いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/02/03 11:51:06|聖書
悲しみは喜びに
以前も断わりましたが(  )内の文章は、私個人の主観で区分し補足したもの、参考または、考えるヒント程度にとどめて読むべきです。

マタイによる福音書の5章が、脳裏をかすめる。
微妙な違いがある。

さて、ここは、難しい部分ですネ。

貧しいのは、どの程度の貧しさか。
飢えているとは、何日断食した後のことか。
泣いている原因は、何でも良いのか。
憎まれたら喜べとは、何事だ。
富んでいるって、貯金でいうならいくら以下ならいいのか。・・。
以前、ここを読みながらチョット感じたことを、極端に例示しましたがだが、全く方向が違うでしょう。

イエスは、この部分を「多くの弟子たち」「大勢の民衆」の前で話したのである。
「ここは大切な部分だから紙に書いて渡します。」とは言われなかった。
最近になって感じているのは、風に乗って聞こえてくる歌を聞くように、この部分を聞きたいということ。

それで喜びを感じたら、すこぶる健康。
アレ!何か変だぞと感じたら、少し不健康。
なに、こんなこと聞いていられないと感じたら、「信仰の」死亡宣告を受けたようなもの。
何も感じなくなったら、ゴシュウショウサマ。
最近の私は、少し不健康なようです。パソコンの前に座る時間が多いので、運動不足かもしれない。

あなたは、どんな読み方をしたいですか。
ルカによる福音書 6章続きです。

(イエスがいる環境と背景)17〜19節
それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海辺から来た大勢の民衆がそこにいた。
イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。
群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。

(イエスの神の国に関する実感)20節
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。

(イエスの神の義に関する実感)21節
いま飢えている者は幸いです。
あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いている者は幸いです。
あなたがたは、いまに笑うようになりますから。


(すぐに来る迫害に対する、事前の励まし)22〜23節
人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
その日には、喜びなさい。
おどり上がって喜びなさい。
天ではあなたがたの報いは大きいからです。
彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。


(この世の富で満たされている者に襲う悲哀の予告)24〜26節
しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。
慰めを、すでに受けているからです。
いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。
やがて、飢えるようになるからです。
いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。
やがて悲しみ泣くようになるからです。
みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。
彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。








2007/02/02 8:25:24|聖書
「レビという取税人」の疑問
1月30日に投稿した、「レビという取税人」の疑問が解けた。
「呼び出した記事があったが、その後の弟子達の行動の記録には出てこない。」のはなぜかという疑問であった。
私の頭の中のデーターが、「弟子達」と「使徒達」の区別がなかったから、気付かなかっただけだ。
弟子達の行動を、聖書記者が名前付で追いかけたのは、実は、多くの弟子達の中の、一握りの使徒達だったのだ。
要するに、「レビという取税人」は、弟子であったが使徒に選ばれなかったことと、特別に目立ったエピソードに関係しなかったため、行動の記録に現れなかった、と考えられる。
ルカによる福音書 6章続きです

(12使徒の選び)12〜16節
このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
すなわち、 ペテロ という名をいただいたシモンとその兄弟 アンデレ  ヤコブ  ヨハネ  ピリポ  バルトロマイ  マタイ  トマス  アルパヨの子ヤコブ と熱心党員と呼ばれる シモン  ヤコブの子ユダ とイエスを裏切った イスカリオテ・ユダ である。







2007/02/01 8:05:01|聖書
安息日の労働論争
宗教家達とイエスの問答が、ここでもぶつかる。正論で説得するイエスの話は、11節で見るように、古い生活規範に固執しようとする宗教家達の分別を失わせるほど。

また、私が意外に感じたのは、イエス殺害の直接原因になる自己紹介の言葉が、かなり早い時期から語られていた事だ。
5節 「人の子は、安息日の主です。」 の部分だが、 「人の子」 とはイエス自身を指す時によく用いている言葉で、 「主です。」 の部分は、英訳だと “Lord” が用いられている。
だから 「私は、安息日の神です」 と言っている。
ルカによる福音書 6章1節からです

(安息日に麦穂摘み)1〜5節
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
すると、あるパリサイ人たちが言った。
 「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 
イエスは彼らに答えて言われた。
 「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」 

そして、彼らに言われた。
 「人の子は、安息日の主です。」

(安息日になえた手をいやす)6〜11節
別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。
そこで律法学者、<パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
イエスは彼らの考えをよく知っておられた。
それで、手のなえた人に、 「立って、真中に出なさい。」 と言われた。
その人は、起き上がって、そこに立った。
イエスは人々に言われた。
 「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」 
そして、みなの者を見回してから、その人に、 「手を伸ばしなさい。」 と言われた。
そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。







2007/01/31 8:31:06|聖書
古い : 新しい
先ず、宗教家達の質問(批判)とイエスの例えによる回答がある。
続いて、その質問の動機となった律法(古い生活規範)と、福音(新しい生活規範)とは、互いに融合できないことを、これも例えで説明している。
何故、融合できないかについては、おぼろに感じている私見を整理したいと願っているが、勉強嫌いの今の私では、展望できないと感じるので、別の機会に譲りたい。
このテーマには、信仰の先輩に是非教えを請いたい巨大なエネルギーを感じる。
ルカによる福音書 5章の続きです。


(宗教家達のつぶやき)30〜32節
すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」


(断食と祈り)33〜35節
彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。
しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」


(新しい着物から布切れを)36節
イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。

(新しいぶどう酒は新しい皮袋に)37〜38節
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。


(『古い物は良い。』と言う)39節
また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」








2007/01/30 7:40:18|聖書
レビという取税人
弟子の中に、レビという名の弟子がいたことを知らなかったので、調べてみた。
わかったことは、マルコによる福音書の2章14節にレビを呼び出した記事があったが、その後の弟子達の行動の記録には出てこない。
別の名前で呼ばれるようになっていたのかどうか、原因不明である。
ルカによる福音書 5章の続きです。

(レビを呼ぶ)27節
この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。

(レビの行動)28〜29節
するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。