いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/08/07 21:44:38|聖書
仕事が済んだ後
私は、7節〜10節の部分を6節以前の部分と分離して考えるべきかどうか悩んだ。
結論は、分離して考えても連続して考えても、その意味が変わる事が無いのだが若干抽象的になるとの結論に至り、今回は連続したものとして書いてみたい。

信仰の仲間の罪を赦し、戒めるべきことを話した後、例えを語られた。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(しもべが労働を終えて帰ってきたとき、家の主人は 「すぐに食卓に着きなさい」 とは言わない。 「私の食事の用意をして、私の食事が終わるまで給仕をしなさい。」 と言うでしょう。)7〜8節

(しもべが指示通り働いたからといって、しもべに感謝することはしない)9節

(あなた方も同様です。自分に指示されたことをやり終えたなら、 『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』 と言いなさい。)10節



(私が持つ聖書の補足欄から)
10節、 役に立たない : しもべの仕事についてではなく、しもべと主人の関係について言われる謙譲語。


(私の補足)
しもべ : 現代日本では しもべ という立場が無いので辞書の説明を紹介する。“僕”という漢字がそれ。召使の様な立場の者。(岩波)
土地や家畜などを所有する者が主人であり、主人の指示に従って労力を提供する立場の人をしもべと呼ぶ。


(私の思索)
冒頭で述べたが、1節から9節の話を踏まえて、10節の 「あなた方も」 と弟子たちに言っている。
弟子たちはイエスから 「全世界に出て行き、全ての造られた者に、福音を述べ伝えなさい。」(マルコの福音書16章15節) と言われ、困難と迫害に合いながら宣教活動をするのだが、宣教によって多くの人々が救われた後に、 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れるなというのだ。

現代の宣教においても、誰かの罪を何度も赦したあと 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れるな、“つまずき” があって信仰から離れた人を諭し、教え、訓戒して立ち直らせた後に 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れるなというのだ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
祈るために、ひとりで山に登られた。(マタイ 14章23節)

(私の感想)
私は、なすべきことをなすことが出来ていないと感じている者だから問題外・対象外なのだが、 「なすべきことをしただけです。」 という心を忘れてしまうと、 “つまずき” に陥る者、 “つまずき” を与える者になりますからと文章外で警告しているように感じる。

キリスト教の指導者の立場に立つ人にとって、大切な警告だろう。







2007/08/06 18:27:47|聖書
内におられる方
“つまずき” 即ち、誘惑や状況によって罪を犯してしまう場合があること。
だから、自分自身がつまずかないように気をつける必要があること。
また、つまずきを与えないように気をつける必要があること。
周りの兄弟達がつまずいていないかどうか、心を配る必要があること。
等々を聞いた弟子たちは、自分の今の信仰で対処できるか否か心配になったようだ。

さらに、もし信仰の仲間が何かの誘惑や状況によってつまずき、罪を犯したなら、その仲間を戒めなさい。
信仰の仲間があなたに対して罪を犯した場合、その仲間が悔い改めれば、一日に七度罪を犯しても(何回でも際限なく)赦しなさい。
と続いた要求内容は、弟子たちにとって絶望的な高い要求であったようです。(私自身がそうだ)

それで、弟子たちは信仰を増していただきたいと願い出るのです。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(使途たちが「私たちの信仰を増してください。」と言った。)5節

(イエスは、からし種ほどの信仰があれば、桑の木を抜いて海に植えることさえ、あなた方の信仰の言葉によってできるのだと言う。)6節



(私が持つ聖書の補足欄から)
5節 信仰を増してください : (1〜4節で語られた内容に対して)自分の身を慎み、罪を犯す兄弟を戒めて悔い改めに導き、徹底的に赦しきれという指導者への要求は、信仰無しには実行出来ない。
信仰は主が増してくださる一方的な恵の賜物である。

6節 桑の木 : 根が強く張られていて、抜くことが出来ないとされていた。
6節 根こそぎ海の中に植われ : 抜くこと以上に困難な、一日に7度赦すことの比喩。


(私の思索)
5節の補足欄に書いてあることだが、信仰は自分の力(思索、努力、勉強、研究)で得られるものではない。
神の恵の言葉と恵の足跡を見ていく(確認する)者に対して、一人ひとりの内側に生まれてくるものだろう。
決して思い込む事ではない。
信仰生活を全うするには、私ではどうしてもだめなので “イエスが主です” が基本だ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。    ヨハネ 14章10節


(私の感想)
「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」 と告白できるほどに、“聖霊”を期待する私でありたい。







2007/07/31 22:36:50|聖書
気をつけていなさい
前回投稿の1〜2節で、小さな凹凸に足が掛かって転ぶ “つまずき” 即ち、誘惑や状況によって罪を犯してしまう場合があることが語られました。
そのような兄弟を見たら忠告してあげなさいと語られます。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。悔い改めれば、赦しなさい。)3節

(あなたに対して一日に七度罪を犯しても、 『悔い改めます。』 と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。)4節



(私が持つ聖書の補足欄から)
3節、気をつけていなさい : ルカ独特の愛用句。1~2節の結びでもあり、3節以下の序文でもある。


(私の思索)
1日に7度とは、7という数字がイスラエルにとって完全数であることから、何回でも際限なくというような意味だと聞いた記憶がある。

また、 「罪を犯したなら」 の意味をどのように理解するのがよいか考えさせられたが、以前から結論が出せないままになっていたので、少しだけ掘り下げてみたい。

語られた対象は、 1節に、 “イエスは弟子たちにこう言われた。” と書かれているから明確だ。

罪を犯したと仮定している人は、 “兄弟が” と言っているから弟子たちであり、現代でいうならキリスト者の仲間である。

金持ちとラザロの例え話の中の金持ちの罪は、門前に居たラザロに対する無関心さが、 「あなたの隣人を愛しなさい」 という律法の要求を満たしていないと感じたわけだが、この部分で言う “罪” とはどんなものなのか。

イエスによって罪を赦して頂いたと信じた人、(又は、信仰を告白し、神の前に罪から離れてバプテスマを受け教会員として認められている人)が 「罪を犯したなら」 となる。
(現代国家が規定している法律に違反している誰かではない。)

今回取り上げた範囲の言葉を、現代の生活に合わせて翻訳してみたると、 「つまずかないように、また、つまずきを与えないように気をつけ、周りの人に心を配りなさいていなさい。もし信仰の仲間が何かの誘惑や状況によってつまずき、罪を犯したなら、その仲間を戒めなさい。信仰の仲間があなたに対して罪を犯した場合、その仲間が悔い改めれば、何回でも際限なく赦しなさい。」 となるのでしょう。


(私の脳裏をかすめる言葉)
誘惑に陥らないように祈っていなさい。  ルカ 22章46節


(私の感想)
私は、「自分以外の人を戒める資格など無い。」・・・と感じている。
今しているように、聖書を真剣に読むたびに、私は戒められる立場にいて赦していただくばかりだからだ。

決して卑屈になっているとは思わないが、それほどに足らなさを感じてしまう。
私の主は、私の足らなさを私が自覚する前から御存知で 「私に学びなさい」 と言っておられ、私の足らなさを赦しておられる。そして私を励まし、私の成長を期待しておられるように感じる。







2007/07/27 19:59:08|聖書
忌まわしいもの
ルカによる福音書17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。)1〜2節



(私が持つ聖書の補足欄から)
1節、 つまずき : イエスから引き離そうとする誘惑のこと。
(マタイ18書6〜7節)罪を犯させる。罪を犯させるような場合や状況。

2節、 この小さい者たち : キリスト教会員を指す呼称。
(文章の前後関係からだけで読むと弟子たちを指すものと理解できる。)


(私の思索)
日本でクリスチャン人口のの割合が増えないのは、おそらくつまずきによる信仰喪失が最大原因だろう。


(私の感想)
ム〜〜〜
つまずきの原因になりたくないし、つまずきに陥りたくない。
今の私にとっては、聖霊と良い先輩が不可欠ですね。







2007/07/24 10:44:47|聖書
しないのとできないという評価
パリサイ人たちに対して、「人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」と告げたイエスが、例え話を始めます。
ルカによる福音書 16章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちがいた。)19節

(その金持ちの門前に、ラザロという名の全身におできがある貧乏人が寝ていた。)20節

(金持ちの生活からこぼれたもので腹を満たしたいと思っていた。犬もおできをなめた。)21節

(貧乏人は死んで、アブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで、葬られた。)22節

(金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムがはるかかなたに見え、ふところにラザロが見えた。)23節

(金持ちは、アブラハムにあわれみを願った)24節

(アブラハムは答えた。 「思い出しなさい。いきている間、あなたは良いものを受け、ラザロは悪いものを受けていました。 しかし、今ここで、ラザロは慰められ、あなたは苦しんでいるのです。それに、大きな淵があって、こちらから行けないし、そちらから来られません。」 )25〜26節

(金持ちは、アブラハムに再度願った。 「ラザロを私の親族に送って、こんな苦しいところに来ることがないように、言い聞かせてください。」27〜28節

(アブラハムは答えました。 「あなたの親族達には、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」 )29節

(金持ちは、アブラハムに、更に願った。 「死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」 )30節

(アブラハムは答えました。 「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」 )31節



(私が持つ聖書の補足欄から)
19節〜31節まで : 金持ちとラザロのたとえから、人間的評価と永遠の評価の見事な逆転劇を絵画的に描き出す。後半の27〜31節に、中心的使信が述べられる。

紫の衣 : 高価な上着(マルコ15章17〜20節)。
細布 : エジプト亜麻の柔らかな下着。

20節 ラザロ : 「神が助け」 の意。

アブラハムのふところ : アブラハムと水入らずの交わりのうちに、永遠の安息に入ることの比喩。

23節以下の主の言葉から : 次のことが教えられる。
@ 死後も意識が継続する。  
A 地獄の責苦が実在する。  
B 死後に救いの機会がない。
C 死者と生者との交流は不可能である。

ハデス : 旧約の 「よみ」 (ヘブル語「シェオル」)と同じく死者の世界のこと。 「地獄」 と同じようにも使われる。(ルカ10章15節の補足欄から)

26節 大きな淵 : 「ハデス」 と 「アブラハムのふところ」 である天国との、大きな隔たりを表す。

29節 モーセと預言者 : 旧約聖書。

31節 : 心が整えられないなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、信仰も悔い改めも生じない。


(私の思索)
ここで「金持ち」 とは、イエスの話が継続している事から、14節の 「お金の好きなパリサイ人」 が対象としてイメージされる。
しかし、現代に生きる者として、 「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ち」 と単純に読むのが素直なのだろう。

イエスが伝えたかった意図を明らかにするために、
お金持ち と ラザロ(神が助け)の生活と心の状態などを比較しておきたい。

表現された事は次の通り
資産家   ←→ 貧乏人
細布の衣服 ←→ 全身おでき
ぜいたく  ←→ ひもじい生活
遊んだ   ←→ 皮膚病で寝ていた
住居生活  ←→ 他人の門前生活
僕たち   ←→ 犬
死んだ   ←→ 死んだ
葬られた  ←→ 御使いたちによって連れて行かれた。
ハデスで  ←→ アブラハムのふところで
苦しんだ  ←→ 永遠の安息を得た

イエスが表現したかった心(霊)の状態を推定してみた。
自分の物で満足できた  ←→  金持ちの余り物(食べ残りや古着など)を期待した
お金を払って遊んだ?  ←→  世の楽しみが無いラザロ(神が助け)であった
人間にあがめられた存在 ←→  人間に見捨てられたような存在

律法の要求に対する彼らの生活態度
神を愛していた様子がない  ←→  神が助け、自分の皮膚病から罪人の意識を持っていたろう
隣人を愛していた様子がない ←→  近づく人に感謝と尊敬で接しただろう
(ラザロに無関心)         (近くを通るすべての人に関心を持っただろう)

こうして比較して見ると、イエスが指摘したいポイントは、先に17節で 「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」 という観点と、弱い立場で生きる者を引き揚げようとする心とを感じる。


また、この部分で大切なメッセージは、23節〜31節にもあるだろう。
だが、死後に関する事は情報が少なすぎるので、何かを考えるまでに至らず、補足欄が伝えてくれる内容をそうかもしれない事として、受け入れるのに留まる。


(私の脳裏をかすめる言葉)
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 マタイによる福音書 19章10節


(私の感想)
金持ちは、人間的に観察したときに何か法律に抵触するような悪いことをしたのではない。
しかし、律法が要求している 「神と人とを愛する」 事をしなかったという悪をしたと宣言していると感じるのだ。
私が、苦手としている事(行動)をこの部分からも要求される。
足萎えのような私には、どうしても聖霊の助けが必要だ。そして一緒に歩んでくれる先輩が必要だ。

一方のラザロは、外観において顔をそむけたくなるような存在であり、内面において罪意識に悩みつつ助けを求める存在である。
心の貧しい者の代表者であろうか。
全人類の罪を引き受けた十字架を意識したのだろうか。