いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2008/10/24 23:57:12|聖書
ペテロの失態を予告
イエスが弟子達に向かって、あなた方はわたしの国でわたしの食卓に着いて食事を・・・・と話した事に続いてペテロの大失態を予告します。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。)31節
(しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 )32節
(シモンはイエスに言った。 「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 )33節
( しかし、イエスは言われた。 「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 )34節

(私の思索)
前回の投稿記事で、 「私の内側に、王国で王の食事を味わいたいとの願いが生まれた。」 と述べた。
もしかして、シモン・ペテロを初めとして弟子達全員に同じような思いが生まれていたかもしれない。
しかし主イエスは、31節、 「 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」 と予告したのです。

この言葉でわかりにくいところを補足しておきたい。

「シモン」 とは、34節の 「ペテロ」 と同一人物の名前ですが、次の文章がその事情を説明している。
ヨハネ1章42節、彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。 「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

「見なさい」 に関して、何かが見えると考える必要は無い。 「警告します」 とか 「注意しなさい」 といった自覚を促す言葉と考えればよいでしょう。

「サタン」 について、論じ始めると大変だが、 「自己中心的考えに導く霊的人格」 と理解しておいていいでしょう。

「ふるい」 について、漢字で 「篩」 と書くが、粒の大きいものを中に残し小さい者を下に落とす事によって、ゴミ・砂利・砂・麦などを選別する道具である。
選別の目の大きさを換えて、繰り返し選別する事によって、目的の大きさの物だけを選び出す事が出来る。
ふるいにかけるとは、ふるいを用いて粒の大きさが基準値より大きいか小さいかを確認して選別する事だから、この部分は、 「シモン」 達の信仰がイエスの苦難に付き添えるものに成長しているか否かテストしますという意味でしょう。

31節は 「シモン」 に語りかけている文章だ。
しかし、ふるいにかけられるのは 「あなたがた」 であるから、 「シモン」 を含む弟子達全員だろう。

32節で、 「シモン」 は特別に祈られている事が分かるのだが、失敗者である事に変わりが無く、33節の忠誠告白をする程熱心なのに、それでも34節の予告が数時間のちに現実に起きてしまうのだ。
「シモン」 は、師であり主であるイエスを 「知らない」と言ってしまう。

注目すべき事は、イエスの祈りが、 「シモン」 が失敗しないようにではなく、失敗しても 「あなたの信仰がなくならないように」 であった。


(私の脳裏をかすめる言葉)
それから、みんなの者に言われた、 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。   ルカ9章23節


(私の感想)
後で触れる57節でシモン・ペテロは、イエスの警告を聞いていたにもかかわらず、 「あのひとを知りません」 と言い、58節と60節でも、イエスの警告を思い出せなかったのだろう。
人間の決意や熱心だけでは、自己中心の霊から逃れることが出来ないということか。
イエスは、失敗してしまう私たちに対しても 「あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。」 と言われる。







2008/10/20 12:48:23|聖書
王国で王の食事を
イエスは、前回の記事で、偉い人は一番年の若い者のようになりなさい、仕える人のようでありなさいと言われた事に触れたが、それに続いて試練の時についていった弟子達に、王権を与えますと言われた。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。)28節
(わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。)29節
(それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。)30節



(私の思索)
手がかりとなる知識が全くなく、理解困難な言葉が二つある。
一つ目は、王権とはどんな権利なのかであり、二つ目は、いつの出来事を指しているのだろうかということだ。

それで、他の福音書を調べて見たところ、マタイの福音書に,
背景が異なるが、極めて類似した言葉があった。
マタイ19章28節、そこで、イエスは彼らに言われた。 「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
このマタイ19章の言葉は、“世が改まって”と言っている。
今の世が終わり、次の世(ルカ20章35節参照)になったあとに実現する事と理解できよう。

また、聖書注解(いのちのことば社)には、ルカの福音書の直訳として次の文章を提示してあった。
ルカ22章30節直訳: 「わたしの父がわたしに王国(権)を契約して下さったように、わたしもまたあなたがたに、わたしの王国でわたしの食卓で飲食して、座についてイスラエル十二部族をさばくことを、契約します」 とある。

この直訳文を見ると、今後の事であり、“わたしの王国でわたしの食卓で飲食”という部分からは盛大な宴会(ルカ14章16〜24節参照)の中の“私の食事を味わう者”が思い浮かぶ。
もしそうなら、“第一の復活にあずかる”(黙示録20章6節参照)時に実現する事柄であろう。

同時に、王(イエス)の食卓への参加が、王(イエス)の支配への参加に直結している。
だから、王の食事とは、身体のための食事ではなく、霊に属する食事と考えて良いと思う。

28節の 「さまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たち」 とは、その言葉が過去形である事から、直接の弟子達(ペテロやヨハネ)等のように受け取れる。
しかし、イエスは過去や未来を区別しない事があるので、直接の弟子達だけではなく、過去&未来の教会に関わる苦闘者をも含むのであろうと感じる。

29、30節は、内容が漠然としたままだが、聖書全体から新しいヒントを与えられるまでは、文字通り受け止めておきたい。


(私の脳裏をかすめる言葉)
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。    ヘブル9章28節


(私の感想)
何らかの本で読んだ事として記憶の隅に残っているのだが、理解出来ない事柄に出会ったとき、無理に分かろうとしなくて良いと述べたものがある。
無理に結論を出すと、後々になっても遠大な意味があることに気付き難くなるからだそうだ。
まして、神がなさる事について、すべてのことが理解できるはずがなく、結論を出さないのが良いと思う。
とはいえ、私の内側に、王国で王の食事を味わいたいとの願いが生まれた。







2008/10/11 21:47:14|聖書
だれが一番偉い
裏切り者がいるというイエスの問題提起があったのに、弟子達は問題の大きさに気付かないまま、別の議論をしていました。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。)24節
(すると、イエスは彼らに言われた。 「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。」 )25節
(だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。)26節
(食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。)27節


(私の思索)
前回の投稿記事で触れたが、裏切りという大きな問題提起があったばかりなのに、その問題の大きさに気付かず誰だろうと周囲の人を見ていた。

そうこうしているうちに、24節、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こったのだ。
ペテロに比べて私はどうか、皆は私をどのように評価しているだろうか、という具合に相対的な比較を誰かが言い始め全体的な論議になったのか、食後の屈託の無い独り言のような言葉から始まったのかもしれないが、イエスの発言を引き出しました。

25節、 すると、イエスは 「異邦人の王たちは人々を支配し、・・・・・・・ます。
26節、だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」 と彼らに言われたのだ。

全く個人的な事だが、私は、偉くなりたい、出世したい、目立ちたいといった事に感心を寄せた記憶がない。
ごく普通に、並の生活が出来ていればそれでよいと考えて来たようだ。
二男坊であったので、両親の躾や要求は特に無く、平均的な成績でよしとされてきた事が私の性格に影響しているのだろうか。
少年期をのんびり育てられ、私はマイペースで生活してきた。
そういうわけで、こうしたテーマで足を地に付けた何かを考えようとする作業は、非常に苦手です。

ともあれ、イエスは、一番年の若い者のようになりなさい、仕える人のようでありなさいと言われた。
これを文字通り受け取るとしょう。
クラブ活動なら、クラブ独特な能力や知識が無くても常識で出来る役割を、会社員なら単純な繰り返しの多い仕事から・・・・・・etc・・・・・教えられ言われるままに、懸命に、真面目にやるっきゃない。
それ以上のことは、解らない・指示者の目的に合致させるための行動などに関して、判断不能な領分に入るのだから。
そうして、指示されたことが終わった時に報告して、再び指導を仰ぐ。

即ち、御国における偉いと言う評価基準は、どれだけ謙遜に聞き、聞いた通り謙遜に仕えられるかという点にありそうだ。

その典型がイエス御自身であり、次の言葉がそれを現わしているだろう。

「あなた方が聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父の言葉なのです。」ヨハネ14章24節

この言葉を軽く表現をするなら、 「私は、父のメッセンジャーボーイに過ぎない。」 という意味だし、少し真面目な表現をするなら、 「私は、御父の意思の具現者である。」 という事になろう。

更に27節、 「わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」 と言って、御自身を具体的な模範として提示しておられる。
これらを更に要約するなら、イエスは、御父から聞いて人間に仕えていると言われたのであり、同時に、新しい契約の完成のために、御父に従い続けている事を示している。


(私の脳裏をかすめる言葉)
さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、・・・・・・言われた。
 「・・・・・・あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」      ルカ9章46〜48節


(私の感想)
少年期のマイペースからスタートした私にとって、 「聞き従う」 生活は最も苦手な分野だ。
私の、従来からの判断基準が消えて、イエスと同じように御父に聞くという、全く新しい判断基準を獲得しなければならない。
これは、神の御国を意識した聖書知識の領域から、イエスに対する信仰(聖書信仰)のレベルに変わることを意味するのだろう。







2008/09/27 8:10:08|聖書
裏切る者の手が
あなたがたのために与えるわたしのからだ、あなたがたのために流されるわたしの血、新しい契約という宣言の直後に、裏切り者の話が語られます。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。)21、22節
(そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。)23節



(私の思索)
わたし(イエス)は・・・・・・、罪人を招いて、悔い改めさせるために来て(ルカ5章32節)、ご自身の血による新しい契約の宣言(ルカ22章20節)をした直後に、裏切る者がこの食卓にいますと、告げなければならなかった。
イエスは、このように罪に向かう様になってしまった人間を救うために、来られたのだが、この時、何を考えておられただろう。

裏切る者(ユダ)は、イエスの血による新しい契約の実現より、自分の思いの実現を強く望んでいたと推測される。
その理由が、旧約聖書の創世記2章17節と3章にあると私は感じている。

創世記2章16節から続く言葉だが、 「・・・・・・・・。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 創世記2章17節
この言葉を神から直接言われたのは、アダムであるが、3章のムカシバナシのように感じる部分で、女(エバ)が禁を犯し、女によってアダムも禁を犯す。

それによる変化の内容が、3章4節と5節の蛇(サタン)の言葉に現れていると思うのです。
神が 「必ず死ぬ」 と言われたのに、蛇は 「決して死にません」 と言っている。
これには、蛇のトリックが隠されている。(以下は、私個人の推論に過ぎません。皆さんがお考え下さい。)

神は、人が神の栄光によって守られ、神の思いを理解し、神の命令に従う力を与えられる存在として、神の霊(愛)による、生き生きとしたいのちの関係の中に創られた存在なので、その関係が必ず切れる(死ぬ)といわれた。(表現不足を御容赦ください。)

しかし、蛇は、 「あなたがた(の身体)が決して(すぐに)死にません。」 と言い、あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け(自分の評価基準を獲得し)、あなたがたが神のように(自分で評価できる様に)なり、善悪(自分にとって都合が良いか都合が悪いか)を知るようになることを神は知っているのです。」 と、真理を隠しながら誘惑したのだ。

3章7節は、自分が評価基準を持つようになり、自分を評価した事を思わせる言葉ではないだろうか。

要約すると、神中心から自己中心に変化してしまったのです。(ふさわしい言葉が見つかりませんでした。)

裏切る者(ユダ)は、アダム達と同じように、自分の評価基準、即ち、政治的・経済的救いを強く期待し、こだわっていたという事になるだろう。

「人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」 とイエスが語られた時でも、 「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」  (ルカ18章33節)と語られた言葉は、思い出せなかったのでしょう。

他の弟子達も大差は無かった。
「そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中の誰なのかと、互いに議論をし始めた」 程度でした。
弟子達にとって、これから契約の実際(十字架による死と復活など)が明らかになっていく新しい契約より、自分の興味が優先し“裏切り者”探しをしていたのだろう。
私も、そこにいたなら裏切る者になっていた可能性さえある。


(私の脳裏をかすめる言葉)
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(マタイ5章3節)


(私の感想)
ユダが、特別な悪人なのではない。
よくよく注意していないと、自分の評価基準という罠から逃れる事が出来ない。
私は、自分の思いの実現を望み、それにこだわっていないだろうか。
自分の注意では、不足なのかもしれない。
神の導きを獲得したとき解決する問題かもしれない。

私が持ち合わせていない神の基準が必要なのです。
新しい契約から、目を離すな。







2008/09/19 13:45:30|聖書
パン と 杯 V
イエスは15節で、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」 と言っておられたが、その望んでおられた原因と思われる計画を、実行に移されます。
即ち 「わたしの血による新しい契約」 を過越し祭りの第一日目に、宣言するのです。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(食事の後、杯も同じようにして言われた。 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」 )20節



(私の思索)
食事が済んで、コーヒーとおしゃべりタイムが始まるようなタイミングでしょうか、イエス様が話を始められます。
弟子達を回って戻ってきている杯を手にとって“この杯”(この杯に入っているぶどうで造った赤い飲み物を指して)と切り出します。
別の杯や、台所の樽の中にも同様な飲み物があったと思いますが、“この杯”と限定しました。
現代のあの儀式でも、その都度“この杯”と限定する通りである。

あなたがたとは誰を指すのか、新しい契約の対象は誰か、分かりにくい。
直接的には、食卓を囲んでいる弟子達を指しているが、この飲み物は、契約の実態に類似した象徴であって、実態は別のところ(まだ、現れていない十字架上のイエス)にあるわけですから、対象者も弟子達を含む別の人々と考えるべきでしょう。

他にも、イエスの血による契約、流される血による契約、古い契約と新しい契約など、1つひとつの言葉を切り取って思考を深める方法があるが、読んで下さる方々に委ねたい。
ここでは、出エジプトの過越しに対比する形で、“新しい契約”の一端に触れておきたい。

新しい契約の基本は何だろうか。気付いていることのみを、記しておきたい。
出エジプト記5章にイスラエル人たちに課せられた、レンガ作りという苦役が記されている。
6章6節では、主(神)が 「あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。・・・・・・」 と言われ、6章7節では、 「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。・・・・・・・」 一方的な主(神)の救いの宣言なのだ。
しかし、過越し(救い)の歴史がこの宣言から動き出す。

契約の基本は、旧約の過越しも新約も、一方的な主(神)の宣言であり、主(神)による救済の契約である。
同様に、子羊の血による契約という共通点がある。

大きな違いがある。旧約は家畜としての子羊であり、新約は神のひとり子イエスという“神の子羊”である。
次の気付きは、救済の単位です。旧約の過越しは、血塗られた家ごと、家族単位であるが、新約では、食べる者・飲む者という個人単位に変わっている。

もう1つの気付きは、重大問題なのだが、救済の直接的対象に違いがある。
旧約の過越しでは、イスラエルの子孫たちが苦役の中にいたので、彼ら全員が救済の対象であった。
しかし、イエスの目は、 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 (ルカ5章31、32節)、 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 (ルカ19章10節)と言っているように、弱者であり、のけ者にされているような人に注がれている。
ここに至るまでの言動には、祭司長達のように自己満足をしているような人は、対象外の様に見える点にある。


(私の脳裏をかすめる言葉)
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 ヨハネ1章29節


(私の感想)
不思議な事を言われ、不思議な事を行なわれて来た先生が、またまた、不思議な言葉を言われた。
あなたがたのために与えるわたしのからだ、あなたがたのために流されるわたしの血、と言われたたのだが、言葉だけが頭の上を通過していくようだ。激しすぎる言葉ゆえ、捕らえられない。