種山ヶ原は奥州市、気仙沼郡住田町、遠野市にまたがる、物見山(種山)を頂点とした標高600〜870メートルに位置した高原地帯である。北上高地の南西部の東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれる。
宮沢賢治は1917(大正6)年盛岡高等農林学校時代、地質調査のため初めて訪れて、短歌「大正六年七月より、種山ヶ原七首」を残した。
歌稿B
五九七白雲のはせ来るときは/この原の/草穂ひとしく茎たわむなれ
五九八オーパルの/雲につゝまれ/秋草とわれとはぬるゝ/種山ヶ原
五九九白雲は露とむすびて/立ちわぶる/手帳のけいも青くながれぬ
六〇〇白雲にすがれて立てる鬼あざみより/種山ヶ原に/かなしみは湧く
六〇一目のあたり/黒雲立つとまがひしは/黒玢岩(メラフィアー)の露頭なりけり
六〇二白雲の種山ヶ原に燃ゆる火の/けむりにゆらぐ/さびしき草穂
みちのくの種山ヶ原に燃ゆる火の/なかばは雲にとざされにけり
六〇三こゝはまた/草穂なみだち/しらくものよどみかゝれるすこしのなだら
1924(大正13)年4月29日には農学校生を引率して軍馬補充部六原支部方面に遠足に行った(注1)。
1924年8月に生徒たちに上演させた「種山ヶ原の夜」には農民の軍馬補充部六原支部の払い下げへの想いが書き込まれている。
童話「風の又三郎」は種山ヶ原の風景や体験がもとになっている。
1925(大正14)年7月19日の種山ヶ原を歩いた時残されたものが「種山ヶ原」詩群である。7月18日(土)に岩手軽便鉄道の宇洞駅まで来て、小友を経て高坪あたりで野宿したと推定される(注2)。
翌19日(日)は早朝から日暮れちかくまで種山ヶ原を歩き、その日の夜、岩手軽便鉄道の最終列車に乗って花巻に帰った。
ここで残された詩群は次の通りである。
三三六 鉱染とネクタイ 一九二五、七、一九、
三六八 種山ヶ原下書稿パート一から四
おおよそ170行に及ぶ長詩で、各パートがそれぞれの内容を中心にした独立した詩篇である。その後各パートが推敲されて以下の独立した作品となる。作品と推敲課程は次の通りである(注新校本全集第三巻校異篇)。パート一→「種山ヶ原」定稿→改作「朝日が青く」(春と修羅第二集補遺)
パート二→パート三→「〔行きすぎる雲の影から〕」(春と修羅第二集補遺)
パート三→パート二→「若き耕地技手のIrisに対するレシタティヴ」(春と修羅第二集補遺)
パート四→「種山ヶ原三」→〔おれは今まで〕(春と修羅第二集補遺)
関連作品〔高原の空線もなだらに暗く〕(口語詩稿)
三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)一九二五、七、一九、
まず、作品ごとに鑑賞してみたい。
一、三六六 鉱染とネクタイ 一九二五、七、一九、
蠍の赤眼が南中し
くわがたむしがうなって行って
房や星雲の附属した
青じろい浄瓶星座がでてくると
そらは立派な古代意慾の曼陀羅になる
……峡いっぱいに蛙がすだく……
(こゝらのまっくろな蛇紋岩には
イリドスミンがはいってゐる)
ところがどうして
空いちめんがイリドスミンの鉱染だ
世界ぜんたいもうどうしても
あいつが要ると考へだすと
……虹のいろした野風呂の火……
南はきれいな夜の飾窓(ショーウヰンドウ)
蠍はひとつのまっ逆さまに吊るされた、
夏ネクタイの広告で
落ちるかとれるか
とにかくそいつがかはってくる
赤眼はくらいネクタイピンだ
種山ヶ原の夜の空の、目くるめく展開に心を奪われている。七月一九日の日付だが、作品番号からも午後九時過ぎの「蠍の赤眼」(アンタレス)の南中、「峡いっぱいに蛙がすだく」、「ここらのまっくろな蛇紋岩には」という記述からも、実際にはその前夜、七月一八日晩の夜のスケッチだったと思われる(注3)。
浄瓶星座は「みすがめ座」をさす。当時の主な天文書で、みずがめ座は「水瓶星座(アクアリウス)」あるいは「水瓶座」と言われていて、 仏教用語の「手を浄化するための水を入れておく瓶」を意味する「浄瓶」を星座名として使ったのは、仏教に関心の深い 賢治の造語かと思われるという。また、その星座に「青じろい」とつけたのは薄明を指すものか、 それとも「浄瓶星座」の持つイメージからの発想かであるという(注3)。
野風呂(のぶろ)とは、屋根がなく、周囲の自然と一体になった開放的な入浴施設で、宿泊施設などの人工的な設備を持つ露天風呂と区別される。人気のない夜の種山ヶ原に、突然言及される「野風呂の火」は、何とも人間臭い、暖かな気がする。
イリドスミンは、白金族元素で、現在では自然オスミウムと改名されている。硬度6〜7と自然白金より硬い。賢治の意識では、賢治は種山ヶ原が蛇紋岩でできていることはいつも念頭にあった。
書簡67(1918年6月6日付、父あて)では、岡高等農林学校研究生として実験をしていたところ、実験室で、白金線屑を王水に溶解して、何気なくその残渣を白金の定性分析にかけたところ、白金の反応はなく、かわりにイリジウムまたはオスミウムらしき反応が得られたこと、賢治は岩手県産の砂金の中に、何か強酸に不溶の白色の金属が含まれているのに以前から気づいていたことを思い出し、この物質はきっと白金やイリジウムやこの属の稀金属類に違いないと確信し、岩手県内には、一般にこれらの稀金属の母岩とされる蛇紋岩の分布が多いため、これは将来有望な事実かもしれないと、父に書き送っている。
現実には種山ヶ原で、蛇紋岩が確認できるのは物見山周辺ではなく北側の五輪峠であるが、制作時、賢治は「種山ヶ原」を高原全体の全体構造として意識したものであろうと言われる(注4)。
「空いちめんがイリドスミンの鉱染だ」はイリドスミンの鉱石の形状のイメージのようだ。
鉱染(こうせん)とは、熱水中の有用元素が岩石にしみ込み、そこで金属が沈殿する現象で、鉱染鉱床は、熱水が岩石と反応しながら上昇し、温度や圧力の変化によって鉱物が急速に沈殿することで形成される。チリの斑岩銅鉱床などが有名で、賢治は夜空の状態にそれを見出した。
二、三六八 種山ヶ原 一九二五、七、一九、
まっ青に朝日が融けて
この山上の野原には
濃艶な紫いろの
アイリスの花がいちめん
靴はもう露でぐしゃぐしゃ
図板のけいも青く流れる
ところがどうもわたくしは
みちをちがへてゐるらしい
ここには谷がある筈なのに
こんなうつくしい広っぱが
ぎらぎら光って出てきてゐる
山鳥のプロペラアが
三べんもつゞけて立った
さっきの霧のかかった尾根は
たしかに地図のこの尾根だ
溶け残ったパラフヰンの霧が
底によどんでゐた、谷は、
たしかに地図のこの谷なのに
こゝでは尾根が消えてゐる
どこからか葡萄のかほりがながれてくる
あゝ栗の花
向ふの青い草地のはてに
月光いろに盛りあがる
幾百本の年経た栗の梢から
風にとかされきれいなかげらうになって
いくすじもいくすじも
こゝらを東へ通ってゐるのだ
パート一からパート四まで、おおよそ170行に及ぶ長詩から、賢治が推敲の結果、清書稿とし作品である。
まばゆいばかりの日の出の光は、露に濡れたアヤメ科植物を輝かせる。この時季、高原に咲くという点では、ヒオウギアヤメだろうか。
思いがけず見晴らしの良いところに出てきた戸惑いと感動が伝わる。
ひたすら歩くことへのご褒美のようなものだ。山鳥まで飛び立つ。
賢治は最後に、「葡萄のかほり」を感じて、「月光いろに盛りあがる」大きな栗林をみつける。香りが「風にとかされきれいなかげらうになって」と、嗅覚から視覚へ変えて表現している。賢治の溢れる感覚と感動を感じることができる。
三、〔朝日が青く〕(「春と修羅第二集補遺」)
朝日が青く
ひかりはひどい銅なので
この尾根みちの樹の影は
みんな右手の谷の霧
寒天質(アガーチナス)なよどみのなかに
おぼろに黒く射込まれる
……その灰いろの霧の底で
鳥がたくさんないてゐる……
まっ赤なあざみの花がある
樹をもるわづかなひかりに咲いて
巨きなカカリヤの花とも見える
そんなに赤いあざみの花
……この尾根みちにのぼってから
まだ十分にもならないのに
靴もづぼんも露でいっぱい
流れを渉ったやうになった……
軍馬補充部の六原支部が
来年度から廃止になれば
〔約三字空白〕産馬組合が
払ひ下げるか借りるかして
それを継承するのだけれども
組合長の高清は
きれいに分けた白髪を
片手でそっとなでながら
ひとつ無償でねがひたい
われわれ産馬家といふものは
政策上から奨励されて
間にも合はないこの事業を
三十年もやってきた
さうしてそれをやったものは
みんな貧乏してゐると
さういふことを陳情する
……また山鳥のプロペラー……
もういまごろはちゃんと起きて
こっちが面白はんぶんに
山を調べに出ることを
手にとるやうに見すかしながら
何十年の借金で
根こそげすっかり洗ひつくし
教会のホールのやうになった
がらんと巨きな室のなかで
しづかにお茶をのんでゐる
……谷にゐるのは山鳥でない
かなり大きな鳥だけれども
行ったりきたりしてゐるところ
それが到底山鳥でない……
はげしい栗の花のにほひ
送って来たのは西の風だ
谷の霧からまっ青なそらへ
岬のやうに泛んでゐる
向ふの尾根のところどころ
月光いろの梢がそれだ
そのいちいちの粟のやうな花から
風にとかされ無数の紐や波になって
ここらの尾根を通るのだらう
……この谷そこの霧のなかに
三軒かある小さな部落……
東は青い山地の縞が
しづかに風を醸造する
「三六八 種山ヶ原 一九二五、七、一九、」から発展したものが〔朝日が青く〕である。
賢治は谷に歩を進めていて、朝日は青く霧に煙り、樹木の影も鳥の声も皆霧の底に沈んでいる。「種山ヶ原」定稿に描かれる高原に咲くアイリスは描かれず、「巨きなカカリヤの花とも見えると形容されるほど赤いアザミの花が描かれる。カカリアはキク科エミリア属の熱帯アジア原産の園芸種で、赤、オレンジ、黄色などがあり、どちらかというとオレンジがかった赤である。下書稿一には「センターレア モシャタとも/見え/あるひはバーバンク氏の高弟によって/新につくられた大きなカカリア」という記述も見られる。「バーバンク氏」はアメリカの園芸家ルーサー・バーバンク(1849〜1926)で、大正4年8月14日書簡9高橋秀松宛には、自分のことをバアバンクス ブラザアと称している。なおセンターレア モシャタは宿根矢車菊である。
カカリアは、書簡228昭和2年4月9日冨手一当ての花巻温泉南斜花壇所要種苗表にも記載があり、このころは一般化したと思われる
「種山ヶ原」パート一下書稿には「あざみの花はここではみんな桃いろだ/花青系(アントケアン)は一つの立派な指示薬だから/その赤いのは細胞液の酸性により」とあり、土性に関心を持ち熟知していた賢治が、土性が酸性であることを感じ取っていたことがわかる。
前作に比べると、種山ヶ原で生活する人々のことが大きく取り上げられている。
下書稿「種山ヶ原 パート三」には、「姥石の放牧場が/緑青いろの雲の影から生まれ出る/そこにおゝ幾百の褐や白/馬があつまりうごいてゐる」とあり、南方を見下ろして、姥石放牧地の陸軍軍馬補充部種山出張所を見つけたことが窺える。周辺にはいくつもの放牧場が続いていてそれぞれのまわりは土塁で囲まれていた(陸地測量図大正2年測図5万分の1地形図「人首」)ものを賢治は「十数枚のトランプのカード」と表現する。
「陸軍軍馬補充部」は、陸軍の外局の一つで軍馬の供給、育成および購買、軍馬資源の調査を管掌した。岩手県水沢地方は1872(明治5)年から軍馬を供給したとの記録があり、1898(明治31)年に胆沢郡相去村(現金ケ崎町六原)に軍馬補充部六原支部が設置され、日露戦争大勝により盛んとなったが、その後、軍備縮小の時代となり、1925(大正14)年10月に廃止された。
軍馬補充部六原支部の統括下には種山出張所があり、種山の放牧場―藤沢放牧地、上野放牧地、高坪放牧地、大文字放牧地、姥石放牧地、菜種沢放牧地、小牧沢放牧地、鷹巣放牧地の各放牧地(名称は『昭和十年版岩手県全図』和楽路屋出版に拠る。)はその管轄下にあった。物見山を頂点として、周辺の放牧地が全て含まれ、種山ヶ原はほとんどが入る。賢治はここで、そこに生活する馬産農家の生活にあらためて思い至ったのであろう。
ここで一つの疑問は、「軍馬補充部の六原支部が/来年度から廃止になれば」である。補充部の六原支部は1924年ころから廃止の噂が流れ、結局1925(大正14)10月、この詩の発想の3ヶ月後には廃止になったことになる。
前述したとおり、賢治は花巻農学校の教師として、1924(大正13)年4月に農学校の職員生徒とともに六原支部に遠足した。一つの仮定は、賢治は昭和になってから、種山の産馬組合の事情を書き込むために、パート一から〔朝日が青く〕を独立させたとき、1924年に訪れた六原支部に関する記憶で「来年度」という言葉になったのかもしれない。
軍馬補充部は、「軍馬補充部主事」(口語詩稿)にも描かれ、さらに文語詩〔玉蜀黍を播きやめ環にならべ〕(文語詩稿五十篇)にも登場する。ここでは、風景の描写とともに、開所記念の祭りの為に、踊りの練習をする農婦の姿が描かれる。
さらに文語詩では、仕事の合間に踊りの練習をやらされる農婦、所長として赴任している中佐、そして農婦に踊りの中止させる現場の指揮をしている技手の、三者の立場が描かれる。
賢治は、その存在を、管理を任されていた農家、軍から派遣されている所長、そこで働く技手、仕事の担い手として駆り出されている農婦、それぞれの立場で見つめていって、文語詩制作時にも重要な事項として取り上げたのであろう。
高清は多くの詩に登場し、実在の人というよりも、複数のモデルから虚構化された農村の指導的立場にある人物と思われる(注6)。
関連詩〔高原の空線もなだらに暗く〕 (口語詩稿)では、高原の夕景のなかに、馬の動きや世話をする人びとを中心に描き、「高清」については、〈そこに四疋の二才駒 /あの高清の命の綱も /首を垂れたり尾をふったり /やっぱりじっと立ってゐる /蛾はほのじろく艸をとび /あちこちこわれた鉄索のやぐらや /谷いっぱいの青いけむり/この県道のたそがれに / あゝ心象の高清は /しづかな磁製の感じにかはる〉とある。
古くからの家業を守りながら、時代の波の中で没落せざるを得ず、でも誇りを保って静かに対峙している像を「しづかな磁製の感じ」に象徴させている。
もう一つ、文語詩「開墾地落上」(文語詩稿一百篇)では、下書稿〈「村会議員」「高清」〉から見て、乾杯の音頭を取るような有力者となっている。」
軍の奨励による軍馬の供給は農家にとって実りはなく、借金を重ねて家の中には家財道具などがなくなっている状態で、廃止になったら放牧場などを無償で払い下げてほしいという陳情を考えている、冷静に、幾分したたかに、事態を見つめていることが、「静かにお茶をのんでいる」という言葉に表される。
霧に煙っている谷には、ヤマドリ似た鳥がプロペラのように羽音を響かせているが、なぜかここで、こだわってヤマドリを否定している。
強烈な栗の花の匂いが風に運ばれ、「谷の霧からまっ青なそらへ/岬のやうに泛んでゐる/広い高原の遙か向こうの尾根の辺り」には、栗の群落が月光色の花を付けているのが見える。
「種山ヶ原」定稿での表現をさらに細かく、栗のにおいを、「そのいちいちの粟のやうな花から/風にとかされ無数の紐や波になって/ここらの尾根を通るのだらう」と、まず小さな花を感じ、さらに香りを一つ一つ花から発すると感じ取り、さらに一つ一つを運ぶ風を「無数の紐や波」と表現する。香り―栗の花―風の連想の中で、香りは風に乗って、「紐」という形あるものとして捉えられている。賢治は共感覚者で鳥の声の流れも「紐」と視覚で表現している(注7)。
視線は東の方角の山に向けられる。東にははるかかなたの山が見え青くきれいな縞模様はこちらの霧とは別世界でそこで「風は醸造され」て、またこちらに戻ってくる、と思う。
「風を醸造する」と風の表現になるのは〔朝日が青く〕定稿で初めてである。風が吹き去るだけでなく、新しく生まれ、循環していくことを、確認している。
この東の山地に目を向けるのは、〔朝日が青く〕のみで「種山ヶ原」下書稿一にも定稿にもない。「この谷の霧のなかに三件かある小さな部落」、これは種山ヶ原に馬を放牧している農家だろうか。
種山西麓、江刺側には「荒廃裸地」が多く、上閉伊郡の上野放牧地まで馬を預けなければならなかったと推定される。物見山から西の立石に至る郡境の稜線沿いには数カ所の散岩の記号があり、江刺郡地質調査に参加した賢治が江刺郡井手村から出した、書簡39大正6年9月2日保阪嘉内宛てハガキには丸坊主の山と数本の赤松、「かなしめるうま」という注釈の付いた馬の絵が描かれ、まさに「荒廃裸地」の姿である。
童話「種山ヶ原」で上の原(上野放牧地(昭和10年岩手県全図)に行って迷った嘉助は、底なしの谷や、野馬、物見岩をみたりする可能性があり、嘉助の家は山本(奥州市江刺米里山本)にあったと仮定すれば、盛街道から井手にも出られ、谷二つ越えて木細工小学校にも通う可能性がある。
〔朝日が青く〕を発想したとき、「種山ヶ原」の自然の中で、繰り広げられる、馬産農家のこと、種山に存在する酸性土のこと、荒廃裸地のこと、そこに生きる馬たち、人びと、取り巻く風……。風の状景を振り返ったとき、一層の愛着を込めて丁寧に風を描き直したのかも知れない。
その他、「種山ヶ原」から派生した詩を見てみよう。
四、〔行きすぎる雲の影から〕(「春と修羅第二集補遺」)
行きすぎる雲の影から、
赤い小さな蟻のやうに
馬がきらきらひかって出る
みんないっしょにあつまってゐる
かげらふのためにはげしくゆれる
小さな藪をせなかにしょって
白いずぼんのをとこが一人
馬にむかって立ってゐる、
それもやっぱりぐらぐらゆれる
たぶんは食塩をやるために
ラッパを吹いてあつめたところ
うしろは姥石高日まで
いまさわやかな夏草だ
それが茶いろの防火線と
緑のどてでへりどられ
十幾つかにわけられる
つるつる光る南のそらから
風の脚や雲の影は
何べんも何べんも涵って来て、
群はそのたびくらくなる
草の年々へるわけは
一つは木立がなくなって
土壌があんまり乾くためだ、
木のあるところは草もいゝし、
窪ほど草がいゝやうだ
はんをつけるといゝなと云へば
あの冷静な高清は
そんな費用があるくらゐなら
豆をも少し食はせるといふ
一つはやっぱり脱滷のためだ、
採草地でなく放牧地なら
天然的な補給もあり
地力は衰へない筈だけれども
ずゐぶんあちこち酸性で
すゐばなどが生えてゐる
どこか軽鉄沿線で
石灰岩を切り出して
粉にして撒けばいゝと云へば
それはほんとにいゝことか
畑や田にもいゝのかと
さう高清が早速きく
もちろんそれは畑にもいゝ
アメりカなどでもう早くからやってゐる
さう答へれば高清は、
それならひとつ県庁へ行って
株式会社をたてるといふ
国家事業とか何とか云って
株をあちこち募集して
十年ぐらゐの間には
誰がどうにかしたでもなく
すっかりもとをなくしてしまふ
馬はやっぱりうごかない
人もやっぱりうごかない
かげらふの方はいよいよ強く
雲影もまたたくさん走る
〔行きすぎる雲の影から〕(「春と修羅第二集補遺」)は「種山ヶ原」下書稿一パート二から発展した。広い高原に集まる馬が描かれる。馬は「きらきらひかって」いる。肯定的な描写だ。高原を渡る雲影、風の脚や雲の影は「 何べんも何べんも涵って来て、/ 群はそのたびくらくなる」種山ヶ原独特の広大な風景だ。
その中で、土地の古老の想いに至る。
牧草地の衰えを気に掛ける「高清」と適当な答えを出す相手、「一つはやっぱり脱滷のためだ」の、脱滷は主に「金属加工や化学プロセスにおいて、溶湯やスラグ中の不純物を除去するための処理」のことだが、ここでは文脈からすると酸性の土地を改良するための手段のようだ。
様々なことを切り出す相手に、結局うまくいかず十年くらいで元も子も失くすということを、伝えられたのか、否かは明らかにされない。
「つるつる光る南のそらから/ 風の脚や雲の影は/何べんも何べんも涵って来て、/ 群はそのたびくらくなる」と、大きな種山ヶ原の風景の中に、相反する馬産の暗い未来を、失望を込めて描いたのであろうか。
五、「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」(「春と修羅第二集補遺」)
測量班の人たちから
ふたゝびひとりぼくははなれて
このうつくしいWind Gap
緑の高地を帰りながら
あちこち濃艶な紫の群落
日に匂ふかきつばたの花彙を
何十となく訪ねて来た
尖ったトランシットだの
だんだらのポールをもって
古期北上と紀元を競ひ
白堊紀からの日を貯へる
準平原の一部から
路線や圃地を截りとったり
岩を析いたりしたあげく
二枚の地図をこしらえあげる
これは張りわたす青天の下に
まがふ方ない原罪である
あしたはふるふモートルと
にぶくかゞやく巨きな犁が
これらのまこと丈高く
靱ふ花軸の幾百や
青い蝋とも絹とも見える
この一一の花蓋と蕋を
反転される黒土の
無数の条に埋めてしまふ
それはさびしい腐植にかはり
やがては粗剛なもろこしや
オートの穂をもつくるだらうが
じつにぼくはこの冽らかな南の風といっしょに
あらゆるやるせない撫や触や
はてない愛惜を花群に投げる
「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」(「春と修羅第二集補遺」)「種山ヶ原パート二」から「パート三」なり、さらにそこから発展した。
放牧場整備のために除去されるIrisについて語られる。
耕地課とは 昔の稗貫郡か江刺郡の役所の一つの部門で、農学校の教師だった賢治がこの日、耕地課の測量の手伝いをする目的で訪れていたことが推察でき、「耕地課技手」は賢治自身である。そこで目にしたものは、Irisの群落だった。Irisはアヤメ科アヤメ属の植物の総称で、ここでは高原に自生する花種、「紫の群落」をつくっている。詩中で賢治は「かきつばた」と言っている。この詩の先駆形、「種山ヶ原」下書稿パート二は
パート二
わたくしはこのうつくしい山上の野原を通りながら
日光のなかに濃艶な紫いろに燃えてゐる
かきつばたの花をなんぼんとなく折ってきた
じつにわたくしはひそまる土耳古の天の下の
ひとりの貪欲なカリフであらう
それはなるべく(数文字不明)
華麗な花を奪ひあつめて来たのだから、
且つはいくたびこのなだらかな高原を刺し
その黒褐の腐食の量や表土の深さを記録して
勝利に酔ったひとりのカリフでわたくしはある
いまわたくしは胸にもあまる花をいだいて
このせい低いはんの木立のなかに来た
ここはつめたい亜鉛の陰影と
くちなしいろの若羊歯の氈
苔もゆたかにしめっているし
おそらく瓣の燃えつきるまでは
花の品位は保たれやう
……かくこうがいきなり上を叫んで通る……
いまわたくしはこれらの青い蠟や絹からつくられた
靭ふ花軸をいちいちにとり
あの噴泉を中心にして やがてはこゝに
数箇の円い放射部落を形成して
そのうつくしい双の花蓋を
きららかな南の風にそよがせるなら
……かくこうよ何を恐れてさうけたたましく啼き過ぎるのか……
はんのきは黒い実をつけ
その実は青いランプをつるし
草には淡い百合を咲かせる
……蜂は梢を出没し……
向ふではせんの木の(一字不明)が
踊りのやうにゆれてゐて
せはしく苔や草をわたる
朝の熊蜂の群もある
あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた
何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう
……寂かな黄金のその蕋と
聖らかな異教徒たちの安息日……
わたくしはこの数片の罪を記録して
風や青ぞらに懺悔しなければならない
まだ花の美しさに心を奪われて摘み取り、大地を突き刺して測量してカリフの如く酔っていると言う感覚が強く、懺悔の心は最後の一行のみ、風や青空に対してのものである。定稿「若い耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」では、この測量のあとに来るものに想いが及び、さらに現実的な強い言葉による懺悔が書かれる。「巨きな犂」によって覆され、地中に埋められ黒土に変わり、作物を実らせることに貢献するIrisではあるが、賢治の胸の中には咲き乱れるIrisの残像とともに怒りとも切なさともつかないものがこみ上げている。
まず「古期北上と紀元を競ひ/白堊紀からの日を貯へる/準平原の一部から」と土地の成り立ちから考える。遠い歴史と太陽の遺産である大地、人間の都合で人間の社会に組み込まれていく大地への哀惜と、輝く紫色の消失への悲しみが、力強い言葉の端々から感じられる。「種山ヶ原」下書稿では、描ききれなかった想いを、あらためて詩稿をつくることによって表したのだと思われる。
「若い耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」(「春と修羅 第二集補遺」)
下書稿後半には、
二列の低い硅板岩に囲まれて
たゞ恍として青ぞらにのぞむ
このうつくしい草はらは
高く粗剛なもろこしや
水いろをしたオートを載せ
向ふのはんの林のかげや向ふのはんの林のかげや
くちなしいろの羊歯の氈には
粗く質素な移住の小屋が建つだらう
とは云へそのときこれらの花は
無心にうたふ唇や
円かに赤い頬ともなれば
頭を明るい巾につゝみ
黒いすもゝの実をちぎる
やさしい腕にもかはるであらう
むしろわたくしはそのまだ来ぬ人の名を
このきらゝかな南の風に
いくたびイリスと呼びながら
むらがる青い花紅のなかに
ふたゝび地図を調へて
測量班の赤い旗が
原の向ふにあらはれるのを
ひとりたのしく待ってゐやう
開墾された土地には人間の生活が始まり、そこにIrisと同様に可憐な女性が登場することを想像する。定稿では測量と、その後の開墾の予想の事実だけを描き、そこに広がっていたIrisの美しさと、開墾の無残さを一層強く感じさせる。
「Wind Gap」と「レシタティヴ」
Wind gap は地学用語で「風隙」、水隙の対語で、水のない谷である。誤解を避けて幾つかの解説をそのまま記す。
尾根筋の鞍部で,かつては川の流路の一部であったが 争奪を受けて恒常流を失った化石河川。横ずれ断層に より形成された閉塞丘により形成される場合がある。(応用地質用語集委員会「応用地質学用語集 」(2029,11,25 日本応用地質学会JSEG_yougo.pdf)
谷地形は河川の侵食により形成されるため、谷底には水流があるのが普通である。このような谷のことを水隙と呼び、それと対比させる形で水流のない谷のことを風隙と呼ぶ。水流により谷が形成された後に、何らかの地学的なイベントが起こり、水流が消失すると形成される。河川争奪により、河川の水流がなくなることによってできる場合や、活断層の運動によって谷が切断されできる場合がある。地形学的な意義は、風隙が稜線付近に連続的に存在する場所には、活断層があることが多い。そのため、活断層調査において、その分布が調べられることが多い。(ウィキペディアの解説)
風隙の成立段階においては、風そのものとは関係ない。
それで、英語の意味から調べてみようと研究社『新英和大辞典』 第五版 (大型版初刷 1982年9月)のWind Gap の項を見ると
川の流れが変わったためにもとの谷底部分が山の背の一部にV字形の鞍部になっている所、
風の通り道になる尾根の切れ目。
賢治がこだわったのは、この「風の通り道」だったのではないか。詩の下書稿「種山ヶ原」のパート二の書かれた第一葉裏面にもWind Gapのメモがある。
さらにwind gapは、もう一例〔青ぞらは〕一九二七、四、二二、(詩ノート 下書稿) に
……青ぞらは
ひとの白い咽喉を射る
山鳩ねむげにつぶやくひるま
風の〔軋〕りと wind gap の上の巨きな石窟……
があり、下書稿では最初pass (峠)としたものを、wind gapに変え、「空谷」を併記してある。管見した限りでは、「風隙」を用いた詩はなく、賢治は「wind」という「風」を表す言葉を大切
に使ったのだと思われる。
賢治は「風」という言葉、または文字への愛着で、「風」の付く言葉を使っているかとも考え、ネット上で拾った地質学用語、風成、風積、風洞、風りょう石、『土木工学辞典 』(日刊工業)に掲載の用語、風荷重、風琴振動、風域図、風洞試験、『地学事典』(古今書院 昭和63)に掲載された風圧、風化殻、風化阿系列、風化残量、風隙、風穴、風成層、風簸、風化層、風食、風塵、風成砂、風積土、風魔、を拾い出してみた。さらに「応用地質学用語集 」には五十余りの「風」を冠する語があり、これらの事項は何らかの風の影響を受けているが、詩には登場しない。
童話では「青木大学士の野宿」に、岩石の風化そのままの意味で使われている。
賢治は、この詩では風によって生じる状態ではなく、風の吹く状景に惹かれていたではないか。
「レシタティヴ」は、オペラやオラトリオで叙述や会話の部分に用いられる朗読調の歌唱、叙唱である。賢治が多くの西洋音楽のレコードを持ち、豊富な音楽体験があることはよく知られたことである。西洋音楽に自作の詞をつけ、作品中にも音楽用語がたくさん使われている。例えば「風林」(『春と修羅』)では「向ふの柏木立のうしろの闇が/きらきらつといま顫えたのは/Egmont Overture にちがひない」と、光の状態を比喩的に音楽用語で捉える。
賢治が特に気に入っていた楽曲の「レシタティヴ」を探してみたが、膨大な賢治の音楽体験を数日で探すことは困難である。ここでは、語の意味そのままに、歌い込むようにIrisの美しさを描こうという気持ちを表したのではないかと思う。またレシタティヴ―序唱―と言うことは、この後もっとこの詩を発展させようという意気込みだったのかも知れない。
この二つの言葉が使われているということは、詩群の中でもこの「若い耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」が、賢治が詩的な表現に想いを寄せていたことを感じ取ることが出来る。
六、〔おれはいままで〕(「春と修羅 第二集補遺」)
おれはいままで
房のつかない上着など
まだ着たことがないからなと
樹を漏ってくる日光と
降るやうな鳥の声のなかで
円い食卓にふんぞりかへって
野豚のハムを噛みながら
高清ラムダ八世の
ミギルギッチョがぶつぶつ云ふ
ミギルギッチョのかみさんは
ミギルギッチョの斜向ひ
椅子からはんぶんからだをねぢって
胡桃のコプラを炙いてゐる
すましてぢゅうぢゅう炙いてゐる
ミギルギッチョは手を出して
こんどは餅をつまんでたべる
あゝ 草いきれ、汗、暑さ、
設計された未来の林園とでもいふやうな
これら逞ましい栗の巨木の群落と
草の傾斜をかけおりてくれば
ここはいちめんイリスの花だ
その濃艶な紫の花を
こんなにあちこち折ったのは
もちろん馬のしわざである
なぜならこゝは
いちばんはやる馬の水のみ場所らしい
馬がわれがち流れにはいって
ならんでのどをごくごくやったり
厭きてはじっと水に蹄をひたしたまま
しっぽをばしゃばしゃふったりする
さういふところをたしかに見たのは
あの柳沢の湧水だ
それがいまにも嵐のやうに
上の原からおりて来て
ここらの花をみんな潰してしまひさうなのは
じつはこっちが暑く渇いてゐるためだ
たくさんの藍燈を吊る
巨きな椈の緑廊を
紅やもえぎにながれたり
暗い石油にかはったり
水はつめたくすべってくる
……掬へば鱗の紋もでき
底の砂にもうつってひかる……
けさ上の原を横切るときは
種山モナドノックは霧
ここは一すじ
緑の紐に見えてゐて
そのなかいっぱい
いろいろな玻璃器を触れ合せるやうに
鳥がたくさんないてゐた
それがあんまり細くはっきりきこえたので
はじめはこゝらの七月が
はやくも秋の虫をなかせるのかとさへ
しばらくあやしみながめてゐた
いま 空はもうひじゃうな風で
雲もひかってかけちがひ
ひぐらしもなけば冠毛もとぶ
にぎやかな夏のひるなので
鳥はもう一ぴきも鳴いてゐない
〔おれはいままで〕(「春と修羅 第二集補遺」)は種山ヶ原パート四から発展した「種山ヶ原 三」のさらなる発展形である。
人物の描写で詩が始まる。「房のつ」く服は、「有爵者の大礼服は上着は竪襟の燕尾服で 房のある肩章をつける。」とあり、階級が上の軍服などの装飾も房があるので、「おれはいままで/房のつかない上着など/まだ着たことがないからな」と言っているのは、自分の身分を誇っている人物であろう。
「高清」の前述のイメージは、古老、実力者という意味合いだが、「ラムダ八世」はあまり好感の持てない関係者か子息かである。「ミギルギッチョ」は左利きの意味で当時ではマイナスイメージだったのではないか。
下書稿の「種山ヶ原三」では「おれはいままで/ 房のつかない上着など/まだ着たことがないからな)と/さう云ったのは誰だったらう」とあり、ふと思い出した風景であった。
ここで現実の風景として描かれるのは、今ここに生きる人の正確な描写である。草いきれの中で感じつつ通り過ぎ、馬が遊ぶさまには、かつて見た柳沢のことを思い、ブナの林と水の流れに少し安らぐ。しかし、昼近く、鳥の声も消えてしまった。
この詩は、今を生きる人間を、少し冷めた目で見つめて、描くことを目的に、構想されたのだろうか。
七、〔高原の空線もなだらに暗く〕(「口語詩稿」)
高原の空線もなだらに暗く
乳房のかたちの種山は
濁った水いろのそらにうかんで
みちもなかばに暮れてしまった
……ひるは真鍮のラッパを吹いて
あつまる馬に食塩をやり
いまは溶けかかったいちはつの花をもって
ひとは峠を下って行った……
その古ぼけた薄明穹のいたゞきを
すばやく何か白いひかりが擦過する
そこに巨きな魚形の雲が
そらの夕陽のなごりから
尻尾を赤く彩られ
しづかに東へ航行する
ふたたびそらがかがやいて
雲の魚の嘴は
一すじ白い折線を
原の突起にぎらぎら投げる
音もごろごろ聞えてくれば
はやくも次の赤い縞
いままた赤くひらめいて
浅黄ににごったうつろの奥に
二列の尖った巻層雲や
うごくともない水素の川を
わくわくするほど幻怪に見せ
つぶやくやうなそのこだま
凸こつとして苔生えた
あの 玢岩の 残丘(モナドノック)
そのいたゞきはいくたびふるひ
海よりもさびしく暮れる
はるかな草のなだらには
ひるの馬群がいつともしらず
いくつか円い輪をつくり
からだを密に寄り合ひながら
このフラッシュをあびてるだらう
そこに四疋の二才駒
あの高清の命の綱も
首を垂れたり尾をふったり
やっぱりじっと立ってゐる
蛾はほのじろく艸をとび
あちこちこわれた鉄索のやぐらや
谷いっぱいの青いけむり
この県道のたそがれに
あゝ心象(イメーヂ)の高清は
しづかな磁製の感じにかはる
高原には夕暮れが訪れ、馬の世話をした人たちも帰っていく。空には稲光が始まる。川は「幻怪」に雷鳴に残丘は震える。不安なときが流れていく。
高清の大切な馬もじっと耐えている。「あゝ心象(イメーヂ)の高清は/しづかな磁製の感じにかはる」と高清の姿と重なるようである。
「種山ヶ原詩群とその周辺 二」に続きます。