宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
CATEGORY:風の言葉(賢治の世界への小さな旅です。)

鳥の声――賢治とW.H.ハドソン――
 三三六 春谷暁臥  一九二五、五、一一、(「春と修羅第二集」)
 
  酪塩のにほひが帽子いっぱいで
  温く小さな暗室をつくり
  谷のかしらの雪をかぶった円錐のなごり
  水のやうに枯草をわたる風の流れと
  まっしろにゆれる朝の烈しい日光から
  薄い睡酸を護ってゐる
    ……その雪山の裾かけて
      播き散らされた銅粉と
      あかるく亘る禁慾の天……
  佐一が向ふに中学生の制服で
  たぶんはしゃっぽも顔へかぶせ
  灌木藪をすかして射す
  キネオラマ的ひかりのなかに
  夜通しあるいたつかれのため
  情操青く透明らしい
    ……コバルトガラスのかけらやこな!
      あちこちどしゃどしゃ抛げ散らされた
      安山岩の塊と
      あをあを燃える山の岩塩……
  ゆふべ凍った斜子の月を
  茄子焼山からこゝらへかけて
  夜通しぶうぶう鳴らした鳥が
  いま一ぴきも翔けてゐず
  しづまりかへってゐるところは
  やっぱり餌をとるのでなくて
  石竹いろの動因だった
    ……佐一もおほかたそれらしかった
      育牛部から山地へ抜けて
      放牧柵を越えたとき
      水銀いろのひかりのなかで
      杖や窪地や水晶や
      いろいろ春の象徴を
      ぼつりぼつりと拾ってゐた……
        (蕩児高橋亨一が
         しばし無雲の天に往き
         数の綵女とうち笑みて
         ふたたび地上にかへりしに
         この世のをみなみな怪しく
         そのかみ帯びしプラチナと
         ひるの夢とを組みなせし
         鎖もわれにはなにかせんとぞ嘆きける)
      羯(ぎや)阿(あ)迦(ぎあ)居る居る鳥が立派に居るぞ
      羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
      羯阿迦 鳥とは青い紐である
      羯阿迦 二十八ポイント五!
      羯阿迦 二十七!
      羯阿迦 二十七!
  はじめの方が声もたしかにみじかいのに
  二十八ポイント五とはどういふわけだ
  帽子をなげて眼をひらけ
  もう二里半だ
  つめたい風がながれる
 
 『新校本全集』年譜によると、このとき賢治は29才、この前日、盛岡に18才の森佐一(注1)を誘って、岩手山に向かいます。まず、小岩井駅まで列車で行き、小岩井農場、姥屋敷(地名)を抜けて夜通し歩き、岩手山神社柳沢社務所で仮眠を取りました。翌朝、高原と谷間を歩いき、焼走り溶岩流、大更を経て、列車で好摩に向かいました。
 この詩に前後して、三三五「つめたい風はそらで吹き」一九二五、五、一〇、三三七「国立公園候補地に関する意見」 一九二五、五、一一、が作られています。
 この詩では、早朝の岩手山麓を、眠気に包まれながら、水のようにつめたくさわやかに流れる風の中、太陽光を浴びています。
 夜間、ずっと飛び続けていた鳥がいなくなったのに気づき、夜の行動が、「石竹いろの動因」――繁殖活動――だったと思い当たります。石竹いろ」は賢治の作品では、性を象徴するものです。その後、若い佐一もまたその衝動に揺れていたことを温かく思いやっています。そんな二人を包むものは、またたくさんの鳥です。鳥の鳴き声は「羯阿迦」を6行書き連ねることで表します。
 
    羯(ぎや)阿(あ)迦(ぎあ) 居る居る鳥が立派に居るぞ
    羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
    羯阿迦 鳥とは青い紐である
    羯阿迦 二十八ポイント五!
    羯阿迦 二十七!
    羯阿迦 二十七!
 
 「羯阿迦」には「ぎやあぎあ」と振仮名が付けられているほか、下書稿㈢では「Gyagya」とローマ字表記となっているので、鳥の声を表そうとしているのは確かです。
 漢字表記は、仏教用語を思わせます。管見した限りですが、仏教で心を一つに集中して散乱がない状態を「定(じょう)」といいます。定は、もともと古代インドの宗教的実践として行われてきたものを仏教にも採用したもので、境地の深まりに応じて様々な名称の定が説かれ、異名が存在します。慧沼((648~714)『『成唯識論了義灯』巻五(大正蔵巻43)には定の異名が七つ挙げられていて、その中の「質多翳迦阿羯羅多」(心一境性)、にこの文字が見えます。賢治がこの教えを知っていたことは推測できますが、この詩の中では、心にあったこの文字、その音を鳥の声のオノマトペに当てたのだと思います。
 もう一つ、「鳥とは青い紐である」は何をさすのでしょうか。 この時、一緒だった森佐一の次の記述はこの時の情景を明らかにしています。
 
笹やいろいろのつる草、若い白樺や、はんの木が、谷間いっぱいに生え、うぐいすが、そっちこっちで鳴いていた。ひとつの谷間に入ろうとしたときだった。ギャーギャーと、突然鳴いて、飛んだ鳥があった。尾の長い大きい鳥である。宮沢さんは、突然、
 ≪トリトハ アオイヒモ デアル≫
と、リンリンとした声を出した。そして手帳に何か書いている。
 光が冷めたい水の層のように気圏の底にみち、鳥の声は、青い長いヒモをなびかせたように流れるのであった。ああそのひもの多いことヒモヒモではありませんか。青い真田紐のよう紐、鳥の声は、ヒモのように波打って空を流れるものではありませんか……。≫ (『宮沢賢治の肖像』 津軽書房 1974 p.276)
 
 確かにその時飛んだ鳥は、尾が長く、季節や声からしてオナガを思わせます。でも賢治が表そうとしたものは、鳥の声という聴覚から、 ≪ヒモでありませんか。青い真田ヒモのようなヒモ、鳥の声は、ヒモのように波打って空を流れるものではありませんか……≫という視覚表現にしているのです。
 また森氏は同書のなかで、賢治が、蜂の方言名「すがる」の「る」は、弧を描いてスーと飛び去っていく感じを表すと話していたことも証言していますし、童話「十力の金剛石」では、ハチスズメが弧を描いて飛ぶ様子を〈ルルルルルルル〉と鳴る青い輪となるとも表現しています。あちこちあを白く説あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕(「春と修羅 第二集」)には、次のような表現があります。

 
そらでは春の爆鳴銀が
甘ったるいアルカリイオンを放散し
鷺やいろいろな鳥の紐が
ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく

 
 このような、耳から聞いた音を目で見たように感じ、また目で見た情景に音を感じる――共感覚――は、賢治の多くの作品に見られ、表現を豊かなものにしています。
 
 W.H.ハドソン(注2)『鳥たちをめぐる冒険』(黒田晶子訳、講談社 1977)、178ページ 第十七章「ハリエニシダムシクイ、またはハリエニシダの小妖精」で同じ感覚を見つけました。
 ハドソンはハリエニシダムシクイ(注3)を求めてイギリス南部の荒野を歩いています。声を求めて3日目に、ハリエニシダ(注4)の繁みのなかに、たくさんのツガイを見つけ、囀りを充分に聞くことができました。メレディスという人物がヒバリの声を「銀の鎖――/無数の音の環の切れ目なくつらなった」と言ったことを引き合いに出して、ハリエニシダムシクイの声を次のように記しています。
 
「一つのふしが非常に速く繰返されるので、一連の囀りは鎖と言うよりはむしろしっかり編まれたひものように思える。さらに比喩を許してもらうなら、それは黒か灰色の地に、輝かしい色を編み込んだ一本のひもである。ひもの両端からは、銀、金、深紅のいとがのぞいている。黒っぽい糸は低いなじるような、うなるような声、はなやかな色の糸は明るくて甲高い繊細な声である。
 
 と細かな連想を繰り広げます。さらに個性的な鳥たちの囀りを言葉では表しきれず、イメージを伝えることの難しさを記しています。
 
 賢治が、空の広さや青さや風をバックにして音からの連想を広げていたのとは、少し違うかも知れませんが、鳥類学者でもあるハドソンが、このような美しい連想を繫げていくことを初めて知りました。ハドソンの作品に惹かれるのは、このような、対象への鋭い観察と豊かな感覚のせいなのかも知れません。
 
 一方、浜垣誠司氏は、スペインの写真家シャビ・ボウの作品を紹介しています(注5)。鳥の飛行を撮影した連続写真を1枚に合成することで、空間上にその美しい軌跡を定着するもので、これが賢治の言う「鳥の紐」の具現ではないかとされました。
 また鳥のサイト「e-Bird」では、鳥の声の声紋も知ることができます。これは科学的に証明される音の視覚化です。
 賢治の共感覚的表現はそれとは少し違って、賢治の感覚を通して表現された世界です。私には共感覚はありませんが、すべての対象に向かうときの感覚を大切にして、いろいろなことを感じ取れればよいと思います。
 
注1:森佐一(1907~1988)、ペンネーム、森荘已池。
 盛岡市生まれ、旧制盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中、『盛岡中学校校友会誌』に北小路幻や青木凶次、畑幻人など様々なペンネームで詩や短歌を投稿し編集にも携った。
 1925年2月に、詩誌『貌』の発刊を計画、賢治に詩の寄稿と同人費の依頼をしてきたことで、親交を結ぶようになる。『貌』は7月に発刊された。賢治はその年発刊した草野心平の『銅鑼』の同人に森を推薦し、森の詩は第8号から掲載される。
 賢治の死後は、1939年から『宮澤賢治全集』(十字屋書店版)の編集に携る。様々な賢治に関する証言を集め、「宮沢賢治氏聴書き」ノートに詳細に書き記し、筑摩書房版『宮沢賢治全集』月報に11回連載、『宮沢賢治の肖像』(1974 津軽書房)にまとめた。
 他に、1940年に、小説集 『店頭(みせさき)』が芥川賞候補となり、1944年には『蛾と笹船』『山畠』で第18回直木賞を受賞、1994年、第4回宮沢賢治賞を受賞。

注2:William Henry Hudson,(1841~1922)作家、ナチュラリスト、鳥類学者。
 アルゼンチンで生まれ少年時代を過ごした後、イギリスに渡る。その後、アルゼンチンやイギリスの鳥類などに関する優れた著作を残した。『ラ・プラタの博物学者』、『はるかな国 とおい昔』、小説『緑の館』など。 

注3:ハドソンは「オナガムシクイのことである。」と記している。イギリス南部からフランス、スペイン、モロッコ、チュニジアにかけて分布、声は細く囀りは美しく、ハリエニシダの中を好んで営巣することからハドソンが愛して命名したとも推定される。
 オナガムシクイは英名:Dartford Warbler 。del Hoyo ほか『(2006)Handbook of the Birds of the World vol.11』によれば、スズメ目 ヒタキ科 ズグロムシクイ属。全長:12.5cm  体重:6.8-10.5g。
 科名、属名は変更が多く、『日本鳥類目録第7版』(2012)の記述から類推して、ズグロムシクイ科に変更されていると思われる。

注4:マメ科の常緑低木。 南西ヨーロッパ原産で,乾燥した砂地や荒れ地によく生える。日本には明治の初期に渡来し,観賞用として庭園樹や生垣に用いられる。幹は高さ 0.5~1.5mでよく分枝し多数のとげがある。春から初夏にかけて葉腋にエニシダに似た花を数個つける。
 
注5:HP「宮沢賢治の詩の世界」2018年1月7日)
 
参考文献
中村元『佛教語大辞典』縮刷版 東京書籍 1981
岩本裕『日本佛教語辞典』 平凡社 1988
渡部芳紀編『宮沢賢治大辞典』勉誠出版 2007
インターネット百科事典Wikipedia
 
テキストは『新校本宮澤賢治全集』による。

 
 






「いてふの実」一、旅立ちの風の吹き方
   そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼き  
   をかけた鋼
です。
 そして星が一杯です。けれども東の空はもう優しい桔梗の花びらのやうにあやしい底光りをはじめました。
 その明け方の空の下、ひるの鳥でも行かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行きました。
 実にその微かな音が丘の上の一本いてふの木に聞える位澄み切った明け方です。いてふの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。今日こそはたしかに旅立ちの日でした。みんなも前からさう思ってゐましたし、昨日の夕方やって来た二羽の烏もさう云ひました。
 
 「いてふの実」は、子供)(イチョウの実)の自立と母親(イチョウの木)との別れを描く物語です。
 「ひるの鳥でも行かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行きました。」は秋の終りを象徴する言葉です。子供たちは、その音で今日が旅立ちの日であることを知ります。お母さんも、「それをあんまり悲しんで扇形の黄金の髪の毛を昨日までにみんな落してしま」っています。子供たちは、母の元にいたい気持ちや先の不安を抑えて、水筒に水を詰めたりして準備しています。
 そして北風や鳥が空に連れて行ってくれると信じています。子供の一人は空で「黄金色のお星さま」になることを夢見ます。
 もう一人は、杏の王様のお城に行って化物を退治することを想像します。そのやり方は化物を欺して体の中に入って暴れて病気にさせる、というもので、日本昔話の「一寸法師」を思わせます。
 さらに王女様を助け結婚したら、他の兄弟にも領土を分けてあげ、母親には「毎日お菓子やなにかたくさんあげる」と言う夢は、民話によくある出世譚です。これらは、昔話のパターンを、賢治が「子供のために童話を作る」といことを意識して取りいれているのだと思います。
 出発間近、靴が小さくなってしまう子供や、コートが見つからなくなってしまう子もいますが、補い合い助け合って旅立つことが語られ、あるべき兄弟姉妹の姿が書き込まれています。ここにも、「子供のためのお話」を作ろうとした意図があったのではないかと思います。
 人の心の弱さや滑稽さなどを、どきりとするくらいの真実感で描く初期童話―「蜘蛛となめくじとたぬき」、「よだかの星」、「貝の火」などもあるなかで、特殊と言ってもよいのかも知れません。
 また「おきなぐさ」では、季節は夏の始まりと冬の始まり、空に舞い上がるオキナグサと地上に落ちるイチョウと、背景は違いながら同じように種子の旅立ちを描きますが、種子は風に乗って舞い、魂が天に昇り変光星となります。あくまで自然の摂理の中の大きな風景の一つとして創作されていると思います。
 童話「おきなぐさ」裏表紙に「虹とめくらぶだう」、「ぼとしぎ」、「ひのきとひなげし」、「せきれい」、「まなづるとダアリヤ」、「いてふの実」、「やまなし」、「畑のへり」、「黄いろのトマト」、「蟻ときのこ」と列記したあとに「花鳥童話集」というメモがあり、童話集としてまとめたいという意図があったとみられます。同じような列記が、「ひのきとひなげし」〔初期形〕表紙余白に、「童話的構図」というメモと共に残され、そこにも「いてふの実」は入っています。
 童話集『注文の多い料理店』の作品は作品の意図や童話としての構成を練り上げた作品群です。「花鳥童話集」は計画された段階という違いはあり、それだけの成熟はありませんが、自然の成り立ちの中で繰り広げられるものたちの営みが美しく描かれています。
 そのなかで「いてふの実」が、なかにおとぎ話の匂いや道徳的なお話しを盛り込んでいるのは異質とも思えます。賢治がイチョウの実に見たのは、普通の子供たちだったのかも知れません。
 
東の空が白く燃え、ユラリユラリと揺れはじめました。おっかさんの木はまるで死んだやうになってじっと立ってゐます。
 突然光の束が黄金の矢のやうに一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあがる位輝やきました。
 北から氷のやうに冷たい透きとほった風がゴーッと吹いて来ました。
「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」子供らはみんな一度に雨のやうに枝から飛び下りました。
 北風が笑って、
「今年もこれでまずさよならさよならって云ふわけだ。」と云ひながらつめたいガラスのマントをひらめかして向ふへ行ってしまひました。
 お日様は燃える宝石のやうに東の空にかかり、あらんかぎりのかゞやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりなさいました。
 
 旅立ちの時―子供たちは〈突然光の束が黄金の矢のやうに一度に飛んで来〉た太陽光に〈まるで飛びあがる位輝やき〉、〈氷のやうに冷たい透きとほった風〉に乗って旅立ちます。太陽は〈燃える宝石のやうに東の空にかかり、あらんかぎりのかゞやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げて〉くれます。
 輝きの表現が次々に重ねられ、新しい命の誕生を祝福しているようです。実際はイチョウの実は地面に落ちてしまうことで再生するのですが、太陽と風と共に描くことで、大きな世界への輝かしい旅立ちを感じさせます。
 
 






音楽に乗って流れる風―〔弓のごとく〕
先日アップした同題の文で、採譜者について誤りがありましたので削除いたしました。訂正の上、新たに分かった事実を書き加え、改めてアップいたします。
 
弓のごとく
鳥のごとく
昧爽(まだき)の風の中より
家に帰り来たれり     (「文語詩未定稿」)
 
 
  賢治は晩年、自分の生涯を振り返るように文語詩の制作を始めます。
 まず、表紙に賢治自筆で「文語詩篇」と記された「文語詩篇ノート」と呼ばれるものがあり、1909(明治42)年の「四月盛岡中学に入る」から始まり、年譜のようにメモが記されます。最後に記述された年月日が昭和5年で、このころから文語詩の制作が始められたと推定されます。
 制作した文語詩には、まず、死の1か月前の自筆清書稿が二集あります。その一つ「文語詩稿五十篇」表紙には
 
本稿集むる所、想は定まりて表現未だ足らざれども現在は現在の推敲を持って定稿となす。昭和八年八月十五日 宮澤賢治
 
他の「文語詩稿一百篇」表紙には、
 
「文語詩稿一百篇」 昭和八年八月廿二日、本稿想は定まりて表現未だ足らず。
唯推敲の現状を以てその時々の定稿となす。
 
の表記があり、賢治の文語詩への思いを感じ取ることが出来ます。
 それ以外に、全集編集者が「文語詩未定稿」と名づけたものが102篇あります。
 文語詩として制作された作品のほか、それまでに制作した短歌、詩を推敲、表現をそぎ落として、文語詩化したものもあります。
 
 〔弓のごとく〕は、短唱「冬のスケッチ」第一五葉の第一章から文語詩として独立したものです。この詩の下書稿(二)の裏面には
 
7121|17,7121(7)|76,1232|21……
 
という、不可思議な数字がありました。 これは不完全な西洋音楽の数字譜を思わせます。
 
 賢治が最初に西洋音楽のレコードを聴いたのは、1918(大正7)年ごろ、従弟の岩田豊蔵所蔵のモーツアルト作曲「フィガロの結婚」などで、ヴェルディ作曲「アイーダ」は特に気に入っていたそうです。その後、花巻農学校の教諭となった1922(大正11)年春ころから、給料のほとんどを洋楽のレコードの蒐集に当て、当時の花巻一のレコードコレクターとなりました。隣接する花巻高等女学校の教諭、藤原嘉藤治と音楽を通じて友人関係を結び、周囲の音楽ファン、生徒たちを集めて、レコードを聴く集いが始まります。次第に岩手軽便鉄道駅上のレストラン精養軒支店や、親しかった花巻共立病院でも開かれるようになりました。そこでは賢治の視覚的解説と藤原の技法上の説明が噛み合って興味を沸き立たせたといいます。お互いのレコードを持ち寄っての交換会もありました(注1)。
 賢治は自作の詩に曲をつけ、また自作の詩を既成の曲に合わせて、教え子や身近な人達と歌っていました。残された賢治の自筆楽譜は「耕母黄昏」、〔弓のごとく〕「“IHATOV” FARMERS’SONG」のみですが、弟清六氏を始めとする周辺の人達の記憶により採譜され、27曲が残っています。
 
 〔弓のごとく〕の下書稿(二)の裏面にあった数字は、ベートーヴェンの第六交響曲「田園」の第二楽章(Andante molto mosso、変ロ長調、8分の12拍子)の主題で、総譜(スコア)から転じた数字譜が不完全ながら記されていました。時期は不明ですが、総譜が示されていたことで、変ロ長調の曲、「田園」第二楽章の主題であることが判明しました。 
 
 賢治のレコードコレクションは、レコード交換会の「レコード交換規定」用紙の記載のものや、遺品から知ることが出来、ベートーヴェン作曲、交響曲第六番「田園」もそこに含まれています。
 「田園」はベートーヴェンによって、標題が付けられた唯一の交響曲で、初演時のヴァイオリンのパート譜に、ベートーヴェンの自筆の「シンフォニア・パストレッラ (Sinfonia pastorella) あるいは田舎での生活の思い出。絵画描写というよりも感情の表出」という表記があります。これはベートーヴェン主義的作曲理念から音楽のより高い次元の描写語法をめざしたことを表すといわれます。
 さらに楽章ごとに標題がつけられ、第二楽章は、「Szene am Bach(小川のほとりの情景)」 と名づけられています。ソナタ形式で、弦楽器が小川のせせらぎのような音型を表し、展開部では第一主題を転調しながら木管楽器が美しく響きます。またヴァイオリンのトリルで小鳥の囀りを表し、さらにフルートがナイチンゲール、オーボエがウズラ、クラリネットがカッコウの声を表して鳴き交わすことで終結します。愛する自然がそのまま飛びこんでくるような楽曲に、賢治は魅了されたのではないでしょうか。
 
 この数字譜について、資料の出版年順に記すと、まず『校本宮澤賢治全集 第六巻』校異篇(1976 筑摩書房)、992~994ページ には以下の記載があります。
 
「外種山ヶ原の歌(注2)」、「弓のごとく」、「私は五連隊の古参の軍層」三曲の復元については御園生京子氏のご教示、ご協力を仰いだ。また原曲の調査においては、井上司朗氏(一高寮歌集編集委員会)、海堀昶氏(三高歌集編集委員会)、原恵氏(日本基督教団)、岩田健夫氏(日本聖公会)、いのちのことば社出版部、音楽の友社、東亜音楽社、ビクター音楽産業株式会社、ブリティッシュカウンシル等(順不同)からご教示を得た。
 
『新校本宮澤賢治全集 第六巻』本文篇、370~371ページ(1996 筑摩書房)には、前述『校本宮澤賢治全集第六巻』の譜例を参照して佐藤泰平氏が歌詞付けしたものが載りました。同書 校異篇 239~240ページには佐藤氏の解説があります。
 
さらに『新校本宮澤賢治全集 第十三巻』(下)校異篇 雑メモ4 115~116ページ (筑摩書房 1997、11)には、「田園」の原譜と共に、この数字が、「田園」第二楽章の冒頭の数字化の試みであることが記され、「五十嵐毅氏のご教示による」という記述があります。
 
 中村節也先生は、賢治が採譜した方法について、当時オーケストラ曲のレコードを買うと、ミニチュア版の総譜が付いてきたので、それを見て数字譜に書き直したと推定しています。二楽章の総譜のページが変わったところから、段違いに写し取ったミスがあり、その段は木管楽器が移調楽器であることを知らずに書いてしまい、メロディーの不自然さに気づいて中断してしまった、と推定されています。
 歌詞があまりにも短すぎて歌曲として構成するには無理がある、といわれていましたが、中村先生は賢治の深い思いをくみ取るべきと、編曲に踏み切られました。
 まず、原曲のヴァイオリンのテーマを採用し、メロディーに歌詞をはめ込む方法については、『宮澤賢治全集第十二巻』 (筑摩書房 1967) 「歌曲」の章を参照なさったそうです。
 そして、〔弓のごとく〕の楽譜は、中村節也編・曲『宮沢賢治歌曲全集 イーハトーヴ歌曲集2』 (マザーアース 2010)で、3分40分の楽曲として掲載されました。
 さらに宮沢賢治記念館を訪れた福井敬さんが楽譜に目を留められ、初めてレコーディングの運びとなりました。(注3)。
 曲の流れるようなメロディーに乗って、朝の空気の中を移動する詩人の澄明な心、風の流れが伝わってきます。賢治がどんなに自然を、そして風を愛していたか、敬愛していたベートーヴェンの曲をつけていることでもわかります。 
 短い歌唱部分を補うピアノによる繊細な旋律が第二楽章をカバーし、原曲の鳥の声もピアノで表現されます。多用されるトリル、ピッチカート、スタッカートが表すのは、朝日のきらめきかも知れませんし、風による快い空気の揺らぎかも知れません。賢治が愛した自然―朝の空気、風の流れを感じさせる、きめ細かな編曲で、4分24秒の歌曲に仕上がっています。
 賢治の言葉の世界と音楽とが見事に一致しています。何よりも、風の中の賢治を感じ取れました。このように視覚(風景)と聴覚(音楽)を行き来する感覚が、賢治作品を一層深く魅力あるものにするのだと思います。また福井敬氏の歌唱からは、賢治の音楽の基本となっているものはクラシック音楽なのだということが感じられます。
 
 この文語詩の下書稿となった「冬のスケッチ」は、賢治が短歌制作から詩作に移る前段階の作品で、制作年は1922(大正12)年以前と推定されます。 
 文語詩に改稿したのは昭和5年以降のことです。表現はほとんど変わっていませんが、文語詩化に際して、賢治は「冬のスケッチ」制作当時の情景を思い起こしていたと思います。その情景に、この曲を組み合わせようと思ったのは、きっと原曲のなかに、自分の心の中の映像を見たのではないでしょうか。音と言葉の意味とが見事に合致したのです。賢治が、音楽に視覚的解説を加えた、という年表の記述を裏付けると思います。この記述の事実関係をもう少し調べてみたいと思います。そして音と言葉の表すものの関係を、もっと具体的に掴めたらと思います。
 
 このCDに出会い、久しぶりで賢治の歌曲を聴き、新たな発見に出会ったのは幸運でした。
 中村節也先生は、作曲のお仕事の傍ら、永く賢治の音楽の採譜や作品のなかの音楽性について考察を重ねられ、鋭いご指摘は文学や語学を勉強する私にとっても最高の指針となりました。
 このCDは、賢治歌曲の集大成としてだけでなく、先生の賢治に対する深いご理解と愛情の結晶なのだと思います。そして賢治の言葉と音楽の深い結びつきを教えてくれました。
 
注1:堀尾青史『宮澤賢治年譜』148~149ページ(筑摩書房 
   1991、2)
注2:「牧場地方の春の歌」の逐次形のひとつで、幾つかの差異を除い  
   てほとんど同形である。
注3:CD 福井敬『宮澤賢治歌曲全集 イーハトーヴ歌曲集』 
   中村節也編曲 (KING INTERNATIONAL 2022、3)
 
※「“IHATOV” FARMERS’SONG」のIにはウムラウトが付 
  く。
※「田園」についての記述は「フリー百科事典wikipedia」に拠る。
※テキストは『新校本宮澤賢治全集第七巻』 1996、10 に拠
 る。

 
 
 
 
 






「図案下書」―足元の小さなものたちに吹く風―
   三五〇  図案下書 一九二五、六、八、
 
高原の上から地平線まで
あをあをとそらはぬぐはれ
ごりごり黒い樹の骨傘は
そこいっぱいに
藍燈と瓔珞を吊る
 
   Ich bin der Juni, der Jüngste.
 
小さな億千のアネモネの旌は
野原いちめん
つやつやひかって風に流れ
葡萄酒いろのつりがねは
かすかにりんりんふるえてゐる
 
漆づくりの熊蟻どもは
黒いポールをかざしたり
キチンの斧を鳴らしたり
せわしく夏の演習をやる
 
白い二疋の磁製の鳥が
ごくぎこちなく飛んできて
いきなり宙にならんで停り
がちんと嘴をぶっつけて
またべつべつに飛んで行く
 
ひとすじつめたい南の風が
なにかあやしいかほりを運び
その高原の雲のかげ
青いベールの向ふでは
もうつゝどりもうぐひすも
ごろごろごろごろ鳴いてゐる
 
 年表などには、この詩の背景となる事実は見つかりませんでした。
 ただ5月中には、5月7日に、生徒を連れて小岩井農場を訪れ、三三三「遠足統率」一九二五、五、七、が書かれます。つつどり、ウグイスが詠みこまれ、「ウグイスの折れ線グラフ」という語が登場します。
 5月10日、11日、森佐一と共に小岩井農場から岩手山に登り、一泊します。同じ日付を持つ詩に、三三五〔つめたい風はそらで吹き〕一九二五、五、一〇、三三六「春谷暁臥」一九二五、五、一一」、三三七「国立公園候補地に関する意見」一九二五、五,一一があります。
 〔つめたい風はそらで吹き〕では、「くらかけ山の凄まじい谷の下で」、「そんな木立のはるかなはてでは/ガラスの鳥も軋ってゐる」という同じ背景を感じさせる表現があります。
 この詩は、これらの体験を色濃く受け継いでいるのではないかと思います。種山ヶ原のような、標高の高い場所ではなく、高原から地平線までが見通せる場所で、発想されたと思われます。
 5月中の詩としては、三四〇〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕一九二五、五、二五、三四五〔Largoや青い雲かげやながれ〕一九二五、五、三一、がありますが、平地における風の動きがたくさん見られます。のちに考察したいと思います。
 
 賢治は作品を何度も推敲することで知られています。賢治にとっては、より自分の心象に近い表現を求め、またより完成した作品にするためのもので、定稿を「是」としていたとは思うのですが、詩の背景を考えるため、賢治の思いを壊さない程度に、下書稿に当たってみたいと思います。詩に書き添えられた日時は詩の発想の時と考えられています。賢治が詩を推敲するとき、日時を変えることはありませんので、あくまで発想の時の思いを正確に記そうとする行為であると考え、解釈の助けにすることは出来ると思います。
 下書稿一ではタイトルは「蟻」で、「……おれのいまのやすみのあひだに/ Chitin の硬い棒を頭でふりまはしたり/ 口器の斧を鳴らしたりおれの古びた春着のひだや/しゃっぽにのぼった漆づくりの昆虫ども/ 山地のひなたの熊蟻どもはみなおりろ…」と、休憩中に体を這い上る蟻に閉口しいている姿のみ描かれます。
 下書稿二では「このおにぐるみの木の下に座ると/ そらは一つの巨きな孔雀石の椀で/ごりごり黒い骨傘には/たくさんの藍燈と瓔珞が吊られる……」と、蟻の記述はなくなり、登場する木がオニグルミであることが書き加えられ、作者が木の下に座って枝を見上げていることが分かります。
 下書稿三では、「……漆づくりの熊蟻が/黒いポールをかざしたり/ キチンの斧を鳴らしたり/せわしくそこをゆききする……」と風景の一部として蟻が描かれ、熊蟻だったことも記されます。
 定稿では「蟻が演習をする」という表現が加わります。

 定稿を最初から辿ってみます。
 オニグルミが赤い雌花と黄緑の雄花を咲かせています。オニグルミは雌雄同株で、5~6月ころ、15cm~20cmの黄緑の雄花の上に、花穂が直立した雌花が10個ほど上向きに赤い花を付けます。
 瓔珞は、菩薩や密教の仏の装身具で首飾りや胸飾り、仏壇や仏堂の荘厳具です。垂れ下がる雄花の様子を例えています。
 「藍燈」は、管見した限り、この詩以外での使用例や訳語がみつかりませんでしたが、漢字の読み「らんとう」を、灯りの「ランタン」に置き換えた賢治の造語ではないかと思います。ランタンは炎や電球部分をガラスなどで囲って保護して持ち運んだりできるにしたもので提灯も含まれます。こちらは上向きの雌花のたとえです。
 熊蟻はクロオオアリの別名、光沢の少ない黒色で、女王蟻は17㎜と大きく、交尾期の5月~6月に羽蟻となって飛び立ちます。詩中には、羽蟻の記述はありませんが、交尾期の動きの活発な様を描いたのでしょうか。
 突然現れるドイツ語は何を表すのでしょう。Juniは6月、Jüngsteはjung(若い)の最上級です。賢治は時として表現上の技法のように外国語表記を使い、音のみに意味を持たせたり、文字の形を表現に使ったりします。この場合は、「6月」という季節と、自分の若さを感じ高揚する気分を表しているのかも知れません。
 「アネモネ」は、ここではオキナグサを差します。賢治が盛岡高等農林学校で学んだころのオキナグサの学名がAnemone cernua(のち、1940年に牧野富太郎によりPursatilla cernuaとなる。)であったことによります。(注1)。オキナグサを主題にした童話「おきなぐさ」では、オキナグサを「アネモネの従兄」としています。
 オキナグサは4月から5月ころ開花し、5月の終りころ花が終わると白くつややかな無数の冠毛をつけ、翁の髭のようなその様がオキナグサの名前の由来となっています。「アネモネの旌(はた)は/野原いちめん/つやつやひかって風に流れ」は、冠毛が風によって飛ばされる様を表して見事です。
 「葡萄酒いろのつりがね」はツリガネニンジンではないでしょうか。花は15㎜~20㎜の釣り鐘型花を円錐形の花序に下向きに数個つけます。ただ花期は8月とされるので、その点に疑問が残ります。
 釣り鐘型の花としてホタルブクロがあります。花は4~5センチで、3、4個つきます。花期は6~8月ですが、この花は大きく梵鐘に似たかたちで、「貝の火」で、「カンカンカンカエコカンコカンコカーン」という見事なオノマトペで表現されます。この作品では、「リンリン」と鳴ると表現されるので、ホタルブクロには相応しくありません。やはりツリガネニンジンだと思います。
 「白い二疋の磁製の鳥」は何でしょうか。この詩以外にも、「磁製」という語は3例あり、鳥を表すもの一例、雪の形容1例、人の内面の形容1例です。
「黒い地平の遠くでは/磁製の鳥も鳴いてゐる 」(〔はつれて軋る手袋と〕一九二五、四、二(春と修羅第二集))では鳥の形容ですが鳴き声も含まれています。
 「野原はまだらな磁製の雪と/温んで滑べる夜見来川」(「一〇一四春」一九二七、三、二三、(春と修羅第三集)では雪の形容です。
 「この県道のたそがれに/ あゝ心象(イメーヂ)の高清は/しづかなな磁製の感じにかはる(〔高原の空線もなだらに暗く〕 「口語詩稿」)では人物の心の形容です。
 本質的には白磁の静謐さを感じているのだと思いますが、ここでは、鳥の空に映える白さを表すものかと思います。 
 では、この鳥は何でしょうか。日本野鳥の会の高松健比古さんに教えていただきました。以下抄録させていただきます。
 
 空中で停まっていること、嘴をぶつけ合ったことは下書稿すべて共通です。これは二羽の鳥が雌雄のつがいが、空中に停飛して求愛給餌 またはそれに近い行為をした、と考えられます。嘴をぶつけ合う、というのは、雄が雌に餌をプレゼントする、その行為か、或いは、すでに営巣・育雛中のつがいが、雄が運んできた 餌(魚や小型哺乳類、鳥類、両生爬虫類など)を雌に空中で渡す、受け渡しの場面、ということも考えられます。いずれにせよ、「何か餌(のようなもの)を片方の鳥から別な鳥に 空中で渡した」ということではないでしょうか。 
 仮にそうだとすれば、サギ類は、そのような行動はしません。考えられる鳥としては、コアジサシやタカ類・ハヤブサ類ですが、「白い鳥」とするとコアジサシが最も近いでしょうか。ただ、この場所が水辺ではなく、小岩井の近くの高原とすると、開けた環境だとしてもコアジサシコアジサシは、あてはまらないかもしれません。(営巣している水辺が近くにあった可能性はありますが)。また、コアジサシの飛び方を考えると、「ぎごちなく飛んできて」というのも、あてはまらないかもしれませんが、つがいの鳥たちが接近した時は、通常の飛び方ではなかった可能性があります。
 なお餌の空中受け渡しの場合、タカ類は多分足を使うと思うので、嘴をふれあうということはないかもしれません。
 また、この詩の鳥の動作が、攻撃など敵対行動と考えられるか、というと、それもありません。嘴は翼とともに、鳥にとって最も大事なものであり、それをぶつけ合う などということは直接生命が危険になり、あり得ないからです。
 また仮に「嘴をぶつける」ことはなく、ごく接近して二羽が並んで飛ぶ、と考えると、シギ・チドリ類(コチドリ、イカルチドリ、イソシギ、ケリなど)も考えられます。この場合、ケリは水辺から離れた草地や畑で繁殖するので、可能性があります。(「風林」と同時に 書かれた「白い鳥」のモデル候補はケリではないか、と考えています)。「ぎごちない」飛び方も、ケリならそう見えるかもしれません。
 いろいろ謎はありますが、この鳥たちの行動は、つがいの絆を強める動作であったことはほぼ確実です。もしかすると、賢治が注目したのはその動きで、実際には鳥は白くなかったこともありうるかもしれません。
 
 賢治の目には、一瞬、「磁製」と映った鳥の生命力が眩しかったのかも知れません。 
 こんどは、眼は雲の彼方を見ます。「青いベール」は山脈でしょうか。ツツドリの声は「ポポ、ポポ」、ウグイスも「ホーホケキョ」という特徴的な鳴き声で知られているものですが、それを「ごろごろごろごろ」と表すのはなぜでしょうか。もう鳴き声を取り立てていうこともないほど、続けざまに溢れるように鳴いていることを表すのかも知れません。のちにまた述べます。
  
 風の描写は、2例あります。
 
……
小さな億千のアネモネの旌は
野原いちめん
つやつやひかって風に流れ
葡萄酒いろのつりがねは
かすかにりんりんふるえてゐる
……
 
 ここでは風に乗って野原に舞う、無数のオキナグサの冠毛を描きます。「風に流れ」としたことで、足元の小さな風景が、燦めく大きな風景となり、繋がる命までを感じることができます。
 
……
ひとすじつめたい南の風が
なにかあやしいかほりを運び
その高原の雲のかげ
青いベールの向ふでは
もうつゝどりもうぐひすも
ごろごろごろごろ鳴いてゐる
 
 ここでは、一瞬流れてくる風の形容です。それは冷たさと同時に、何か胸を突かれるものだったのでしょう。風に「あやしいかほり」を感じ取る、共感覚的な表現ですが、香りに加えて、鳥たちの声が、いつも聞くものと違う、包み込まれるような反響するようなものになったと感じさせるものだったのかもしれません。
 

 風はいつでも、賢治の周囲を包み、一つ一つの風景を、特別なものに仕上げているようにも感じられます。いろいろな作品から、また読み解いていきたいと思います。

 
注1:三浦修・米地文夫 「宮沢賢治の作品にみられる植物と植物園  総合的学習を目的とした大学植物園の活用について」 (『岩手大学教育学部研究年報第59巻第2号』 1991、12   
131ページ~144ページ )
 






「若い木霊」―風と光と春のときめきⅡ―賢治は何処でトキに遭ったか―
 「若い木霊」では、作者のトキへの想いが深く関わり、印象的な表現となっています。
 「若い木霊―風と光と春のときめき」でも記したように、トキは、1892(明治25)年、既に保護鳥となりました。
 1900(明治33)年、岩手県宮古地方で1羽捕獲されたトキが標本として国立科学博物館に保存されていますが、賢治が花巻付近で日常的に生きているトキを見る可能性は少ないそうです(注1)。
 
 もう一つ、賢治がトキと接する可能性は、岩手大学農業教育資料館に収蔵されているトキの剥製標本です。
 先に書いた「若い木霊―風と光と春のときめき」では、賢治が、岩手大学農業教育資料館所蔵のトキ剥製標本に遭遇していたか不明としました。剥製標本の存在、展示が何時ころからだったか不明でした。
 その後、岩手大学に在籍、大学の野鳥の会でも活動していた知人から、1968年当時、保管庫のようなところにしまわれていた鳥類の剥製を発見し、整理して学内で展示したということを聞きました。初めてトキの標本に遭遇した時の感激も話してくれました。トキの標本は古くからあったというのは確かで、興味が湧き、調べてみました。
 
 岩手大学農業教育資料館のホームページの、「農業教育資料館展示案内」から、「農学部標本群の作製年代とその判定要素」を見ると
 
トキ 
標本№3
購入推定年月日大正4年 
作成者株式会社島津製作所(B) 
436赤縁ラベル 
大典シール無し
 
の記載がありました。
 さらに「農学部標本目録(旧盛岡高等農林学校動物標本)」(「岩手大学農学部附属農業教育資料館標本(鳥類等)について」畑中ままな 2000年9月)の記載は次の通りでした。
 
トキ
採集年月不明
採集地不明
嘴峰長177.8mm,フ蹠長102.7mm,翼長411.0mm,尾長148.8mm,繁殖羽(夏羽),
制作推定島津製作所(B)
特徴的な朱鷺色が羽に確認されないが、おそらく本標本は繁殖羽(夏羽)と思われる。
 
 さらに農業教育資料館で詳しい事情をお教えいただきました。要約します。
1、大正4年、島津製とあるのは、大正4年には多数の鳥剥製を購入したという記録があり、台座が大正4年、島津製のものとほぼ同じであることに拠る。
2、物品記号436(赤縁ラベル)については、物品記号は購入すると、消耗品以外の物品には通し番号が記入され登録される。赤縁ラベルは貴重品だと思われる。
3、「大典シール」は、大正天皇即位のお祝いが大正4年10月にあり、その祝行事(大典)にちなんで出した製品に、このシールが着いていたが、このトキの場合、台座はこの年のものと同じだが、大典シールは付いていなかった。
 
 宮沢賢治は、大正4年に入学し、7年に卒業、研究生としてさらに2年在学し、大正9年に修了している。大正4年購入とすれば、十分見ていたと思われる。
 野鳥というのは、農学や林学分野でとても重要で、農薬が無かった戦前では、とても大事にされた。野鳥との共存が森林の維持や農作物の健全育成に重要で、鳥の剥製はとても重要な教材だった。戦後、農薬が使われる時代になり、森林や田畑の環境が破壊されたが、現在ではまた、環境の大事さが見直され、生物共生の考え方が広まってきた。この精神は正に賢治の世界と一致するものである。
 最近では、鳥については写真や映像ファイルがあるので、剥製を教材としては必要としないが、かつては重要な教材だった。
 
 トキの剥製標本は、現資料館の建物とともに、その後いろいろな変遷を辿ったようです。まず、この資料館の変遷は次の通りです。
 
1912(大正元)年、盛岡高等農林学校本館として竣工。
1949(昭和24)年~1974(昭和49)年、岩手大学本部として使用。
1974(昭和49)年~1978(昭和53)年まで、文化俱楽部等の利用。
1978(昭和53)年から資料館として運用されるようになる。
1989(昭和64)年 資料館の整備が行われ農学部動物昆虫標本室で保管されていた剥製標本はこちらに移されて展示され始める。
 
 資料館から送っていただいた新聞記事によると、新潟県佐渡トキ保護センターでトキの雛が誕生したころの『岩手日報』、1999(平成11)年5月27日には、「盛岡でもトキ見られます」の見出しで、このトキの剥製について取り上げられています。トキが広く一般にも知られるようになったのです。
 
 もうひとつ、大正6年、賢治が、高等農林学校3年の時に発行した、同人誌『アザリア』第一号(大正6年7月1日発行)掲載の『「旅人のはなし」から』には
 
(諸国を歩いている旅人が)盛岡高等農林学校に来ましたならば、まづ標本室と農場実習とを観せてから植物園で苺でも御馳走しやうではありませんか。
 
と、「来訪者に見せたいもの」として「標本室と農場実習と植物園と苺」をあげています。
 「植物園」については、拙稿「『ポラーノの広場』の競馬場」(注2)を書いた折り調べ、賢治にとって大切なものであったことを知りました。
 さらに、『同窓生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治 120年のタイムスリップ』(注3)には、大正元年の「標本陳列所」の写真とともに、農学・林学・獣医学の様々な標本を展示している、第一教舎と第二教舎の間にある62坪の平屋の建物だった記述されています。
 賢治がいかに標本を大事に思っていたか分かり、トキの標本も目にしていたことの証明になると思います。
 
「若い木霊」におけるトキの描写は次のようなものです。 
 この太陽の光を浴びて、「桃色にひらめ」く「はねうら」を、賢治はどうやって描くことが出来たのでしょう。剥製は夏羽でトキ色の羽色は出ていません。
 初めてトキの剥製を見たときの感動そのままに、いろいろな文献を調べ、トキの羽裏の色を知ったのでしょうか。そして太陽の下に飛ぶ姿を思い浮かべたのでしょうか。 この思いは、賢治の桃色への思いと繋がって、胸の高鳴りの表現に使われ、さらに滅びの鳥への概念へと発展したのでしょうか。
 まだまだ謎は解ききれませんが、賢治が抱く、光の中に輝くものへの憧憬は、強く感じることが出来ます。
 
注1:赤田秀子・杉浦嘉雄・中谷俊雄『賢治鳥類学』(1998年 新曜  
    社)271ページ
注2:小林俊子「ポラーノの広場」の競馬場(『宮沢賢治 絶唱 かなしみと
   さびしさ』 2011年 勉誠出版) 240ページ
注3:若尾紀夫編・著『同窓生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治 
   120年のタイムスリップ』 (2021年7月 岩手大学農学部北水
   会) 234ページ

※引用文のルビは省略しました。
 






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