花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/09/10 9:26:49|その他
鉱毒の田中代議士
 明治23年(1890)田中正造、50歳、
第1回衆議院選挙に当選。以後、6回
連続当選。
 
 九〇年代の典型的な地方出身の国会議員と
いえば、己の地位をやたらに自慢し、単純素朴な
選挙区住民に恩着せがまし態度、一人悦にいる〜。
 
 明治24年(1891)田中正造、第2回帝国議会で
足尾銅山鉱毒被害につき初質問。鉱業停止を要求。
 
 「世間には田中正造君は、山師なり、狂人なりと
いう者があるが、余は社会の神なりと思う」
(谷千城)
 
 「但し人生左の言あり。百折不撓」
鉱毒の田中代議士、手紙末尾原文。喝
 
 「引用」
佐野市郷土博物館」田中正造と足尾鉱毒事件
(詳細年表)
 







2021/09/09 10:03:15|その他
公害の原点 田中正造立つ
 渡良瀬川の中流と下流域に汚染の
最初の徴候があらわれたのは
1878年(明治十一))古河市兵衛が銅山を
購入した翌年のこと、
 
 正造は二十三年(1890)の大洪水に至るまで
十一年に渉りて此間鉱毒の何たるを知らざりし。
              (断片四十三)
 
 明治二十四年(1891)から三十四年に至る
この十年の間、この人は、衆議院の壇上で
「足尾鉱毒事件」と云ふものを叫んだ。
 
 明治二十四年十二月十八日、
代議士田中正造は、第二議会へ始めて
「足尾銅山鉱害加害の儀に付質問書」提出、
茲(こゝ)に足尾銅山鉱業停止の火蓋を切った。
 
「引用」
K.・ストロング著、田中正造伝
木下尚江著、政治の破産者、田中正造
 
 







2021/09/08 10:50:59|その他
公害の原点 田中正造
 「栃木県内で正造が行った演説に
人々はほとんど注意を払わなかった」
 
 演説(国会報告)1896年(明治二十九)
国会において正造は、鉱毒被害示談契約念書
「子々孫々まで文句を云わない」を非難した。
 
 「村民(正造、議員辞任後谷中村入村)に
とって、正造は、元政治家の肩書つけて
首府という遠い世界からやってきたアウトサイダー、
 
 古河(足尾銅山))の手下の流した噂によれば
鉱毒救済の義捐金を着服した男ということにさえ
なっていた。喝
 
 「引用」K・ストロング著、
田中正造伝
 
 







2021/09/07 9:08:30|その他
公害の原点 国会議員をも罷めます
 田中正造「回想断片二七」
「予思へらく、如かず、一刀両断、
一身一家の利益を擲って政治改良の
事に専ならんにはと。
 
 「鉱毒は畢竟田中の選挙手段だ。自分の
選挙区に関係があるからやるのだ。馬鹿な説が
この議場の中に一人でも二人でも〜」
 
 「私は議員をも罷(や)めるのでございます。
さりながら今日辞表を出しますれば、明日は
演壇に登ることが〜今一場のお話を致して〜」
 
 「政治をやって居る間に、肝腎の人民が
亡んでしまった。一語、煙のやうに翁の唇頭を
漏れた」(木下尚江)
 







2021/09/06 11:38:58|その他
公害の原点 政治にカマケル
「可悲(かなしむべき)は
鉱毒被害地人民也」庭田源八著
「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」に出て
きます。「人民」田中正造翁の言葉
でもあります。
 
 「政治をやって居る間に、肝腎の人民が
亡んでしまった」木下尚江が伝える
正造翁の独り言、エピソードの一節です。
 
 肝腎の人民、足尾鉱毒事件で「人民」という
言葉が使われていた。それも分かります。
気になったのは「政治をやっている間」
 
 正造翁は「政治にカマケテイル間に」
翁の述懐をそう記憶しています。
その意味は、深く、重い響きと反省です。喝