花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/08/11 10:24:26|その他
明治13年 田中正造 40歳
 田中正造、明治13年で始まる
「回想断片」です。
 
 明治13年県会議員となりて
予(正造)無用不急の土木を
制すること、国家教育小学は〜。(44)
 
 明治13年栃木県令、藤川為親、
大いに鉱毒の害を唱ふ。(43)
 
 正造13年杤木県中学を廃せんとせり。

 13年、桜川(藤川)県令の世となり、
其挙動傲慢、議員を末席(宴会の)に
置けり。正造怒り膳部ニ臀ヲ向けて
座す。(45)
    喝
 
 







2021/08/10 9:33:53|その他
栃木県議 田中正造の訴え
 県議時代は小学校教育の
充実、地方分権、減税を訴えて
いたのでは?知人コメント。
 
 明治13年県会議員となりて
予の一定の議論としては、無用不急の
土木を制する事、(断片44)
 
 正造は23年の大洪水に至るまで
11年に渉りて、此間鉱毒の何たるか
知らざりし、実に無学ほど悲しきものは
無し。(断片43)
 
 教育は国家教育、小学校には充分に
補助と便利を与え〜(良い教師を多く
するため)師範学校小学補助費、年々
原案に一倍せり。(断片44)喝
 







2021/08/09 9:15:47|その他
田中正造 次点落選
 田中正造の政治家人生は
明治12年(1879)39歳、
栃木県議会議員選挙、当選者
との差、一票、次点、落選で
始まりました。
 
 父の名(庄藏)を投票せしもの
多く、皆無効投票とせられ、一点
違い〜非常に怪しめるもの〜、
頗る残念。(断片39)
 
 翌年、県議補欠選挙で初当選。
明治21年(1888)48歳、県議四選。
この間、45歳、副議長辞退、46歳、
県会議長。
 
 明治23年(1890)50歳、県会より
衆議院に移り、二十年間未だ次点に
下りし事一回もなきは不相応の出来
なり。(断片39)喝
 
 







2021/08/08 9:44:48|その他
正造の大声 天与の賜もの 
 「正造は天質音声人より低かりし
ため、往々演説に苦めり」(断片36)
田中正造、41歳、栃木県議一年生、
声は、政治家の武器。
 
 当時、政党発足直後、党員募集の
蛍合戦アッチの水は、苦い〜よ。
下野、戦いの最前線なり。
 
 正造県内遊説中、夜半、宿泊先で
牛小屋の火事、火の見櫓の下に駆けつけ
声を限りにノドを涸らス。
 
 暫くして〜。正造、大喝一声!
アレ、ツブレタノドから声が出た。
正造の大声、栃鎮とアダナされ、
国会名物に、天与の賜もの、政治家
正造の支えに。喝
 
 
 
 







2021/08/07 10:33:19|その他
正造翁 政治の足取り
「断片24」
 正造明治七年町内の総代に
選まれて(略)八年始めて村の
総代として村会議員となるや、
歓喜の余り沐浴して任を受く。
 
 衆人大いに之を笑ふ。併し余の
沐浴、(略)輿論に対するの責任を
感得したるが為めのみ。
 
 「断片28」
 十年区会議員に公選せらる。即ち
赤飯を以て祝意を隣人に表し、亦
沐浴して之を受く。衆人亦大いに
笑ふ。
 
 「断片30」
 泰西ノ政度議院ノ設、国家経済ノ
大意(略)正造独リ之ヲ唱ルモ、
シルモノ少ナク、不都合多シ。
            喝