いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/01/02 10:29:57|聖書
クリスマスいかがでしたか
クリスマスは過ぎたが、日本人にとって聖書は、歴史的に異なる生活体験から書かれているので、理解しにくい。

聖書の世界に少しでも近づきたいので、言葉の意味をチェックしようと思う。

ゆっくり調べるので、関心がある部分だけ読んでネ。

勉強嫌いのわたしは、原語を読む能力などありませんし、分厚い注解書を開く勇気もまだ無いので、聖書に付随する解説欄(いのちのことば社、新改訳、注解・索引付き)を参考にしたり、他の部分の使い方から意味を汲み取ろうとしています。

対象は次の文章。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。          ルカによる福音書 2章11節

(1) ダビデの町:旧約聖書に多く出てくる町の名前で、最初に、サムエル後書5章7節に出てくる。
    「ところがダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である。
    解説欄—ダビデの生誕地、ベツレヘムのこと。死海の西側でエルサレムの南8キロにある。

(2) 救い主:「キリスト」が固有名詞化するに連れて用いられた
    比較的後期の新約用語(ギリシャ語)。

    福音書ではルカが初めて使用した。
    わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。  ルカによる福音書 1章47節
    
    旧約でもヘブル語で救い主と訳されている言葉がある。例えば次のダビデの歌。
    彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主
    わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
    私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。         サムエル後書 22章2〜3節

(3) 主 :旧約では、イスラエルの神ヤハウエを意味した。
    ここも、イエスがヤハウエの神そのものであることを示す。
    イエスが主であることは初代教会の信仰告白の中心だった。

    蛇足だが、私も含め日本人の感覚は、家の主人、土地の持ち主、犬の飼い主、
    のような使い方になれているので、意味を掴みにくい。

    同じように、神という言葉も、山の神、風の神、川の神、学問の神、etc、
    威力の優れた存在に対する恐れの念を抱かせる対象を指して用いる場合が多い。
    神々という感覚におちいりやすい。
    
    聖書 (特に旧約聖書) を読んでいくと、人と個人的かかわりを持つ絶対的存在者として
    書かれていると感じるようになるでしょう。

(4) キリスト :ヘブル語の 「油注がれた者」 の意味から、同じヘブル語の 「救い主」 を
    意味するようになったヘブル語 「メシア」 に相当するギリシャ語からの音訳
    ↑↑わかりにくい。 困った。
    ヘブル語の 「救い主」 ヘブル語 「メシア」 ギリシャ語の 「キリスト」 
    はどれも同じような意味だと考えてよいと思います。少し乱暴な表現ですが。







2007/01/01 9:41:23|その他
2007年スタート
おめでとう ございます。

何がめでたいかって?。
わたしもよく知らないが、勝手に想像すると、年末の夜遅くまで追いかけてきた借金取りが来なくなって、ようやく自分の生活に立ち返ることができて、ほっと一息。

大小の経営者達に仕える庶民が、破産宣言をしないで済んだ経営者に対して 「おめでとうございます」 と言ったでしょうか。

次に、個人でも借金を抱えている人々もいたでしょうから、 「おめでとう ございます」 と言ったと思う。

理由はどうあれ、自殺にまで追い込まれることがなくて、いま生きていることがめでたいということかも知れない。

大変な時代です。

改めて、「おめでとう ございます」 と申し上げたいが、私流なら、 「良かったね」 と言いたい。

今年は、 「良かったね」 と言い合える人に出会いたいなぁ。







2006/12/28 23:35:04|聖書
ダメなやつと評価されている人々に
羊飼いたちの日常生活の一端を、生活環境を含めて、聖書の記事の中から観察してきた。重複するが、整理しておこう。

羊飼いは自分の財産を持たず、主人の財産(羊)をあずかって世話をする下僕が多い。(経済的に貧しい。)

羊飼いは、獅子や熊 などの野獣に自分が襲われる可能性があるばかりでなく、自分の命をかけて主人の財産(羊)を護る事を要求される。
羊が食われてしまえば、野獣による被害であることを証明しなければならない。(危険で厳しい仕事)

羊回には、夜番(二交代勤務の夜勤)という仕事がある。
羊の群れは静かに眠りに入るが、他の人間が羊を盗みに来るかも知れない。
夜行性の野獣が羊を襲うかも知れない。
さびしい仕事だろう。
(聴覚の鋭い犬を利用しただろうか。聖書の記事にはない。)

気候の変動によって、牧草が得られない場合さえある。
その影響は極めて広範囲になるはずである。
その地域の草が少なければ、その向こうの地域も草が少ない。
更に、別の羊飼いグループが存在するから争いが起きる可能性が高くなる。(不安定な職業)

羊飼いの生活の場は、天幕(テント)を持って移動していかねばならない。
荷物運搬は、ロバを利用したのだろうか。
少しの水や食料を優先して運ばねばならない。
生活用品は最小限のものしか運べない。
身体や衣服を洗うのに、小川の雪解け水を利用できるのだろうか。
遠くの井戸まで定期的に戻るのだろうか。

羊飼いたちの天幕生活期間は、どの程度続くのだろうか。
愛する家族と会えないのだろう。(孤独な生活)

群れを移動させるとき、生まれたばかりの子羊の世話は大変である。
しかし、一匹の羊が増える事で、主人の評価が良くなる。
大切にしなければならない。
手で抱き肩にのせ、母羊に心配させないように移動する。
衣服が汚れようが、動物臭が身体に付こうが、気にしていられない。(汚いので軽蔑される)


要点をまとめたい

羊飼いの生活は貧しく、厳しい仕事で、苦労の連続ということは、その通りだろうと思う。
しかし、「聖書の神の恵みは、どんな人を優先したのだろうか。」という、最初の疑問の回答ではない。

野宿で夜番をしていた羊飼いは、その地方だけでなく他の地域にもいたはずだからです。
彼らは、神の恵みを受ける代表者として、素晴らしい経験をする恩恵にあずかったのだと、考えるべきだろう。

では、なぜ羊飼いなのか。聖書を調べている過程で、今まで気に留めないでいた文章を見つけた。

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
                    ルカによる福音書 4章17〜19節

羊飼いたちのように、貧しい人々に、病の中にある人に、さげすまされている人に、一般社会から弱者と評価される人々に、驚くような知らせが届けられたのです。

そして、彼らの役割は、素晴らしい経験を喜び、その経験と喜びと希望を“人々に伝える”ことであったと思う。
神は、その羊飼いたちに特別なあわれみをかけたが、同時に“人々に伝える”ことを期待して彼らを選び、彼らは応じた。
わたしにも伝わってきたから。そして、読んでくださったあなたにも不思議な出来事として伝わって欲しい。

神は人を偏り見ない方だから、その知らせを聞いて信じ、期待する人々に対し、同じ喜びと希望を約束しているはずだから。







2006/12/27 11:26:39|聖書
羊飼い達の日常生活(推定2)
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

羊飼いたちは、どんな人たちなのか、聖書から推定していく。

《イザヤ書にある羊飼いの描写》(時代は更にさかのぼります)
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
イザヤ書40章11節

 多くの羊の中には子羊を産み落としたばかりの母羊がいるだろう。子羊が満足に歩けない時期もあるでしょう。

そんな時は、子羊をふところに抱いて、乳を飲ませる母羊を安心させ、追い立てることをしないで、優しく歩かせるという。

羊飼いの身体や衣服には動物臭や汚れが付着するが、羊を安全に移動させるためになんとも思わないのだろう。

否、そうまでして羊を大切にしないと主人に信頼されないと考えるべきかもしれない。そして、動物臭がする身体は、さげすまれる原因になるが、彼らの勲章なのかもしれない。

別の世界だが、残業代返上残業(無届残業)を思い出してしまった。

《獅子や熊から羊を救うダビデ》
ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。
獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。

聖書の中のダビデの存在は特別なものがあるが、ダビデも羊飼いであった。
彼は、石投げ器使いの名人であったようだ。彼はアモスの例話にある「二本の足」や「耳たぶ」を取り返すのでなく、獅子や熊から羊を救うと言っている。

そのために身体を鍛え石投げ器の練習もしたのであろう。困難な環境でも、信仰によって積極的に生き、人々に尊敬される存在になった典型的人物だろう。







2006/12/26 20:29:55|聖書
羊飼い達の日常生活(推定1)
 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

ルカによる福音書は、まず最初に、羊飼いたちのところに主(神)の使いが来たと告げます。
聖書の神の恵みはどんな人を優先したのだろうか。
その羊飼いとはどんな人たちなのだろう。

わたしは、その生活は貧しく、厳しい仕事で、苦労の連続だということを聞いたことがありますが、見たことはなく、具体的に理解できません。それで、聖書に書いてあることを参考に考えて見ることにしましょう。

《イエスの例え話に出てくる羊飼いの姿は》
ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』と、しもべに言うでしょうか。
ルカによる福音書 17章7節

羊の持ち主は「あなたがたのだれか」であり、羊飼いは「しもべ」としてたとえられている。これは当時の一般的な社会階級を指していると判断してよいと思う。羊飼いは「羊」と言う財産を持つこともなく雇い人のような立場で羊を飼育をしているに過ぎない。

《アモスの預言に例えられた羊飼いの姿は》 (少し時代がさかのぼってしまうが)
主はこう仰せられる。「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから救い出される。」
アモス書3章12節

羊が雄獅子に襲われてかみ殺されたとき、羊飼いは雄獅子が保存した「二本の足」や「耳たぶ」を取り返すという例えであろう。獅子が戻ってくるかもしれないので危険なのだが、羊を1頭失った理由を正確に主人に報告しなければ、「盗んで売り飛ばしたのではないか」と主人に疑われかねない。羊を一匹でも失ったなら叱責を受けることは覚悟するが、疑われてはならない。こんな時の孤独感と悲しみはどれほど深いだろう。つらい立場だ。

《アモス書の預言にある牧場の変化》
彼は言った。「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる。」
アモス書1章2節

昨年、あの地域は羊が好んで食べる草が豊富にあった。明日は、そこに行こう。しかし、苦労して行ってみると草は枯れていて、羊たちは動こうとしなかった。雪解け水の小川が枯れていたからでる。疲れきった羊たちを次の場所へ移動させるには、ゆっくり注意深く進めねばならない。羊飼いの咽も枯れ、疲れは癒えない。

《エレミア書にある羊飼いの描写》(時代は更にさかのぼります)
羊飼いは自分の群れを連れて、そこに行き、その回りに天幕を張り、その群れはおのおの、自分の草を食べる。
     エレミア6章3節

羊飼いは雪が溶けて草が芽吹き始めると、羊たちを連れ、草地を探して、移動する生活に入る。その期間がどの程度なのか、秋まで続くのかわかりませんが、天幕(テント)で生活するようになる。身体や衣服を洗うには、陽射しの強い時刻に雪解け水を使うのだろうか。今の日本人には耐えられないほどに厳しいだろう。