花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/09/12 9:25:30|その他
公害の原点 足尾鉱毒事件
 明治18年(1885)
栃木県足尾村赤倉、松木等の農作物に
被害。6か村共同で知事へ請願の準備。
 
 明治19年、
田中正造(46)栃木県会議長。
 
 明治21年(1888)
足尾村松木で桑樹、煙害(亜硫酸ガス)により
全滅。
 
 翌年
足尾村松木で足尾銅山の煙害により養蚕廃止。
現金収入の道途絶。農作被害も激増。
 
 明治23年(1890)
田仲正造(50)第1回衆議院議員選挙に当選。
以後6回連続当選。

「引用」
佐野市郷土博物館
田中正造と足尾鉱毒事件(詳細年表)
 







2021/09/11 10:26:04|その他
鉱毒の田中代議士 登壇
「議院法には、直ちに答弁するか、
出来なければ出来ない理由を明示すと
云ふことがある。出来なければ出来ないで
宜しい」
 
 「予算会議の為に大層議論が忙しい様に
思ひましたから、その間を得て答弁を致し
ませうと思ひました。或は明日にでも〜。
 
 第二回議会、召集明治二四年一一月二一日
足尾銅山鉱毒の儀につき質問書、質問の大要
(帝国憲法)日本臣民ㇵ其所有権ヲ侵サルヽコト
ナシトアリ、答弁アランコトヲ〜。
 
 詭弁の勇者陸奥(宗光)は避けて遂に答えな
かった。議会解散。答弁書は、官報附録へ。
「被害あるは事実なれども、被害の原因
確実ならず。」

「引用」
木下尚江著、政治の破産者 田中正造
 







2021/09/10 9:26:49|その他
鉱毒の田中代議士
 明治23年(1890)田中正造、50歳、
第1回衆議院選挙に当選。以後、6回
連続当選。
 
 九〇年代の典型的な地方出身の国会議員と
いえば、己の地位をやたらに自慢し、単純素朴な
選挙区住民に恩着せがまし態度、一人悦にいる〜。
 
 明治24年(1891)田中正造、第2回帝国議会で
足尾銅山鉱毒被害につき初質問。鉱業停止を要求。
 
 「世間には田中正造君は、山師なり、狂人なりと
いう者があるが、余は社会の神なりと思う」
(谷千城)
 
 「但し人生左の言あり。百折不撓」
鉱毒の田中代議士、手紙末尾原文。喝
 
 「引用」
佐野市郷土博物館」田中正造と足尾鉱毒事件
(詳細年表)
 







2021/09/09 10:03:15|その他
公害の原点 田中正造立つ
 渡良瀬川の中流と下流域に汚染の
最初の徴候があらわれたのは
1878年(明治十一))古河市兵衛が銅山を
購入した翌年のこと、
 
 正造は二十三年(1890)の大洪水に至るまで
十一年に渉りて此間鉱毒の何たるを知らざりし。
              (断片四十三)
 
 明治二十四年(1891)から三十四年に至る
この十年の間、この人は、衆議院の壇上で
「足尾鉱毒事件」と云ふものを叫んだ。
 
 明治二十四年十二月十八日、
代議士田中正造は、第二議会へ始めて
「足尾銅山鉱害加害の儀に付質問書」提出、
茲(こゝ)に足尾銅山鉱業停止の火蓋を切った。
 
「引用」
K.・ストロング著、田中正造伝
木下尚江著、政治の破産者、田中正造
 
 







2021/09/08 10:50:59|その他
公害の原点 田中正造
 「栃木県内で正造が行った演説に
人々はほとんど注意を払わなかった」
 
 演説(国会報告)1896年(明治二十九)
国会において正造は、鉱毒被害示談契約念書
「子々孫々まで文句を云わない」を非難した。
 
 「村民(正造、議員辞任後谷中村入村)に
とって、正造は、元政治家の肩書つけて
首府という遠い世界からやってきたアウトサイダー、
 
 古河(足尾銅山))の手下の流した噂によれば
鉱毒救済の義捐金を着服した男ということにさえ
なっていた。喝
 
 「引用」K・ストロング著、
田中正造伝