1羽、計2羽。
チョウゲンボウ: 赤津川水田電柱に1羽。カラスに追い払われる。
モズ: 合流点1羽、赤津川1羽、1羽、公園1羽物まね、3羽、計7羽
カワセミ: 合流点1羽、滝沢ハム池1羽、計2羽。
コゲラ: 滝沢ハム付近サクラ並木で1羽。
スズメ:赤津川5羽、永野川睦橋付近7羽、計12羽。
ハシボソカラス: 赤津川5羽、公園3羽、滝沢ハム付近1羽、計9羽。
ハシブトカラス: 公園2羽。
オナガ: 永野川二杉橋付近1羽。
ヒヨドリ: 合流点5羽群れ。永野川1羽、5羽、計11羽。
セグロセキレイ:合流点3羽、2羽、赤津川2羽、大砂橋付近1羽、
 永野川2羽、1羽、1羽、2羽、計14羽。
ガビチョウ:大岩橋付近山林1羽。

 
 







今年のイーハトーブ
 まず、イーハトーブ館へ、興味ある参考書を探し、賢治グッズを手に入れます。ホールでは「注文の多い料理店」の映画や、作品展をやっていましたが、花巻駅に向かうバスの時刻まで40分ほどだったので、割愛しました。南斜花壇から記念館へ、いつもの通り、初秋の風のなかで、青い栗の実が落ちていたり、小鳥の声が聞こえたり、ゆっくりしたいのを我慢して「よだかの星碑」まで行き、階段を下ってバス停へ。このバスを逃すと全く予定が狂ってしまいます。
 花巻へ行くバス待ちをしていた時、地元の女性とお話できました。記念館などの建物ができるには広い面積の森林が伐採されたこと、朝晩流れる賢治の歌曲のこと、同級生の賢治の妹さんの娘さんがお母さんそっくりだったこと、清六さんが真剣に賢治の資料を守って伝えてくれたこと、など、花巻では自然な形で賢治の情報が多くの方に共有されていることを実感しました。
 賢治はなぜ自然や宇宙のことなど、あのように美しい文章にできたのかと話され、同感でした。すべての賢治への愛がそこから始まっているのだ、と思いました。盛岡の県立博物館に行くと、賢治の愛した岩石や、花巻の郷土玩具などもたくさん展示されているということも教えてくださいました。
 
 少し前、イギリス海岸の川床が見えたというニュースがあって、行ってみようと思いました。今日はバスにはめぐまれていて少し待ってバスに乗りました。バス停からだと以前来た時とは逆方向から歩くことになりました。歩行者、車椅子用の歩道が整備されて、安全に歩けるようになっていました。
 残念ながら川は水をたたえて流れていましたが、岸の古い地層ははっきり見え、クルミの木も健在でした。小舟の渡しまで行こうと思いましたが、時間も気になり、また来た道を引き返しました。

 宮沢賢治学会では、花巻市民の会の越後美智子さんが、宇都宮セミナーをとても評価して下さり、頑張ってよかった、と思いました。 懇親会でも会場を駆け回って盛り上げて下さる地元の方には頭が下がりました。
 会場で偶然手にした、「オアシス」という小冊子には、花巻の賢治の情報をいつも送り続けて下さる、泉沢善雄氏や板垣寛氏のお元気なご文章がありました。白取克之氏の「東北農民管弦楽団」の誕生と発展のお話も初めて知り感動しました。中村満敬氏のご文章では吉見正信さんの教師の一面を知りました。小さな情報源に詰まった花巻の賢治愛を強く感じました。
 
 懇親会の参加者の中で、四人で水沢の天文台で賢治を読む賢治の会を続けていらっしゃる方とお話しできました。種山ヶ原大好きな私は、最初にお話を聞いただけで、舞い上がって自分の想いを吐露してしまったようで、もっとよくお話を聞いておけばよかった、と後悔しています。
 小菅健吉さんの調査を続けていらっしゃる方、関西におられた時の小菅さんの履歴を詳しくお調べでした。一昨年、研究発表をなさった方で、そのときも宇都宮のセミナーのために栃木・宮沢賢治の会でも集めていた小菅さんの資料を差し上げられたらよかった、と思っていましたが、今日お会いできることも知らず準備できませんでした。
 私は、人と話すのも聞くのも下手なのだとつくづく反省しました。
 念願のマルカンデパートのソフトクリームもいただき、豊かな気持ちで一日が終わりました。
 
 23日は、小岩井農場へ。ここは私がが初めて一人旅をしたイーハトーブです。その時の息をするような風が忘れられません。
 詳しい方に農場の本部の建物から、姥屋敷、沼森など、賢治が歩いた場所を案内していただいたり、雫石セミナーに参加したり、少しでも小岩井農場に描かれた場所を求めました。
 その後、栃木・宮沢賢治の会の「イーハトーブへの旅」でも農場から鞍掛山から、春子谷知湿原、溶岩流まで回り、とても大きな経験ができました。
 2017年、一人で来たときは、宮沢賢治に関するイベント、展示などがたくさんあって、幸い「狼森賢治ウオーク」に参加でき、他ではできない体験となりました。今回も少し期待していたのですが、全く、そのような企画はありませんでした。
 今日は、バスという限られた手段と時間、自分の体力の中で許された小岩井農場の「まきば園」の中のみを歩きました。「まきば園」は整備された「楽しい遊園地」ですが、絶景の岩手山が望め、牛舎やサイロ、資料館は昔のままです。静かな資料館でビデオを見ながら休憩を取りました。
 林に囲まれた一角に宮沢賢治「小岩井農場パート二」の詩碑があります。周囲は綺麗に手入れされ、緑色の風を受けているように感じました。
 碑の建立時、建立の発起団体「雫石賢治の会」の「雫石セミナー」に参加させていただき、牛乳で乾杯した思い出が強く残っています。
 
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
 
 あらためてこの景色の中で読むと賢治の小岩井農場への想いが迫ってきて、震えました。
 詩碑には誰も訪れてはいませんでした。そのことで、すべてを独り占めしたような幸せな気持ちになりました。
 「詩碑」の存在は、訪れた人に、作者と作品と風景を結び付けるものとなることを初めて実感しました。今までは単なる観光名所と思えてあまり共感できませんでしたが、これからは他の詩碑も訪ねてみようかと思います。
 
 朝、花巻から盛岡に向かう東北本線は、一関―盛岡間の2両編成の通勤通学列車でした。賢治が北海道や樺太を目指した当時はもっと両数も多く、ボックスシートで、汽笛を鳴らして走っていたことでしょう。でもやはり、東北本線に乗ると賢治も乗った路線だという思いが生まれます。いろいろな作品に登場する駅名が次々に現れ、空想を呼びます。多分変わっているのに、なぜか昔のままの生活があるように思えてしまいます。
 線路際に、元気な緑の濃いクズなどが間近まで生い茂っていました。我が家の近隣では路線の周囲の雑草として刈り取られているものが、意味あるものとして残されているような気がします。
 花巻に来る途中の新幹線でも、岩手に入ると、車窓から見る林や森が緑色濃く盛り上がっているように思いました。これが東北の厳しい気候の中で育つ自然なのか、と思います。賢治の作品の根底にも、それを感じて読んでみたいと思います。
 
 今年の旅は、心に残る出会いと好天に恵まれて、短くも輝くような時を残してくれました。

 
 
 
 







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