栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2014/02/11 9:58:12|栃木市に伝わる話
琴平神社の今昔
 栃木市の地図を見ると柏倉町の山の頂上に琴平神社がある。琴平神社と言えば、海の神様。それが海なし県の山奥にあるとは、何とも不思議だった。この神社のある琴平峠は、自転車仲間では有名な場所だ。栃木市側から上って葛生駅の近くへ下りる道で、車が滅多に通らないためヒルクライムの恰好の練習場所となっている。

本殿まで行くには、琴平峠の19番カーブ脇の参道からだと、本殿まで10分位(最初の写真参照)
 サーキット場すぐ上の正面の石段のある参道から上ると30分位
(3番目の写真参照)


琴平神社に伝わる話をひとつ。
  


         琴平神社の今昔

 昔むかしの話だ。下野国柏倉村の年寄りが村のもんを集めて言ったと、
「伊勢参りと、讃岐の金毘羅参りもして豊作をお願いしに行くべ」
そこで村のもん10人が3か月もかかって、お参りしてきたと。帰って来ると村のもんが集まった。
「いやあ、ご苦労さんだった」
 大切に背負ってきたお札の包を開けてみて驚いた。一枚だけ受けてきたはずの金毘羅山のお札が2枚あるんだと。大きな木札だ、間違うはずねえ。
「こりゃあ、きっと金毘羅の神様のおぼしめしだ。」「しっかりお祀りしなくちゃ罰が当たるべ」ということになって、一枚は年寄役の屋敷の祠にまつった。
「さて、もう一枚をどこにおまつりすればよかんべなあ。」
「海の神様をおまつりしようにも、ここらあたりは海がねえ。馬草場になってる鞍掛山はどうだい。」
「四方八方の山が見晴らせるいいとこだ。雲の中に山が島みたいに浮かんで見えることもあるからなあ。海の神様も喜ぶべ」
 恵方だったので、鞍掛山の頂上にちいちゃな祠を建てて、吉日に村のもんが集まってお参りしたと。
しばらくの間は、年に一回の祭りの日だけ村のもんが行くくらいだったと。
 ところがな、金毘羅神社があるという噂が、舟の仕事をしているもんの耳にはいったんだと。巴波川や、秋山川、渡良瀬川の船頭や船主がこぞってここにお参りに来るようになったと。
「讃岐の金毘羅さんは遠くて行けねえけど、こんな近くに分社が出来てよかったなあ」
「ここにお参りするようになってから、一度も積荷を駄目にしたことがねえ」
 これが評判になって、あっちからも、こっちからもお参りに来るようになった。大洗や佐原や銚子の方からも聞きつけてやってきたと。
 分けても巴波川の船頭たちは羽振りが良かったから、石段や額を奉納するものが後を絶たなかった。立派な石段が出来て、本殿はもとより3階建の立派な山門までできたと。
 これが下からも見えた。お参りする人のために茶店も出来て、どんどんにぎわって、「こんないいところだったら泊りたい」と言う人も出て、お茶屋や宿屋が何十件も出来て、三味線や太鼓の音につられて若い衆は山へ上がっていったんだと。山の中腹に湧き出る水場に豆腐屋もできたと。
 山奥に海の神様が鎮座しているのは、こういうわけなんだとさ。
                            おしまい。

 

今年のお正月に琴平神社にお参りして、宮司の関口光一郎さんからお話を伺った。昭和20年の12月14日に大火で全焼してしまったのが惜しまれるとのことだった。今の本殿は昭和35年に再建されて今に至っている。境内からの眺望は素晴らしく、唐沢山、太平山、男体山、浅間山、筑波山、富士山、スカイツリーまで見ることができた。







2014/01/12 20:26:26|イベントでの語り
語りの会 IN かな半旅館
とちぎ夢ファーレ助成事業
栃木の伝統的建造物で語る

あそ雛まつり 昔語りの会
IN かな半旅館

〜箏の調べにのせて〜

日 時  2月23日(日) 
     13:30〜15:30

場 所     かな半旅館 栃木市万町5-2 

        プログラム
  
栃木の伝説と昔話

かな半旅館の昔話

春の昔話

語り部  志鳥 桂子  
     川元 由美子 
     町田 康二(大平民話あじさい)
     間中 一代

箏演奏  鈴木智鶴勢
     日向野裕鶴勢

★  駐車場 市役所の駐車場をご利用下さい。

 問い合わせ 080−5424−2994  間中一代







2013/11/25 23:07:00|栃木市に伝わる話
ピンピンコロリの塩庚申
 栃木市室町の歌麿通りにある赤い大きな鳥居をくぐって奥に行くと、「塩庚申」の小さなお宮がある。全国各地に数多くの庚申塔があるが、塩が付く庚申様は珍しいと、研究者も調査に訪れるという。
ここに伝わる話をひとつ。


          塩庚申(しおこうしん)

 昔むかしの話だ。巴波川の近くに塩を商っている塩売七兵衛という男がいた。ある時、大水が出て巴波川の水が溢れたんだと。七兵衛も商売物の塩が水をかぶってひどい目にあった。

やっと水が引いて川の流れも穏やかになった朝、七兵衛がとぼとぼと川のほとりを歩いていると、堰のところに何かが光っているんだと。
「あれは、何だんべ」
七兵衛は川の中にザブザブと入って行ってみると、それは石だった。岸にあげてみると猿の形をしているんだと。
七兵衛はこの石を家に持って帰って、屋敷の角に小さなお宮を建ててお祀りしたと。七兵衛は毎日お参りしては、塩をお供えして商売繁盛をお願いしたと。
すると、不思議なことに洪水で大損して傾いていた店の商売が持ち直して、何年か経つうちには、店が見違える程大きくなったんだと。

 これを見た人たちも、霊験あらたかなこのお宮にお参りに来るようになったんだと。七兵衛は人が良かったから、
「おらちの氏神様にしておくのはもったいねえ。」
と、自分の屋敷の中にあったお宮を北側の辻に移して立派に立て替えたと。

「この石は猿の形をしているから庚申様だ」
という人もいて、庚申待ちも始まった。六十日に一度回ってくる庚申(こうしん・かのえさる)の日に、順番で宿になった家で男たちが眠らずに夜を過ごしたと。その頃は火事が多かったから、講中に水をまいて火伏のお願いもした。

 庚申様は塩売り七兵衛の家にあったから「塩庚申」と呼ばれる様になって、七兵衛も講中の人達も商売繁盛で幸せに暮したという話だ。                               おしまい。


 郷土史家の熊倉精一さんによれば、史実では毛塚四郎兵衛の書いた元禄5年の「野州都賀郡栃木町 町並」の文書に、ここに塩売り七兵衛の屋敷があったことが記録されているのみだという。

町内の方にお話を伺うと、毎年、五月の第一申の日には、庚申堂を掃除してお供えものをしている。昔は、この日に露店が出たり芝居小屋が掛かったりしてにぎわったという。今でも塩をお供えしてお参りする人がいて、賽銭箱にはお金ばかりでなく塩も入っているのだそうだ。
近年は講中に「呆けよけ」の朱塗りの箸が配られ、箸袋の中のジュズダマをつまむとご利益があると云い、袋の裏には「ピンピンコロリの庚申様」と書いてある。
 商売繁盛を願う人、子育ての神様だという人、江戸時代に何度も栃木町を襲った大火から守ってくれたから火伏の神様だという人、それぞれの時代にそれぞれの願いを受け止めて来た塩庚申様。これからも、巴波川のほとりの辻にあって地域の守り神であり続けていくのだろう。
 







2013/11/23 1:01:06|その他
ビール麦の父・田村律之助
栃木の太平山神社に続く長い石段。梅雨に時期になると、色とりどりのあじさいが咲くこの坂の途中の右側に、ひっそりと石の胸像が建っている。この石像にまつわる話をひとつ。


     消えた銅像 〜ビール麦の父・田村律之助〜


むかし、水代村に田村という何代も続いた名主の家があった。轡の家紋のついた御守殿門と呼ばれる大きな門をくぐると、広い屋敷には、立派な母屋があり、幾つもの蔵がずらりと建ち並んでいたと。

慶応三年、長く続いた徳川の世が終わった年のことだ。この家に跡継ぎの男の子が産まれ、律之助と名付けられた。

律之助は5歳になると、藤岡にある高名な漢学者、森鷗村の塾で学んだと。この塾では、近郷近在の裕福な農家の子弟が多く学んでいたが、その中には有名な片山潜や岩崎清七も籍を置いていたと。立派な鷗村先生と熱心に学んでる塾生たちの中で、律之助は人の道までも学んだんだべな。
 明治6年、水代村に知新館(今の大平南小学校の前身)が開校すると、律之助は、ここに入学して学んだ。子守や野良仕事の手伝いをさせられて、学びたくても学べない子も多かった時代だ。律之助は賢くてよく勉強して、東京農林学校(今の東京大学農学部)に進学して農学を学んだと。

大学を卒業した律之助は、栃木県農事講習所の先生になって、給料ももらわずに農業を教えた。二十五歳の時、律之助は「下野農会(JAしもつけ農業協同組合の基)」を作って幹事長になったり、二十八歳の時から二十三年間も、下野農会の副会長を務めたりして栃木の農業のために尽くしたんだ。水代村の村長も4年間務めたんだ。

昭和七年。律之助は六十五歳でなくなって、水代の大中寺に眠っているんだと。

律之助の功績は数えきれない程あるんだ。開墾して茶の木を栽培したり、桑を植えて養蚕を奨励したり、堆肥の作り方を指導したり、よい種類の鶏や卵をみんなに分けて育てさせたり、北米から家畜を輸入して繁殖させたり。中でも、一番の功績はビール麦(二条大麦)の栽培を定着させて、ビール会社との契約栽培の基礎を作ったことなんだよ。

ビール会社ができてビール造りを始めた時、原料はみんな輸入していたから、国内で、栃木県で生産しようと考えたと。栃木県で全国一作っているかんぴょうとの相性もよかったんだ。ビール麦のワラは長くて滑らかなのでかんぴょうの敷きワラに使われた。

今でもビール麦の契約栽培は栃木県が一番だ。栃木県の中では栃木市が一番多く作っているんだよ。

律之助が亡くなった三年後、あじさい坂に律之助の銅像が建てられたと。農会やビール会社やビール麦栽培の団体の人たちが感謝して、有名な彫刻家鈴木賢二に頼んで作った大きい立派な銅像だった。

だけどな、戦争が激しくなったある日、この銅像は突然姿を消してしまったんだと。石の台座だけが残された。供出されて、鉄砲玉んなって飛んでっちゃったんだ。

これに心を痛めた人たちが、戦争が終わったから、また律之助の胸像を作ったんだ。二度目は銅じゃなくて石で作られた。今でも、太平山のあじさい坂に立っている田村律之助の像は故郷の水代村の方を向いているんだと。

「今年も、麦はよおく実ったべか?」「知新館の後輩、大平南小学校の子供たちは、元気で
勉強してるべか。」と、今もみんなを見守ってくれているんだべな。
 おしまい。


栃木市が生んだ偉人「ビール麦の父・田村律之助」の話は、
栃木市の夢ファーレ事業「ふるさと学習」の学びの中で、
栃木市立大平南小学校の6年生とともに作った話の一部だ。

郷土の偉人の話を子供達が語り継いでいってくれることだろう。







2013/11/19 21:23:04|その他
『路地裏散歩 詩人柴田トヨの住んだ町を歩く』 を開催します。
路地裏散歩 詩人柴田トヨの住んだ町を歩く』を開催します。

詩の舞台になった新栃木駅や幸来橋、トヨさんが暮らした昭和の風景が残るスポットを巡ります。トヨさんの詩の世界にひととき身をおいてみませんか。
新栃木駅、幸来橋では舞台となった詩、数編の詩の朗読もあります。


日時:11月23日(土)、11月30日(日)

    午前10時〜午後12時30分  


場所:新栃木駅集合〜とちぎ蔵の街美術館解散


   新栃木駅〜平柳町〜日の出町界隈〜万町(近竜寺界隈)
〜旭町・倭町(第二公園・東銀座界隈)
〜室町界隈〜巴波川橋〜幸来橋〜旧栃木図書館跡
〜とちぎ蔵の街美術館

定員:20名

参加費無料

申込み、お問い合わせは栃木市文化課(0282-20-1089)まで。

※各イベントには公共交通機関をご利用ください。


 ☆詩の朗読担当はりんごの会
   私は、昨年に引き続いて、新栃木駅での朗読の後、ご一緒に歩かせていただきます