昨日、目の前にいる一人に語りかけるのでと書きましたが、私の意識は 「中風をわずらっている人」 と 「男たち」 に対して、 「友よ。あなたの罪は赦されました。」 といわれたと感じている。 聖書の記者が、 「彼らの信仰を見て」 と表現しているように、信仰は見えてしまうと思う。彼らの行動は、 「イエス様、私はあなたが神から遣わされたお方だと信じます。あなたは、弱って、苦しんでいる者をあわれんでくださる方だと信じています。そのあわれみを私たちにも現してください。」 と言っているように見えませんか。
今日の、宗教家たちはどうだろう。 イエスは 「心の中でそんな理屈を」 と言われた。 彼ら宗教家の、微妙な表情や動作などのリアクションに現れたかどうか知る由もないが、福音書後半の宗教家達の行動を含めて判断すると、彼らの思いの基本は「イエスは、我らと同じような宗教家に過ぎない」 はずだ。 「まやかしのような指導をしていないかどうか見ておこう。」であったろう。
ルカによる福音書 5章の続きです。
(宗教家たちの理屈とイエスの叱責)21〜23節 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
(中風患者のいやし)24〜25節 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
(人々の驚きと神への畏敬)26節 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。
宗教家達の既成概念を超越して、中風患者のいやしが行なわれ、人々に驚きと主の働きの余韻を残している。 そして、繰り返しになるが、この記事でも、「中風をわずらっている人」 の身体に、現代医学でも説明できないことが、起きており、 「彼ら」 の心はおそらく聖書の要求を満たしているに違いない。
この記事の中にも 「福音」 の一部が現されているだろう。
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