花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/07/20 8:12:57|その他
空白を見つめる
 正造翁、県議初当選から、
国会議員に転ずるまでの
十年間、足尾鉱毒の文言は
ありません。
 
 空白の十年を軸にその前後、
年譜を辿り、見えてくるもの、
お便り、続けます。喝
 







2021/07/19 12:20:50|その他
正造翁 鉱毒空白の十年
 島田宗三編、田中正造翁年譜から
「鉱毒空白十年」を拾い出します。
 
 明治十三年(1880)正造翁、四十歳。
補欠選挙で県議初当選。
 栃木県令藤川為親就任。
渡良瀬川の漁属鉱毒汚染の疑いで
捕食売買禁止。
 
 明治十四年
自由党成立。
 明治十五年、自由党新聞発刊を巡って
板垣退助と対立、改進党へ。
このころ、仲間から栃木鎮台と呼ばれる。
 
明治十六年 三島通庸、県令に
 足尾銅山の生産量百八万九千斤。
(一斤は六百g)
 
 明治十七年 加波山事件冤罪。投獄。
 
 ず〜っと省略、
 明治二十二年 渡良瀬の水源官林
七千六百町歩を古河市兵衛に払下げ、
その価格一万千百円なりという。喝
 
 







2021/07/18 11:13:17|その他
正造翁 鉱毒空白の十年、その前
 1610年 足尾銅山鉱床発見。
 
 1635年 日光東照宮の屋根に
     足尾の銅が使われたほか
     足の字を刻んだ銅貨も。
 
 1790年頃 付近の農民が銅山
      廃棄物による河川汚染を
      訴える。
 
       時の老中松平定信、採掘
      停止命令。八十年間、閉山。
 
 1877年 古河市兵衛 廃坑同然の
      足尾銅山買収、開発。喝
 







2021/07/17 10:12:53|その他
正造翁 鉱毒空白の十年、その後
 岩波書店、田中正造全集(年譜)
ベースに「正造翁、鉱毒空白の十年、
その後」を辿ります。
 
 明治十三年(1880)正造 四○歳
補欠選挙により安蘇郡選出の栃木県会
議員となる。
 同年1,渋沢栄一、足尾銅山経営に参加。

 当時、正造、県会議員・県官の一部から
「安蘇の馬鹿」と呼ばれる。
 
 同年10・29 藤川為親栃木県令
就任。明治十三年、十四年、十五年、
渡良瀬川の漁族捕獲禁止令。鉱毒の害唱ふ。
 
 而して藤川為親は明治十六年、此等の為か
島根県に転任せられたり。
 (断片四十三)喝
 







2021/07/16 10:56:40|その他
正造翁と足尾鉱毒事件
 正造翁が足尾鉱毒事件に
取り組んだ経緯が分かりました。
 
 全集@「回想断片四三」要旨。
明治十三年(藤川為親)大いに
鉱毒の害を唱ふ。
 
 正造は県会議員、毎年河川
沿岸巡回、鉱毒の加害発見せず、
 
 後正造は二十三年の大洪水に
至るまで十一年に渉りて此間
鉱毒の何たるを知らざりし、喝