栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
CATEGORY:太平山に伝わる話

2009/05/09 9:21:47|太平山に伝わる話
あじさい坂の不思議な洞窟
 
  あじさい坂の窟神社

 太平山のあじさい坂を登っていく時、右手の奥まったところに、窟神社がある。

 この神社の中に、小さな洞窟があるのだが、この窟は出流山まで続いていると伝えられている。

 なんとも不思議な窟。奥に向って大声で叫んだら、出流山まで届くのだろうか・・・

 水脈がつながっているとだけ伝えたかったのだろうか。小さな、弁天様に聞いてみたが、知らぬ素振りで琵琶をひいておられた。

 あじさいの季節にはまだ間があるが、随身門まで新緑で目を楽しませながら歩いてみた。






2007/06/29 23:01:00|太平山に伝わる話
あじさい坂(太平山)に伝わる話 綾川石 その2

太平山の随神門を少し上がったところの、石段の右側に、綾川石と呼ばれる大石がある。このいわれには、もう一つの話が伝わっている。
 
栃木の薗部村に綾川五郎次という男がいた。江戸へ出て相撲取りになったが、なかなか芽がでなかった。けれども、五郎次はあきらめず、故郷の太平山に、強くなれるようにと願をかけた。二十一日間の丑の刻参りをするので、毎晩午前二時には、太平山神社の社殿の前に着くように家を出た。木々が鬱蒼と茂り、星さえ見えない真っ暗闇の中、石段を上がっていくのだ。満願の夜、いつものように石段を上がっていくと、ビューッという唸りを立てて、ゴロゴロと落ちてくるものがある。見ると大岩だ。五郎次は大きく目を見開き死を忘れて受け止めたところ、見事受け止めることができたのだ。その岩を仁王門を少し上がった右側に取りのけて置いた。この時五郎次は、捨身懸命と言うことを悟った。太平山が、五郎次に心を授けたのだという。
そのまま登って社殿の前に着くと、その夜も持ってきた麻を上げて祈願し、大岩を受け止められたお礼もした。そして、毎晩神前に上げていた二十一枚の麻をいただいてひとにぎりとし、右手と左手で持ち、満身の力をこめて前後にねじると、刃物で切ったように切り口正しく二つに切れ、力を授かった。その後、綾川五郎次は第二代日下開山横綱になることができたという。


綾川五郎次の墓は、栃木市の常願寺にある。この墓石を粉にして飲むと強くなるというので、相撲取りが参拝に来て削って行くので窪みができているという。






2007/06/22 21:26:45|太平山に伝わる話
あじさい坂(太平山)に伝わる話 綾川石

あじさいまつりでにぎわう、あじさい坂を上り、随神門をくぐってすぐの右手に、綾川石といわれる大石がある。この石のいわれは・・・
 
 むかし、薗部村(栃木市)に、綾川五郎次という男がいた。生まれつき体が大きく、大変な力持ちで、村の相撲で、五郎次にかなうものは誰もいなかった。
 
 五郎次は、いつしか力をつけて江戸に出て、本物の相撲取りになりたいと思うようになった。そこで、日頃から信心していた、太平山大権現に、丑の刻参りして、「どうか、おらに、大力を授けてくだせえ」と祈っていた。木々が生い茂って、月明かりも見えない、真っ暗闇の石段を、下から上へとかけ上がっては、願をかけていた。
 
 ある夜のこと、いつものように、石段をかけ上がり、随神門をくぐって本殿へ行こうとした時、一人の女が、赤ん坊を抱いて立っていた。女は、五郎次に、「もし、私が、権現様にお参りしている間、どうか、この子をだいていてください」と、頼んだ。五郎次は、こんな真夜中によほどのことだろうと、赤ん坊をあずかった。
 
 しばらく抱いていたが、女は戻って来なかった。そのうちに、抱いている赤ん坊の体が、だんだん大きくなり、重くなってくるではないか。力自慢の五郎次の腕もしびれてきた。(なんだべ。この赤ん坊、おかしいぞ。だけんど、落としたら死んじまう)そう思った五郎次は、汗を流して、うんうん、うなりながら我慢して赤ん坊を抱いていた。しらじらと夜が明けて、よく見れば、赤ん坊は大きな石に変わっていた。五郎次はこの時、大力をさずかったのだ。
 
 この後、江戸に出た五郎次は、立派な相撲取りになり、綾川関と名乗り、日下開山二代目横綱(ひのしたかいざんにだいめよこづな)となったという。



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2007/06/14 20:27:24|太平山に伝わる話
大中寺の七不思議 根無し藤 後編
 
 生い茂った草の中に、青頭巾をかぶった和尚が、影のように座って、あの句をとなえていました。
 
 禅師は、「何の所為ぞ」っと一喝して、持っていた杖をその頭の上にふりおろしました。すると、今まで見えた姿はぱっと消えうせ、後には、青頭巾と、白骨が草葉の上に落ちとどまるだけでした。
 
 長い間の執念がこの一喝にあって消えつくしてしまったのでしょう。和尚は、骨となっても修行を続けていたのです。禅師は、和尚をていねいに葬り、回向をすると、墓の上に墓標として自分の杖をさしました。
 
 ところが不思議なことに、根がないこの杖から若芽が吹き出して、みるみる藤の木となり、花を咲かせたのでした。里人は、この藤を誰言うとなく「根無し藤」と呼ぶようになりました。 
 
 今でも、大中寺の本堂裏手の墓地には、この藤の木が初夏ともなると美しい花をつけています。
 
 
  リクエストありがとうございました。これで大平町の大中寺に伝わる七不思議の話が完結しました。
 






2007/06/14 20:04:33|太平山に伝わる話
大中寺の七不思議 根無し藤 前編
 むかし、大中寺の和尚さんが、越後の国に修行に出かけ、帰りに十二、三歳くらいのかわいい男の子を連れてきました。和尚さまは、この子をそれはそれはかわいがるうち、寺の仕事もなおざりになっていきました。ところが、ある時、この子が重い病にかかりました。和尚さまは立派な医者を呼んだりして、手厚く看病しましたが、男の子は死んでしまいました。和尚さまは、嘆き悲しみ、とうとう気がふれてしまったとみえ、その子が生きていた時と同じようにそのなきがらとたわむれていました。そのうちに肉が腐っていくのをおしんで、それを吸い、骨をしゃぶり、とうとうなきがらを食いつくしてしまったのです。 それからというもの、和尚様は、毎晩毎晩、里に下りてきて、人に襲いかかったり、墓を掘り起こして、生々しい死骸を引き出して食べるようになりました。だれも、この和尚を止めることができず、里人は日が暮れるとすぐに戸を固く閉ざすしかなすすべがありませんでした。
 
そんな時、快庵禅師という徳の高いお坊様が、この里を通りかかりました。禅師は、この話を聞いた禅師は、この鬼となった和尚のたましいを救ってやろうと、大中寺に泊まりました。夜中になると鬼となった和尚が、禅師を食ってやろうと寺の中をかけまわりました。ところが鬼坊主には禅師の姿は見えません。「おのれ、どこへ行った。食ってやる」と言いながら、禅師の前を何度も走りすぎ、いらだってあばれ狂いましたが、ついに疲れてばったりと倒れてしまいました。夜が明けると、鬼となっていた和尚は、はっと目覚めると、禅師に「私を、このあさましい罪業から、救ってください」と頼みました。禅師は、和尚を山中の平らな石の上に座らせ、自分のかぶっていた青頭巾の頭にのせると、「江月照松風吹 永夜清宵何所為(こうげつてらし、しょうふうふく、えいやせいしょう、なんのしょうぞ)」という二句を教え、「この句の意味が分かるまで、この文句をとなえて修行しなさい」と言いました。そして、陸奥の国へと旅立ていかれました。一年の後、禅師がまたこの大中寺を訪れました。すすきや萩が生い茂り、それを踏み分けて行くと、寺は荒れ放題で、廊下は朽ち果て、苔むしています。ようやく、和尚を座らせた平石の近くまで来た時、今にも消え入りそうなか細い声が聞こえました。耳を澄ますとそれは「江月照松風吹 永夜清宵何所為」と、となえる声です。






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