いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/01/27 20:37:10|聖書
気付かせる(悟らせる)ために
昨日、目の前にいる一人に語りかけるのでと書きましたが、私の意識は 「中風をわずらっている人」 と 「男たち」 に対して、 「友よ。あなたの罪は赦されました。」 といわれたと感じている。
聖書の記者が、 「彼らの信仰を見て」 と表現しているように、信仰は見えてしまうと思う。彼らの行動は、 「イエス様、私はあなたが神から遣わされたお方だと信じます。あなたは、弱って、苦しんでいる者をあわれんでくださる方だと信じています。そのあわれみを私たちにも現してください。」 と言っているように見えませんか。

今日の、宗教家たちはどうだろう。
イエスは 「心の中でそんな理屈を」 と言われた。
彼ら宗教家の、微妙な表情や動作などのリアクションに現れたかどうか知る由もないが、福音書後半の宗教家達の行動を含めて判断すると、彼らの思いの基本は「イエスは、我らと同じような宗教家に過ぎない」 はずだ。 「まやかしのような指導をしていないかどうか見ておこう。」であったろう。

ルカによる福音書 5章の続きです。

(宗教家たちの理屈とイエスの叱責)21〜23節
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。


(中風患者のいやし)24〜25節
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。

(人々の驚きと神への畏敬)26節
人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。

宗教家達の既成概念を超越して、中風患者のいやしが行なわれ、人々に驚きと主の働きの余韻を残している。
そして、繰り返しになるが、この記事でも、「中風をわずらっている人」 の身体に、現代医学でも説明できないことが、起きており、 「彼ら」 の心はおそらく聖書の要求を満たしているに違いない。

この記事の中にも 「福音」 の一部が現されているだろう。







2007/01/26 21:00:26|聖書
「友よ。」
「あなたの罪は赦された。」という言葉は、昨年の10月20日に投稿した 「信仰者“H 師”の祈り」 で触れた言葉だ。懐かしい“H 師”を思い起す。
ルカによる福音書 5章の続きです。

今朝、この部分を読んで新鮮に感じた言葉は 「友よ。」 です。
私は、「あなたの罪は赦された。」 と語られたのを記憶に留めていたからでしょうか。
今の私は「友よ。」が新鮮に聞こえるので、少しこだわってみたい。

記事に登場する 「男たち」 と 「中風をわずらっている人」 は、イエスにとっておさな馴染でも仕事仲間でもない。
どなたが教えてくれたのか記憶がないのだが、イエスは、ご自身が行なおうとしていることを、手伝おうとする人々を「友」と呼ぶそうです。後日、確認したい。
もしそうなら、ここで彼らは何を手伝おうとしていたと想定し得るだろうか。
正解を知ることは不可能だが、次のように考えてみた。

イエスは、羊飼いたちのように、弱い立場にいる人、人々からさげすまれている人に目を注ごうとしていた。
彼らを、苦しみや悩みから解放することを通して、神が一人一人をあわれみ、慈しむ方であることなどを知らせ、人々を御自分に取り戻そうとしておられる。
「中風をわずらっている人」 は、突然襲ってきた苦悩から開放されたいし、イエスが前述のようなお方であると信ずればこそ、神のあわれみにあずかりたいと思い、自分の醜態を人前にさらし、屋根を壊してでも、イエスの前に出たのでしょう。
屋根の上にいる男たちも、同じような思いだったのではないか。
従って、この「友よ。」と言われた対象は、御力が現される働きに参画した 「彼ら」 全員であったと思う。
しかし、目の前の一人に語りかけるので、 「あなたの」 と言ったのではないだろうか。
聖書の文章をどうぞ。

(全体の様子)17節
ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。
イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

(男たちの行動と罪の赦し)18〜20節
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。
そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
彼らの信仰を見て、イエスは 「友よ。あなたの罪は赦されました。」 と言われた。









2007/01/25 13:01:33|聖書
現代医学でも説明できない
既に御存知と思いますが、念のため。

ハンセン病はライ菌による慢性の感染症で、以前は 「ライ病」 と呼ばれ、不治の病であるとか、遺伝病であると思われ、この病気にかかった人々やその方が、いわれなき偏見と差別に苦しめられた過去がある。
しかし、1873年ノルウェーのハンセン博士がライ病を発見し、単なる感染症であることが証明され、以来ハンセン病と呼ばれる。
1943年にサルファ剤を中心に特効薬が発見されてからは治る病気となったが、しかし日本では、ハンセン病患者は偏見差別で苦しんできた。

上の文章は、下の URL から引用させていただいた。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/daw/wz_hansen.htm

新約聖書の世界は、今から2000年前の事ですから、 「らい病」 に対する偏見と差別は、目を覆うものが有ったに違いない。
登場した 「病の人」 の言葉は 「私はきよくしていただけます」 である。 
「病の人」 自身の意識が 「汚れている」 と感じるのだ。
これには、旧約聖書の律法の影響があるのだが、当人の心の内は、どれ程まで打ちのめされていたのか、私には想像し得ない。(現代では、HIVの患者が同じような心の状態かもしれない。)

聖書のいう健康な心の状態は 「いつも喜んで」 いることです。
このブログをはじめた動機が 「いつも喜んで」 という聖書の要求にあります。
ルカによる福音書 5章の記事を繰り返し読んで欲しい。

(重症な皮膚病がいやされた)12〜16節
さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。
イエスは、彼にこう命じられた。
「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。
そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」

しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

現代医学でも説明できないことが、彼の身体に起きている。
そして、彼の心はおそらく聖書の要求を満たしているに違いない。

注目したいのは、この記事の中にも 「福音」 の一部が現されていると感じることだ。







2007/01/24 9:26:02|聖書
エピソードの発生順序
既に述べたことだが、ルカによる福音書5章のこの所もエピソードの発生順序にこだわると、混乱する部分だ。我々は、物事の発生順序が重要なファクターとなっている通常の小説に馴れているので、聖書も同様に読みたいのだが、私個人は、この部分を三つの独立したエピソードとして読みたい。

(ゲネサレの湖岸で教える)1〜3節
群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
岸辺に小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

(大漁の不思議を行なう)4〜10節
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
それは、大漁のため、彼もいっしょにいた皆の者も、ひどく驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

(漁師たちがイエスの弟子となる)11節
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。







2007/01/23 20:28:32|聖書
「福音」 という用語
私の興味から、カペナウムでイエスが何をしたのか探ろうとしたが、この記事がそれだろう程度に終わってしまった。
そうであれば、聖書記者が伝えたかったことは何か、考えねばなるまい。イキガッテイイノカナ。
福音書を読んできて、 「福音」 という言葉が重要というニュアンスをうける。
「福音」 という言葉に、少しだけ触れておきたい。手始めに、どの程度重要なのか察するために、書簡ごとの発生頻度を調べてみた。私の調査結果は次の通り。

旧約聖書全体          0回
マタイによる福音書       5回
マルコによる福音書      12回
ルカによる福音書        9回
ヨハネによる福音書       0回
使途の働き            8回
ローマ人への手紙       13回
コリント人への手紙 第T   9回
コリント人への手紙 第U   9回
ガラテヤ人への手紙      12回
エペソ人への手紙        6回
ピリピ人への手紙        8回
コロサイ人への手紙       3回
テサロニケ人への手紙 第T  6回
テサロニケ人への手紙 第U  2回
テモテへの手紙 第T      1回
テモテへの手紙 第U      5回
ピレモンへの手紙         1回
ヘブル人への手紙        2回
ペテロの手紙 第T       4回
ヨハネの黙示録          1回

新約聖書の多くの書簡で、 「福音」 に触れている事からも、極めて重要な用語であることが推察できます。少しずつ、理解を深めていきたい。

また、私にとって、今回の新しい発見は、ヨハネによる福音書に 「福音」 という用語が使われていないことだ。