宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
2017/05/25 23:29:03|わたしたちと兄
わたしたちと兄 (一)


 兄は大正15年1月生まれ、5人きょうだいの長子で、たった一人の男の子でした。妹たちは2歳、6歳、8歳違い、末子の私は18歳違いです。

兄は、私が生まれるとすぐ、旧制高校に入学して上京しましたので、いっしょに暮した思い出はありません。私を背負ってくれた兄の大きな肩をおぼろげに覚えているくらいです。あとは、帰省の度に買って来てくれたおみやげのことは鮮明に覚えています。

父は師範学校を出て農村の小学校の教師をしていました。学校近くの教員住宅に住み、かなり自由な雰囲気の家庭を作っていたようです。

カメラや蓄音機も購入し、バイオリンも弾いていたそうです。母の話では「ノコギリ弾き」で聴くに堪えなかったそうですが。

父が撮影、現像した昔の写真には、揃ってほほ笑む家族の姿がありました。

当時としては珍しいスキーや、海水浴の写真もありました。こちらはなぜか兄と父のみ、姉妹や母の姿はありません。

また、子供用の自転車も買って貰っていました。これは姉妹が次々に乗り、20年近く後、私もこの自転車で初めての自転車の練習をしました。

母から聞かされましたが、父の兄への愛は特別で、兄が熱を出していれば、遠い店から氷を買って来て冷やしたりしていたそうです。風邪ばかり引いていた兄は海水浴以来丈夫になったとも聞きました。

小さいころから好奇心旺盛で、分解された時計や機械は数知れなかったそうですが、それをすべて許したのも、両親の特別な愛だったと思います。

妹たち―三人の姉―はどんな思いだったのでしょう。姉たちの口から、不満らしいことは聞いたことはありませんので、やはり兄は特別の存在だったのでしょう。兄は18歳で旧制高校に入学して以来家を離れていましたから、兄の話は、半ば伝説のように妹たちによって話され、私もそれを聞いて育ちました。それは、妹たちの思い一杯、時にユーモアたっぷりで楽しいものでした。

妹たちが長寿に恵まれているのに対し、兄は65歳で、早々と逝ってしまいました。そろそろ30年近く経ちます。もう楽しい世界を紡ぎ出すことはできません。そして思い出も忘れられてしまうかも知れません。兄を囲んだ日々を残しておきたいと思い、姉たちに呼びかけ、綴って貰いました。少しずつ、思い出をたぐって、これからも続けて書き残していきたいと思います。

     内容

 

一、兄の思い出  高橋キク子

1  短歌 四首             

         2  勉強

         3  モールス信号

         4  探検

         5  キャンプ

 

二、兄の思い出  木暮和子

1  『ニルスの冒険』

2  数学                      

         3  短歌 兄の思ひ出 

         4  宇宙線について

 

三、兄ちゃんの思い出  田島ミチ子

1  犬                          

2  自転車で初めてのお使い

         3  俳句

 

四、兄の机      小林俊子

 

 

 

一、兄の思い出          高橋キク子

 

1、短歌四首

 

セルの着物着たるうからの写し絵に兄は笑まひてコスモス  を持つ

探検とて童集い川越えて行きしこと有りいづこの藪なる 
                 (リーダーは兄)

雪被く遠山は上州(ほたか)ぞと幼日に兄は教えくれにき

それの名を兄に教わりしふるさとの畔の桜蓼(たで)今も
さけるや

 

2、勉強

兄というと思いだされるのは、いつも勉強机に向かっていた姿である。旧制中学に入ってからはいつも勉強ばかりしていたように思われる。登校するぎり/\まで机に向かっていたのが今も目に浮かぶ。

 

3、モールス信号

 小学生のころは結構遊びのアイデアマンで、色々な遊びを考えては妹たちや近所の子にやらせていた。その一つがモールス通信ごっこだ。その頃流行していたモールス通信を兄は知っていて、私教え遊びにとりいれたいと思っていたようだところが、まだ幼い私達は難しくて仲々覚えることができない。兄は諦めて自分なりの文章を作って楽しんでいた。私もいまでもいくつかのモールス信号を覚えている。

 

4、キャンプ

 兄はキャンプに憧れを持っていたらしく、それを遊びにとり入れた。家の柱から柱に紐を通しシーツなどの大きい布をかけてテントに見立て、妹たちを寝かせた。キャンプの食事として鮭の缶詰などを食べた記憶がある。今の時代であったら自由に本当のキャンプが出来たろうにと残念でならない。

 

5、探検 

 探検に行ったことも有った。今となってはあまり記憶が定かではないのだが、兄がリーダーとなりどこか藪のような所に行った。川を渡って登って行ったような記憶がある。筍とりとか言っていたようだが、今となっては場所も定かではない。 
                (2016年6月22日)

 

 

二、兄の思い出       木暮 和子

 

1、『ニルスの冒険』

  

本棚に古びて残る童話の本幼き日兄の買いくれしもの

 

 童話『ニルスの冒険』は単行本として初めて買ってもらったものです。『幼年倶楽部』連載の童話で、もう一度まとまった物を読みたいと思って母にねだって、それこそ毎日のようにお願いしていました。それを聞いていた兄が、高崎の書店にあるのを見かけて、学校帰りに買って来てくれました。兄、旧制中学四年生、私は小学校四年生だったと思います。それこそ大事に大事に姉妹で代わる代わる読み、今でも本棚の隅に、すり切れたまま、でも色あせず、上表紙はきちんと残っています。嫁入りの時も一緒に来て、時折思い出したように眺めています。

 

2、数学

 

 数学の成績上がらぬ吾れを見て兄は手ほどきなしくれたりき

 

 女学校に入学した年の一学期の数学の成績は、今までにとった事のない最下位のものでした。母が心配して、夏休みに帰省中の兄に面倒見てくれと頼んでくれました。

 兄はあまり語ることを好まぬ人でしたので、ちょっと固くなって兄の部屋に行きました。

 代数が解らないというと、いきなり方程式を書き、解いて見ろといいました。簡単な数式だったのですぐ解けたら、「なんだ、できるじゃないか。」といい、次々と数式を書いて解かせました。一言も、やり方や解き方を教えることなく、ただただ式を並べるのみで、でも私は不思議にだんだんと解きつづけ、兄はもういいだろうと、おしまいにしてしまいました。その年の二学期は数学の担任も変わり、少しは勉強する気もおきたようで、まあまあの人並の成績が取れました。一体兄は、私に何を教えたのでしょうか。

 

3、短歌 兄の思ひ出             

  兄逝きて二十余年を経し今もなほ鮮明に残る思ひ出

  東京に住まゐし兄のお土産は妹たちへの童話の本なりき

  兄からの土産に賢治の童話ありて吾ら姉妹の貪り読みき

  「セロ弾きのゴーシュ」を好みし兄と共に賢治の擬音語 
  (おのまとぺ)
楽しみにけり

  数学の成績上がらぬ吾を見て兄は手ほどきなしくれたりき

  胸までもある雪かき分け乗鞍の山頂観測所へ通ひにし兄

  薄紅の秋海棠の咲き初めて盆の祭りの近きを知りぬ

  初咲きの朝顔みたり縁どりの白きが際だつ青き花なり

    (大塚布見子主宰『サキクサ』2016年10月)

4、宇宙線について          

 兄は大学卒業後すぐに理化学研究所宇宙線研究室に入り、以来停年までずっと研究一筋に生きて来ました。宇宙線というものが何か分からない私たちには何も云うこともできませんでした。何年かのち、まだ元気だった母が兄に聞いたことがあります。「宇宙線というものはどんなものなの?」と。

私たちは皆おどろきました。私たち程度の学歴ではとても理解できるものではありません。母は昔の高等小学校卒ですから、物理の知識がある筈はないのです。でも兄はさっそく色々な資料を取り出して、母に説明を始めました。難しい物理の方程式やら、化学記号も並んでいたと思います。

母は黙ってうなずきつつ聞いていたようです。解ったか解らなかったかは、私たちは知りません。でも兄は丁寧に話していたようです。自分のやっていることを少しでも解ってもらえるようにと、一生懸命だったようです。しばらくして疲れてきたようで話は終った様でした。

 この事をずっと後になって、下の娘が結婚したあと、結婚相手の人に聞いたことですが、解っても解らなくても、自分のやっている事を少しでも身近な人に話して解ってもらいたい気持ちは解るといっていました。彼もうちの娘に仕事の内容を話していたらしいですが、きっと解ってもらえなかったのだと思います。

 兄も母に解ってもらえなくても話してやりたい気持ちは充分にあり、それを真面目に義務を果たすように話したのだと思います。母もまともに兄が話してくれたことを嬉しく思ったのだと思います。           (29年5月23日) 

 

三、兄ちゃんの思い出   田島ミチ子

 

1、犬

 わたしが、まだ、北新波の家に住んでいた頃のことです。わたしは、兄ちゃんと北新波の家に向かって歩いていました。もう少しで家につくあたりで、急に、小さな犬が前方から走って来て、わたしにとびつきました。思わず、わたしは泣いてしまいました。すると兄ちゃんは、道端へ走って行き、ネコジャラシの穂を取って来て、犬をじゃらし始めました。すると、犬は、うれしそうに、じゃれつきました。その顔、そしてそのしぐさが、かわいかったです。兄ちゃんは道にしゃがんで、一方の手をわたしの肩にのせ、もう一方の手で犬をじゃらしていました。その犬のじゃれている顔が、とても、かわいかったです。兄ちゃんのおかげで、はじめて、犬のうれしそうな顔がみられたのでした。

 その後の帰りのことは全然おぼえていませんが、きっと、二人とも笑顔で家にむかったことでしょう。

 

2、自転車で初めてのお使い

 ある日の夕方、兄ちゃんの自転車にはじめて乗せてもらい、お使いに行きました。ハンドルと兄ちゃんの間のところに座布団をおいて、そこへ わたしがまたがり、出発です。

 だんだんスピードが出てきて、わたしは、びっくりしながらも、うれしくて、足をバタバタさせていました。

 しばらく行って到着した店は、山木屋という店だったそうです。兄が、金網で出来たようなザルを一つ買ったのを覚えています。そこまでははっきり記憶しています。帰りは自転車のスピードが急に上がったので、ハンドルにしっかりつかまっていた気がします。

 当時、兄は、小学校の高学年ぐらいだったと思いますが、母の手伝いをしていたのだなと、感心してしまいます。

 

3、俳句

 小さい時、母が「兄ちゃんが、こういう俳句を作ったよ」とわたしに言いました。それは、「歌好きの ミチ子はいつも ミミラシド」………。これは、「荒城の月」の中にあるメロディーの一つです。姉の和子が小学校へ入学してから、母は、私を子守しながら、お勝手仕事をしていました。その時、いつも歌っていたのが「荒城の月」、又は「ドナウ川のさざ波」等でした。わたしは自然と聞きおぼえていて、いっしょに歌っていました。

 兄が学校で俳句を実際に学習し、家庭でも俳句らしいものを作ったことを、ほめてあげたいです。

 母が、兄の作った俳句をわたしに教えてくれたのも、うれしいことでした。兄はその俳句のほかに、どんな俳句を作ったのでしょう。知りたかったです。  (2017年5月23日)

 

四、兄の机           小林 俊子

 

我が家には、一台の古い机があります。

昭和の初めに造られた三尺四方の片袖机で、真鍮製の金具もついています。板の厚さは3cm程もあるでしょうか。私が結婚する時、実家から持ってきたものです。というより強引にもらってきたというのが正しいのかもしれません。これは兄の机でした。

 この机とともに、本箱もありました。ガラスの扉付きで扉には布が張られた、細かい細工のものでした。机と共に、兄が旧制中学に合格したときに買われたものです。

 姉たちや私は、古い文机で、書棚はミカン箱の再生でした。それでも一人ずつ机を持たせてくれたのは当時としては恵まれていたのでしょう。

兄は、私が生まれるとすぐ、旧制高校に入学して上京しましたので、いっしょに暮した思いではありません。私を背負ってくれた兄の大きな肩をおぼろげに覚えているくらいです。あとは、帰省の度に買って来てくれたおみやげのことは鮮明に覚えています。このことについては別に書きたいと思います。

この机と本箱、本箱には入りきれないたくさんの書籍、アマチュア無線用の配線は、物心がついた時には二階の八畳間に残っていました。兄は上京以前も二階の八畳を与えられていたのでしょうか。

 

その間の家の事情を少し書きます。

末子だった父は、子どもの無かった伯父(父の兄)の養子となり、伯父の妻の姪の母と結婚しました。

昭和14年12月始めに伯父が亡くなって、その年のうちに一家は伯父の家で伯母の妻(以下祖母と記します。)と同居することになりました。私はこの家で生まれています。

三世代同居と戦争の影は、おそらく家庭生活も全く変えてしまったと思います。それでも、母や姉たちは、いつも歌を口ずさんでいたし、父は、お菓子のない子どもたちのために、型まで買ってドーナッツを作ってくれました。家のなかで歌を歌うことが普通でないことは結婚して初めて知りました。

私の記憶では、祖母の存命中は、一階の八畳に祖母、両親と姉妹四人は主に六畳と、八畳の茶の間で暮らしていました。あるいは上の姉二人は二階のもう一つの八畳を使っていたのかもしれません。

私が小学校三年の時、祖母が亡くなり、部屋の使い方も変わっていきましたが、兄の机と書籍、本箱は動かされることはありませんでした。

 

私が秘かに兄の机を欲しいと思い始めたのは、小学校高学年か中学に入ってからだったと思います。茶の間の片隅の自分の机と比べて、それがどんなに立派に見えたことか。自分の部屋などほとんどの人が持てなかった時代ですが、やはりほしかったのです。

母は私の願いは大抵聞いてくれたので、母に一言断って兄の机のまわりを片づけて、自分のものを運びました。置ききれない兄の書籍は、机の下まで積み、思えば酷い扱いをしてしまったな、と思います。

父からは、普段ほとんど干渉らしいことはされなかったので、何も問題はないと思っていました。

しかし、父が突然、二階に来て、「机を動かしたな」と言いました。私は何と言ったか覚えていませんが、父がもう一度「机を動かしたのか」と言って、そのまま降りて行ってしまいました。

その時の私は父の言葉から何も受け取れず、父もそれきり何も言わず、私は机を使うことになりました。

サラリーマンでも長男は家に残って親と住むという時代、兄はそれに収まらない力がありました。旧制高校から大学へ、そして大学の恩師のもとで研究を続けるために恩師の研究所に就職し、一生を科学者として過ごしました。

父は、寂しさを親としての誇りに置き換えて暮らしていたのでしょう。兄の部屋は、父にとって大切な兄の分身だったのです。

しかしそれを分かるには私は幼く自分本位で、父も使うなというのは理不尽だと思う心が何も言わせなかったのでしょう。

それが私に分かったのは、自ら親になった40代半ばだった気がします。突然、その時の怒りと悲しみを押し殺した父の顔が浮かび、絶対に元に戻せない時間と、身の置き所のない後悔に襲われました。

 

私は高校卒業までその机を使い、両親の反対を押し切って進学し、上京して兄の家に同居させて貰いました。それについては稿をあらためたいと思います。

姉たちはみな嫁ぎ、私は家にいるべき立場となりましたが、またまた両親の望みに背いて、他家に嫁ぐことになりました。

私はどんなときにも自分の机がある生活をしたいと思っていました。夫は理解してくれていたのですが、その実現のためにも机を持参しよう、と思っていたのです。

結婚のとき、既に父は亡くなり、まだその時は父の気持ちも分からなかったので、兄と母に、この机を持たせてくれるよう半ば強引に頼みました。

今の家になって、洋室は夫の書斎のみだったので、この机は夫のものとなり、私は夫の昔の文机を使い、また今はパソコンデスクがほとんど私の机となりました。

 

机は古い木材と塗料と真鋳の独特の匂いがします。これは私が初めて机に触れたときから同じです。何か触れてはいけないような、異世界のもののような、それでも欲しかった。今思うと、その貪欲さが切なく、公開するのもこれが初めてです。大きな親不幸の記録です。     (2017年5月23日)

 
筆者紹介

 

高橋キク子 88歳 教職の後、農家に嫁ぎ、初めての農作業
      に苦労を重ねた。       
      大塚布見子主宰「サキクサ」特別同人。   

      
木暮 和子 84歳 教職の後、実家に入って、母の世話や
      実家の管理をしてくれた。

      大塚布見子主宰、「サキクサ」特別同人。

田島ミチ子 82歳 教職を停年まで全うした。

小林 俊子 74歳 図書館勤務を経て専業主婦。宮沢賢治作品を読むことがライフワーク。






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