いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/07/17 15:44:46|聖書
人間の間であがめられる者
イエスは、不正な管理人の抜けめなさの例え話を用いて、弟子たちに注意を与えました。
あなた方は、不正な管理人の抜け目なさがわかりましたか。
永遠の住まいに入るために、神からのものであろうと、この世のものであろうと、忠実に用いて、自分のために友を作りなさい。

しかし、この話をパリサイ人が聞いていて、イエスをあざ笑う。
それで、イエスはパリサイ人に向かって警告を与えます。
ルカによる福音書 16章です。

(金の好きなパリサイ人たちが、話を聞いていて、イエスをあざ笑っていた。)14節

(イエスは言います。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。)15節

(だれもかれも、無理にでも、神の国にはいろうとしています。)16節

(律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。)17節

(妻と離婚して他の女と結婚する者、離婚した女と結婚する者は姦淫を犯す者です。)18節



(私が持つ聖書の補足欄から)
15節、 神は、あなたがたの心をご存じです : 神の判定基準は人のそれと違って心であり(使徒15:8)信仰生活の正否と明暗を分けるものも、その人の心である。

16節、 だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています : 人種や民族の差別なく、誰でも熱心に求道する者が神の国に入れる福音の時代が到来した。

17節、 一画 : (マタイ5:18補足欄)最小のヘブル語文字コード、ヘブル語文字の小突起や小さな鉤のこと。その小さな差で全く別の文字になる。
旧約が全部成就することを強調する。

18節 参照(マタイ19:10補足欄)結婚しないほうがましです : キリストが妻を離別できると教えたのは 「不貞」 に限られると教えたことで、弟子たちはしりごみする。

それに対して、キリストは、より深い意味で、結婚しないほうが良い場合を示される。
(1) 生まれつきの性的不能者
(2) 去勢などで性的不能者にさせられた者
(3) 専心神に仕えることを願っている者(独身は一つの選択肢として認められている。

(私の思索)
15節、 「人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」とは何故か。
「神が愛したいと思う対象から遠い」という事のような感じを受ける。

「旧約聖書全体が伝えていて、あがめられるべきお方は、主ご自身であるはずだから、主以外の存在であがめられるような者は、神が愛したいと思う対象からは遠くなる。
即ち、嫌われる。
パリサイ人のように、他の存在をあざ笑うような者は、自分を相対的に高くしているので、神の前で憎まれ、嫌われます。」 という事であろう。

16〜18節を補足欄の内容と私の推理を含めて読んでみた。

「人種や民族の差別なく、誰でも熱心に求道する者が神の国に入れる福音の時代が到来した。
しかし、旧約の律法全体が、本質的に成就するのです。
律法に反する者は、神の国に入れないないのです。

だから、自分の性的欲望を満足させるために姦淫する者はもちろん罪を犯しているのです。
それだけでなく、18節以外の理由で離婚して、別の女と結婚する者や、離婚した女と結婚する者も姦淫と同じようにみなされます。

あなた方パリサイ人は、自分の妻が気に入らなければ、離婚したのちに気に入った女と結婚すれば、不貞の罪に問われないと考えていませんか。
神は、あなたがたの心をご存じです。」 と言っているように思えてきた。

内容から観ると、何の関連もなさそうなことが並んでいる。

イエスの言葉に、一つのストーリーがあるはずだと思いながら、その意味を捉えたいと考えた結果です。
「神は、あなたがたの心をご存じです。」 という言葉と、あざ笑うパリサイ人に向けられた言葉である事を基に、思い巡らした結果です。

聖書を自分の都合に合わせて読むのはよくありませんが、全ての言葉が関連しているはずです。


(私の脳裏をかすめる言葉)
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイ22章37〜39節


(私の感想)
パリサイ人への批判および女性の立場が弱かった当時の様子が現われている事を別にしても、夫婦が心を一つにして、互いに尊敬しあい助け合うべきことを要求しているのだろう。
読み方が難しい部分だ。
信仰の先輩に確認する必要があるだろう。







2007/07/10 10:22:05|サッカー
アジア杯サッカー TV観戦
日本 ― カタール 戦を観た。

日本代表は強くなっている。
結果は、引き分けだったが苦しんでちょうどいい。

選手達が「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」(詩篇119篇71節)と実感する時が来るはずだ。







2007/07/09 8:42:41|聖書
私も不正な管理人?
ここは弟子たちを対象にした話ですから、現代なら信仰を持った人に対する話です。
私が書いている聖書の内容は、概要を書いているだけですから、必ずお手元の聖書で確認してください。
ルカによる福音書 16章です。

(例え話 : 管理人が主人の財産を乱費しているという訴えが出たので、主人は管理人に会計報告の提出を指示した)1〜2節

(例え話 : 管理人は離職後の自分の生活方策を考えた)3〜4節

(例え話 : 管理人は主人の債務者を呼んで、証文の債務額を減額訂正させて、債務者達に恩を売った)5〜7節

(例え話 : 主人は不正な管理人が抜けめなくやったのをほめた。)8節

(イエスの教え : 不正の富で、自分のために友をつくりなさい)9節

(イエスの教え : 小さい事、不正の富、他人のもの等に忠実に生きなさい。)10〜12節

(イエスの教え : あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。)13節



(私が持つ聖書の補足欄から)
1節 : 財の浪費による終末を迎えた放蕩息子の例えに続いて、別の形の乱費による終末が訪れる、不正な管理人の例えが語られる。
この例えは、8節の結論に照らして、不正な管理人の 「抜け目なさ」 だけが、 「光の子ら」 に奮起を促す意味で利用されている。
自己の滅びに対する深刻な受け止め方と、それに対する必死の対応に注目せよ。

2節、会計の報告を出す : 解雇は確定済みで、免職後の事務引継ぎのため。

6〜7節 : 油五十バテ減と小麦20コル減とは、共に約五百デナリ(五百日分の労賃)に匹敵する。

8節、不正な : 道徳的な不正の意ではなく、終末前の現世を現す述語で、 「この世の」 の意。

9〜13節 : 不正な富にまつわる勧告。
光の子らも、終末に備えて、 「永遠の住まい」 に入れるように、抜け目なく振舞わなければならない。
現世で委託されている富は、永遠の住まいにおける 「忠実」 さの、試金石である。


(私の思索)
この管理人とは、弟子たちの立場であろう。現代では牧師や指導者の立場かと感じるのだが、 「小さいこと」 という言葉も用いられているので、個人としての信徒に託された福音という富の管理を指しているかも知れない。
1節、「財産を乱費」 とはなにかわからないが、この例えで大切なのは 「抜け目なさ」 であるから心に止めないで置く。

8節の 「不正な」 に対する補足欄の説明は注目に値する。

「不正な管理人」 はこの世の管理人、 「不正の富」 はこの世の富と読み替えることになる。

「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」 とは、あなたが管理しているこの世の財産で、自分のために友を作りなさい となる。

「不正の富に忠実でなかったら」 とは、この世の財産の管理、即ち、望ましい使い方であるかそうでないか、注意深く監視していないなら となる。

「他人のものに忠実でなかったら」 とは、前後の論旨から、他人から委託されたものの管理を忠実に行なわないなら と読み替えてよいでしょう。

おそらく、聖書の記者は、福音宣教を意識しているだろう。


(私の感想)
福音という富をもっと深く味わうことを日常化していないと、この部分の真理は把握できないだろう。
聖霊の導きと、先輩諸氏の具体的指導を仰がねばなるまい。
「永遠の住まいに迎えるのです」 という言葉に重大な要素を感じる。







2007/07/01 23:28:14|聖書
放蕩の弟と戒律主義の兄
「ひとりの罪人が悔い改めるなら・・・・ 喜びがわきおこる」 と話したあと、念を押すような話が続きます。
児童を対象にした集会で話されることが多い 「放蕩息子とその兄」 のはなしです。
(繰り返しですが、私が書いている聖書の内容は、概要を書いているだけですから、必ずお手元の聖書で確認してくださるようお願いします。
ルカによる福音書 15章です。

(イエスの例え3 : 二人息子のうちの弟が、父に財産の分け前を要求したので、二人の息子に分け与えた)11〜12節

(弟息子は、遠い国に行って、財産を使い果たしてしまった。)13節

(旅先の地方に飢きんが起こり、食べるにも困り始めた。)14節

(彼は、ある人に身を寄せ、その人の豚の世話をしたが、豚の食べるいなご豆を食べたかったが、誰も食べていいと言わなかった。)15〜16節

(彼は、冷静になって気付いた。父の所では、雇い人でさえパンが有り余っているのに、今の私は飢え死にしそうだ。)17節

(父に、 「私は天にもあなたにも罪を犯しました。あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」 と言おう。)18〜19節

(彼は、父のもとに行った。父は遠くから彼を見つけ、走りよって彼を抱き、口付けした。)20節

(弟息子は 「私は天にもあなたにも罪を犯しました。あなたの息子と呼ばれる資格はありません。」 と言った。)21節

(ところが父親は、 「一番よい着物を着せなさい。指輪をはめさせ靴を履かせなさい。肥えた子牛を食べて祝おう。弟息子が生き返り、いなくなっていたのが見つかったから。」 と言って祝宴を始めた。)22〜24節

(畑にいた兄息子が帰ってきて音楽や踊りの音に気付き、しもべに様子を聞くと、 「弟さんが、無事で帰ってきたので、お父さんは子牛をほふらせたのです。」 という。)25〜26節

(兄息子は怒り、家に入らないので、父が出てきてなだめた。すると兄息子は、 「私はお父さんに長年仕えました。戒めを破ったこともありません。その私には子ヤギ一匹すら下さらない。なのに遊女に溺れてあなたの身代を食いつぶした息子には子牛をほふらせました。わかりません。」  と父に訴えた。)28〜30節

(父は「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、弟は死んでいたのが生き返ってきた。いなくなっていたのが見つかったのだから、当然喜ぶだろう。」と兄息子に言った。)31〜32節



(私が持つ聖書の補足欄から)
この記事全体について : 「福音の中の福音」 と言われる、有名な放蕩息子の例え。
厳密には、放蕩息子自身のことが扱われているのは11〜24節で、25節以降は兄息子のことが語られている。
実際は、二人の息子を立ち返らせる父が主役になっているので、 「父の愛の例え」 と呼ぶのがふさわしい。

12節 「財産の分け前」 : 弟の場合、父の遺産の三分の一。
父の存命中に分配した財産の使用権は父にあるので、弟息子はそれを不満として 「何もかもまとめて」 家出した。

13節、 「遠い国」 : パレスチナ本国の人口の何倍もの離散のユダヤ人が、ローマ帝国内の各地に住んでいた。

15節、 「豚の世話」 : ユダヤ人にとって最も忌まわしい仕事。

17節、 「我に返ったとき」 : それまでは自分を失っていた。

18節、 「私は・・・・罪を犯しました。」 : 神と人との前に自分の罪を認めることが、神との和解に至る第一歩である。

28節、 「兄はおこって」 : 自分を正しいとするパリサイ人の態度と同じ。

29節、 : 兄は、父に仕えたという奴隷根性から、戒律主義の生活を維持していたに過ぎなかった。



(私の思索)
世の常識的財産は有限であり、有ると思って浪費を始めるとすぐになくなる。

弟息子が浪費した財産とは何を指しているだろうか。
イエスが聖書の補足欄に示す 「ローマ帝国内の各地に離散したユダヤ人を意識していた」 と仮定するなら、ユダヤ民族の経験に基づいた信仰生活、即ち 「人間に対する神の介入の歴史とユダヤ民族の生活」 を指しているかもしれない。

具体的には、旧約聖書の多くの記述が 「人間に対する神の介入の歴史とユダヤ民族の生活」 であると言い換えられると思うが、異国で過ごしているうちに、神による介入の記憶も生活への適用も風化してしまうと想像できる。
言葉を換えると、信仰が単なる知識に変わってしまう可能性が高いという事である。

知識でしかなくなった 「贖い」 を、その人の神に対する信仰として復活させるために、イエスご自身が過越祭りの最初の日に 「過越しの子羊」 として苦しみを受け、父に祈り、死にわたされるという事を意識して、それを例え話の祝宴として表現していたと考えられる。

このことは、時間をかけながら確認していく必要があるでしょうが、そのように受け取る価値はある。
補足欄に 「福音の中の福音」 と表現した編集者達の意図は、類似したものなのではないか。

一方、兄息子によって表現された内容を、補足欄では戒律主義と表現している。

パリサイ人たちの主張に対して、イエスは、神から与えられた戒律を守れることは素晴らしいのだが、自分が戒律を守ったことに自分の目を留め過ぎているので、守らない他者を低く見る 「驕り・たかぶり」 に変質してしまって、神を愛する事と隣人を愛するという律法の本質が見えなくなっていますよと、教えたいのだが、反発が更に激しくなるだけだと判断しただろう。
それで 「私のものは、全部おまえのものだ。」 と表現してなだめている。

「私のもの」 即ち、イエスご自身を全部差し出すから 「全部お前のものだ」 「あなたは過越しの知識を活かして、贖いの信仰によって私を受け取りなさい」 と事前に告げていることになる。
これも、じっくり考えねばなるまい。


(私の脳裏をかすめる言葉)
「神は・・・・に引き渡され」2006年10月25日投稿記事

(私の感想)
私は、このところを 「福音の中の福音」 という受け取り方を聞いた事が無かったし、自分も気付かなかった。

今回、内容が難しいので、補足欄(脚注というらしい)を注目しながら読むようにしてきたが、参考になると共に考えるための刺激になる。







2007/06/24 21:42:20|聖書
いなくなった一匹の羊
イエスが、歩いている途中で、ついてくる群衆に話を始めたことの続きですが、収税人やパリサイ人たちから罪人と呼ばれている人たちが、たぶんまとまってイエスに近付いてきたのでしょう。
ルカによる福音書 15章です。

(取税人や罪人たちが話を聞こうとして、近寄って来た。)1節

(パリサイ人、律法学者たちは、 「この人は、罪人たちを受け入れる。」 とつぶやく)2節

(イエスの例え1 : いなくなった一匹の羊を見つかるまで探し歩き、見つけたら、大喜びで友だちに知らせるでしょう。)3〜6節

(例え1の答え : ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。)7節

(イエスの例え2 : 十枚一組の銀貨の内、一枚紛失したら明かりをつけ、隅々まで探し、見つけたら、友だちと一緒に喜びます)8〜9節

(例え2の答え : ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる。)10節



(私が持つ聖書の補足欄から)
1〜2節 : 3〜6節に語られれる例え話の聴衆は、収税人、罪人たちと、彼らを軽蔑していたパリサイ人、律法学者たちとである。

3〜6節 : 失われた者の立ち返りを喜ばれる神を教える。

7節、 「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」 : おそらく、論敵であるパリサイ人、学者達の自称義人観を逆用したものであろう。→5章32節参照

8〜10節 : なくした銀貨の例えで、前のいなくなった羊の例えと対になる。
見つける苦労、持ち帰った喜びに参加するようにとの招きにおいて共通する。


(私の思索)
7節と10節に出てくる 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」 という言葉は、この部分の中心テーマでしょう。

イエスに近寄って来た人たちと、イエスを批判した人たちが登場する。
イエスは近寄って来た人たちをいなくなった羊に例えて受け入れ、「いっしょに喜んでください。」と友人達に言う。



(私の脳裏をかすめる言葉)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)


(私の感想)
7節と10節に出てくる 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」 という言葉が、日本人に分かりにくそうです。

私は今、 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」 の内容には、 「目標が違っていたので悔しがり、急いで変更するなら」というニュアンスが含まれているように感じています。
イエスを拒否しない一人ひとりに対する神の愛が、とてつもなく深く、無制限であるように感じるからです。