花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2021/11/28 12:51:25|その他
直訴 田中正造の戦略
 先日のお便りで、戦略家 田中正造の
一面を石川半山、島田三郎のコメントを
交え紹介しました。
 
 田中正造最大の戦略は、直訴に見られます。
直訴状の起草文草稿を半山推薦の幸徳秋水に
任せたこと。
 
 直訴即死、という認識が、正造にあっても、
直訴状による不敬罪を回避する配慮です。
 
 そして公衆の面前で、切り捨て御免の直訴、
鉱毒反対世論の喚起、身を捨てて浮かぶ戦略、
失敗の成功です。喝
 
 







2021/11/27 11:56:27|その他
直訴状 三つ子の魂百まで
 敬愛するK.ストロング氏に、その著
「田中正造伝」で、直訴状について語って
貰います。
 
 1862年(文久2)田中正造、22歳。
「お家騒動」正造、六角家江戸屋敷に
領地筆頭用人の陰謀停止、怒りに満ちた
上書ぶっつけ要請。
 
 領主に対して〜へりくだった文面でない
場合は、それだけで犯罪に等しいとみなされる。
正造、名主解雇、第一回目のムショ暮らし。
 
 1901年(明治34)田中正造、61歳。
「足尾鉱毒事件」12月9日の晩、正造、
光徳秋水のもとを訪ね、事の次第を伝え、
適切な文に草して〜。「通説」
 
 ところが驚いたことに、正造は自らの手で
数箇所(実際は35か所)の添削を施した〜
幸徳が苦心して生み出した律動や修辞的均衡を
無視する形で、〜。
 
 ストロング氏は「残念ながらこれを英訳で
伝えることは不可能である」原注で語っています。
                   喝
 







2021/11/26 7:30:57|その他
直訴状の原点

 田中正造直訴事件に
六角家騒動ミニ直訴状の
教訓が〜。
 
 正造翁監獄ライフのスタート、
六角家騒動、正造、父の助言無視、
六角家の江戸屋敷に悪用人の陰謀
ストップぶっつけ、反対に名主、クビ!
 
 二回目、正造と父親は悪用人を
「奸賊」幼君を「御暗君の趣」と述べる
ミニ直訴状を江戸屋敷へ送り、今度は
二人ともクビ!

 ミニ直訴状の教訓、その後、如何に
生かされたか?喝

21年5.24、里便り再掲。原題、ミニ直訴状の教訓
 







2021/11/25 11:44:42|その他
戦略家 田中正造
 直訴状は幸徳秋水の草稿を
田中正造が加筆訂正、これが、
直訴「謹奏」二人の話合いで
合意訂正、これが新聞に掲載された
「謹奏表」
 
 この経過から直訴状が直訴日前日で
なく、ある程度以前に書かれたこと、
鉱毒廃絶表現、強さの有無も分かり
ました。
 
 さらに、田中正造を戦略家とする
コメントも〜。
石川半山「田中翁の性格は僕には
能く分かった。第四に相当の戦略も
有った」
 
 島田三郎「(田中翁)何時の場合でも
無謀の挙に出ることは無いので世の中の
人は誤解している。随分綿密な人である」
                 喝
参考
渡良瀬川研究会編集、田中正造と
足尾鉱毒事件研究
 
 
 







2021/11/24 11:35:58|その他
直訴状 ソレデドウシタ
 田中正造、直訴状2通3種類、
新聞発表文は、正造と秋水の話し
合いで8か所訂正、研究者の指摘、
参考に。
 
 秋水草稿
茨城栃木群馬埼玉及<>の間に
両者合意の<其下流の>が、同じ
要領で〜。
 
 草稿。数万町歩ニ[及ビ]を
<達シ>に、漁族[絶滅]を
<斃死>し、に訂正。
 
 [泣キ寒ニ叫ビ]は
<食ナク病ミテ薬ナキアリ>に、
町村ノ自治全ク[破壊]は、
<頽廃>セラレ[飢餓]は、
<貧苦疾病>に、そして
[因ラズンバ]は、<在ラズンバ>。
 
 直訴状後半に出てくる多数町村ノ
[破壊]は同じように<頽廃>に訂正。
 
 何かが、抜けている!喝