いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/01/17 8:22:52|聖書
恵みのことばに驚いた
この部分は、羊飼いたちについて調べている過程で、驚くような知らせが届けられたのは、どんな人たちが優先されたのかを考えていたときに、預言された言葉として認識した文章でした。

場所は、イエスが育ったナザレ地方の会堂です。
「いつもの通り」  と書いてありますから、  すでに何回も人々の前で話をするようになっていたようです。
イザヤの書が渡されたので、「恵を知らせる」事を預言したこの部分を開いたのでしょう。
そして、今日の話の冒頭で  「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」  と宣言したのでした。聖書の文章をどうぞ。

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。

                   ルカによる福音書 4章16〜22

おそらく、イエスはこの時、 「主の恵み」 の実現に、ご自身が深く関わることを、はっきり意識しておられたことでしょう。
あなたの感想を、あなたの気付きを、教えてください。







2007/01/16 8:00:36|聖書
評判が広まった
ユダヤの宗教界に新人登場です。

イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。

                 ルカによる福音書 4章14〜15節

私の中の野次馬根性は、どんな評判があったのかナ〜と考えちゃう。40日も断食した後だから、並みの人間でも身体全体が痩せ気味になり、顔の容貌が変わったでしょう。これに御霊の力を帯びて(聖霊に満ちて)帰られたことも加わると、その雰囲気がずいぶん変わったものと思う。

「大工をしていたあのイエスがナ〜・・・・・・・・・」
「見違えちゃったけど、良く見ると間違いなくイエスで・・・・・・」
「昨日、会堂で教えてたよ。聞いていたらうれしくなっちゃって、涙が出そうだったよ。」
どんな噂であったかわかりませんので、皆さんが御自分で考えてください。







2007/01/15 9:17:39|聖書
試みに会われた
この部分も難解である。しかし、この部分は人間の悩み苦しみなどの、ほとんどの原因を凝縮したようなところだと思われるので、大切にしたい。


さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」

また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」

また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。
「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」

するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」

誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。
            ルカによる福音書 4章1〜13節

難解:悪魔の試みの意味に関する解説は、何度か聞いたことがある。経済的欲求・権力的欲求・名誉欲・超能力的欲求・等の人間の欲求にともなう内容を用いて誘惑するもの(悪魔)に対抗し、聖書の言葉と伝えられている言葉によって、誘惑する者(悪魔)を離れさせたと理解する。

私の疑問は、二つ。
@ 悪魔とは何か。
  そもそも悪魔とは何かと考えること自体が、悪魔に毒されているのかもしれないが。
  「幽霊の正体見たり枯れススキ」とあるように、私も正体を把握する必要があると考えている。
A この記事の情報源は何だろうという事。
  この試みの時に立ち会った誰かがいないと、記事が書けないはずだ。
  取り敢えず、イエスから聞いたのだろうという事で、先に進みたい。







2007/01/14 7:47:52|聖書
公けに活動を始める直前に
この部分は、非常に難解な部分だ。今の私にとって何が難解なのかだけ付け加えておこう。どなたかアドバイスをいただける方が読まれたなら、是非指導していただきたい。

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。

                 ルカによる福音書 3章21〜23節

難解:何故イエスがバプテスマを受けられたのだろう。
天からの声が人々に聞こえるためだったのだろうか。
マタイによる福音書3章にも同じような記事があり、イエスが
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と答えているのだが、それにしても何故との思いが残る。
バプテスマのヨハネも同じ思いが有ったに違いない。
私が納得したときに詳しく触れたい。

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

                マタイによる福音書 3章13〜17節







2007/01/13 7:57:47|聖書
横道から出る前に
 過越の祭りの背景となる聖書の記事を読んできたが、簡単に整理しておきたい。

(事前の歴史)
イスラエルは、飢きんの災害から生き残るためエジプトへ行くが、子孫が増えて大集団になる。
エジプトの王パロ(別訳ファラオ)はイスラエルの人口が増え続ける事に危険を感じ、これに重労働を課して苦しめ、人口増を抑制する政策を採るので、イスラエルの苦しみは極限に達していく。

イスラエルの苦しみに対して、主はモーセを起こし、エジプトの支配下から離れられるように働きかけるが、パロ王は、イスラエル人がいなくなると重労働を受け持つ人がいなくなって、国の運営に支障が出るから、離れて行くことを許さない。

パロ王とモーセの折衝の最後に、主(神)から、エジプトの各家族の長男をすべて殺すという主の意思が示される。だが、イスラエルの家族が、その災害に遭わないために、過越しの儀式を行なえという。

(過越しの儀式)
@ 家族ごとに、その月の十日に羊一頭を用意する。
A その羊を、十四日までよく見守る。
(その羊が、自分達を守るための、主への過越のいけにえであることを深く思わせるためか)
B 十四日にイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふる。
C その血を鉢に取り、ヒソプの一束を鉢の中の血に浸し、血を家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
D その夜、その羊の肉を火で焼く。
E 腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、焼いた肉を種を入れないパンと苦菜を添えて、急いで食べる。
F 朝まで残ったものは、火で焼きつくす。
G 朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

(種入れぬパンの祭りに続いていく)
@ 十四日に家の中のパン種(例えばイースト菌)を取り除く。
A 十四日に聖なる会合を開く(過越しのBを指す)。夕方から種入れぬパンを食べる(過越しのEを指す)。
B 十四日の夕方から、二十一日の夕方まで、食事を作るための仕事以外に働いてはならない。
C 二十一日の夕方まで種入れぬパンを食べる。

イスラエル民族は、この儀式を毎年行なっていた。羊をほふり、その肉を食べること自体は、日本人が牛肉や豚肉を食べるのと同じようなものであったろう。

血に対する考え方が、彼らと日本人では全く異なる。
彼ら(モーセは別格として、イスラエルの民)は、血の塗布によって主が戸口を過越され、命の保障を得られるという啓示を聞いて、それを信じ受け入れた。

おそらく、人間でも動物でも血が多量に流されると命を失うのを見続けて、血の中に命があるという感覚が醸成されていたものと思う。だからモーセの言葉を聞いて信じ、期待することができたのだろう。

イエスの時代に戻ろう。
イエスの家族は、祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしていたのだ。
どこかの宿泊所で過越しの儀式に参加できたのだろうか。

今の私に、それを知る手立てはないが、かなり具体的な儀式の様子と当時の人々の心を、具体的に考えられるようになったかナ。