私は、7節〜10節の部分を6節以前の部分と分離して考えるべきかどうか悩んだ。 結論は、分離して考えても連続して考えても、その意味が変わる事が無いのだが若干抽象的になるとの結論に至り、今回は連続したものとして書いてみたい。
信仰の仲間の罪を赦し、戒めるべきことを話した後、例えを語られた。 ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(しもべが労働を終えて帰ってきたとき、家の主人は 「すぐに食卓に着きなさい」 とは言わない。 「私の食事の用意をして、私の食事が終わるまで給仕をしなさい。」 と言うでしょう。)7〜8節
(しもべが指示通り働いたからといって、しもべに感謝することはしない)9節 (あなた方も同様です。自分に指示されたことをやり終えたなら、 『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』 と言いなさい。)10節
(私が持つ聖書の補足欄から) 10節、 役に立たない : しもべの仕事についてではなく、しもべと主人の関係について言われる謙譲語。
(私の補足) しもべ : 現代日本では しもべ という立場が無いので辞書の説明を紹介する。“僕”という漢字がそれ。召使の様な立場の者。(岩波) 土地や家畜などを所有する者が主人であり、主人の指示に従って労力を提供する立場の人をしもべと呼ぶ。
(私の思索) 冒頭で述べたが、1節から9節の話を踏まえて、10節の 「あなた方も」 と弟子たちに言っている。 弟子たちはイエスから 「全世界に出て行き、全ての造られた者に、福音を述べ伝えなさい。」(マルコの福音書16章15節) と言われ、困難と迫害に合いながら宣教活動をするのだが、宣教によって多くの人々が救われた後に、 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れるなというのだ。
現代の宣教においても、誰かの罪を何度も赦したあと 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れるな、“つまずき” があって信仰から離れた人を諭し、教え、訓戒して立ち直らせた後に 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れるなというのだ。
(私の脳裏をかすめる言葉) 祈るために、ひとりで山に登られた。(マタイ 14章23節)
(私の感想) 私は、なすべきことをなすことが出来ていないと感じている者だから問題外・対象外なのだが、 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れてしまうと、 “つまずき” に陥る者、 “つまずき” を与える者になりますからと文章外で警告しているように感じる。
キリスト教の指導者の立場に立つ人にとって、大切な警告だろう。
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