花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/01/13 9:53:28|その他
目からウロコ!
 作家、日向康氏が、田中正造
全集I解題で翁の歌について
次のように触れています。
 
「(田中正造日記の特長の一つは)略
和歌が随所に書き留めてあって、少しずつ
字句を変えたそれらが並んでいる」
 
「(また日記には)以前に詠んだ歌を
日を措いて、ときには年を措いて
再録する場合が珍しくない」
 
 その上で日向氏は「(翁が)自分の
気持ちを正確に訴えるための推敲と
受け取るよりも、ああもこうも考えられる〜
正造の多角的な思考が滲みみ出ている〜」
 
 日向氏の言葉(要旨)を引用記録し
今後の考察に生かします。喝







2021/01/12 15:41:35|その他
渡良瀬慕情
 
 2012年2月18日里便り再掲 

 鉱毒事件で、村が強制廃村になる前、
谷中村の粘土質の肥沃な土で、赤レンガが
焼かれていました。

 ゴッツイ煙突、レンガ場と呼ばれる
工場が遊水地近く、東京のベッドタウン、
栃木県野木町にノコッテイマス。

 赤レンガと言えば、東京駅、日銀本店の
代名詞でした。ここに用いられた谷中の赤レンガ、
往時を知る人は少なくなりました。

 今日は、栃木でラムサールin渡良瀬があります。
鉱毒事件、原発事故によるヨシ焼き中止、思いを
重ねながら、聞きに行きます。。

参考文献「谷中村たより」遺跡を守る会
野木町史







2021/01/11 13:19:27|その他
田中正造 谷中村入村
 田中正造、谷中村入村、
明治37年(1904)64歳。
入村時の事情について
ケネスストロング著
「田中正造伝」を借りて
お便りします。
 
 「危険に晒された農民を護るという
行為は、正造の持ち前の闘争心と不屈の
精神に再び火をつけた」
 
 「正造を最も困難に満ちた〜そして
正造自身の成長という点から見れば
最も実りの多い〜最後の闘争へと
巻き込んでいくのは、谷中村であった」
 
「古河の手下の流した噂によれば、
鉱毒救済の義捐金を着服した男〜」
「正造の行為は、善意に解釈しても
ドン・キホーテ的であったし〜」
  
カギ[ ]内。田中正造伝から引用。
 
 







2021/01/10 14:56:35|その他
なぜ 今 谷中村か
 なぜ国会議員を辞めて〜に
取り組む過程で、田中正造、
思想宝の山に、辿りつき
ました。
 
 それが湖底に沈められた
谷中村、鉱毒被害民と起居を
共にした現場から翁の透き通る
思いが湧き上がりました。
 
 真の文明は〜
辛酸亦入佳境。等々。
 
 正造翁が遺したコロナ禍の
今に生きる杖ことばを宝の山から
発掘し、お便りします。喝
 
 







2021/01/09 14:16:44|その他
正造翁の歌 雨から雪へ
 田中正造を直訴の人か、鉱毒の人、
それとも環境の人だ、と捉える見方、
受け止め方は、人様々です。
 
 この違いは、田中正造の生涯を
直訴前後に分けるか、谷中村入村
前後に線を引くか、さらに入村後の
翁の生涯に目を向けるかです。
 
大雨にうたれたたかれ
重荷挽く
牛のあゆみの
あとかたもなし
 
降るゆき止ミなかりせば
つもれかし
ミちはふみたて
けたて行くなり

 上記、二首の歌、田中正造
自らの訣別と新たな闘いへの
挑戦宣言です。喝