さて前回から空いてしまいましたがまたまた徳川の話でもしたいと思います。 思えばまともなお絵かきソフト使ったの初めてかもしれません。 だいたいお絵描き掲示板で済ませてましたからね。エアブラシは失敗だったか… イラストは戦国大戦の酒井忠次です。
酒井忠次は徳川でも最古参の家臣であり、徳川四天王の筆頭である。 家康の父、松平広忠の代から徳川(松平)家に仕えており、最古参も最古参の歴戦の武将である。今川時代、独立後と長い時を家康とともに苦難を共にした。 徳川の主な合戦には殆ど参加しており、特に長篠の戦ではその戦功を信長にも讃えられている。 古参の年長者故に癖の強い三河武士達のまとめ役となる事が多かったという。 石川数正が徳川を去ってからは、徳川第一の重臣となったという。その反面、重臣にもかかわらず宴会では海老掬い(今で言うどじょう掬い)を披露するなど気さくな面もあったという。
…しかし彼に関して特に有名なエピソードはやはり信康事件であろうか。 徳川が武田に内通の疑惑ありと、家康の長男徳川信康を切腹させた事件である。 諸説ある為詳細は別の機会にするとして、この時の信長への弁明を務めたのが忠次であり、彼の弁明が不十分だったため信康を救う事が出来なかったと言われる事となる。 忠次が息子への石高の不満を家康に訴えた所、「お前も我が子が可愛いのか?」と信康事件を引き合いに出され、口をつぐんだという。
享年70歳、関ヶ原の戦いを迎える前、徳川の天下を目にする前にこの世を去る。 華々しい活躍はそう多くはないが、最初期から常に松平・徳川につき従い苦難を共にし支えてきた。徳川四天王筆頭に恥じない、徳川最大の功臣と言っても過言ではないだろう。
最初の頃の戦国大戦では数少ない徳川家臣の三河武士でした… しかし時期が時期の為、元康同様今川家勢力として参戦。 元康が独立し、徳川家康として本多忠勝・榊原康政とともに織田家に参加するも彼は今川家勢力として取り残される事となる…同じ徳川四天王なのにどうしてこうなった…。
兵種はコスト2、武力6・統率4の鉄砲隊。今川家唯一の鉄砲隊である。それこそ最大にして唯一と言っていい利点かもしれない。 鉄砲隊なら他の勢力には同コストでずっと強力な奴がいる。特にコストが0.5下で狙撃まで持っている鉄砲隊が雑賀勢力には3人もいる…今でこそ防柵があるもののver.1.1前ではそれすら無かった…何だこの差は…。とは言え、強力で使いやすい精鋭射撃術を計略に持つ。武力11で射撃回数が5回に増える、さらには効果時間がかなり長く、装填中も高武力足軽として扱えると地味ながら非常に頼もしい存在である。 この計略の使いやすさ、効果の長さは今川家らしいと言うべきか。
特に徳川軍の計略は即効性に欠けるものが多いので、彼の火力は非常に有難い。 自分の徳川軍では常に忠勝や康政の後方で援護射撃を行い、計略使用時には射程内の敵を殲滅していく頼れる男である。さすがは歴戦の戦士と言うべきか…。
彼はもはや我が軍にとって欠かせない存在です。恐らく彼が最も自軍で熟練度(使用回数)が高い武将です。 セリフの「いつか三河に帰る日まで…俺は勝ち続けてみせる」という文面から、苦難にあえぎながらも故郷に想いを馳せ戦い続ける戦士の渋さが一面に漂ってますね。
彼の信康事件に関しては、やる夫家康では徳川の未来を案じた故に独断で瀬名・信康を処罰するべきと考えて起こった悲劇となっていました。自分が命を懸けて、それこそ死ぬ思いをして築き上げてきた徳川の将来の為に、瀬名・信康を信じきれなかったのは彼にとっては致し方無い事なのかもしれません。
信康事件の詳細もありますし、それも踏まえて後に解説してみたいと思っております。