いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/04/06 8:24:21|聖書
ちゅうちょ・ちゅうちょ
律法の専門家は、自分の律法観の通りに行ないなさいと言われ、戸惑ったのだろうか。
聖書記者の目に 「自分の正しさを示そうとして」 いると感じる発言をしたのだ。
それが 「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 である。
ルカによる福音書 10章です。

(律法の専門家の質問 : 私の隣人はだれ)29節

(イエスの例え話 : ある人が強盗に襲われ、半殺しにされて倒れている)30節

(イエスの例え話 : 祭司は道の反対側を通り過ぎて行った。)31節

(イエスの例え話 : レビ人も道の反対側を通り過ぎて行った。)32節

(イエスの例え話 : サマリヤ人が傷の手当てをし、宿屋に運び、介抱の費用を宿に渡して介抱を依頼した)33〜35節

(イエスの質問 : 誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思うか)36節

(律法の専門家の答え:憐みをかけた人)37a節
(イエスの指示 : 「あなたも行って同じようにしなさい。」)37b節

(私の分析)
律法の専門家の質問は、「私の隣人はだれか」 であり、イエスの回答は 「誰であれ弱っている人に出会ったなら隣人になれ」 と言っている。
この差は大きい。
この会話がある前の律法の専門家なら、 「あのけが人は私の近所に住んでいるわけではない」 と考えたかったであろう。
この律法の専門家は、この後どうしただろうか。
聖書はこの個人について何も言及していない。

(私の感想)
私の中の “私” は律法の専門家の感覚に近い。

大切なことは、私やあなたがどのように決断するのかということでしょう。
自分にできる一歩を見つけたときは、ちゅうちょせずに踏み出していきたいものだ。
自分にしかできないことならなおさらそうだ。

私には “私” ではない “聖霊” の助けが必要だ。








2007/04/05 19:25:50|聖書
律法の専門家、想定外
律法の専門家とイエスの対話は、37節まで続くのだが、長くなるので28節で区切ることにした。
また、律法にどんなことが書いてあるのかを知るには、多大な労力が必要なので、専門家に任せておくのがよいでしょう。
ただ、関心がある方は、出エジプト記20章あたりから申命記までを読まれると、基本的なイメージが捉えられるかもしれない。
但し、イエスの時代の律法は、旧約聖書の文章以外に多くの細かい事項が付加されていたそうなので、私はそれを知る手段さえ知らない。
ルカによる福音書 10章です。

(律法の専門家の質問:何をしたら永遠のいのちを受けられるか)25節

(イエスの逆質問:あなたは律法をどう読みますか)26節

(律法の専門家の回答:『心を尽くし・・・主を愛せよ。』また『あなたの隣人を・・・愛せよ。』)27節

(イエスの指示:実行しなさい・・・・いのちを得ます)28節

(私の感想)
ここに登場した律法の専門家は、非常に有能で勉強家で、完璧主義の努力家だったように感じる。
まず、25節でイエスをためそうと思うあたりがすごい。私は、うしろのほうで小さくなっているかも。
質問のテーマがすごい。私なら永遠のいのちというテーマを思い浮かべられない。

26節では、イエスの逆質問に対する回答がすごい。
詳しく調べ、繰り返し考え、自分の生活に当てはめながら吟味し、律法の中心テーマを追いかけていたのだろう。
だから、想定していたかもしれないイエスの逆質問に対して、迷わず、簡潔に、イエスから合格点をもらえる程の回答ができたのだろう。
それだけでなく彼は、永遠のいのちを自分のものとして受け取りたいと願い始めていたかも知れない。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして』という言葉は、旧約聖書の中に登場しないでしょう。
彼自身が日常生活の中で熱心に律法を追い求めた結果、絞り出された言葉だろうと思う。(違っていたりして?)

彼にとって問題は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という言葉に隠されていた。
「神を愛する」のは、彼の言葉にも現れているように、かなり抽象的で内面的要素が多いが、「人を愛する」のは、具体的行動と痛みをともなう場合が多いからである。

「それを実行しなさい。」と言われる。
おそらく彼にとって、想定外であったろうと思う。







2007/04/04 12:28:56|聖書
父と子と聖霊の関係
この部分は、これまでにイエスによって現された神(父) と、 イエス御自身(子) が聖霊によって交流をもち、イエス と イエスの人格に触れた人々(弟子たちを含む)を含めた人格的相互交流関係を簡潔に表現している。
ルカによる福音書10章です。

(聖霊による喜びの祈り:父と子と聖霊の関係)21節

(イエスによる解説:父と子と選ばれた人々の関係)22節

(あなたがたの見ていることを見る目は幸いです)23節

(多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです)24節

(私が調べたこと)
賢い者や知恵のある者とは
   私が使う聖書に、「この世の知恵だけにたけている学者」とある。
幼子たちとは
   パウロの文書の中に「キリストにある幼子」という使い方がある。
   神の国(神が支配するところ)の幼子だろう。
   神の力と支配を喜ぶが、愛から生じる苦しみや悩みなどはまだ理解しない。

(私の疑問)
あなたがたの見ていることとは、何を指しているのか。
あなたがたの聞いていることとは、どの言葉か。

漠然としているのだが、私の聖書知識を総動員して書いておこう。
人間(イエス=神の子=神のキリスト)が創造の神(天の父)と語り合い、神がイエスによって人々に語り、言葉の力を通して現れてくださったこと。

先輩の指導を仰がねばならない。







2007/04/02 17:57:41|聖書
耳を傾ける者、拒む者
投稿記事 「国王の当惑」 の中で使徒達に対する福音宣教訓練に触れた。
今回は 使徒達を含めたのかどうか不明だが、70人もの弟子たちに対して宣教訓練を実施した。
ルカによる福音書10章です。

(70人の弟子を福音宣教の実地訓練に遣わす:概要)1節

(伝道旅行の心得:危険を承知しなさい)3節

(伝道旅行の心得:持ち物と挨拶)4〜5節

(伝道旅行の心得:宿泊と食べ物)7〜8節

(伝道旅行の心得:病人を治し、神の国の近づきを伝える)9節

(伝道旅行の心得:受け入れない町に対する態度の取り方)10節

(コラジン と ベツサイダ と カペナウム への呪い)13〜15節

(伝道旅行の心得:耳を傾ける者、拒む者)16節

(帰ってきた弟子たちの報告:悪霊でさえ服従します)17節

(イエスの観察:サタンが落ちた)18節

(イエスが与えたもの:害を加えるものは何一つ無い)

悪霊が従うのを喜ぶな。あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい)20節







2007/04/01 18:11:11|聖書
ついて行きたい人への警告
ルカによる福音書9章です。

(どこにでもついていきますと言う人に警告→人の子には枕する所もありません。)

(父の葬りを優先したい人に警告→神の国の宣教を優先しなさい。)

(家の者に心を引かれる人に警告→私に触れたのち、過去の人間関係へのこだわりはふさわしくありません)

(私の感想)
今日の箇所を読んでいて、イエスの警告だと感じたのは初めてである。
どこか遠い誰かの問題としか、感じていなかった。

聖書の時代に、イエスについて行きたいと願う者が多数いたのかもしれないが、弟子達と同じような、エリヤ的メシア観の人々が多かった可能性が高い。

イエスは御自身が 「苦難のメシア」 であることを強く意識するあまり、(私を含め)安易に従おうとする人々に警告を出されていると考えるべきかもしれない。
今、「狭い門」という言葉が去来する。