いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/03/24 7:53:14|聖書
神の国を見るまで
この部分も理解不能ですが、分からない部分として保留するのが私流です。
ルカによる福音書9章です。

(ここに神の国を見る者がいます)27節
しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。

「神の国を見るまで」 とはどういう意味か。

もし、イエスのよみがえりが神の国を見たことであるとするなら、イスカリオテ・ユダ以外の使徒達全員になる。
ペンテコステ(聖霊降臨)が神の国の到来であるとしても、同じ結果だろう。

しかし、イエスがもう一度来ると言っておられるが、その時を指しているなら今後のことであるから、肉体の死を指すのではなくなる。
「・・・・味わわない者たち」 と書いてあるので複数の人数であろう。

この部分は、そもそも何を伝えたいのだろう。
イエスの言葉のイメージを私流に表現すると 「神の国の到来が近づいている」 となるのだが、私の考察力の及ぶところではない。

イエス御自身が、十字架の苦しみと死を迎えたときに、仮によみがえりが理解できない弟子たちであったとしても、希望を失わないように励ましを与えたいと思われたのだろうか。







2007/03/22 8:37:06|聖書
いま、言わねばならない
イエスは、従おうとしている弟子達に 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け・・・・」 と教えたが、弟子達には理解できないままだった。
それでもイエスは、教えておくべきこととして語り続ける。
必要なときに思い出させると確信し切っているようだ。

赤い文字は私の問題提起です。
長くなるので、項目の羅列になります。
ルカによる福音書9章です。

(従う者の心得・基本)23節
イエスは、みなの者に言われた。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分を捨てとは何か
自分の十字架とは何か


(従う者の心得・いのちを救う)24節
自分のいのちとは何か
いのちを失うとはどういうことか


(従う者の心得・自分自身は大切です)25節
自分自身とは何を指しているのか

(従う者の心得・恥と思うな)26節
(弟子達に対する私の推察)
「私を恥と思う人を、私は恥とします。」 とおっしゃられても、私達は御国の福音を宣べ伝え、病気を直していたとき、イエス様が大好きでした。
人々に対してイエス様の弟子であることは私達の大きな自慢です。
なぜ、そのように言われるのでしょうか。


(私の見方)
聖書記者は、これらの疑問の回答を全て得ているだろうと思う。
前回に述べたが、聖書はイエスの死とよみがえりの後の、使徒達による伝道旅行の過程で書かれているからだ。

イエスの、十字架刑とよみがえりの事実を直視した者たちにとって、伝道生活を使徒達と一緒に過ごしている者たちにとって、疑問の余地が無いほどに理解できる内容なのだろうと思う。

イエスの十字架とは何か、伝道生活とは何かを十分に見つめて、そのレンズを通して見ることによってのみ、理解できることなのだろう。

今は、課題として残しておきたい。
たぶん聖書の中心課題だろう。







2007/03/21 10:59:51|聖書
イエスと弟子達の距離
「神のキリストです。」 というペテロの信仰告白を引き出した後、これからの心構えを弟子達に教えはじめます。
しかし、理解しにくいのです。
あ〜ぁ。難しい。
ルカによる福音書9章です。

(受刑とよみがえりの予告)22節
そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。

(私の感想)
ルカによる福音書では、23章に十字架刑の様子が、24章によみがえりの様子がかかれているのだが、聖書記者は、イエスが御自分で予告したという。

聖書記者は何を伝えたいのか。

イエスは先ず、 「神のキリストです。」 という信仰告白を確認して、ならばキリストの姿はどのようなものなのかを知らせようとされた。
勝手な想像だが 「あなた方は、昔のダビデ王のように、周囲の国の圧政から、人々を解放することを望んでいるようだが、決してそうではない。」 ?????などなど。

そしてイエスは、約700年前に書かれたイザヤ書22〜23章などの旧約聖書の中で、既に知らせてあったことで、人間に対する神の救いの計画は、苦しみと、侮辱と、殺りくを通して進行することを思い出させたかったのだろうか。

福音書は、イエスの死とよみがえりの後の、使徒達による伝道旅行の過程で書かれているので、その思うところの核心が全く別のところにあるはず。

例えばこうだ。
「なぁ、ペテロ。主が、あなた方は私をどう思うかと聞かれたとき、神のキリストですと答えただろう。その後に主が言われたことを憶えているか。(22節)と言ったのに、俺たちはほとんどわからなかったなぁ。」
「ん!。その後、俺は主に厳しく怒られることを言ってしまったよ。」

聖書記者は
神の計画は、人間に理解できない。
弟子達のも分からなかった。
言われても分からなかった。
それほど、私達の心は主から遠く離れていた。
否、2000年後の宗教界でさえ、同じかもしれない。

あなたはどう思いますか。
考えて分かることではないが、考えておく価値は十分あると思う。







2007/03/17 23:39:04|聖書
馴れから生ずる、ピンボケ
「5000人の給食」 の投稿で触れたが、この部分は 「ペテロによる信仰告白」 が中心テーマでしょう。
聖書(旧約聖書しかなかった)を思い出させるためだろうか、群衆の言葉を言わせてから 「あなたがたは」 と聞かれる。
そして、弟子達の代表者ペテロに告白させ、それぞれの信仰内容を確認させたのであろう。
イエスが口止めされたのは、 「政治的メシア観がまつわりついていた故の戒め」 として聖書の欄外に付記されている。またもや概要の羅列です。
ルカによる福音書9章です。

(群衆はわたしのことをだれだと言うかと聞くイエス)18節

(群衆から聞いた言葉を報告する弟子達)19節

(弟子達の考えを聞くイエスとペテロの答え)20節

(イエスの口止め)21節


(私の気付き事項)
弟子達は、群衆の言葉にも現れているように、旧約聖書の人物や律法の知識と主(神)について教えられていたはず。
なのに、18節の文章では、イエスと弟子達が一緒にいたけれども、イエスだけが祈っていて弟子達は祈っていなかったのだ。今まで気付かずにいたことだが、当時の宗教指導者たちは、一般の人々に祈る習慣を勧めなかったのだろうか。

もう一つ
「神のキリストです。」 という信仰告白の意味付を探ろうとしたが、なんの手応えもなく一日が過ぎようとした。
それが先ほどようやく、人間の・政治的開放の・経済成長の・環境保全のなどの言葉でなく、旧約聖書から預言され続けた 「神の」 であるという当たり前の感触に気付いた。
馴れから生ずる、ピンボケ現象か。







2007/03/16 21:28:35|聖書
5000人の給食
ベツサイダという町は、ガリラヤ湖の北岸にある小さな町、カペナウムの町からは東におよそ7キロ、ヨルダン川の東側に位置する。(ベツサイダとは、私が持つ聖書によれば、 「魚の家」 という意味だそうだ。)
この部分は 「国王の当惑」 の投稿で触れた、 「言葉による不思議の実現」 の続きだ。
記事の内容に言及する洞察力はないので、概要の羅列になるが、次回に投稿を予定している弟子達の信仰告白に大きく影響したと、聖書記者は言いたいのであろう。
ルカによる福音書9章続きです。

(ベツサイダにおける宣教の様子)10b〜11節

(日暮れ直前の弟子達の心配→宿・食事)12節

(あなた方で →⇒ 私たちには○#△%◎@&*何もありません)13節

(男だけでおよそ五千人も・・・・すわらせた。)14節

(祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与え)16節

(余ったパン切れが、十二かご)17節

(私の感想)
この記事は、人間の 「死からの帰還」 の記事と並んで、常識を抹殺する。
私は、この部分に関して複数の指導者から話を伺ったことがあるが、共通して 「超常識」 という言葉を使われていた。
聖書が言う 「神」 という存在者は、人間の常識を遥かに超えるお方だというのだ。
「どうしてこうなるの」 というギャグを思い出すのだが。

聖書は、 「そういうお方が、個々の人間に関心を持たれていると告げている」 と解説される。

私は、 “私” の霊と “聖霊” との Y字路 に立つ。