いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/03/31 19:42:39|聖書
エリア的メシア観が残っている弟子たち
朱記文字は私のメモ代わりです。
ルカによる福音書9章です。

(イエスの目的実現に堅い決意を示す)51章

(行き先に使いを出す。)52章
エルサレムに向かう途中でサマリヤのどこかに、宿泊場所の準備をさせようとしたのかも知れない。

(サマリヤ人は歓迎しなかった)53節
サマリヤ人は、イエスの不思議を見たいと思っていたに違いないが、イエスがエルサレムに上る(日本なら東京に上る)事を経て、天に上げられる(贖いの完成)のを目指していたので、不満だったのであろうか。

(弟子達の勇ましい提案)54節
弟子のヤコブとヨハネは、サマリヤ人の反応に腹を立てて、勇ましい提案をする。

しかし、この提案は彼らのメシア理解の中に旧約聖書のエリア的メシア観が残っているためで、イエスがルカによる福音書の 9章22節 と 9章44節 で繰り返し警告している「苦難のメシア」の言葉を思い出せないでいる。


(イエスは、弟子を戒めて、別の村へ行く)55〜56節
イエスは、今回もメシア観に関する弟子たちの誤解を正そうとはなさらなかった。







2007/03/30 12:53:51|聖書
イエスの二つの教え
一つ目は、理解が難しい。とりあえず、次のように書いておこう。
『世の中の基準で見たとき、最も価値が低い(一番小さい)者が、一番偉いという。即ち、世の人が抹殺しようとするもの(イエス→神)が一番偉い』
二つ目は、イエスの名の基に集い、イエスの名によって行動するという教会の本質を指しているだろう。
ルカによる福音書9章です。

(弟子達の関心事:誰が偉いか)46節

(イエスの教え:小さい者が偉い)47〜48節
イエスは人々の罪の贖いのため、一番偉い御自身が過越しの子羊となられて人々に徹底的に仕え、同時に教会の頭になられる。

(弟子達の判断:私たちの仲間か否か)49節

(イエスの教え:反対しない者は味方)50節

(私の気付き)
49節に 「先生の名を唱えて悪霊を追い出して・・・」 と弟子達が報告している事。
イエスが任命しなかった人でも、イエスの名を信じて宣言する者の願いを実現してくださったようですネ。







2007/03/30 10:12:03|聖書
イエスの言葉が理解できない弟子達、 見直し
神としてのイエスの威光に驚き、弟子として誇りを感じていた彼らにとって、イエスが捉えられて鞭うたれ、十字架上で死ぬことなど、とうてい容認できない事柄だ。
だから、イエスが、 「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」 と言っても、可能性すら察知できず、理解できない言葉だったろう。

3月22日に投稿した 「いま、言わねばならない」 のなかでは、「神のキリストです。」 との信仰告白の後にイエスが予告した。
そして今回 「神のご威光に驚嘆し」 て、弟子の心が躍っているので 「また、言わねばならない。」 と思われたのだろうか。

十字架の悲しみを前に弟子達の心に何かを与えたいとおもわれたに違いない。
ルカによる福音書9章です。

(イエスは人間に拘束されることを予告する)43b〜44節

(弟子達には意味が分からない)45節

(私の気がかり)
弟子達は理解できなかったのに、イエスに尋ねるのを恐れたのはなぜだろう。

人々は、イエスが目の前で行なわれたことを見て、「神のご威光に驚嘆し」していたが、22章47節の群衆に変わるかもしれない。
更に、23章の13〜23節では、「十字架に付けろ」と要求する者に変わらないだろうか。
人々は、自分自身がそういう者であることを知らない。

イエスの目には、弟子達さえも人々と同じように見えたのだろうか。

今、2000年前の歴史に介入できないので、自分の行動を確認することはできないが、 「“私”」 も人々の一人だろう。
読んでくださっているあなたは、どう思っておられますか。







2007/03/28 9:29:56|聖書
悪霊追放ができなくなっていた弟子たち
3月15日の投稿記事 「国王の当惑」 の中で触れたが、使徒たち十二人は、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とを授けられて福音伝道の経験をした。
この時に、悪霊を追い出す経験をしなかったのであろうか。
明確な記述は無いが、6節に 「病気を直した。」 と書かれている。
ところが、今日の扱っている40節に、「お弟子たちにはできませんでした。」と報告されている。
ここで 「弟子たち」 とは複数表現だから、山に登っていたペテロとヨハネとヤコブ以外の使途たちを含む弟子達であったろうと思われる。
とりあえず概要を羅列する。
ルカによる福音書9章です。

(山から降りると大勢が迎える)37節

(叫びだす悪霊で苦しむ男子の父の願い)38節

(霊による悪い影響の様子)39節

(悪霊追放が弟子達にできなかった)40節

(怒りに近い様なイエスの歎き)41節

(イエスによる悪霊からの開放)42節

(人々は神の威光に驚嘆)43a節

(私の疑問)
授けられたはずの権威を、使えなかった弟子たちの言葉が一言も無いが、なぜか。
弟子達は、イエスの前にいておろおろしていて、イエスに状況を報告する力も無かったのだろうか。

怒りに近い様なイエスの嘆きだが、不思議な言葉が使われている。
「不信仰な」 とは誰のことか。
「曲がった世」 とは何を指摘しているのか。

息子を癒してもらった父の反応が、書かれていないのは、なぜか。
私が、40節の父親の発言に違和感を覚えるのは何かの錯覚のようなものか。

今朝になって、マタイによる福音書17章14節〜21節及び、マルコによる福音書9章14〜29節の類似記事を読んだ。

これらの記事は、同じ事件を伝えているように感じる。
そして、聖書の主張する事柄が分かるような気がしたが、40節の父親と類似した感覚が “私” にもあるように感じる。

時間が許せる方は、マタイ&マルコを読んでください。







2007/03/25 22:25:33|聖書
神と人間
イエスは、ペテロとヨハネとヤコブの三人に対して特別な体験をさせる。

概要の羅列です。
ルカによる福音書9章です。

(祈るために山へ)28節

(姿が変わる)29〜31節

(イエスとモーセとエリアが話し合っている)30節

(話題はイエスの最後の姿)31節

(ペテロたちの驚き)32〜33節

(雲の中の声)34〜35節

(弟子達の反応)36節

(私の空想)
空想のような私の推測だが、普段の生活でイエスと弟子達の関係は、 「師と弟子」 という人間関係だけが実感され、 「神と人間」 という霊的関係の意識が育っていなかったので、 「姿が変わる」 のを見せ、 「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」 と言う声を聞かせたのではないだろうか。
言葉を変えるなら、人は、神を恐れると共に神の前に畏れる(かしこまる。相手の好意に対して恐縮する。)存在であるべきことを教えようとなさったのではなかろうか。

聖書記者が何を思ったのか、想像すらできない。
どなたか教えて。