いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/02/12 6:48:08|サッカー
平山相太選手が調子あげてる
共同通信社の報道によると、Jリーグ1部(J1)FC東京のFW平山が開幕に向けて調子を上げているそうです。以下報道内容。

11日、宮崎県都城市で行った2部(J2)鳥栖との練習試合は45分間を3回。
平山は第2、第3試合に出場。得点はならなかったが、クロスバーやゴールポストに当たるシュートを連発。
左サイドからドリブルでDFをかわしてシュートを打つなど、切れのいい動きを披露した。
原監督も「平山は体の切れ、コンディションも上がっている。これでワンチョペの方がいいという人はいないだろう」と、FWのポジション争いは、平山が一歩リードしていることを認めた。
オランダから昨季途中に帰国後は、体重超過などで調子が上がらなかったが、サッカーに集中できる環境で現在の体重はベストに近い約82キロまで落ちた。
わずかに決まらなかったシュートにも「惜しいじゃ駄目。決めたかった」と、復調とともに気持ちも前向きになっているようだ。


体重が落ちたのは何よりだ。
期待したくなるなぁ〜。
U-22日本代表メンバーにも選ばれたことだし。







2007/02/11 22:26:22|聖書
良いところがあるか
この部分も 「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。」 といわれた話の続きです。
また、 「罪びとたち」 とは、聞いている人々のうちの多くの人達から、 「罪びと」 と評価されている人と考えてよいでしょう。
ルカによる福音書 6章続きです

(イエスは言う : 自分を優れた者であると思うな)32〜34節
自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。
罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。
罪人たちでさえ、同じことをしています。
返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。
貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。


イエスが言う「何の良いところがあるか」とは、愛の質を問われているので、私には、何もありませんと答える意外にない。
人間の持つ思考能力・運動能力・創作能力などを指しているのではない。







2007/02/09 8:59:27|聖書
信頼して行動している
ルカによる福音書 6章、昨日と同じ部分です。

(あなたの敵を愛しなさい)27〜31節
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。


イエスは、具体例を可能性を含めて考えて整理しておけとは言われない。
かえって、 「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」 と言われていますから。(マタイ6章34節)

また、例として挙げたことだけでも、言われたように行なうことが難しい。
私には出来ない。」 と告白せざるを得ない。
否、人の心の奥を知っておられるイエスは、 「いま聞いている」 一人一人が出来ないのを知っておられて話しているのではないか。

私には出来ないのを知っておられて、私にはイエスが望むように歩めないのを知っておられて、私にはイエスが見るように人の心が見えないのを知っておられるからこそ、気付くようにと言っておられるのではないか。

そうならば、イエスが、教えたいのは何だろうか。
昨日、今日、繰り返して思い起こす言葉が二つある。

一つめは
人にはできないことが、神にはできるのです。」 (ルカによる福音書18章27節)である。
中風で動けない人に向かって、 「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」 と言われた時、彼は 「立ち上がり、寝ていた床をたたんで」 と行動している。
安息日に、右手のなえた人に向かって 「手を伸ばしなさい。」 とイエスが言われた時、彼は 「そのとおりにすると、」 と行動しているではないか。
一方、ルカによる福音書18章に登場する金持ちの役人は 「これを聞いて、非常に悲しんだ」 と書いてある。大きな違いだ。

このブログは、私の内的必要から、聖書の勉強をしたいと宣言させていただいたことに始まるが、皆さんの励ましで続いているではないか。

神の計画が100 キロ走るものであったとしたとき、神の力を頼りに20センチの踏み出しをさせていただきたい。 「人にはできないことが、神にはできるのです。」 という言葉と共に、声援者が与えられると信じたい。


二つめの言葉は
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 (ルカによる福音書9章23節)である。
十字架に関して学ぶのは、少し先になる予定だが、イエスが負った十字架の他に、自分の十字架があり、それを 「日々・・負い」 と言われている。27節〜31節の言葉を行なうことと、 「日々・・負い」 という内容が重なって感じるのである。私の気のせいかもしれないので、しばらく研究課題として残そう。







2007/02/08 9:24:51|聖書
記憶が正しければ
「悲しみは喜びに」のタイトルをつけた文章の中で「信仰の健康診断自分流」を述べ、私は少し運動不足だと判断した。
信仰による行動が、今ひとつスムーズでないのだ。
言葉をかえるなら、信仰に到達できず、思想に留まっている何かが、私の中にあると感じるのだ。

ルカによる福音書 6章続きです。まず聖書をどうぞ。

(あなたの敵を愛しなさい)27〜31節
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。

あなたの敵を愛しなさい。
あなたを憎む者に善を行ないなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。


私の記憶が正しければ、この部分の説明を誰かから受けたことがない。
あるいは、真剣に受け止めないので、忘れたのかもしれない。
従って、この部分を真剣に考えたことがない。
たぶん、実生活の中で必要に迫られたときだけ、チョット考え、悩んできたのだと思う。

いま聞いているあなたがたに」とは、使徒達であり、他の弟子達であり、病を癒された人であり、
悪霊から開放された人達であり、イエスを少しでも見たいと思っている一般の人達だ。
その一般の人達の中に、今、聖書の言葉に向かっている私がおり、あなたがいる。
ただし、新改訳聖書という通訳者と2000年と言う期間を間に挟んでいるのだが。

あなたの敵」とは、誰だろう。何か争い事の相手ですよネ。
例えば商売の同業者があなたの店の近くに新規の店舗建設を計画していることが判ったとする。
利害関係が発生しそうです。

あなたを憎む者」とは、誰だろう。これは難しい。私たち凡人には、簡単に人の心が見えないから。
しかし、もしそれが何かのきっかけで見えたなら、どうでしょう。レギュラー争いが激しいスポーツチームの保護者同士か。

あなたをのろう者」とは、誰か。これも難しい。しかし、ありもしないことを、うわさ話のように言いふらす人だろうか。現代日本では、「呪う」ということをあまり聞かないが、交通事故で子供を失った親の心か。神からの慰めと祝福を真剣に祈るほかに、なすすべがないかもしれない。

あなたを侮辱する者」とは、通常、私たちより有能であり、裕福な生活をされている方々が相手です。明らかなさげすみの態度が見えたとき、その方々にも、あわれみの心を与えてくださる力を持つ方に向かって、訴えなさいと言う。

あなたの片方の頬を打つ者」とは、誰か。スポーツチームの指導者か。公園にたむろしていた少年達か。

上着を奪い取る者」「すべて求める者」「奪い取る者」は、私が持っている「物」が欲しい人だ。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。とは、すべての人間関係の基本を示した言葉だ。

的を獲ていない例かもしれないが、具体的にどんなことが起きるのか、考えはじめたら膨大な文章になる可能性があって疲れてしまう。
長くなるので、続きは明日にする。







2007/02/04 22:52:23|聖書
一緒に探しに
昨日の文章の中で、「信仰の」死亡宣告を受け、ゴシュウショウサマ と言われたとしても、なお、希望が残されているというのが、エゼキエル書の37章に書いてある。
不思議な文章だが、神のいのちを失った状態をばらばらに散らばった「骨」として表現しているのだ。
その骨に対して預言すると、音がして、骨と骨がつながり、筋がつき肉が生じ、皮膚が覆っていくという。
信仰の回復を示唆するこの預言は、今の時代に適用できるのだろうか。

私はそれを判断するための知識も資料もないが、どの時代にも適用できるのだと考えたい。
信仰の目覚めを経験なさる方々か増加し、自殺なさる方々が減少して欲しいのです。
いじめられたから自殺した。
いじめたことを問い詰められたから自殺した。
ずいぶんかわいそうだと思いませんか。

お母さん方、お父さん方、良い成績を追い求め過ぎて、良い学歴を追い求め過ぎて、良い収入を追い求め過ぎて、etc 過ぎていることから離れる勇気が必要だと思いませんか。
僅かなものに満ち足りる生き方の可能性が、聖書の中に「幸いな者」として表現されていますから。

一緒に探しにいきませんか。