花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/06/03 8:18:49|その他
温故知新
2012年5・15里便り再掲。 

 田中正造の銅像が、佐野市郷土博物館
前庭に建っています。

 例の一億円、ふるさと創生事業で、
創造?創像?した郷土の偉人、正造翁です。
ホント?は、駅前に設置されるハズでした。

 正造研究のメッカ、正造大学のHPに
正造のチョンマゲ姿は、史実と異なる、
直せ、文句アリです。

 爾後(じご)、羹(あつもの)に
懲りた役場職員は、正造膾(なます)を
フイテイマス。

 田中正造のちょんまげ姿は、
正造研究の象徴です。喝
 







2021/06/02 10:14:29|その他
無用の長物
 刀は武士の魂か、

 1857年、田中正造、17歳
名主になり、苗字帯刀許される。
 
1869年,正造、29歳、
佩刀禁止の議論起きる。
 
 1870年、正造、30歳、
「陸奥」出立前、女性から
父が預かっていた貴方の刀、
正造に返される。

 1871年、正造、31歳、
上役殺しで逮捕、証拠は
返された刀。
 
 1876年、正造、36歳、
廃刀令。無罪放免後、働いた
酒屋の番頭を辞め、夜学を
開く。
 
 予は下野の百姓なり。喝
 







2021/06/01 7:39:41|その他
人間 田中正造〜現地妻〜
 2012年2・25、里便り再掲。
 
 田中正造が、東日本江刺県(当時)に
下級官吏の職を得て、単身赴任していた時、
若い現地妻と起居を共にしていました。
 
 正造は、分かり難いその土地の
言葉の通訳と家事を兼ねた一挙両得の
現地妻を同僚の誰もがやっていると
押し付けられた云々
 
 言い訳めいた記述が彼の全集に見え隠れ
しています。
 
 ところが、後でヒマを出された現地妻、
これを恨んで、正造が上役殺しの冤罪事件に
巻き込まれた時、「事件のあった晩、正造が
隣で寝ていたかどうか?グッスリ寝ていたので、
分からない」
 
 正造のアリバイを証明してくれませんでした。
 
 おかげで正造は獄に三年余りツナガレ、
繰り返し読んだ西国立志編で、初めて
西洋思想に触れ、思索を深め、後年
これが彼のバックボーンになりました。
 
 あの時、彼が、罪を着せられなければ〜
一生田舎の小役人(失礼!)で終わったかも
しれません。マタオイデ。
 



 
 
 







2021/05/31 8:29:05|その他
牛歩千里
 里便りを始めて(2012年)直ぐに
人間 田中正造〜冤罪〜を書いています。

 田中 正造が、上役殺しの濡れ衣を
着せられ、捕まったのが、彼、31歳、
明治二年1871年でした。
 
 事件は、被害者の上役と、シバシバ
彼が、ケンカをしていた。動機は恨み、
犯行は計画的とされました。
 
 こころある人が、事件の後、静岡に
引き込んだ被害者の家族から、三年ぶりに、
犯行現場で見た犯人は「正造ではない!」
証言を引き出し、彼の無実を証明してくれました。
 
 この事件が仕組まれた当時、正造の人間関係、
時代背景は、今後の取材に待つとして、正造は、
この事件を契機に、政治家の道へ、大きく、
歩み始めました。マタオイデ。
 
 あれから十年〜カタツムリか牛か。喝
 
 
 
 
 







2021/05/30 11:55:55|その他
濡れ衣
 さらに田中正造年譜を
辿ると、
明治四年(1871)3・15
太政官達「関以東府藩県へ
 
 江刺県権大属木村新八郎儀、
花輪分局へ出張中、夜浪士体ノ
者一人忍入、同人を殺害ニ及ビ〜
 
○弾正台立ち合いで第一回審問、
(田中正造)拷問を受ける。
○免職され、花輪分局獄より
江刺県獄へ移送される。
 
 移送中、正造が詠んだ歌
うしろ手を負わせられつつ七時雨
     しぐれの涙掩ふそでもなし