この頃、牧師が語る言葉をまともに聞いておりませんでしたから、聖書はもちろん、聖書が言う罪や、救い、信仰など理解できるはずがありませんでした。
それに加えて、自分より数年若そうな高校生達に入って行って、何かを教えてもらうことに抵抗を感じていました。
今想えば、私の不要なプライドが許さなかったようです。
その頃の別の思い出を書いておきましょう。 あるキリスト教関連の本屋さんに行ったときに、店の方が所属する団体の夏季集会を紹介されたので出席した時のことです。
司会者が立って「賛美しましょう。何を歌いましょうか」と言う。少し静寂のあと、誰かが「○□番!」と言うと、司会者は「はい。○□番お開きください」と言って、全体をリードする。
オルガンの伴奏と4〜50名の人々が歌う聖歌は、奔放に歌っているがなごやかで、私を落ち着かせてくれました。
次々と5〜6曲歌われたでしょうか。選曲の提案が途切れました。すると司会者は「それでは聖書の学びに移りましょう。講師は◎○●兄弟です。よろしくお願いします」と言って引き下がりました。
講師が何を話したのか記憶に残りませんでしたが、司会者が「次の集会の講師は、**#兄弟です。・・@*時から始まります」と言って締めくくっていました。
先生と呼ばれる人が一人もいないのに気付くのは、休憩を挟みながら行なった、三回目の集会が終わったあとでしたが、新鮮さとゆったりした暖かさを感じながら一つの聖書の文章を思い出しておりました。
「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただ一人であって、あなたがたはみな兄弟なのだから。」 マタイ23章8節
聖書の細かいことにも忠実な方達なのかなぁ・・・・ |