律法の専門家は、自分の律法観の通りに行ないなさいと言われ、戸惑ったのだろうか。 聖書記者の目に 「自分の正しさを示そうとして」 いると感じる発言をしたのだ。 それが 「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 である。 ルカによる福音書 10章です。
(律法の専門家の質問 : 私の隣人はだれ)29節
(イエスの例え話 : ある人が強盗に襲われ、半殺しにされて倒れている)30節
(イエスの例え話 : 祭司は道の反対側を通り過ぎて行った。)31節 (イエスの例え話 : レビ人も道の反対側を通り過ぎて行った。)32節 (イエスの例え話 : サマリヤ人が傷の手当てをし、宿屋に運び、介抱の費用を宿に渡して介抱を依頼した)33〜35節
(イエスの質問 : 誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思うか)36節
(律法の専門家の答え:憐みをかけた人)37a節 (イエスの指示 : 「あなたも行って同じようにしなさい。」)37b節 (私の分析) 律法の専門家の質問は、「私の隣人はだれか」 であり、イエスの回答は 「誰であれ弱っている人に出会ったなら隣人になれ」 と言っている。 この差は大きい。 この会話がある前の律法の専門家なら、 「あのけが人は私の近所に住んでいるわけではない」 と考えたかったであろう。 この律法の専門家は、この後どうしただろうか。 聖書はこの個人について何も言及していない。
(私の感想) 私の中の “私” は律法の専門家の感覚に近い。
大切なことは、私やあなたがどのように決断するのかということでしょう。 自分にできる一歩を見つけたときは、ちゅうちょせずに踏み出していきたいものだ。 自分にしかできないことならなおさらそうだ。
私には “私” ではない “聖霊” の助けが必要だ。
|