宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
二、外山詩群の言葉たち
 背景は、夜、目的地、種馬検査所に向かいながらひたすら歩く林の中、風は様々な感覚でとらえられる。音、味、色、香り、その他の印象、と多様を極め、後の詩群での表現とは違って一つの特徴を示す。ここに賢治の共感覚的表現が生まれたのではないかとさえ思われる。
 詩の流れに沿って展開する様々な風の風景を、追ってみると、T音 U色と香り V透明化する肉体 W味 X組成 Z光と香り [月光とエステル \感触 ]日の出と希望, Ⅺ明るい風、かぐはしい風、「やさしい化性の鳥」と「石竹いろの時候」と―賢治の現実、になろう。一つ一つ考えてみよう。
 
T
 ◎風のやうに峡流も鳴る
 〔どろの木の下から〕 一九二四、四、一九、では、作者の歩行の始まり、林の中にいて、川の流れの音を聞いている。他の多くの作品のように、作者は風に吹かれてはいない。遠くで聞こえる渓流の音に対する直喩である。
 川は遠く目にすることはできないが、静かに続けて流れてくる音は風の音に似ている。遥かな距離を渡ってくる音として風に喩えたのだろうか。
 詩の締めくくりの言葉として、小さな一つの安心の表現だろうか。

U色と香り
 ◎青い風、紫蘇の香り
 
 「一七一 〔いま来た角に〕 一九二四、四、一九、」では、青く香りを持つ風が描かれる。
 
  ……シャープ鉛筆 月印/紫蘇のかほりの青じろい風……
 
 前章でふれたように、「シャープ印鉛筆」はないが、すでにシャープペンシルは徳川家康の時代に輸入され、日本でも1877年、三菱 小池で製造され1915年年早川から繰り出し式鉛筆として発売された。 
一方、月印鉛筆は1908年ドイツ、ステッドラー社の鉛筆が岩井商店から輸入されている。(注ジャパンアーカイブス1850〜2100)   
 1914年には真崎市川鉛筆で製造された「ウイング(羽車印)」も「月星印」である。当時、鉛筆は大切なもの、貴重なものとして、童話「みじかい木ペン」、「風の又三郎」にも描かれ、賢治がいつも鉛筆を携えて湧き上がる詩情をノートに書き留めていたことはよく知られている。
 ふと自身を振り返り携帯している鉛筆を眺め、周囲の風を確認したのであろうか。「青白い風」は忍び寄る夜更けの風の冷たさ、そこから紫蘇の香りを連想したか、冷たさに紫蘇を感じたか、どちらかであろう。高原の林の中に、実際に紫蘇が自生することはないであろう。
 
 ◎うゐきゃうの香りの風
 
……だまって風に溶けてしまはう/このうゐきゃうのかほりがそれだ……
 ここでも「うゐきゃうのかほり」の風が一つの風景を作る。
溶けてしまいたい風、そして「骨、青さ」につながる風と眠り。鈴の音、これは眠さの中の心象だろうか。
 「うゐきゃう」(ウイキョウ)はセリ科ウイキョウ属ウイキョウで、ハーブとしての名、洋名はフェンネル、独特の香りを持つ。
香辛料として栽培、葉、種、肥大した株元も使われる。茎葉の旬は5月から10月である。 中国から10世紀に日本に伝来し、江戸時代には主に薬用として用いられた。
 ウイキョウの香りを伴う風である。シソと同様、山中に自生するという確証がない。
 「うゐきゃう」は下書稿及び手入れ稿七稿にすべてあり、賢治の納得いく表現だったようだ。
 もう一つ、賢治が詩に描くものに、「ミヤマウイキョウ」がある。こちらは セリ科シラネニンジン属ミヤマウイキョウで、亜高山帯から高山帯の岩場に生える高山植物、本州では早池峰山、至仏山−中部地方などに生育する。 葉がウイキョウに似ているので命名された。ミヤマウイキョウが登場する詩は 早池峰山を描いた「山の晨明に関する童話風の構想(定稿)(「春と修羅第二集」)では
 
……みやまうゐきゃうの香料から /蜜やさまざまのエッセンス そこには碧眼の蜂も顫える
さうしてどうだ /風が吹くと 風が吹くと 傾斜になったいちめんの釣鐘草 (ブリューベル) の花に……
 
があり、この作品を改稿して作品番号日付を失ったもの(春と修羅第二集補遺)、 〔水よりも濃いなだれの風や〕(下書稿)補遺、にも「みやまうゐきゃう」が使われる。これを文語詩化した〔水と濃き雪崩の風や〕下書稿一、下書稿二「早池峰中腹」では、「うゐきゃう」になっている。これは音律を考えてのことと思う。
 早池峰山は1917m、橄欖岩や蛇紋岩でできていて高山植物の宝庫となり、外山高原は標高800mの高原地帯で、植生は明らかに違い、二つを混同はしないであろう。賢治は農学系の勉強をしているので、栽培植物としての「うゐきゃう」、「フェンネル」を知っていたと思われ、この詩では、風の印象から細い葉の密生する「うゐきゃう」という言葉を当てたのであろう。
 
V体にしみこむ風、透明化する体
同詩で 
……
風……骨、青さ、/どこかで鈴が鳴ってゐる/どれぐらゐいま睡ったらう
……
 
 作者の意識の底には眠気がある。林の中をひたすら歩くなかで、風によって目覚めるが、ここに現れる「骨」はなにか。身近には、骨に染みてくるような林の空気、あるいは寒さ、ととれる。「青さ」も身に染みる空気でなないだろうか。
 さらに小川には斧が落ちていて、連想は友達につながり、さらに風景は透明な風、木の葉、自身も透明になり「骨」といったのかもしれないが、生身の人を感じさせる言葉である。
 
W味
 ◎酸っぱい風
 さらに同詩では
 
……なんでもそらのまんなかが/がらんと白く荒さんでゐて/風がおかしく酸っぱいのだ……/風……とそんなにまがりくねった桂の木……
 
 同時に「酸っぱい風」も登場する。林はますます深くなり、頭上の空が見えるだけなのであろう。11時ころ曇、とあるので、月の光も漏れてこなくて、「白く荒んだ」空だったのか。風は、その心情と風景を映して「おかしく酸っぱい」と表現される。感じられるのはマイナスイメージである。
 「酸」は、すっぱいこと。また、すっぱいもの。また 水溶液中で水素イオンを放出する物質、電離して水素イオンを出し、塩基を中和して塩を生じる物質である。
 賢治の詩中では、腐敗などを連想する「酸っぱい」というマイナスイメージと化学物質の形状からくる印象を形容に使う場合がある。化学を専攻した賢治ならではの知識と詩的感覚とが相まって多くの形容を生み出しているといえる。
 範囲を広げて、『春と修羅』、「春と修羅第二集」に登場する「酸」は、肥料の名前として 燐酸、過燐酸石灰の二例がある。化合物の名前としてカルボン酸 仮睡珪酸2例、希硫酸、炭酸瓦斯、酸素、脂肪酸、水酸化礬土、炭酸二例、無水亜硫酸、燐酸、珪酸、硼酸、がある。
 
 ……雪沓とジュートの脚絆/白樺は焔をあげて/熱く酸っぱい樹液を噴けば……
 
 この外山詩群の最後の詩「北上山地の春」では、樹液の形容として、風景のあかるさのなかでは、新鮮なイメージを持つ。
 

Y光と香り 
 ◎香り
 「七三 「有明  一九二四、四、二〇、」では、明け方の月に目が向けられ、同時にそこに香りを感じていく。
 
……月は崇厳なパンの木の実にかはり/その香気もまたよく凍らされて/はなやかに錫いろのそらにかゝれば
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え/……/あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど/そこらが明るくなればなるほど/あらたにあなたがお吐きになる/エステルの香は雲にみちます/おゝ天子/あなたはいまにはかにくらくなられます
 
 下書稿一のタイトルは「普光天子」である。普光天子は法華経における三光天子の一つ、金星を神格化したものである。法華経『序品』には、 「爾その時に釈提桓因、其その眷属二万の天子と倶なり。復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り。其の眷属万の天子と倶なり」があり、日天・月天・明星天の三天を仏法守護の神として説き、日天(太陽)・月天(月)・明星天(星)の三つをいい、天とは「神」を意味する。
 下書稿一では、「お月さま」という呼びかけではじまり一夜共に過ごした月の運行が意志をもって人に働きかけることへの賛歌を歌う。
 エステルは 有機酸または無機酸のオキソ酸と、アルコールまたはフェノールのようなヒドロキシ基を含む化合物との縮合反応で得られる化合物で、単にエステルと呼ぶときはカルボン酸とアルコールから成るカルボン酸エステル (carboxylate ester) を指すことが多い。また、低分子量のカルボン酸エステルはバナナやマンゴーの果実臭を持つ。
 明けがたの月光に香果物の香りを感じたことになる。前詩の香りよりも明るく心地よい香りは、今まで共に歩いた月への賛歌による香ではないだろうか。
 
Yモナド
 七三「有明」では明け方の月の光が描写される。空は昼へと変わり始め、目覚めて思い切り空気を吸い込み、また空に空気の稠密さを感じ、光は香りとともに感じられるなかで、そこに「モナド」を感ずる。
 
あけがたになり/風のモナドがひしめき/東もけむりだしたので/月は崇厳なパンの木の実にかはり/その香気もまたよく凍らされて/はなやかに錫いろのそらにかゝれば……
 
 モナドは「単子」で、G.W.ライプニッツ(ドイツ哲学者1646〜1716)「モナド論」で、現実に存在するものの構成要素を分析したとき、それ以上分割できない、延長を (ひろがりも形も) 持たない実体を「モナド」としてとらえた。
 賢治も、風をモナドの集合体としてとらえている。これはこの抽象的論議を賢治が意識していたといえるのではないだろうか。
 「モナド」は賢治詩において10例が出現する。「モナド」については別稿で詳述したのでここでは避けるが、詩作への入口となった「冬のスケッチ」から『春と修羅』、さらに「春と修羅第二集」、農業の実践時代の「春と修羅第三集」、そして最晩年の自らを顧みるように再編成した文語詩まで変わることなく、イメージとして作品に重要な場面を作っている。
 賢治の描く「モナド」は「風」「光」「空」で、まさに宇宙につながるものである。それを構成する最小単位のモナドの集まりと捉えたことは、心象をつきつめて描こうとする賢治にとって究極の表現だったのではないだろうか。よって、その光の中に自分の感情を注ぎ込み、その時に応じた周辺の表現に「モナド」に託したのである。
 
Z滅びの前の極楽鳥
 さらにこの詩において高地から眺めた盛岡の風景を「滅びの前の極楽鳥」といい、「野原の草をつぎつぎに食べ/代りに砂糖や木綿を出した/やさしい化性の鳥であるが/しかも変らぬ一つの愛を/わたしはそこに誓はうとする」という。
 この神話が実在しておいるか不明だが、この時点で賢治は一瞬現実を肯定したのであろうか。
 
[感触
 ◎楔形文字
 「北上山地の春 一九二四、四、二〇、では、賢治の旅は目的地に近づき、朝を迎える。
 
……風の透明な楔形文字は/ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし……
 
 楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ、)とは、紀元前3400年ころから。メソポタミア文明で使用されていた古代文字で、水で練った粘土板に、葦を削ったペンが使われ、のちには楔型の尖筆を用いて書かれた、繊細で鋭利な形状である。
 「ごつごつ暗い」と形容されるのはクルミの木の枝と対比して、そこに吹く風の音と肌触りを象徴している。
 「(新)ひまわり青空文庫」中に「楔形文字」は14例ある。文字そのものを表し、このような象徴的な意味では使われるのは、この例のみである。
 賢治の感性による表現で、楔形文字のバランスのある統一のとれた形状が、密やかな風を表すのではないか。 
 

[ 明るい風、かぐはしい風、「やさしい化性の鳥」と「石竹いろの時候」と―賢治の現実
「七五 北上山地の春」では、目的地の種馬検査場での風景が描かれる。
 ◎明るい風 かぐはしい風
 
……明るい丘の風を恋ひ/馬が蹄をごとごと鳴らす
 
 周辺の厩の中では馬が外の風を思うかのように蹄を鳴らす。ここでは風は見えないが、大切に育てられた馬を思う賢治の想いと風が結ばれている。大事な馬は孔雀の石、孔雀石のような美しい空の下を進んでいく。そして、そこで生活する人の姿が、歌いあげられる。

  ◎かぐはしい風、雲滃を運ぶ風、燃える頬を冷やす風
 
……おぼろな雪融の流れをのぼり/孔雀の石のそらの下/にぎやかな光の市場/種馬検査所へつれられて行く……
 
 ……かぐはしい南の風は/かげらふと青い雲滃を載せて/なだらのくさをすべって行けば/かたくりの花もその葉の斑も燃える/黒い廐肥の籠をになって/黄や橙のかつぎによそひ/いちれつみんなはのぼってくる
 
 そして雲の影をなだらかな丘の上に映して吹くのは「かぐはしい南の風」、丘いっぱいに豊かに流れる風であろう。人々は、馬の晴れの日を祝って、自身も美しく装うのである。風は「その大きな栗の陰影に来て/その消え残りの銀の雪から/燃える頬やうなじをひや」し、労わるのだ。 
 
 ◎石竹いろの時候
さらに、この詩の最終章では、輝かしい牧場の風景から一転して自分に向けられる言葉「石竹いろの時候」の示すものは、賢治の内面の動揺なのであろう(注1)
 
……しかもわたくしは/このかゞやかな石竹いろの時候を/第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか
 
と続く。
 生れ出る春の神々しさとそこに生きる人や馬の輝きのまえで、見つめた自分の姿は肯定も否定もできなくて立ちすくむのであろうか。生身の賢治を描く伝記的な事実(注2)よりも、賢治がいかにその心情を作品に描いたか、を私は感じ取りたい。
 この詩群で描かかれる風は、何を意味するか。
 「希望の場所」、種馬検査所に向かって、ひたすら歩きながら、周辺の風景の中に、自己は埋没されていく。
 風は、触感を刺激する唯一のものである。共感覚を刺激し、香りや、形状、色を伴うものとなる。
 光は、夜明けに向かい、月は一つの崇拝の対象となる。一方で、科学的知識によってエステルの香りも感じる。
 この象徴的表現は、この詩群を特徴づけ、この時代の賢治の心象を描くものではないだろうか。また「異途への出発」詩群、「種山ヶ原」詩群、それぞれの時代に違った風を描いているのではないか。
 これから考察を進めていきたい。
 
注1大塚常樹『心象の記号論』228ページ〜233ページ) 「桃色の花の記号論 二章 
石竹の花―ピンクの記号論」)
注2『賢治隋問』角川書店 昭和45年 131ページ 「賢治の横顔 禁欲」

 
 







永野川2025年11月中旬
 15日 9:00〜11:30 晴 16℃
 
  風もなく絶好の探鳥日和です。
 睦橋から川へ出ると、セグロセキレイが4羽、縺れるように飛んでいました。少し下ると、ハクセキレイが1羽現れ、キセキレイも混じりました。ここはセキレイの名所?周囲は頑丈な護岸ですが幾らかの中州と、草地があるせいなのでしょうか。
 公園の東駐車場の樹木がかなり色づいてきたので、小鳥に会えないか、と回ってみましたが見えませんでした・。
 公園の川に先に回ると姿は見えないのですが。キョッキョッキョという声が岸の草むらから聞こえます。川沿いまで行ってしばらく待ちましたが、声は続いていたのですが姿は見えませんでした。先週の上流ですからクイナはここで棲息しているのでしょうか。クイナが目的でビギナー探鳥会に見える方もいるので、ぜひ長くいてほしいです。
 カワラヒワが15羽くらい北から飛んできて川を越えて児童遊園の方角へ飛びました。更に別の群れが30羽ほど上流に飛んでいきました。風の流れのように鳥が飛び交い、北からシメ3羽岸の大木に飛び込みました。今季初です。

 池に行ってみました。東池にはカルガモ4羽、1羽、カルガモが極端に少なく今日はこれだけでした。コガモは5羽、何とか確認しました。 西池には日ヒドリガモが33羽、やっと増えてきました。
 カイツブリが1羽元気なのが救いでした。
 もう一度川の高い土手を戻り、ふと川の方を見るとカワラヒワが15ほど舞っている中にワシタカが1羽見えました。カワラヒワを追っているのでしょうか。ハト大ですが、下面から見えて、白っぽく細い尾には黒い横線があり、この地域だとおそらくハイタカだと思います。念願のワシタカを見ました。
 土手の広葉樹の中にシジュウカラが飛び交っていましたが、じっと動かない大きめの1羽、ツグミでした。初飛来です。これからはますます枝の中をみる力をつけなくては。
 今日は双眼鏡を手にした方に出会って、少し話すことができました。アカゲラなども見ているそうで、頻繁に歩いているのかと思いました。またお会いできればいろいろお話しできるかな、話下手で臆病な私は、なかなかうまくいきません。
 今日は最高のお天気の中、鳥の飛翔が素晴らしかったのですが、もっと確実に鳥名を当てなくてはなりません。
 
カイツブリ:公園西池1羽
オオバン:
カルガモ:公園東池5羽。
ヒドリガモ:公園西池33羽。
コガモ: 公園東池1羽、3羽、1羽、計5羽。
ダイサギ:合流点1羽、公園1羽、大砂橋付近1羽、滝沢ハム池1羽、
 計4羽。
アオサギ:永野川睦橋付近1羽、合流点1羽、計2羽。
ハイタカ:公園で1羽。
モズ: 赤津川1羽、公園1羽、計2羽。
コゲラ:滝沢ハム付近サクラ並木2羽。
スズメ:永野川二杉橋〜睦橋7羽、公園25羽、計32羽。
ハシボソカラス: 永野川二杉橋〜睦橋2羽。
ハシブトカラス: 公園1羽。
カケス: 大砂橋付近林縁で1羽。
ヒヨドリ:公園3羽、大岩橋付近3羽、滝沢ハム林5羽、計11羽。
ウグイス:公園草むら1羽。
セグロセキレイ:永野川二杉橋〜上人橋4羽、1羽、1羽、1羽、
 大砂橋付近2羽、赤津川2羽、計11羽。
ハクセキレイ: 永野川睦橋付近2羽。
キセキレイ: 永野川睦橋付近1羽。
カワラヒワ:公園15羽、15羽、30羽、計60羽。
シジュウカラ:公園エノキで3羽。
エナガ: 公園サクラ並木で3羽。
ツグミ: 公園エノキで1羽。
ホオジロ: 公園草むら1羽。
シメ: 公園エノキで3羽。
 

 







2025/11/10 10:23:31|その他
永野川2025年11月上旬
7日 9:30〜12:00 晴16℃
 
 風が心配でしたが、無事全行程微風で、暖かく気持ちの良い晴の日でした。
 トピックスはタヒバリです。赤津川水田で、セキレイくらいの大きさ、でも茶色系の鳥が動いていました。セキレイと同じ動きです。気になったので帰りにもう一度行くとまだいてくれて、双眼鏡で見るとタヒバリでした。今季初、やっぱり来てくれた!という思いです。
少し田の中を採餌しているのか動き回っていましたが、飛び立ち、3羽確認できました。ここで、この数は初めてです。
 混軍を探しましたが、滝沢ハム付近で、シジュウカラの小さな声と動き、しばらく待つとエナガの声とともに3羽確認できました。まだまだいそうですが葉がたくさんあり暗い場所でそれ以上はあきらめました。
 大岩橋上の河川敷林は無くなって、背の高い雑草で繁るばかりです。そこから姿は見えないのですが、おそらくホオジロの3度繰り返す声が3か所で聞こえました。大砂橋の近くの中州には、キセキレイが来ていました。
 大砂橋近くの山林の近い場所で、カケスの声が3羽くらい聞こえました。近づくと遠くへ行ってしまうので、眼で見ることはできませんでしたが、近くに元気でいることが確認できました。
 この辺は周囲の川岸の工事が始まっているようで、この冬、どのくらい鳥見ができるかわかりません。対岸は河川敷も川も遠く、周囲は水田で、山林がないので、やはりこちら側を歩きたいのですが。
 公園の川にも背の高い雑草が茂って、川の流れが見えなくなっています。でも中に鳥がいっぱいのようです。
 まずカワラヒワ30羽、一斉に飛び立ち、旋回して公園の方に飛びました。そのすぐあと、やはり同じような鳥が30羽くらいの群れで飛び立って上流に向かいました。声がスズメのような気がして最後の1羽で、スズメの頬が確認できました。この数の群れの飛び立ちはスズメとはいえ壮観です。
 永野川の二杉橋と睦橋の中間のあたりで、突然キョッ、キョッ、キョッという声がして、水中からこちらの岸にないかが飛び込みました。一瞬で手前の岸なので見えにくく、カラス大で茶色系の背中しかわかりませんでしたが、声からしてクイナだと思います。ここの場所で見たのは初めてです。今までは、少し上流の公園のなかの小さな流れの川と赤津川でした。
 永野川沿いの大きな民家の大木でドラミングが聞こえました。低い場所だったので、探してみましたが見つかりません。でもこの大きさ、コゲラではないような気がします。コゲラも結構大きな音ですが、それよりももう少し太い音のような……。技量のなさを恨みます。
 工事にもめげず、今年も鳥たちが元気で嬉しいことです。カモや猛禽が増えてくれるよう、本格的な冬を待っています。
 
カイツブリ:合流点2羽、赤津川1羽、計3羽。
カルガモ:永野川二杉橋〜上人橋1羽、合流点3羽、赤津川6羽、2羽、
 2羽、公園西池7羽、8羽、東池6羽計35羽。
ヒドリガモ:公園16羽。
コガモ: 公園東池8羽。
マガモ: 赤津川1羽。
ダイサギ:合流点1羽、赤津川1羽、1羽、滝沢ハム池2羽、計5羽。
アオサギ:合流点1羽、赤津川1羽、永野川睦橋付近1羽、計3羽。
モズ: 滝沢ハム付近1羽。
スズメ:赤津川3羽、25羽、17羽、公園30羽、公園池15羽、計90羽。
ハシボソカラス: 公園1羽。
カケス:大砂橋付近林縁で3羽。
ヒヨドリ:滝沢ハム林3羽。
セグロセキレイ:赤津川2羽、1羽、大砂橋付近2羽、
 永野川睦橋付近2羽、計7羽。
ハクセキレイ: 合流点1羽。
キセキレイ: 大砂橋付近1羽。
タヒバリ: 赤津川水田で3羽。
カワラヒワ:大岩橋河川敷1羽、公園で30羽、計31羽。
シジュウカラ:滝沢ハム付近1羽。
エナガ: 滝沢ハム付近3羽。
ジョウビタキ: 大岩橋河川敷1羽。
ホオジロ: 大岩橋河川敷3羽。

 
 







永野川2025年10月下旬
28日 9:30〜11:30 晴 20℃
 
 久しぶりに気持ちの良い晴天になりましたが、朝から風が窓を鳴らすくらい吹いています。心配だったのですが、予定や天気を考えると今日しかないので、思い切って出かけました。
 風は時々強くなりますが、あとは体に感じる程度でした。
 睦橋から永野川に出ると、少し軽めのセキレイの声が聞こえ3羽が群れて行き来していました。確かめると久しぶりのハクセキレイでした。橋の欄干の1羽もハクセキレイで、セグロセキレイの姿はその時は見えませんでした。
 睦橋近くで、カルガモが11羽、先回にはほとんど見えませんでしたので、ほっとします。さらに二杉橋近くに17羽群れていました。
 中州にイカルチドリも1羽やってきました。
 かなりおなかが緋色に見える鳥が2羽で鳴きながら追いかけ、あたりを回っていました。動いていて細かい部分は見えなかったのですが、鳴き声と、観察例からしてジョウビタキ♂ではないかと思います。
 大きな民家の林でヒヨドリの声が盛んにして、見上げるとどんぐりがまだ若いですがたくさんなっていました。ヒヨドリ以外のものがここにはたくさん来るのでしょう。
 上人橋を渡っていると、付近の山林の手前をカケスが1羽、特徴のある羽ばたきで林に消えていきました。ほんの少しですが青い羽が見え、嬉しくなりました。
 公園の東池に行ってみるとカルガモのほかに、ヒドリガモが3羽見え、コガモも4羽いました。初飛来です。何か池の面が暗く感じるのはなぜでしょう。濁っているばかりではないのです。西池は浮草が沈んでは来ましたがまだ一面にあり、ヒドリガモが1羽いました。
 嬉しかったのは、カイツブリの幼鳥が1羽いたことです。ここで生まれたものだと思います。こんな条件の悪いところでも頑張って育ってくれたのです。
 公園の川の上流から、黄色い小さな鳥の群れがこちらの岸の木の中に飛んできました。25羽、鮮やかな黄色、おそらくマヒワと思います。年1度は記録があります。ずっといてくれるか、よく見てみたいと思います。10分くらい後に公園の中央部の草むらの中に飛び込みました。
 今回、チュウサギは季節が過ぎていなくなり、あちこちでダイサギが8羽見えましたが、アオサギは1羽のみでした。
 合流点の堰をイソシギガ1羽渡っていました。こちらも久しぶり、面白い風景でした。
 赤津川に入ると、さすがに西風が吹き付け、自転車に乗れませんでした。陶器瓦店の手前で諦めて、遠目でカルガモの数を確かめて帰ってきました。
 この頃はなぜ夏のような暑さから、突然冬の寒さになるのでしょう。冬鳥たちは結構暑いときから来ていました。温度で動くのではないらしいのですが、不確かな温度の中で生きるのは大変でしょう。
 もう少しで、本格的な冬鳥のシーズン、待ち遠しいです。
 
カイツブリ:公園西池1羽。
カルガモ:永野川二杉橋〜上人橋 11羽、17羽、合流点10羽、公園東池13羽、赤津川12羽、計63羽。
ヒドリガモ:公園東池3羽、西池1羽、計4羽。
コガモ: 公園東池4羽。
ダイサギ:永野川睦橋付近1羽、合流点1羽、公園1羽、1羽、
 滝沢ハム池3羽、赤津川1羽。計8羽。
アオサギ:赤津川1羽。
イカルチドリ: 永野川睦橋付近1羽。
イソシギ:合流点堰で1羽。
モズ: 永野川、二杉橋付近1羽、公園1羽、計2羽。
スズメ:永野川二杉橋〜上人橋、3羽、5羽、公園7羽、計15羽。
ムクドリ:赤津川水田に6羽。
ハシボソカラス: 〜上人橋1羽、公園1羽、大岩橋付近1羽、
 滝沢ハム付近1羽、計4羽。
カケス: 上人橋付近山林へ飛び込む1羽。
ヒヨドリ: 永野川二杉橋〜上人橋2羽、4羽、公園3羽、大岩橋付近3羽、  
 計12羽。
セグロセキレイ:永野川二杉橋〜上人橋1羽、1羽、1羽、公園2羽、
 計5羽。
ハクセキレイ: 永野川睦橋付近3羽、1羽、1羽、計5羽。
マヒワ: 公園25羽。
シジュウカラ:大岩橋付近山林2羽。
ジョウビタキ: 永野川睦橋付近2羽、駆け巡る。公園草むら1羽。
 計3羽。

 
 
 







賢治ファンが覗いた伊予原新の世界―日常から広がる、過去、宇宙、歴史、はるかな地平
 伊予原新を知ったのは『青の果て―花巻農芸高校の夏―』(新潮社 二〇二〇)で、イーハトーブを想起される物語設定ということで紹介されたからである。
 花巻農業高校を思わせる「花巻農芸高校」に突然「風の又三郎」を思わせる茶髪、都会風言葉の転入生深沢がやってくる。
 学校では地学部が賢治の「賢治のイーハトーブ」を実際に尋ねるという計画を立て、主人公で鹿踊り部の壮多、なぜか転校生の深沢も加わる。そんな時、壮多の友達七夏が姿を消す。
 種山ヶ原から奥州市、花巻市、岩手山麓を駆け巡る背景は賢治ファンにとって胸躍るものである。岩手山麓に着くころ天候が悪くなるが深沢はコースを少し変えて八幡平の裏岩手街道の湿原に行くことを主張する。リーダーの三井寺が負傷するなか、湿原にこだわる深沢が一人で消えてしまう。壮多は探しに出ると深沢は負傷して動けなくなっていた。天候が悪くなれば深沢を見捨てるか、二人で遭難するかである
 ここですべてが明かされる。深沢が目指していたこの湿原は、深沢の父の残したノートに記されていた「天気輪の柱の丘」のモデルと思われる場所で、父親はノートを記した翌日、遭難しかけた女性を救おうとして命を落とした。その女性は七夏の母親だった。そして総多の父親は、深沢の父の幼馴染で八幡平の裏岩手街道を進めたという。七夏は、そのすべてを確かめるため、だまって東京、壮多の父のいる北海道を回っていた。
 広いイーハトーブを吹き抜ける風、過酷な自然の姿、そのなかで、総多(ジョバンニの息子)、深沢(カムパネルラの息子)、七夏(ザネリの娘)が、過去に突き動かされながら、最終的に「誰がザネリになり、カムパネルラなるかわからない」という大きな命題に行きつく。
 綿密な賢治の作品と地理の考証の上に、賢治の物語のもう一つ上を行く命題を追ってのミステリーといえる。
 
 2025年度上半期の直木賞受賞者の中に伊予原新の名前を見つけ、『藍を継ぐ海』(新潮社 2024)を購入した。『藍を継ぐ海』を含む五篇からなる。
 
「夢化けの島」
 山口県萩市見島は萩沖45キロに浮かぶ離島で、萩焼で使われる土、見島土が取れる。
 地質学者で見島の地質調査の為に訪れている女性と、見島で消滅した萩焼の窯跡を求める男性との出会いが描かれる。
 萩焼の祖は、朝鮮出兵で日本に連れてこられ毛利家に預けられた陶工李勺光とされる。林窯は毛利藩の御用窯のひとつだったが、1817年に取りつぶされた。
 その時の窯元、泥平の子孫の男性は、かつて泥平が作陶していた見島の登り窯を探すことで、自分のいったん外れてしまった道を立て直そうとしている。
 女性の作った地質図や窯元の助言に基づき、二人は登り窯跡に辿り着き、そこに残された窯元の巧みな仕事に出会い、これからの望みを見出す。傷ついたものが大きな歴史の流れの中に立ちなおる姿がある。

「狼犬ダイアリー」
 狼の遠吠えが聞こえるという噂の立つ、吉野の山村、ニホンオオカミが最後に捕獲された村である。都会から移り住んだ女性ウェブデザイナーが、ただ一人気を許せるのは大家さんの小学生のみだった。
 小学生はオオカミを見たというが誰も信じない。そのうち飼い犬の紀州犬が何物かを追って姿を消してしまう。飼い犬を探すうち、以前ニホンオオカミと犬との混血、狼混を治療したことのある獣医師に出会う。
猟師、炭焼きをして、山を渡り歩く老人は雌犬を野外につなぎ、狼と交配させて「狼混」を作った。何回か繰り返すことで、次第にオオカミの地を濃くしていく。狼の狩猟の能力を得るためである。老人は亡くなり狼混は野に放たれた。人の身勝手によって作られた狼混は、山里深く住む以外にはない。
 飼い犬は、狼混に送られるよう里に帰る。それは獣医師が以前治療した後を持つ狼混だった。オオカミは自分の縄張りに入ったものを監視し追跡するという、今とは違う意味の「送り狼」の性質を持つという。
女性は狼混のようにここで生きてみようとする。
 
「祈りの破片」
 役場の空き家担当の職員は、空き家から怪しい物音がするという通報に基づいて動き始める。職員は、空き家はどんどん取り壊していけばよいと考えている。
 長崎市市街地に隣接した長与町はミカン畑にも接した農村、次々に空き家が増えていきそうな土地である。
 問題の家は、太平洋戦争が始まる前からの空き家だったが、終戦後一、二カ月、誰かが住み、青白い光がもれるようになったという。何十年も過ぎた今、また黄色い光が見えるようになったという訴えだった。  
 長崎市街で、「青白い光」は原爆関連が疑われ住民は警戒する。
 調べに入ったそこに見たものは、表面が焼けただれたガラスや陶器片、原爆に被災したものだった。そこには、ひたすら焼けた材質を調べる意識のみ、人へ感情がなかった。断片には細かい数字の資料番号が付され、「加賀谷昭一」の明記があるフィールドノート5冊に残された記録があり、協力者として「M」、「望月」の名、さらに「Mum」の綴りもあった。
 長崎市の原爆資料館の話では、原爆の正体を被害を受けたものから探ろうという調査方法があり、この重要性を感じた人物が風化前に集めたのであろうということ。資料のなかに浦上天主堂の天使像の破片もあることが判明する。
 ここから謎解きが始まる。教育関係の資料から「加賀谷昭一」が長崎師範学校の博物教師で、被爆者で一九四六年に死亡、遺族もないことが判明した。さらに「望月」は浦上天主堂の神父で唯一現場にいなくて被災を逃れた人物であった。
 その後、「望月」を追う望月の曾孫に会い、「望月」の残したノートも読むことができた。Mumは、原爆で焼き付きつけられた野菊、Crysanthemumの略だった。
 ひとつずつ明かされていく事実がすべて、「原爆」の罪、小さな野菊までも石に焼き付ける光、そこに埋もれていく人々である。
 現実の世界では、残された資料の保存は確実になり、担当職員は空き家個々の抱える問題にも取り組む意欲を感じ頑張ろうとしている。歴史を丹念に追い現実に回帰するところがよい。
 
「星隕つ駅逓」
 舞台は北海道紋別郡遠軽町白滝で、現実にも「遠軽町ジオパークセンター」があり、この地は「遠軽天文同好会」が毎年流れ星を見る会が開いている。隕石を探しに来る人も多い。
 駅逓とは開拓者や旅行者に宿泊所や人馬を貸し出し、郵便の取り扱いをしていた北海道独特の制度で、明治維新によって廃止されたが、開拓のために必要な施設として開拓使が規則を整備して、重要な道路に多くの駅逓所を設置した。 運営には半官半民の請負制がとられ、引き受け人には財産上の条件があるが、土地、建物、馬があたえられるなどの特典もあり、名誉職でもあった。交通の面からだけでなく、北海道開拓に大きな役割を果たしたが開拓の完了、鉄道の開通などによって一九四六年には制度自体が廃止になった。
 郵便配達員の男性、その出産間近の妻、義父をめぐる物語で、義父は、祖父の代まで駅逓の取扱人で、今は郵便局を受け継いでいるが、その郵便局はもうじき廃止になる。
 ある時、妻は近くで隕石を見つけたが、流星ネットワークには知らせず、少し離れた駅逓跡で見つけたことにしたいと思う。従来、隕石の命名は、その近くの郵便局の名前が付くことになっていて、気力をなくしていく父の為に、生きた証として隕石の名前にその駅逓の名前を残そうと思ったのだ。
 しかし近くでそれと同時に落ちたものと思われる二個の隕石が見つかり、離れた場所で見つかったとは言えなくなり、さらに、今は隕石の命名は、発見地の市町村名か、政令指定都市の区名がつくという。
 男性と妻は、偽りが残ることのなかったことを喜び、義父は駅逓跡の碑を立てることで再生する。
 
「藍を継ぐ海
 徳島県阿須町姫ケ浦地区のウミガメの産卵する海辺で、夜間密やかに繰り広げられるウミガメを守る人たちのミステリーだ。
 産卵のために、この場所に海を越えてくるウミガメ、そして生まれてすぐ、海へ旅立っていく子亀、カメを見守る、心に小さな傷を負う中学生沙月とその父親、古くからこの町で教師をしていた女性と保護にあたっていたその父親、海沿いを旅してカナダから来たネイティブアメリカンとの混血の男性、保護担当の町の職員、みなそれぞれの立場で保護に関係している。沙月は、なぜかウミガメの卵を4個自宅に隠して保護している。
 カナダから来た青年は、いるべきでない場所―カナダ太平洋岸ハイダ・グワイ―でタグ付きのウミガメを見つけ、タグを届ける為に浜に来たのだ。
 それは四年前、少女が取り残されたカメを見つけ、女性、父親とともに面倒を見て、少し遅れてタグをつけて放したのだった。少女は、母は幼いころ死亡、たった一人の姉は家を出て連絡もまともにつかず、取り残されている自分に置き換えてカメを見捨てられなかった。 無事にたどり着いたカメを知って、卵をもとに返すことを決意する。
 カメを保護する人々の群れ、錯綜する想いを描き、壮大なカメの生涯と背景の海流の描写が美しい。
 
 共通するのはミステリアスな始まり、そしてその奥に広がる広大な地平、海、はるかな歴史、傷ついた人間がそのなかで再生する物語である。もう一つの特徴は、それは、「科学」による立証に裏付けられていることが、作品を真摯なものにしていると思う。
 
 さらに作者がどうしても書いてみたかっという猿橋勝子(一九二〇〜二〇〇七)の伝記、『翆雨の人』(新潮社 二〇二五)を読んでみた。
 「猿橋賞」が自然科学分野で優れた業績あげた女性科学者に送られる、ということは知っていたが本人については全く未知だった。
 第六高女から帝国女子理学専門学校に進み、中央気象台で生涯師と仰ぐ三宅泰雄に会い、気象化学の分野に進み、昭和二五年海中の炭酸量の測定と研究を進め、微量拡散分析法の開発、オゾン層の変動測定に成功した。
 一九四六年から始まったアメリカの水爆実験で、一九五四年三月のビキニ環礁での実験に、日本マグロ漁船第五福竜丸も遭遇し、死者一名のほか多くの人が障害を負った。日本でも降雨の中に多量の放射性物質が含まれ放射性障害が認められ、海域の調査始まると、猿橋は微量拡散分析法の開発により一九五七年東大より学位を得た。
 水中に溶け込んだ炭酸ガスの三様態―遊離炭酸、重炭酸イオン、炭酸イオンの存在比を、人体の塩素量、温度、pHに対して求めた表は「サルハシの表」として海外の研究機関でも重視された。
 水爆実験はソ連でも始まり、アメリカ、ソ連からと同時に、身近な労働組合からも圧力と妨害を受けたが、科学的な実験結果を盾に怯まなかった。
 一九六〇年、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所(Scripps Institution of Oceanography)のセオドア・フォルサム博士(Theodore Robert Folsom)らは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度をネイチャー誌に発表し、安全性を主張した。一方、三宅、猿橋らは日本近海におけるセシウム137の濃度を報告したが、その値はフォルサムらの報告した値よりも10〜50倍の高さを示した。
 これに対して三宅はアメリカ原子力委員会に同一の海水を用いた日米の相互検定を申し入れた。一九六二年から一九六三年の間、猿橋は放射能分析法の相互比較を目的としてスクリップス海洋研究所に招聘され、フォルサムとの間で微量放射性物質に対する分析測定法の精度を競うこととなった。
 猿橋の招かれた実験現場は、粗末な研究室と、毎日100リットルの海水を汲み上げて運び分析するという重労働だったが、目的のために頑張り、リンモリブデン酸アンモニウムを使ったセシウム濃縮法(AMP法)で猿橋の分析は高い精度を示し、フォルサムは猿橋の分析を認め高く評価するようになり、日米の測定法の相互比較の結果は共著として発表されることとなった。
 一九五八年に設立された「日本婦人科学者の会」の創立者のひとりであり、一九八〇年気象研究所定年退職 集まった祝い金五百万円を基に「女性科学者に明るい未来をの会」設立、科学の分野で50歳未満の女性を年1名顕彰する猿橋賞が設けられ現在も続いている。
 不幸な第二次大戦の後も続く、不当な水爆実験の拡散、米ソの対立も、科学のみを信じることの重要性を信じ歩も逃げることがなかった姿は偉大である。
 戦前の学問を続けることの難しさや、戦争の生む非情さも描かれる。今もなお、実験による放射能被害は続いているのではないか、という不安が残る。
 でも猿橋勝子の生涯には陰りや弱さがない。それが他の五作とは異なるところかと思う。

 
 







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