いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/01/10 7:26:08|聖書
父と母は、・・・・驚いた
今日の部分の中心人物は幼子イエスであるが、その幼子を目立たせているのはシメオンと女預言者アンナである。
この二人は通常の人が感じないものを感じるようで、「聖霊」或いは「御霊に感じて」行動し、神を喜ぶ能力を備えているようだ。今の私には、この能力を経験できない。
また、父と母は、・・・・驚いているが、彼らの霊的能力を驚いているのではなく、イエスに対して語られている内容を驚いている。別の記事でもそうだが、この子はいったいどうなっていくのだろうかと、しげしげ幼子を見つめたに違いない。

次の文章は「ルカによる福音書 2章21節」以降である。
私は、原則として「いのちのことば社」の新改訳聖書を引用しているが、他の訳でも大きな違いはないはず。確認して欲しい。

八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
(途中略)・・・・・・・・
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。
聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた
(途中略)・・・・・・・・・・
また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。







2007/01/09 9:45:03|聖書
登場人物の中心はイエス
 新約聖書を開くと、先ず四つの福音書に出会い、イエスの生涯を繰り返し4回も読まされる。私は、ルカによる福音書まで読んで、聖書を投げ出したことを今でも忘れない。

 少しだけ、注意深く読むと別の記事が書かれていることに気付くのだが、当時の私はストーリーと登場人物が同じだから、同じ内容としか思えなかった。

 私と、同じように感じた方がおられるかも知れないので、聖書知識という意味で、私は重度の障害者(原因は勉強嫌い)なのですが、ゆっくり調べていきたい。

 そして、登場人物の中心はイエスですから、イエスの生涯を大雑把に掴む事からはじめたい。しかし、少しだけ注意深く読みたい。

 さて、クリスマスの記事は、その生涯の始まりでしたが、有りえないと思うほどに、超自然的でした。
おそらく、旧約聖書を一度も読んだことがないなら、一笑しておしまいですよネ。

イスラエル民族の歴史を抜きにしては、聖書の存在理由を見つけるのが、非常に困難です。

 日本の公害問題を最初に取り上げた栃木県佐野出身の政治家として、足尾鉱毒問題に殉じた田中正造翁が有名ですが、彼はマタイによる福音書を所持していたそうです。

 田中正造は、何を読み取ることができたのか、なども面白い研究テーマになるが、私の及ぶところではないし、自分の生き方に直接影響する事柄ではないので、当分遠慮したい。







2007/01/06 16:12:14|聖書
主は羊飼いのように
別の羊飼いの記事は、説明を必要としないほど、簡潔に書かれているので、コメントの必要性を感じなかったのだが、今日になって、今の私の思いを書いて置くのが良いように感じた。
以下、感じるままに。


 ヤコブは、若いとき、母リベカの兄ラバンのもとで羊飼いの仕事をしていた。羊飼いが羊たちをどのように扱うか詳しく心得ていた。
昨日、提示した(ヤコブの祈り)は、ヤコブが年老いたとき、長らく離別していたヨセフに会い、祝福の祈りをした時の祈りである。

彼は、自分の生涯を振返って「ずっと私の羊飼いであられた神。」と告白したのです。その生涯が素晴らしかったので、ヨセフにも同じ祝福を与えてくださいと祈っている。


ダビデも、父エッサイの羊を託された羊飼いであった。(サムエル前書17章15節参照)
そのダビデが、王になった後であろうと思われるが、「主は私の羊飼い」と歌うようになり、イスラエルの民の祝福を願うかのように「どうか彼らの羊飼いとなって」くださいと祈っている。


伝道者は自分を「知恵あるもの」と表現しているようにも見えるが、「これらはひとりの羊飼いによって与えられた。」と言って、神から教えられた事柄を書いているのだと告白している。
そして、その神は羊飼いのようだったと告げている。


イザヤはどうか。
イザヤが羊飼いではなかったと言うことは困難だが、羊飼いであったとする文章を見つける事もできなかった。

しかし、彼は預言者であったから、創世記や詩篇を過去に読んでいる可能性がある。
ヤコブやダビデの表現を無意識のうちに用いて、主の恵深さを預言したのではなかろうか。
ある人は、イザヤが、主から直接「羊飼いのように」との啓示を受けたと主張するかもしれない。
私には判らない。


私が微かに感じていることは、主は聖書の世界に近づこうとする一人一人に対して、直接かかわってくださる方であるという事だ。







2007/01/05 23:14:24|聖書
別の羊飼い
「羊飼い達の日常生活」 を知ろうとして、聖書を調べていた時に、羊飼いたちではない別の存在者を 「羊飼い」 として呼んでいる文章に出会う。少し、羅列してみよう。

(ヤコブの祈り)
それから、ヨセフを祝福して言った。
「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ
きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた
すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。
私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。
また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」
創世記 48章15節

(ダビデの賛歌)
私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇 23篇1節〜3節

(ダビデの祈り)
は、彼らの力。は、その油そそがれた者の、救いのとりで。
どうか、御民を救ってください。
あなたのものである民を祝福してください。
どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。
詩篇 28篇9節

(伝道者---ダビデの子ソロモン---の言葉
知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。
これらはひとりの羊飼いによって与えられた。
伝道者の書 12章11節

(イザヤの預言)
羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
イザヤ書 40章11節







2007/01/04 16:43:40|聖書
蛇足ですが大切なこと
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。                            ルカによる福音書 2章11節

クリスマスのニュースは、先ず、心の貧しい羊飼いたちが受け取りました。
そのニュースは、その地域に驚きをともなって伝えられ、人々の記憶に留められ、30年〜40年後になって、弟子達(特に福音書の記者)によって集められ、記録に残ったのでした。

その時の羊飼いたちは、とても幸運でしたが、代表者達であると書きました。

ところで、ダビデの町(ベツレヘム)の、救い主が生まれた場所は、どうでしたか。

建物の持ち主は、このビッグニュースを聞いたでしょうか。聖書を読む限りでは、客間を開放できなかった宿屋の主人には伝えられなかったのでした。

ですから、ダビデの町の住民にも伝わらなかったようですネ。

この事の一つの側面は、イエスの家族が、こっそりエジプトに逃げるためには、都合が良かった事だと思いませんか。(マタイ2章14節参照)

もう一つの側面は、客間を開放できなかった事情はあるのですが、主人の関心が、家族の貧しそうな様子に向けられて、出産時期が近いマリア達の困惑に向けられていなかったと思う。

イエスの家族は、無関心の中に置かれたのです。無関心の人々には、福音が伝わらないかもしれない。

そして、この宿屋の主人も、実は代表者だったのかも知れません。
ダビデの町も、代表された町だったかも知れない。

2000年前のあの日も、代表された日であったと、考えることができます。

きょうという日は2000年前だけではないからです。
聖書に「きょう、もし御声を聞くならば」(ヘブル人への手紙 3章15節)という警告文があります。

聖書の記事を無関心のままにしないように、お勧めします。