宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
短歌に吹く風 (一) 〜われらいま校歌をうたふ先生もうたふ〜     

 賢治は中学時代に、同郷の石川啄木に触発されて短歌を詠み始め、そこから文学に開眼していきました。妹トシ、シゲ、賢治によって木版刷り罫紙48枚に筆写された歌稿Aと、賢治の自筆による、藍色400字詰め原稿用紙に筆写された歌稿Bとが残されています。この稿では主に歌稿Bに拠ります。
 
 最も早い短歌の記録は、
〔明治四十二年四月より〕と括られる、1909(明治42)年、賢治13才からの短歌で、盛岡中学校入学の様子や、寮生活の模様を描いています。風を描いたものは2首あります。
 
0a1 中の字の徽章を買ふとつれだちてなまあたたかき風に
    出でたり  
 淡々とした叙景歌ですが、〈中の字の徽章〉によって中学入学の事実、〈つれだちて〉で、父と一緒の面はゆさ、父から離れてこれから始まる独立した生活への期待と不安などが伝わってきます。  
 風が〈なまあたたか〉いのは何を表すのでしょう。4月という季節、冬が去ったという実感、新しい生活への不安、爽やかな希望を感じさせるものでもないこの感覚は、〈実感〉でしょうが、どんな思いがあったのでしょう。
 
0e1 のろぎ山のろぎをとればいたゞきに黒雲を追ふその風ぬ  
   るし
0f1 のろぎ山のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそは
  れにけり
 
 〈のろぎ〉は、盛岡周辺では「のろぎ石」、「滑石」と呼ばれ、主に北上山脈で採れ、雑貨屋で売られていたと言います。子どもたちが地面に描いて遊ぶのには必需品でした。凝灰岩の熱水変質によって生成した粘土鉱物の集合体で、白色を呈するカオリナイト、セリサイト、セリサイト-モンモリロナイト混合層鉱物などの粘土鉱物からなり、粘土鉱物の含有量によって石筆に適した硬さのものから水に溶ける柔らかいものまで様々でした。
 〈のろぎ山〉は南昌山に連なる山で、賢治は、中学校の寮で一緒だった同級生の藤原健次郎とともに水晶や「のろぎ石」を採取していたことが知られています。 南昌山は古くから天候を司る霊峰として地元の信仰を集め、「南昌山が曇れば雨が降る」と言い伝えられていました。
 南昌山周辺の地理を見ると、矢巾から煙山ダムに行く途中にあった「高橋商店」は、「鳥をとるやなぎ」に出てくる〈権兵衛茶屋〉のモデルで、物語では、そこで〈私〉は、健次郎がモデルと思われる〈慶次郎〉に、その近くに鳥を吸い込む楊の木のあることを教えてもらい、2人は後日一緒に出かけます。
この周辺の河原でも〈のろぎ〉は取れ、さらにここから〈のろぎ〉を拾いながら遡ると、「のろぎ山」の急斜面に着きます。でも、そこから先進むことが困難だったようです。
この短歌も、黒雲がかかって、言い伝えの通り雨の前兆の生ぬるい風が現れたことを詠っています。雨の前兆として吹く〈ぬるい〉風を表すと同時に、黒雲を追い払ってほしいと願う賢治には、その風が手ぬるいと感じたのかも知れないともいわれています。(注1)
 この二作には、〈のろぎ〉の取れる綺麗な川や、鳥を吸い込んでしまう木のある野原のような大自然への憧れがあると思います。あるいはそれは、盛岡に出てきて初めて知った世界だったのかも知れません。
 
この年の短歌の風が二作とも、〈ぬるい〉のは、なぜでしょう。

 「明治四十四年一月より」に括られる、1911(明治44)年からの短歌で、詠われている風は、
 
20 みなかみのちさきはざまに秋風の(建てられし)
   村やさびしき田に植ゆる粟

20 みなかみのちさきはざまに建てられし村やさびしき田に  
         植ゆる粟(歌稿A)
 
 〈秋風〉という決まり言葉の風で、決まり言葉の〈さびしき〉が導かれています。これも実感でしょうが、〈田に植ゆる栗〉という、米を植えることの出来ない山村の〈さびしさ〉も詠っています。
 以下の短歌では、いずれも、〈風〉のなかに、何かしらの心情を詠いこんでいます。
 
33 いたゞきのつめたき風に身はすべて/剖れはつるもかな           しくはあらじ    
 
 ここでは、登頂した感動をいっそう強く感じさせる風に、そこにすべてを託した心が見えます。背景は不明です。この感動を与えられる山は、中学入学以来、頻繁に登っていたと言われる岩手山と推測されます。
      
40 から草はくろくちいさき実をつけて/風にふかれて秋は            来にけり
40a41こぬかぐさうつぼぐさかもおしなべて/かぼそきその実
           風に吹かるる    
 
 〈から草〉はマメ科ウマゴヤシ属ウマゴヤシで、牧草として江戸時代に移入した帰化植物なので
〈から草〉と呼ばれたのでしょう。草丈は30pほど、「ポラーノの広場」に登場するシロツメクサとは異なり、黄色いマメ科特有の花を付け、トゲのある螺旋状の5ミリほどの種子がつきます。
 コヌカグサは、イネ科ヌカボ属で、草丈は50〜100cm程度になり、花穂は長さ10〜20cm、小穂は長さ2〜2.5mmで紫色になります。実は長さ約1ミリで淡褐色ですが熟して落ちたあとに苞穎が残り賢治はそれを実と捉えたのかも知れません。原産地はヨーロッパで、牧草として導入されましたが積極的に利用されず、雑草化して日本全国に分布し、日当たりの良い道端、畑地、牧草地、樹園地に生えます。
 賢治作品によく登場する〈風穂〉の風景を作る植物です。ここでは、広い野原全体が風に吹かれる大きな風景ではなく、穂先に着く小さな実に目を向けています。
 ウツボグサは、シソ科ウツボグサ属、5〜7月頃で、3〜8 cmの角ばった花穂に紫色の唇形花を密集した花を穂の下から上へと順に咲かせます。夏には花穂が、暗褐色に変化し一見枯れたように見えるところから、夏枯草(かごそう)ともよばれ、枯れかかった花穂は、生薬「夏枯草」として、消炎、利尿剤になります。乾燥した花穂に、4個の種子ができます。
風に吹かれる景色が2首とも種子に注目しているのはなぜでしょう。
 
47 専売局のたばこのやにのにほいもちてつめたく秋の風が
        ふく窓  
47a48 たばこやくにほひつめたく風吹きて/今日も放課の  
     時間となりぬ           
47b48 たばこ焼くにほいつめたくひゞいれる白きペンキの  
      窓を吹く風             
47c48 専売局のたばこを燃せるにほいもて秋の風吹く白き
      窓かな 
 
盛岡市の〈専売局〉は、1905(明治38年)に現在の盛岡駅付近に盛岡煙草製造所として誕生しました。その後、1926(大正15)年12月、専売局盛岡出張所の工場と事務所として盛岡市上田の現在の岩手県立中央病院の場所に移転 し、1972(昭和47)年10月、盛岡市みたけに新工場建設・移転まで操業していました。現在は廃業しています(注2)。
短歌では、学校の放課時に、煙草の匂いが流れた、ということになります。このときは、校舎は盛岡市内丸で、〈専売局〉は駅前の盛岡煙草製造所だった筈ですが、煙草の匂いが届く流れる距離だったのか、あるいは別の意味があるのか謎が残ります。
 また、まだ〈盛岡煙草製造所〉だったのですが、中学生が〈専売局〉という名称を使うのは、周囲での通称だったのかもしれません。
 なぜ、専売局や煙草の匂いが取り上げられたのでしょうか。賢治がまだ幼少時代の1900(明治33)年、「未成年者喫煙禁止法」が制定されていたので、喫煙の経験があったとは思えません。でも何かしら誘惑するものが感じられたのでしょうか。
 秋風は既に冷たく感じられています。東北では秋の中に冬の前触れを感じるといいます。冷たい風が運ぶ、一種危険なものの匂いが、少年の胸に響いたのかも知れません。
 
56鉛筆のこなによごれてひゞいれる白きペンキを風がふくな  
     り
(A56鉛筆のこなによごれししてのひらと異端文字とを風が
     ふくなり  )  

 「白いペンキ」ということでは前作と同時期の作とも思えますが、少し時が立っているような気もします。
 「異端」は、「正統」から外れたこと、「正統」と対立する異説で、多くは宗教上、正統を自負する教派が、対立する異説を称していった物です。
 短歌の詠まれた時代の賢治にとっての「正統」が何であったか、つかめません。まだ仏教の宗派の対立を自覚するまでには至っていないし、賢治にとってはキリスト教も「異教」ではありません。強いて言えば、親交のあったプジェ神父の盛岡のカトリック教会に対するハリストス盛岡正公教会、入ってきたばかりのエスペラント文字などかと推測します。いずれにしても歌稿A、歌稿Bと少し意味合いが違ってしまいますが、〈風が吹く〉風景の中に読み込んでいるのは、少しすさんだ情景です。
 
60 潅木のかれは紅き実かやのほの銀にまじりて風に顫ふ
          か。        
 
 潅木は、現在では低木と称され、成長しても樹高が3メートル以下の木です。ここに登場するのは、赤い枯れ葉や実を付ける広葉樹で、萱の穂の銀色と混じって色美しく、風に吹かれていっそう繊細な美しさを呈していることを描きます。「風に顫ふか」という疑問形は、美しさに感動して、改めて風に吹かれていることを確認しているのでしょうか。この表現も短歌の初心者とは思えない巧みさがあります。
 
75 風さむき岩手のやまにわれらいま校歌をうたふ先生もう
        たふ      
  賢治は中学入学以来、頻繁に岩手山に登っています。
年表に確認できるのは、まず2年生の1910(明治43)年6月18日、19日、博物の授業で植物採集の為に登りました。また同年9月23日、上級生7名と同級生3名、青柳亮教諭引率で登っています。1911(明治44)年1学期には単独で登っています。
 この歌を含む、岩手登山を詠った75から79は、「明治四十四年一月より」の最後に〈補〉とされていて、1920〜21年の歌稿編集時に、今まで除外していたそれ以前の作品を追加したと推定できますので、〈先生〉は青柳亮教諭と見て間違いないと思います。青柳教諭についての記述はその後も多く
 
「小岩井農場」下書きメモ 
〈岩手山に関する追懐青柳教諭〉
〈あれが網張りにいく道だ/青柳教諭の追懐〉 
〔痩せて青める汝が頬は〕下書稿「青柳教諭を送る」文語詩未定稿
〈……愛しませるかの女(ひと)捨て/おもはずる軍に行かん/師のきみの頬のうれるふ(ママ)を〉、
「岩手山巓」下書稿一  文語詩稿一百篇
〈風すでにこゝに萎えしを/汝が横頬何ぞさびしき/……/駒草は焼き砂に咲き/
ひとびとは高く叫べど/残りたる雪をふみつゝ/何をかも汝がさびしめる/……〉    
 
と年月を経てもなお、賢治の心の中に重要な部分を占めています。
 青柳亮(1889〜1942)は松江市生まれ、東京外国語学校卒業後、1910年盛岡中学校教師嘱託となりましたが、1911年1月、松江聯隊に入隊の為、中学校を去ります。賢治とは1年足らずの交流でしたが、そのときの追憶は、年を経て回顧され、師を思いやる痛切な思いに満ちています。
青柳は、中学時代から演劇への芽生えがあり、東京外国語学校においては、専攻外国語によるシェークスピア劇の上演があり、参加していたと推定されます(注)。その情熱は中学生になったばかりの賢治にも受け継がれ、のちの賢治の演劇活動にもつながったのでないでしょうか。
 〈先生もうたふ〉の一句は、同じ歌を一緒に歌ってくれた教師、それまで尊敬の念はあっても遠かった教師との距離が一瞬に縮まった喜びが感じられます。〈風さむき〉と置くことで、大きな自然のなかで見つけた心の結びつきの暖かさが際だってきます。
  賢治の短歌の初期の部分を読んでみました。すでに事実を見つめる眼の確かさ、畳語などの巧みな使い方など、文学の芽生えを感じさせます。残った疑問を解消しながら、少しずつ読み進んでいきたいと思います。
 
注1 小川達雄『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』(河出
   書房新社 2005)
注2 国内たばこ工場(盛岡工場、米子工場、小田原工場)の
   廃止について
   (「JT news rerease」日本たばこ産業株式会社   
    2009)
注3 島田隆輔『青柳亮「メドレー先生を偲ぶ」を読む―
  「青柳教諭を送る」稿の生成にかかわって』(『宮沢賢治研  
  究Annual vol.25』  2015 宮沢賢治学
  会イーハトーブセンター)
 
参考文献 上記図書

 
 





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