花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/06/27 11:45:05|その他
りんごの唄
 新聞代、料金改定の
お知らせが、封書で届き
ました。値上げじゃない
んだ。
 
 朝、新聞に、海外で、
リンゴ(新聞廃刊)が、
一面に載っていました。
 
 リンゴは良心の象徴、
戦後日本は、リンゴに救われ
ました。
 
 今、里便りで新聞発行に
命をかけた田中正造を書いて
います。正造翁が居てくれたら
なあ〜喝
 







2021/06/26 10:58:33|その他
無月給の財産
 田中正造が無月給で務めた
栃木新聞編集長、政治家への
道を拓き、選挙の神様に。
 
 先輩、篠原信雄が、その著、
草莽の人で説明しています。
 
 明治一三(1880)年二月、
県会議員の補欠選挙で、正造は
みごとに最高点で当選。
 
 「栃木新聞」の普及活動を通じて、
同志の結集をはかってきたこと(略)
明治二三年七月に衆議院議員に
選ばれるまでの一〇年間つねに
最高点で〜喝
 







2021/06/25 10:07:04|その他
二一天作の五
 田中正造を編集長に船出した
栃木新聞(当時)「ナゼ斯(か)う
賣れぬか」
 
 そこで正造曰く
「予は元と二一添作(天作)に疎く」
創業者四人「額を鳩めて攻究し始めたり」
 
 田中正造昔話(p92)に出てくる話。
願いましては〜ハライましては〜
皆、経済に真黒なり。
 
 田中正造、需要と供給の経済原則を
説き、翌日より(売れぬ)新聞紙を
撒きちらし〜各郡長に新聞を買わせ、
郡民に恵与、販売促進に当たる。喝
 
 







2021/06/24 9:20:08|その他
予は栃木新聞編集長ナリ
 明治12年(1879)創刊された
栃木新聞(当時の名称)創業者4人、
その一人、田中正造が編集長に。
 
 田中新編集長の役割は、当時の
言論活動を取り締まる新聞紙条例、
讒謗律に立ち向かう厄介な仕事。
 
 しかも無月給、ボランティア。
その上、正造が上から下まで、
世間のスミズミを知っていると
社会探報記者も。
 
 なんで「予が、痴児狡妓輩が醜体を
公表する」通称?三面記事を?
(予は天下国家を論じる政治部記者なり)喝
 
 







2021/06/23 10:22:35|その他
なぜ正造は新聞を愛したか
 田中正造ほど、新聞を愛した
政治家はおりません。
 
 当時、地元で創刊された新聞の
経営に参加、資金繰りにも協力し
ました。
 
 「新聞発行を続けるため、当座、
五十円必要、貸してくれ」
「ダメだ」
 
 この時、役だったのが、正造が
飼っている?半風子?縁側でプチュ
プチュつぶすのを見て、相手は、茫然、
終に五十円与え云々。この辺でご容赦。喝