宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
CATEGORY:風の言葉(賢治の世界への小さな旅です。)

外山紀行における風の特性―なぜ外山の風は香り、そして見えたか。
一、外山詩群の背景
 賢治は、1924年4月19日から20日にかけ、盛岡から徒歩で外山に向かい外山詩群を残した。外山詩群で『新校本宮沢賢治全集』に定稿として取り上げた作品は

 
六九 〔どろの木の下から〕 一九二四、四、一九、(下書稿(二)手入れ)
一七一〔いま来た角に〕一九二四、四、一九(下書稿(四)手入れ
七三 有明 一九二四、四、二〇 (下書稿(三))
七四〔東の空ははやくも蜜の色に燃え〕 一九二四、四、二十、(下書稿(二)手入れ)
七五 北上山地の春 一九二四、四、二〇、(下書稿(三)手入れ

以上「春と修羅第二集」
 
である。
そこからの発展作品として
〔どろの木の根もとで〕(下書稿手入れ)
〔あけがたになり〕(定稿手入れ)
種馬検査日(下書稿手入れ)
以上「春と修羅 第二集補遺」
牧馬地方の春の歌(下書稿)(「補遺詩篇 I 」)

 
がある。
 ここでは、上記五作品の背景を追う。発展形において表現上のかかわりがあるものについてはその後に言及する。
 賢治はトシの死の悲しみから立ち上がり、まだ農村の凶作にも遭っていない、健康にも恵まれた、明るい時代であったといえる。花巻農学校教師という安定した職業を持ち、のちに「その四ケ年がわたくしにどんなに楽しかったか/わたくしは毎日を/鳥のやうに教室でうたってくらした/誓って云ふが/わたくしはこの仕事で/疲れをおぼえたことはない」(「詩ノート付録」「生徒諸君に寄せる」)と述べた期間である。
 4月20日付で第一詩集心象スケッチ『春と修羅』が刊行される予定で、その成否はとにかく、達成感もいっぱいであったろう。 
 様々に繰り出される、「風」は飛躍に満ちている。以前、一つ一つの形容などを取り出して視覚、聴覚との関わりなどを考えてみたが(注1)、この時代になぜ、様々な形容の風が賢治に現れたか考えてみたい。
 まず一作ずつ読み、それが賢治にとっていかなる時を形作るのか、考えてみる。
 
 賢治は4月20日に藪塚の種馬検査所(現外山種畜場)で開かれる、「種馬検査」を見学するために出かけた。種馬検査は優秀な種馬は高く買い上げられるため、周辺の馬産農家にとって誉れの場所である『岩手縣種畜場 自大正十三年一月至る同年十二月 業務功程報告』には
 
第六 種付 一牝馬検査ノ状況 イ牝馬検査場及期日」
「岩手縣外山種畜場  四月二十日 岩手郡 薮川村、玉山村、米内村

 
の項目があり、賢治の詩の場面を裏付ける。
 この情報は『岩手日報』大正十三年三月七日」や『岩手毎日』三月八日」に載っていることで賢治は情報を得て、農学校の教師としてあるいは研究者としてこの時この場を訪ねたのであろう(注2)。
 さらに、外山御料牧場は獣医科の実習地だった関係で、たびたび訪れ、すでに強い印象を持ち、1915(大正4年)短歌A,B231,232を残している。
 1902年からあった滝沢村にあった岩手県種畜場が、1922(大正11)に外山御料牧場が県に移管されたのを機に1923年からここに移転する。
 種畜場は品種改良のセンターで、賢治は、その現場を学ぶため、滝沢村当時から続けて頻繁に通っていた。ここで行われる種馬検査で飼馬が優良馬の子孫を残す資格を得れば農家は将来を保証される、希望の象徴の場である(注3)。
 賢治のたどったのは、盛岡から外山を経て太平洋岸の小本へ向かう旧小本街道で、沢沿いの山道を、大堂→下小浜→上小浜さらに外山―一の渡―南―外山―大の平―葉水―蛇塚とたどっている。
 『盛岡測候所 大正十三年気象月報原簿』の記述には
 
大正13年4月19日
19日快晴 夜の11時ころから曇
19日夜は満月
19日快晴夜11時ころから曇り午前3時4時、晴れ、曇り、月は見えかくれする。
20日午前3時晴 午前4時曇晴 7時以降晴
 
があり、賢治は月明かりの中、林の中を歩いていたことが証明できる。
 
〔どろの木の下から〕
                   一九二四、四、一九、
 
どろの木の下から
いきなり水をけたてゝ
月光のなかへはねあがったので
狐かと思ったら
例の原始の水きねだった
横に小さな小屋もある
粟か何かを搗くのだらう
水はたうたうと落ち
ぼそぼそ青い火を噴いて
きねはだんだん下りてゐる
水を落してまたはねあがる
きねといふより一つの舟だ
舟といふより一つのさじだ
ぼろぼろ青くまたやってゐる
どこかで鈴が鳴ってゐる
丘も峠もひっそりとして
そこらの草は
ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち
ひるなら羊歯のやはらかな芽や
桜草も咲いてゐたらう
みちの左の栗の林で囲まれた
蒼鉛いろの影の中に
鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる
鈴は睡った馬の胸に吊され
呼吸につれてふるえるのだ
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしく睡ってゐる
わたくしもまたねむりたい
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色だ
向ふの丘の影の方でも啼いてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴る

 
 六九〔どろの木の下から〕一九二四、四、一九、では、作者は林の中を歩く。思いがけず、民家の跡地に残された、水力で穀物を搗くための古い「水きね」があり、一定のリズムを刻む。昼間には見られたサクラソウを想像しそこで眠ることを願う。
 いろいろ想像しているうち、眠気に襲われる。近くの曲り屋では馬が飼われていて、胸の鈴の音などが聞こえる。馬も眠っているらしい。
盛岡を見渡せる場所に着く。はるか彼方に渓流もあるようだ。「風」は渓流に例えられ、「風のやうに」途切れず、さらさらと鳴っている。
 下書稿二で最後に次の3行を加えるがまた削除している
 
盛岡の方でかすかに犬が啼いている
わたくしはそこに急いで帰って行って
誰かひとりのやさしい人とねむりたい

 
 ここに消された感情は、秘めた思いか、あるいは賢治その場を設定しようとして作った場面か、不明だが、それがのちに続く表現につながっていくものかどうかを観察していこう。
 
 ここでは、渓流はなぜ「風にやうに」鳴ると捉えられるのか。林の中は風の吹き抜ける場所ではなく、賢治はじっと風を待ちながら、渓流の音に風を聞いたのであろうか。のちに考察しよう。
 
 〔一七一〕
     〔いま来た角に〕
                   一九二四、四、一九、
 
 
いま来た角に
二本の白楊が立ってゐる
雄花の紐をひっそり垂れて
青い氷雲にうかんでゐる
そのくらがりの遠くの町で
床屋の鏡がたゞ青ざめて静まるころ
芝居の小屋が塵を沈めて落ちつくころ
帽子の影がさういふふうだ
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
がれ草が変にくらくて
水銀いろの小流れは
蒔絵のやうに走ってゐるし
そのいちいちの曲り目には
藪もぼんやりけむってゐる
一梃の銀の手斧が
水のなかだかまぶたのなかだか
ひどくひかってゆれてゐる
太吉がひるま
この小流れのどこかの角で
まゆみの藪を截ってゐて
帰りにこゝへ落したのだらう
なんでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
 
風……骨、青さ
どこかで鈴が鳴ってゐる
どれぐらゐいま睡ったらう
青い星がひとつきれいにすきとほって
雲はまるで蝋で鋳たやうになってゐるし
落葉はみんな落した鳥の尾羽に見え
おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるへる
 
 同日〔一七一〕〔いま来た角に〕 一九二四、四、一九、が発想される。新校本全集には、下書稿(四)手入れを定稿として選んでいる。そこに至るまでの推敲を見てみると、眠さの中、様々な情景が浮かんでいたことが分かる。
 下書稿一「水源手記」にはコサック兵の行進の連想が入る。これは迫ってくる眠気を兵隊の規則正しいリズムに置き換えたものである。またここに来るまでに、同僚たちや校長のいる教員室を抜け出した経緯が述べられる。下書稿二、三では細かな推敲がなされるが、下書稿四では、学校の記述は校長と、白藤教諭と、島地大等の連想が入り、コサック兵の行進の幻想が削られる。
 手入れ稿ではそれに関する連想を削る。賢治は遠い夜の盛岡の街並みを見て、「床屋の鏡」と「芝居小屋」を連想する。これが定稿となる。
 
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
 
 「シャープ鉛筆」はないが。すでにシャープペンシルは徳川家康の時代に輸入され、日本でも1877年、三菱 小池で製造され1915年年早川から繰り出し式鉛筆として発売された。 
 一方、月印鉛筆は1908年ドイツ、ステッドラー社の鉛筆が岩井商店から輸入されている。(注ジャパンアーカイブス1850~2100) 1914年には真崎市川鉛筆で製造された「ウイング(羽車印)」も「月星印」である。当時、鉛筆は大切なもの、貴重なもので、童話「みじかい木ペン」、「風の又三郎」では、一本しか鉛筆を持たない子とそれを奪おうとする級友の話が描かれる。
 賢治がいつも鉛筆を携えて湧き上がる詩情をノートに書き留めていたことはよく知られている。ふと自身を振り返り携帯している鉛筆を眺め、周囲の風を確認したのであろうか。夜の林の中、風は香りから連想するもののようだ。
 さらに小川には斧が落ちていて、連想は友達につながり、さらに風景は
 
んでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
 
と少し屈折した風景と風を感じている。さらに眠さは極限にきて
     
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
 
風……骨、青さ、

 
 眠さの中で生まれるのは、「ういきゃう」の香り、そして「骨」「、青さ」と連想は広がっていく。
 目覚めた後で、さらにその感激に「どろのきの葉のやうに」震えている。
 
 七三
     有明
                   一九二四、四、二〇、 
 
あけがたになり
風のモナドがひしめき
東もけむりだしたので
月は崇厳なパンの木の実にかはり
その香気もまたよく凍らされて
はなやかに錫いろのそらにかゝれば
白い横雲の上には
ほろびた古い山彙の像が
ねづみいろしてねむたくうかび
ふたたび老いた北上川は
それみづからの青くかすんだ野原のなかで
支流を納めてわづかにひかり
そこにゆふべの盛岡が
アークライトの点綴や
また町なみの氷燈の列
ふく郁としてねむってゐる
滅びる最后の極楽鳥が
尾羽をひろげて息づくやうに
かうかうとしてねむってゐる
それこそここらの林や森や
野原の草をつぎつぎに食べ
代りに砂糖や木綿を出した
やさしい化性の鳥であるが
   しかも変らぬ一つの愛を
   わたしはそこに誓はうとする
やぶうぐひすがしきりになき
のこりの雪があえかにひかる
 

 
 「七三 有明 一九二四、四、二〇、」では、翌朝20日の目覚めから書き出される。
定稿となっているのは下書稿三の手入れ稿で、細かい表現の推敲はあるが大きな変更はないと思う。風の表現として、画期的なのは詩冒頭の
 
あけがたになり
風のモナドがひしめき
 
である。目覚めたときの空気の稠密さを表した語と思う。「モナド=分子」論は、仏教の立場 第からも論じられていて(注4)、賢治はこの意味を持って使ったのかもしれない。のちに詳考する。
 加えて、明け方の光を失った月は「崇厳なパンの木の実にかはり/その香気もまたよく凍らされて/はなやかに錫いろのそらにかゝれば」と香りとともに一種厳かな雰囲気を持つ。
 少し高みから風景を見下ろす賢治は、そこに「滅びる最後の極楽鳥」を見る。それは「それこそここらの林や森や/野原の草をつぎつぎに食べ/代りに砂糖や木綿を出した/やさしい化性の鳥であるが」という思いである。  
 賢治の、風景から感じる盛岡への思いなのだが、何を表すのだろう。賢治は感動して一つの愛を誓う。下書稿二の余白に断片的に「死にいたるで私は/あなたを愛します」の書き込み、また〔どろの木の下から〕下書稿二で、削除された「しづかにあすこでねむるひと」などから、一人の人への恋愛感情ともとれる(注2)。だがそれはすでに賢治の中では否定された感情である(注5)。
 これ以上は推測になるのだが、一つの新しい感情が生まれていた、とも見られるし、一つの風景の彩として加えたのかもしれない。
賢治の心は、静かにウグイスの声と残雪の控えめな白さに辿り着く。
 
 七四
     〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕
                   一九二四、四、二〇、
 
 
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え
丘はかれ草もまだらの雪も
あえかにうかびはじめまして
おぼろにつめたいあなたのよるは
もうこの山地のどの谷からも去らうとします
ひとばんわたくしがふりかヘりふりかヘり来れば
巻雲のなかやあるひはけぶる青ぞらを
しづかにわたってゐらせられ
また四更ともおぼしいころは
やゝにみだれた中ぞらの
二つの雲の炭素棒のあひだに
古びた黄金の弧光のやうに
ふしぎな御座を示されました
まことにあなたを仰ぐひとりひとりに
全くことなったかんがへをあたへ
まことにあなたのまどかな御座は
つめたい火口の数を示し
あなたの御座の運行は
公式にしたがってたがはぬを知って
しかもあなたが一つのかんばしい意志であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます
あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど
そこらが明るくなればなるほど
あらたにあなたがお吐きになる
エステルの香は雲にみちます
おゝ天子
あなたはいまにはかにくらくなられます

 
 七四 〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕 一九二四、四、二〇、は下書稿二の手入れ稿を定稿とする。
 下書稿一のタイトルは「普光天子」である。普光天子は法華経における三光天子の一つ、金星を神格化したものである。法華経『序品』には、
 「爾その時に釈提桓因、其その眷属二万の天子と倶なり。復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り。其の眷属万の天子と倶なり」があり、日天・月天・明星天の三天を仏法守護の神として説き、日天(太陽)・月天(月)・明星天(星)の三つをいい、天とは「神」を意味する。
 下書稿一では、「お月さま」という呼びかけではじまり一夜共に過ごした月の運行が意志をもって人に働きかけることへの賛歌を歌う。
 
二つの雲の炭素棒のあひだに
黄色な古風な孤高のやうに
熟しておかゝりあそばした
むかしの普光天子さま
……
 
と、月に代って明け方の空を彩る金星に呼びかける。一行目には「陀羅尼」や「西域風」という言葉で月を形容していたがそれはここで削除される。
 定稿は下書稿二の手入れ稿で、細かい表現の違いが加わる。
「そこらが明るくなればなるほど/あらたにあなたがお吐きになる/エステルの香は雲にみちます」と金星の光が朝の光に変わる瞬間をエステルの香りという香りの表現で表す。

 「普光天子」は「おお天子」に変わり、月か金星かの区別がつかない。ひたすら月や金星への想いが語られて、もっぱら賢治の眼は空を見ている。風の表現はない。
 エステルとは、酸とアルコールが脱水縮合してできる化合物の総称で。酢酸エチルCH3COOC2H5,油脂,蝋(ろう)などがある。加水分解すると酸とアルコールになる。一般に低分子のエステルは芳香をもつ液体で人工の果実エッセンスとして用いられる。(注百科事典マイペデイア 平凡社)賢治は、金星の光に果実の香りを感じている。
 
七五
     北上山地の春
                 一九二四、四、二〇、
   1
 
雪沓とジュートの脚絆
白樺は焔をあげて
熱く酸っぱい樹液を噴けば
こどもはとんびの歌をうたって
狸の毛皮を収穫する
打製石斧のかたちした
柱の列は煤でひかり
高くけはしい屋根裏には
いま朝餐の青いけむりがいっぱいで
大迦藍のドーム(穹窿)のやうに
一本の光の棒が射してゐる
そのなまめいた光象の底
つめたい春のうまやでは
かれ草や雪の反照
明るい丘の風を恋ひ
馬が蹄をごとごと鳴らす
 
   2
浅黄と紺の羅沙を着て
やなぎは蜜の花を噴き
鳥はながれる丘丘を
馬はあやしく急いでゐる
 息熱いアングロアラヴ
 光って華奢なサラーブレッド
風の透明な楔形文字は
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいぬがやや笹をゆすれば
 ふさふさ白い尾をひらめかす    重挽馬
 あるひは巨きなとかげのやうに
 日を航海するハックニー
馬はつぎつぎあらはれて
泥灰岩の稜を噛む
おぼろな雪融の流れをのぼり
孔雀の石のそらの下
にぎやかな光の市場
種馬検査所へつれられて行く
 
   3
かぐはしい南の風は
かげらふと青い雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の斑も燃える
黒い廐肥の籠をになって
黄や橙のかつぎによそひ
いちれつみんなはのぼってくる
 
みんなはかぐはしい丘のいたゞき近く
黄金のゴールを梢につけた
大きな栗の陰影に来て
その消え残りの銀の雪から
燃える頬やうなじをひやす
 
しかもわたくしは
このかゞやかな石竹いろの時候を
第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか

 
 七五「北上山地の春」は下書き稿三の手入れ稿を定稿とする。
4月20日朝、賢治は、外山の種畜場に着く。
 下書稿一ではタイトル「浮世絵」定稿では農家の中のいろり端から眺めた様子が語られ、検査日の朝の高揚した雰囲気を感じさせる。
 二では多種多様の馬や、晴れの日として家族総出で馬に付き添い、馬は「水いろや紺の羅紗を着せ」飾られるなど、状況を描く。この日集まる馬は「アングロアラブ、サラーブレッド、重挽馬、ハックニー」など多様である。
 風の表現は、「風の透明な楔形文字は/ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし」と晴れの日の背景として登場する。
 3では、風は南風「かげらふと青い雲滃」を載せて吹く。雲滃は上空の雲が地上に落とす影で、広く開けた高原でないとみられない。
 「かぐはしい丘のいたゞき近く/黄金のゴールを梢につけた/大きな栗の陰影に来て/その消え残りの雪から/燃える頬やうなじをひやす」人々の輝く姿に贈る言葉である。
 自己と風景とのつながりは、最終節に「しかもわたくしは/このかゞやかな石竹いろの時候を/第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか」がある。「石竹色」は多くのに作品で賢治の性的心情を表す(注6)。
関登久也(注7)によると
 
 ある朝館の役場の前の門で旅装の賢治に会いました。それは前の話より,よほど後のことですが、たぶん賢治三十歳前後のことだと思います。顔が紅潮していかにも溌剌とした面持ちでした。どちらへおいでになったとですか、ときくと岩手郡の外山牧場へ行ってきました。昨日の夕方出かけて行って、一晩中牧場を歩き、今帰ったところです。性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。そういって別れました。賢治が童貞を守るための行はなかなか容易ならざるものだと感じ、深い崇敬の念さえ湧いてきました。
 
があるが、これは、ある種若い男性同士が交わす、雑談のようなものではないか。確かに普通の人間として、そのような意味を持って一夜を歩いている部分もあるが、それがすべてであると考えると賢治の世界は狭いものになってしまうだろう。
 
 外山紀行で発想された5つの作品を、時系列に従って読んでみた。
そこには、あふれるような明るさとともに描かれる、周辺の空気、風景、言葉があり、他の時代にはない感覚である。
その中で描かれる風の表現は何を表すのか、次章で読み解こう。
 
注1 自著『宮沢賢治 風を織る言葉』
 2 池上雄三『宮沢賢治・心象スケッチを読む』 雄山閣1992
 3 自著『宮沢賢治 かなしみとさびしさ』245p~248p     
  「「ポラーノの広場」の競馬場」七「ポラーノの広場」の競馬場と  
  広場

 4 清沢満之『清沢満之全集 第五巻 西洋哲学史講義』 186p 
~200P 「Ⅲ 近世哲学 9ライプニッツ氏 」 岩波書店 
 2003
5 「小岩井農場パート九」(『春と修羅』)に、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする/ この傾向を性慾といふ」とある。
6 大塚常樹『心象の記号論』228ページ~233ページ) 「桃色 
 の花の記号論 二章 石竹の花―ピンクの記号論」)「小岩井農 
 場」、「春刻仰臥」など
7 『賢治隋問』角川書店 昭和45年 131ページ「賢治の横顔 
 禁欲」

 






「天の下」と「気圏の底」で吹く風  
「天の下」と「気圏の底」で (6月21日修正しました。)
 
 四〇
     烏
                   一九二四、四、六、
 
水いろの天の下
高原の雪の反射のなかを
風がすきとほって吹いてゐる
茶いろに黝んだからまつの列が
めいめいにみなうごいてゐる
烏が一羽菫外線に灼けながら
その一本の異状に延びた心にとまって
ずゐぶん古い水いろの夢をおもひださうとあせってゐる
風がどんどん通って行けば
木はたよりなくぐらぐらゆれて
烏は一つのボートのやうに
  ……烏もわざとゆすってゐる……
冬のかげらふの波に漂ふ
にもかかはらずあちこち雪の彫刻が
あんまりひっそりしすぎるのだ
 

 
 よく晴れた空のもと、高原の雪は輝いて美しく、そこから風は透き通って吹いてきます。
 まだ芽吹かないカラマツはゆっくりと動いています。
 その一本に留まったカラスは紫外線を浴び、「ずゐぶん古い水いろの夢をおもひださうとあせってゐ」ます。カラスからも、そんな古代を思い起こすような、平和な風景なのでしょう。

 
烏は一つのボートのやうに
  ……烏もわざとゆすってゐる……
 
 カラスは風の動きに乗って遊んでいるようです。以前、野鳥の会で聞いたお話では、実際にカラスは枝を振り回したりして遊ぶことがあるそうです。
亀田恭平「ネイチャーエンジニアいきものブログ」によると、カラスには遊ぶという感覚があり、「風に乗って遊ぶ」、「電線にぶら下がる」、「滑り台を滑る」など、生きるために必要とは言えない「遊び」のような行動を取ることがあるといいます。
 孵化してすぐに人間が育てたカラスは、すべて人間から学ばなくてはなりませんが、自然界で育つカラスは生きるに必要な知識―敵となるものはなにか―などは、本能的に知るものはなく、年長の、経験ある仲間から教わるといいます(注1)。
 また、 カラスの「遊びと学びの関連性」について、スウェーデンのルンド大学でのランバート教授の実験によると、道具を使って餌を取るという課題に当たって、事前に道具で遊ぶグループと遊ばないグループに分けて比較すると、事前に道具で遊んでいたグループの方が良い結果になったといいます。また「全ての鳥が同じようにおもちゃを道具として使えるのではなく、行動には個体差が大きい」ということも示されています。
 4月上旬のこの時期は繁殖期です。多くの若いカラスが自然界に踏み出しています。様々な遊びを通して、実はいろいろなことを学んでいたのかもしれません。
 
 いつも周囲の自然をじっくり見ていた賢治はそんなカラスの習性も繁殖期のこともしっていたと思います。そのようなカラスの行動も、風と光の中で、自由で軽く見えたのかもしれません。
 
 賢治が空を描くときしばしば「底」という言葉が使われますが、この詩では「底」ではなく「天の下」とされています。はるかな高原の雪の反射までが「まばゆく」、そのなかで風が吹いています。 
  次の詩は、この二日前の作品「二九 休息 一九二四、四、四、」です。
               
 
中空は晴れてうららかなのに
西嶺の雪の上ばかり
ぼんやり白く淀むのは
水晶球の滃りのやう
  ……さむくねむたいひるのやすみ……
そこには暗い乱積雲が
古い洞窟人類の
方向のないLibidoの像を
肖顔のやうにいくつか掲げ
そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
  ……さむくねむたい光のなかで
    古い戯曲の女主人公が
    ひとりさびしくまことをちかふ……
氷と藍との東橄欖山地から
つめたい風が吹いてきて
つぎからつぎと水路をわたり
またあかしやの棘ある枝や
すがれの禾草を鳴らしたり
三本立ったよもぎの茎で
ふしぎな曲線を描いたりする
     (eccolo qua!)(注2)
風を無数の光の点が浮き沈み
乱積雲の群像は
いまゆるやかに北へながれる
 
 
 同様に「底」という言葉はありません。山の雪と風とが交響して作り出す景色、風には無数の点が浮き沈み、モナドが見えるよう、そしてオペラの歌声(注)も聞こえるようです。
 なぜ、そこには「底」という意識はないのでしょうか。あるいは景色は「底」の描かれる作品に比べて、賢治の目線は高いのかもしれません。また賢治の心象は強く押し出されてはいなくて、大きな風景の中を自由に描き出している賢治を感じます。
 
 一方、「底」という意識は、「気圏の底」、「ひかりの底」「風の底」等、賢治が自分の存在を覆う宇宙を感じ取っていたのではないか、といつも感動する語です。詩作品では44例に上ります。
 初出は「冬のスケッチ」(推定1919年年以前起稿)の4例、最も多いのは『春と修羅』(1924年4月20日刊))14例、「春と修羅補遺」3例、「春と修羅第二集」(1924年~1925四年頃)12例、「東京」(推定1928年~1930年)2例、「春と修羅第三集」(1926年4月~1928年7月)、「詩ノート」(推定1926年~1927年)、「口語詩稿」、「装景手記」(推定1927年~1930年)「文語詩稿一百篇」(1933年)、それぞれ1例ずつと制作年代を追って次第に少なくなります。
 
 よく知られているのは「春と修羅」(『春と修羅』)です。
 
春と修羅
     (mental sketch modified)
 
心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
 れいらうの天の海には
 聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN春のいちれつ
    くろぐろと光素を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげらふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
      その枝はかなしくしげり
     すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
   ひらめいてとびたつからす
   (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSENしづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)
 
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずえまたひかり
ZYPRESSENいよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
 
 「四月の気層のひかりの底を」、「ああかがやきの四月の底を」、「まばゆい気圏の海のそこに」と3例の「底」があります。
 風は「聖玻璃」、「かげらふ」のまばゆい光の中で吹きますが、主体は「修羅」の心を抱いて地上を歩いています。光に満ちた四月の「気圏」、その一番下を、心に修羅を抱えて歩く人の姿が、「底」を歩く」と表現することで増幅されています。

 一九二四、一〇、二九、」(「春と修羅第二集」)では、寒さの近づくなか、の曇天の空の下を描きます。三二四  郊外「底」は春ばかりでなく、秋の、それも不作にあえぐ農民の生活をとらえた「青い槍の葉」(『春と修羅』)は田植え歌として賢治が作った詩です。「底」も 「気圏日本のひるまの底の/泥にならべる草の列」と少し概念的です。「コロイドの底」「ひかりの底」「かげとひかりの六月の底」とここでは作者の視線は現実に下に向いています。 「
   
 ……
鷹は鱗を片映えさせて
    まひるの雲の下底をよぎり
    ひとはちぎれた海藻を着て
    煮られた塩の魚をおもふ
……
 
 また、暗い心情の中の旅立ちを描く、「三三八 異途への出発 一九二五、一、五、」(「春と修羅第二集」)では、冷たい空の下の心境を記します。
 
……
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
   ……底びかりする水晶天の
     一ひら白い裂罅のあと……
雪が一さうまたたいて
そこらを海よりさびしくする
……
 
 「 四一〇  車中 一九二五、二、一五、」(「春と修羅第二集」)では、列車の中の空気にも感じています。
 
……
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
   ……風が水より稠密で
     水と氷は互に遷る
     稲沼原の二月ころ……
             ……
 「四一五〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕一九二五、二、一五、」(「春と修羅第二集」)では吹雪の中の店先のわびしさを描きます。
 
……
暮れちかい
吹雪の底の店さきに
萌黄いろしたきれいな頸を
すなほに伸ばして吊り下げられる
小さないちはの家鴨の子
   ……屠者はおもむろに呪し
     鮫の黒肉はわびしく凍る……
風の擦過の向ふでは
にせ巡礼の鈴の音
 
 「春と修羅第三集」、「詩ノート」、「口語詩稿」では、「底」の出現は、それぞれ一例と数が少なくなります。
 「七四〇  秋 一九二六、九、二三」では、凶作の兆しの中集まる農民を描いて、雲も、「荒んで」います。

 
江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる
 
東京での生活で生まれた「東京」では「底」を感じるのは光の中です。

 
「高架線」 一九二八、六、一〇、
かぼそきひるの触手はあがる
      温んでひかる無数のgasのそのひもは
      都会のひるの触手にて
      氷窒素のかゞやく圏にいたるべく
      あまりに弱くたゆたひぬ
  かゞやき青き氷窒素の層のかなたに!
  かゞやく青き氷窒素のかなたより
  天女の陥ちてきたりしに
  そのかげらふの底あたり
  鉄のやぐらの林あり
  そは天上の樹のごとく
  白く熟れたる碍子群あり
 
「光の渣」
コロイダールな風と夜
幾方里にわたる雲のほでりをふりかへり
須達童子は誤って一の悲願を起したために
その后ちゃうど二百生
新生代の第四紀中を
そのいらだゝしい光の渣の底にあてなく漂った
 
  文語詩「二月」(「文語詩一百篇」)では鳴り渡る電線の音を描きます。
 
みなかみにふとひらめくは、  月魄の尾根や過ぎけん。
 
橋の燈も顫ひ落ちよと、    まだき吹くみなみ風かな。
 
あゝ梵の聖衆を遠み、     たよりなく春は来らしを。
 
電線の喚びの底を、      うちどもり水はながるゝ。
 
 
 「電線」は、初期から描かれ、〔冬のスケッチ〕第一六葉、「ぬすびと」(一九二二、三、二)(『春と修羅』)にもみられ、すべて音として聴覚から捉えています。
 
 賢治が若い時代、詩への感興を呼び起こされたのは、広い空を駆け巡る光、風だったのではないでしょうか。その広さ、遠さの中に、自分を感じたときの言葉として、「底」は賢治の心に定着したのでしょう。年齢とともに、天空の広さを感じるよりも風景の中に自然以外の情景を読み込むことが多くなり、「底」も次第に減っていたのでしょうか。
 天空と風、その二つがあれば、それを感じられれば、私などはそれだけで十分楽しいと思うことがあります。詩を読みながら、若くない私も賢治の若い感性の中にひたり、しばし共有することができるのは幸いです。
  
注1 コンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪 動物行動学入門』
 82ページ  早川書房  2006

注2 eccolo qua!
 モーツアルト歌劇「ドン・ジョバンニ」第一幕第一五場の召使の言葉「ほら、旦那様がいらっしゃるぞ!」。
 歌劇での急展開する場面とこの語語感を記憶していた賢治は、急に吹き降ろしてきた風の音と情景の形容に使った。
 






「二十六夜」―フクロウたちの生き様、人社会の隣でー。
  旧暦の六月二十四日の晩でした。
   北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微  
  かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。
   獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれで 
  も林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一
  本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えていました。
   松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまっ
  ているようでした。
   そして林の底の萱の葉は夏の夜の雫をもうポトポト落して居りま  
  した。
   その松林のずうっとずうっと高い処で誰かゴホゴホ唱えていま 
  す……。(「二十六夜」)
 
 個人ブログ「宮沢賢治風の世界」2015、9,4、「「二十六夜」―かなしみ・読経・汽車の音・風」で風景を見てきました。ここでは賢治が人間の眼を通してみたフクロウについて考えて見たいと思います。
背景について復習すると
 このお話は旧暦の〈六月二十四日〉、〈二十五日〉、〈二十六日〉の三章から成っています。
 「獅子鼻」は、実在する場所で、花巻市桜の羅須地人協会跡から南方をながめて、北上川西岸から川に向かって張り出した高台です。
 フクロウたちが、獅子鼻の森に集まって、二十六夜の月待ちの行を行っているのを背景に、フクロウ、フクロウの僧侶、フクロウの子供たち、人間の子供たち、が繰り広げる、お話です。
 現存稿の執筆は大正12年(1923)と推定されます(注1)。
 〈旧暦六月二十四日〉は新暦で7月下旬から8月中旬で、月の出は午前零時頃です。
 
 フクロウの僧侶は、フクロウ界の経典「梟鵄守護章」で、食物連鎖のなかで繰返される残虐性を説き、そこから救われるため「離苦解脱」の教えを延々と説いています。
 その中で、フクロウの子供が人間の子供に捕まって傷を負います。周囲には深い悲しみが溢れますが、それに対するフクロウの僧侶の説法はひたすら同じ説法を繰り返し、「捨身菩薩」にすがることで救われよ、と述べることしかできません。
 金色の船のような二十六夜の細い月が登り、美しい紫色の煙のなかに「金色の立派な人が三人」現れ、フクロウの子供は迎えられるように、「かすかにわらったまゝ」死を迎え、ようやく救われます。  
 この描き方は、日蓮宗の宇宙観よりは、阿弥陀の西方浄土へまた迎えられることによって救われる、浄土教系統の発想に近く、「阿弥陀三尊来迎図」の図柄であると言われます。(注2)
 一方、この作品が成立したと推定される大正11年、12年ころには、賢治は日蓮宗系宗教団体国柱会に入会し、会誌『天業民報』に詩を発表するなど、熱心に活動していた時期です。国柱会では、念仏により極楽浄土を目指すことにより無間地獄に墜ちるとして強く批判しています。大島丈志(注3)は、書かれた時期を考え、法華経の観点から読むのならば、浄土教系の阿弥陀三尊来迎形式を用いながらも、月と浄土という法華経と関わりの深い事柄を使用し、修羅を超え現世に浄土を築くための方法を示す、法華経文学としての要素を押し出した作品であるとしています(注3)。  
 延々と続く説教、人間の慰みのために命を落としてしまう子供のフクロウ、取り巻く親たちの深い悲しみと、西方からのお迎えの有様、死して初めて救われる子供やその周囲には、仏教との深い関わりを無視することはできません。
 
 ここで見方を変えて生物の実体から考えてみます。
フクロウは食物連鎖の頂点にいて、弱肉強食の事実は変えることはできません。物語のなかの、フクロウの僧侶の説法が、「梟鵄諸々の悪禽が日々悪行をなし、死ねばまた梟に生まれ変わり、百生二百世乃劫も亙るまで梟身を免れぬという尽きることのない輪廻をくりかえすのみ、全く救いがない」(注4)と説くのは、この事実を述べているのではないでしょうか。
 賢治は科学者ですから、事実からは目をそらすことはできなかったのだと思います。そう捉えれば一つの仏教批判ともなっているかもしれません。
 同じように食物連鎖について述べられる「よだかの星」では、虫を食べて生きている自分がまた大きなタカに狙われていることに悩んだヨタカが、星や太陽に願いをかけながら、ついには星となってしまいます。
 フクロウはそのことには悩むことなく、星になることもできず、人間社会と隣り合って、人からの迫害に耐えながら、輪廻の世界を生きていかなくてはなりません。
 
 もう一つフクロウには、ここで描かれるような群れを作る習性がありません。賢治は、何らかの意図を持って、深い森の中にフクロウが群れている風景を設定したと思われます。
 ここにアイヌに文化における、「梟送り」を再現するための設定した、という説(注5)もあります。
 アイヌにとってフクロウは集落の神の化身としてあがめられます。「梟送り」はその行為の先の儀式で、偶然に捕らえたフクロウの子供を育て、梟送りの儀式において生け贄として天に送るというものです。フクロウを尊重する儀式のためですから、一つの命が失われることに心の痛みもありません物語で
 物語でフクロウの子供が死亡するのは、人の愚かな行動が原因です。フクロウたちは悲しみ、死の前から集まって人間に傷付けられた子供を見守っていました。そして死を迎えるのは月の船が現れて後のことで、子供の死を悼み、祈るフクロウたちには、「送り」という意識はなく、むしろ「弔い」と言えるのではないでしょうか。似ているとしたら形式のみで、賢治がそのことを書くために物語を設定した、とは言えないのではないでしょうか。
 
しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。
 
この物語の背景は、人間の社会の近くにある場所です。物語中、汽車の音は五回も書き込まれます。最初これに気づいたときは何か違和感がありました。管見ながら、賢治の描く動物社会は背景に人間が関わってくることはあまり無いと思います。たとえば「よだかの星」、「貝の火」等は、物語は動物の社会だけで完結しています。
 賢治がフクロウの世界を現実の人間社会の中の話として描いて、人間に捕まる子供のフクロウの死、そこからの救いを求めるフクロウ、救おうとしているフクロウの僧侶や宗教を描いたのには、どういう意図があったのか、今後も考えて見たいと思います。
 
注1:安藤恭子「「二十六夜」〈イノセンス〉に死す」 『国文学解釈 
   と鑑賞 61-11』 至文堂 一九九六年十一月
2:栗原敦「賢治の「月」」『賢治研究』34 宮沢賢治研究会、
  一九八三年
3:大島丈志「法華文学としての「二十六夜」考―梟の悪業に出口はあ 
  るのか―」 『文教大学国文』34(二〇〇五年)
4:天沢退二郎「「二十六夜」解説」 ちくま文庫『宮沢賢治全集5』  
  一九八六年
5:能村将之「「二十六夜」における梟の機能 ―アイヌ文化の「送
  り」との類似―」 『日本語と日本文学』 68 15-26 
  二〇二二年八月、

 
 
 
 






「銀河鉄道の夜」― 天上への道を吹く風
 「銀河鉄道の夜」の風の描写を追ってみると、そのほとんどが自然の風景の中のものでないことに気づきます。思えば、「銀河鉄道」は、実際の風景の中を走っているのではなく、カンパネルラの天上への旅の途中、賢治が想定する「中有(ちゅうう)」の世界なのです。
 中有は仏教用語で、人の死後次の生を受けるまでの霊魂の状態で、日本では死後49日間とし、死後49日目に法要が行われるのもその由縁によります(注1)。
 このことについては「「ひかりの素足」―死と向き合う風」、「「ひかりの素足」―死と向き合う風」追記 「中有」という時間、生きて還ること」でも記したので、ここでは、「銀河鉄道の夜」で描かれる風を追いながら風景を確認し、その後、別稿で「中有」について改めて考えて行こうと思います。
 
 描かれる季節は、登場する星座から、初夏から初秋にかけての物語と思います。
 時間や星座については、白鳥の停車場23時、鷲の停車場2時、ということから地球の一回転を24時間に分割し、経度によって定義されている各地の標準時に則り、星図と合わせて、停車場の位置を特定する試みが行われています。
 カンパネルラが乗車したときに貰った星座早見表とよく似ている地図や、ジョバンニが時計屋のショウウインドウで熱中した「星座絵図」は、一戸直蔵『趣味乃天文』(1921 大鐙閣)の口絵から想像したとも考えられ、これは賢治在学当時の盛岡高等農林学校の図書館にも所蔵されていました。(注2)
 物語は「ケンタウル祭」の夜に始まります。物語に描かれる学校が夏休み中ではないのは説明できないのですが、「銀河のお祭」と明記されている「ケンタウル祭」は、星座名ケンタウルスから付けられていることからは七夕を、「もみの木に豆電球を飾る」という記述にはクリスマスツリーを、「カラスウリの灯り」を流すことからは8月16日の、盛岡の盆行事、舟っこ流しの風景も連想させます。さまざまな祭を描きこんで、華やいだ人びとの思いとその中のジョバンニの孤独や、後に来る「別れ」の悲傷と対比させているのではないでしょうか。

 「銀河鉄道の夜」には、初期形一、初期形二、初期形三、第四次稿の4つの形態が残されています。ここでは、賢治が最終的に表現したかった形と思える第四次稿をテキストに進めたいと思います。文中に作品の章題を太字で示し、特記する事柄を斜体太字で表します。

 第四次稿では一~九迄の章立てがなされ、冒頭に、初期形三までにはなかった、一、午后の授業、二活版所、三、家の三章が書き加えられます。ここで、ジョバンニの現実での境遇―母子家庭、学校での孤立、カンパネルラへの想い―が記され、物語の背景を描くと共に、導入の役割を果たします。
 初期形三までに登場していた賢治の思想を代弁する「ブロカニロ博士」は登場しなくなり、全体はジョバンニが見た夢と規定されます。ここには「少年小説」を目指して改稿を進めていた賢治が、より現実に添う形での物語展開を試みたと思われます(注3)。

 ジョバンニは病床の母と暮し、朝は新聞配達、放課後は印刷屋で活字拾いをしていて、学校では気力が出ません。父が北方で働いているはずなのですが、級友たちのあらぬ疑惑と嘲りを受けています。以前から友達だったカンパネルラもジョバンニを気遣いながらも進んでかばってくれるわけではありません。

四、ケンタウル祭の夜
 ケンタウル祭の夜、ジョバンニは母の所へ来るはずの牛乳が来ず、川へ瓜を流しに行く級友たちからは父のことで蔑まれ仲間に入れてもらえません。親友のカンパネルラは気にかけてくれているようでしたが級友たちと一緒に行ってしまいました。

五、天気輪の柱
 重なる疎外感から逃れるように、駆け上った丘の上から見た風景には、

 
子供らの歌ふ声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはづれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。  
 
と、風は「遠くで鳴」る存在で、わずかにジョバンニの汗を乾かす程度に吹いています。現実から離脱していく前触れのように、静かなタッチは一層淋しさが増します。丘の上から見る列車の楽しそうな風景を思い、悲しくて見上げた銀河ですが、先生の説明のようにがらんとした冷たいところ」とは思えず、林や牧場のある野原に感じられ、琴座の星は涙に揺れて変形し、町も次第にたくさんの星のように感じられます。そのことが次からの風景にも繋がっていきます。

六、銀河ステーション
 「銀河ステーション、銀河ステーション」という声とともに明るい明るい世界となり、いつか、ジョバンニは軽便鉄道に乗っていました。
 そしてカムパネルラも乗っていたのです。「みんなはね、ずゐぶん走ったけれども送れてしまったよ。ザネリもね、ずゐぶん走ったけれども追ひつかなかった」という言葉は、ザネリも皆もこの汽車には乗れなかった、ということ、つまりカンパネルラのみが死に向かっていることを表すのですが、ジョバンニが気づけるはずはありません。銀河の旅が始まると、風三例、すべて、窓のそとで、風に「さらさらさらさら」、ゆられてうごいて、波を立てているススキとともに描かれます。

 
青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てていゐるのでした。    
 
その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした

向う岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすゝきが風にひるがへるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたやうに見え、また、たくさんのりんだうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のやうに思われました       
 
 銀河の中を走るのですが、空は星いっぱいの空間ではなく、「桔梗色の空が広がり」、星の代わりに「三角標」が点々と続きます。夜空の地図とは、賢治にとって身近な地上の地図の「三角点」が三角標となり、独自の空間を作り上げています。
 ススキを揺らす風に、次第にそこにリンドウが加わり、向こう岸の風景では、「やさしい狐火のやう」と形容されます。
 ススキとリンドウの広がる風景は地上の高原の風景です。それは果てなく続く、ときには恐怖を感じる風景ではないでしょうか。死に関して言えば、未だに想像できない死後の世界への入り口です。

七、北十字とプリオシン海岸
 ここでカンパネルラは「……誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ」という、この作品での重要主題とも言える「ほんたうの幸せ」への思いを述べますが、ジョバンニには理解できません。
 星座を辿って南転していく旅では、停車場や事柄はすべて星座名から来ていて、汽車は白鳥の停車場で止ります。北十字は、はくちょう座の骨格を成す十字形の星を表します。
 「河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やら」、「銀河の水は、水素よりももっとすきとほって」、「二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えた」と記述され、透き通ったものの中に色彩を散りばめています。
 白鳥の駅で降りた二人はプリオシン海岸で化石の発掘をしている人に出会います。プリオシンとは地層年代のひとつで、400万年 ~150万年前の地層ですが当時は作中の記述のとおり120万年前とされていました。賢治が愛し名づけた花巻市郊外の北上川の川原、イギリス海岸は、プリオシン時代に属し、賢治も1922年にこの川原でクルミの化石とウシの足跡の化石を発見しています。

 
ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ      
 
発掘をしている学士の言葉で、さらに化石を調べることは他への証明のためであるという言葉が続き、ここでは風は「空(から・くう)」の暗喩です。

 
そしてほんとうに、風のやうに走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。
 
 その次の例では、「風のやうに」走れる、という直喩表現です。
 
八、鳥を捕る人

 
ごとごと鳴る汽車のひびきと、すゝきの風との間から、ころんころんと水の湧くやうな音が聞えて来るのでした。
 
 次の停車場からは、「鳥を捕る人」が乗車してきます。風はまだススキの間を吹くのですが、その人が「鶴の声」と名づける音の表現が加わります。
 「鳥を捕る人」はサギや鶴や雁を捕って一瞬で菓子にしてしまう仕事をしています。菓子を美味しいと思いながら、ジョバンニたちは鳥捕りの話は理解できず、軽蔑してしまいます。次の章では鳥捕りが気の毒でたまらなく、鳥捕りの幸せになるためなら、何でもやってあげたいとさえ思いますが、鳥捕りは消えて仕舞っていました。

九、ジョバンニの切符
 「白鳥区」の終り、名高いアルビレオの観測所には、屋根の上に青玉宝(サファイア)と黄玉(トパアズ)が輪になってくるくる回って」います。
これははくちょう座の最南端にある三等星で二重星のアルビレオで、全天で最も有名な二重星の一つといわれます。吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』(警醒社 大正十一年)にも同様の色の記述があります。
 検札が来て、ジョバンニの持つ切符が重要な話題となります。車掌は、「これは三次空間の方お持ちになったものですか」と言い、鳥捕り曰く「ほんたうの天上にさへいける切符」と言われます。つまりジョバンニだけが違う世界の存在で、 ジョバンニ以外がすべて、すでに命をおとしている人であることが暗に示されます。結果として、ジョバンニは生還することができますが、天上へ行くことはできません。
 鷲の停車場では苹果の香りと共に子供を連れた青年が乗り込んできます。

 
黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれているけやきの木のやうな姿勢で男の子の手をしっかりとひいて立ってゐました。
 
 風は、しっかりとした好意的なものへ形容です。青年は家庭教師として教え子を連れてタイタニック号に乗り遭難しましたが、他の人を押しのけても救助のボートに乗り込むことを避け、教え子とともに死を選びました。
 タイタニック号は、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画し、造船家のアレクサンダー・カーライルトーマス・アンドリューズによって設計され、処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没しました。犠牲者数についてはさまざまな説がありますが、乗員乗客合わせて1513人中生還者数は710人で、戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の海難事故でした。事故後のアメリカの調査で、救命ボートの数が足りなかったことも言及されていて、そのことは作品にも投影しています。

 
小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとにほんたうに気の毒でそしてすまないやうな気がする。 
ぼくはそのひとのさいはひのためにいったいどうしたらいいのだらう。

 
 ジョバンニは難破船の話から、北の海で働いているという父のことを思います。風は厳しい自然条件を表します。
 
きらびやかな燐光の川を進みました。向ふの方の窓を見ると野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにすきとほった奇麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした。
 
 きらびやかな風景と共に、風は「ばらの匂」と言う華やかなものをまとって吹き、死に向かう人びとが、美しくきらびやかな世界を歩いて行くことを表すでしょう。 
 この後、もう一つの風景として同乗の灯台守が配った、「黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果」が登場します。そして灯台守によれば、このあたりでは、苹果ばかりでなく、「農業ではすべてはひとりでに望むものができるやうな約束になって」いて、「苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいいかをりになって毛あなからちらけてしまふのです。」といいます。これは天上界に近い素晴らしさを意味するのでしょうか。さらに

 
川下の向う岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云えずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。
 
 風は音を運ぶものとなります。青年はなぜか、「ぞくっとしてからだをふるうよう」するという象徴的な描写があり、さらに「だまってその譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のやうな露が太陽の面を擦めて行くやう」と異次元の広がりを思わせます。これも死に向かう人びとを美しい世界に置きたいという賢治の意思かと思います。

 
向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌のふしが聞えてきました。よほどの人数で合唱してゐるらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きさうにしましたが思いかえしてまた座りました。かほる子はハンケチを顔にあててしまひました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一諸にうたひ出したのです。
 
 初期形二では、この賛美歌は「Nearer, My God, to thee 主よみもとに近づかん」とされていましたが、初期形三からは賛美歌名は特定されなくなりました。19世紀イギリスの詩人Sarah Flower Adams サラー・フラー・アダムスが作詞したもので、タイタニック号が遭難したとき、乗船の8人の楽士は避難せずにこの曲を演奏し続けたという史実が伝えられています。
 
そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひゞきや風の音にすり耗らされてずうっとかすかになりました。    
 
その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。
 
 二例は音を消す存在の風と無風状態の記述です。物語も一つの中盤状態です。孔雀や渡り鳥に信号を送るひと、そして新世界交響楽が流れ、カンパネルラは女の子と話が弾み、ジョバンニは疎外されたような悲しみを抱きます。

 スピードを上げて走る汽車の中で座席の人達は半分後の方に倒れかかる風景が描かれます。これは「銀河鉄道」のモデルとなっていた岩手軽便鉄道釜石線は狭軌で、車両の座席が対面型だったことを表すものです(注4)。

 
 たうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎ    
 
 トウモロコシやコロラドの高原を思わせる風景、インデイアンの狩りの風景が広がり、川ではカワラナデシコが咲き、橋を架ける工兵の姿や、発破の音など、現実に近い風景も描かれ、発破によって躍り上がる銀色の魚に、皆夢中になり、ジョバンニも女の子とも打ち解けていきます。

 双子座では、童話「双子の星」にもあるような「小さな水晶のお宮」が二つ並び、暫くして蠍座が現れます。それは「ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりも美しく酔ったやうにその火は燃えている」と記されます。
 その赤さについて、女の子は、それまで多くの命を奪った蠍が、自分の命が失われようとしたときに、初めて他者のために自分を差し出そうという思いで真っ赤な火となって闇を照らすようになったという逸話を話します。

 ケンタウルス座に近づくとケンタウル祭で賑わう人びとの姿が描かれます。地上を立つときとおなじ情景です。ここから原稿が1枚分抜けているので、次の展開が少し唐突になります。
 男の子がボール投げの自慢をしていると、突然青年がつぎのサウザンクロスの駅―南十字星で、下車することを告げます。ここは、「ほんたう」の神のすむ天上に向かう駅と規定されています。
 別れの辛いジョバンニは、天上の神は「うその神様」で、天上に行くよりもここでもっと良いところをこしらえなければいけないのだ、と力説します。そして本当の「神様」論争が始まり、ジョバンニの「ほんたうのほんたうの神様」の声は切なく響きます。
 光りで彩られた十字架、苹果の匂い、ハレルヤコーラスの響く中を喜びにみちて乗客は下車していき、キリストを彷彿させる白い着物の人が迎え、やがてすべてが霧につつまれ、胡桃の木とリスが現れます。

 
汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました 
 
 列車にはカムパネルラとジョバンニが残されました。風は空虚を表します。
南十字星の近くにある全天で最も目立つ暗黒星雲、不吉な「黒い石炭袋」を通り過ぎます。これは一部がケンタウルス座と、はえ座に重なっています。K. Mattila は、1970年、完全に真っ黒ではなく、星雲が覆っている星の光を反射し、周りの天の川に比べ10%程度の強さで光を放っていることを証明しました。
 カンパネルラと二人きりになったジョバンニは、例え暗黒星雲のなかでも二人一緒に進むことを願っていますが、カンパネルラは母の住む「ほんたうの天上」に向かって消えてしまいます。ジョバンニの悲痛な叫び声が残ります。
 
 ジョバンニは元の丘の上に覚醒しました。現実を思い出したジョバンニは、母への牛乳を受け取り、カラスウリを流しに行った川に向かい、カンパネルラが級友のザネリを助けようとして溺死したことを知ります。
 川幅いっぱいに、今旅していた銀河が映り込んでいる風景は象徴的です。ジョバンニはカンパネルラの生存を信じていますが、事故後45分たったと、カンパネルラの父は息子を失った現実を認めています。その45分は、銀河鉄道の3時間となり、二人の旅「中有」だったと思われます。
 カンパネルラの父は、ジョバンニに父親の生存と帰還を伝えて励ましてくれました。ジョバンニは様々な思いを胸に現実の世界に戻り、母にいろいろ報告することを考えながら街に向かいます。
 
 この物語の中で風は、少しずつ天上界に近づいていく情景を反映し最後にはカンパネルラを失った空虚も表します。風が現実味を感じさせない分だけ、何か乾いたものに感じられるのは私だけでしょうか。

 賢治がこの物語を書いた背景には、1922年11月、最愛の妹トシを亡くしたことがあります。その悲しみは一連の挽歌群、「無声慟哭」の4篇(1922年11月)、「オホーツク挽歌」の5篇(1923年8月)の長詩に残されました。その中、死んでいった妹は何処に行ったのか、幸せな場所にいるのか、妹とともに行きたい、妹ひとりのことを祈ってはいけない、という様々な想いが重く全篇に溢れています。
 1924年「薤露青」に至って、やっと、「……あゝ いとしくおもふものが/そのままどこへ行ってしまったかわからいことが/なんといふいゝことだらう……」ということで自分を納得させています。
 これらはこの物語に中で、さらに発展し、「ほんたうのしあわせ」とは何か、の問いに向かっています。
 まず、カンパネルラは、ザネリを救って死にますが、ジョバンニやカンパネルラの父母の悲しみはどうするのか。カンパネルラは良いことしたのだから許されると思うと言います。
 青年は青年は難破する船から、他の乗客を救って死に至りますが、青年の家族、子供たちの家族の悲しみはどうなるのか。青年はそうすることによって助かった人びとのためになり、相殺されると考えています。蠍が我が身を棄てて他者のためになろうとする意思を持って輝く蠍座の思いも同じでしょうか。
 
 この作品は多くの思い問題を含みながら、少年の想いに溢れ、美しく、時にきらびやかに描かれます。次の稿で書き残した部分を充たしたいと思います。
 

1:岩本裕『日本佛教用語辞典』(平凡社 1988)
2:加倉井厚夫「銀河鉄道の夜」を天文で読み解くために(『イーハトーヴ学 
 大事典』 弘文堂 2010)
3:小林俊子(「宮沢賢治 少年小説:ユートピアとファンタジー」(『賢治研 
 究 142』 宮沢賢治研究会 2021 7)
4:ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編 2』 後書き「ゴロナニロ博
 士式ロングシートの実験」) その他。
 

 






「青い槍の葉 」ー働くものへの賛歌の風ー
「青い槍の葉 」(mental sketch modified) 
 
 
     (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   雲は来るくる南の地平
   そらのエレキを寄せてくる
   鳥はなく啼く青木のほづえ
   くもにやなぎのかくこどり
     (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   雲がちぎれて日ざしが降れば
   黄金(キン)の幻燈 草(くさ)の青
   気圏日本のひるまの底の
   泥にならべるくさの列
     (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   雲はくるくる日は銀の盤
   エレキづくりのかはやなぎ
   風が通ればさえ冴(ざ)え鳴らし
   馬もはねれば黒びかり
     (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   雲がきれたかまた日がそそぐ
   土のスープと草の列
   黒くおどりはひるまの燈籠(とうろ)
   泥のコロイドその底に
     (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   りんと立て立て青い槍の葉
   たれを刺さうの槍ぢやなし
   ひかりの底でいちにち日がな
   泥にならべるくさの列
     (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   雲がちぎれてまた夜があけて
   そらは黄水晶(シトリン)ひでりあめ
   風に霧ふくぶりきのやなぎ
   くもにしらしらそのやなぎ
      (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
   りんと立て立て青い槍の葉
   そらはエレキのしろい網
   かげとひかりの六月の底
   気圏日本の青野原 
      (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) (『春と修羅』)
 
 この作品の作者の発想日付は「一九二二、六、一二」です。1923年8月16日付、国柱会(注1)の機関紙「天業民報」に、「青い槍の葉(挿秧歌)」として発表されています。「挿秧」とは「田植え」のことで、「青い槍の葉」とは、稲の苗の葉先が尖った様子を表しています。
 この詩には、大正時代の歌謡曲を思わせる曲が伝えられていて、その他の賢治や歌曲とは雰囲気が違います。佐藤成『教諭宮沢賢治:賢治と花巻農学校』(花巻農業高等学校同窓会 1982)の記載よれば、「田植は、農家はもちろん農学校にとっても秋の取り入れと並ぶ二大行事で、全職員全生徒総出で行われた。水田担当だった賢治は、すべてを掌握し「青い槍の葉」も田植歌として全生徒に歌わせ、力強い歌声があたり一面にこだました。」とあります。この詩のリズム、合の手、なども納得できます。「ひでりあめ」まで降る暑さのなか、一面の「どろのスープ」の中での「槍の葉」との格闘です。
 でも、そこには、風や、揺れる風景が描かれ、詩として輝き、1924年年4月20日、賢治の生前唯一出版された『春と修羅』に所収されました。
 エレキ―宇宙からの電波でしょうか―も感じられる地平線から寄せてくる雲、そして人びとが立っているのは「気圏の底」という大きな風景です。ヤナギのそよぎ、カッコウの声、雲の流れ、日照り雨さえ「黄水晶(シトリン)」と表現され、作者の労働へのエールが感じられます。挿入句の「ゆれるゆれるやなぎはゆれる」は、暑く苦しい田植の作業に吹き渡る救いのようなものです。そして最終章の
 
りんと立て立て青い槍の葉
そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原 
 
で思いは最高潮に達します。
 
 ヤナギは、ヤナギ科ヤナギ属の樹木の総称で世界に350種以上あります。枝が垂れ下がる種類には「柳」、枝が立ち上がる種類には「楊」の字が使われます。
 詩中にある「かはやなぎ」が標準和名カワヤナギであれば、北海道南部〜本州の河原に自生する落葉小高木の「楊」で、高さ3〜6m、直径3〜30cmになり、葉は長さ7〜16cm、幅8〜20mmの線形で、ふちに浅い波状の鋸歯があり、裏面は白緑色で無毛です。葉裏の白は風に翻ると、硬質な音がするように感じられ、また電気仕掛けにも思えます。
 賢治は白い葉裏が風に揺れる風景が好きで作品に多く読み込まれます。(注2)
 この作品から5年後の作品に、 一〇七六 「囈語 」一九二七、六、一三、 (「詩ノート」)があります。
罪はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく
河谷のそらにねむってゐる
 
せめてもせめても
この身熱に
今年の青い槍の葉よ活着(つ)け
この湿気から
雨ようまれて
ひでりのつちをうるおほせ
 
 この時も、思うのは「青い槍の葉」でした。熱を雨に変えて雨を降らせてという、切なすぎる願いです。
「ヒデリ(旱害)にケガチ(凶作)なし」という言葉が東北にはあるのですが、賢治が体験した凶作は、1924年はじめとして、ほとんどが旱害によるものでした。
 賢治の農村体験は、1922年大正10年12月稗貫郡立稗貫農学校(後に花巻農学校)の教諭となってからです。1926年退職するまでの4年間を、賢治は「この四ヶ年はわたくしにとって/じつに愉快な明るいものでありました」(「春と修羅第二集」序)と記しているよう  徒たちと自作の演劇を上演するなど充実したものでした。
 しかし生徒たちを通じて農村の窮状を知って、教室の中だけで行う活動に負い目を感じ、1926年4月に農学校教諭を退職し、実践によって農村に寄与したいという思いから、市内下根子の別宅で農耕生活に入ります。労働即芸術の生活を理想とし、教え子を中心にした共鳴者と「羅須地人協会」を発足させ、レコードコンサートや農業技術の学習を行います。しかし、周囲の無理解、激しい労働による心身の消耗から、1928年8月病床につきます。
 1930年、小康状態の中で花巻温泉の花壇設計の指導などに従事します。1931年1月、東北砕石工場鈴木東蔵の石灰による農地の改良に共鳴し技師となりますが、宣伝や販売にも奔走し、9月上京中の旅館で発熱、以後1933年9月の臨終までほとんど病床にありました。
 そのなかで、「文語詩稿五十篇」、「文語詩稿一百篇」、などの詩の推敲や、童話「風の又三郎」、「ポラーノの広場」、「銀河鉄道の夜」、「グスコーブドリの伝記」などの完成に向けた活動は行われます。絶筆は以下の二首です。
 
方十里稗貫のみかも/稲熟れてみ祭三日/そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てば/うれしからまし
 
 絶筆にいたっても、稲への思い―そこに働くひとへの思い―が、溢れていて胸が痛みます。或いはそれは、農学校における四年間に生徒たちと共に汗を流した輝く風景があったからかも知れません。
  

注1:国柱会(こくちゅうかい 國柱日蓮宗僧侶日蓮宗僧侶・田中智学  
   によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じ  
   る右派
として知られる
   賢治は1914年(大正3年)9月、18才で島地大等著『和漢
   対照妙法蓮華経』を読んで深い感銘を受け生涯の信仰を法華経と 
   し、浄土真宗の篤信家だった父と対立することになる。1920
   年国柱会に入会し、1921年1月から8月にかけては、東京本
   部で奉仕活動を行った。
注2:ヤナギ科ヤマナラシ属ギンドロ(別名「ウラジロハコヤナギ」)
   は、賢治が愛した植物として、花巻市のぎんどろ公園をはじめ多
   くの場所に見られる。またヤナギ科ヤマナラシ属ドロノキ、同ヤ 
   マナラシも葉裏が白く葉柄の構造上風に揺れやすく、賢治は詩に
   読み込んでいる。また、豆畑で一斉に葉裏が白く翻る風景も賢治
   は心惹かれていた。
 ドロノキ
  「どろの木の下から/いきなり水をけ立てて/月光のなかへはねあ  
  がったので」(六九〔どろの木の下から〕)
  「いま来た角に日本の白楊(ドロ)が立っている」(〔一七一〕  
  〔いま来た角に〕一九二四、四、一九、
 ヤマナラシ
  「ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし/やまならしにすてきにひ 
  かるやつがある」(一七「丘陵地を過ぎる」一九二四、三、二四)
 豆畑
  「トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです/車掌がほんの 
  おもしろまぎれにつけたのです/こんな豆ばたけの風のなかで」
  (「電車」一九二二、八、一七)、
  「見たまへこの電車だつて/軌道から青い火花をあげ/もう蝎かド 
  ラゴかもわからず /一心に走つてゐるのだ/  (豆ばたけのそ 
  の喪神のあざやかさ)/どうしてもこの貨物車の壁はあぶない」  
  (「昴」一九二三、九、一六、)、
  「こんなにそらがくもつて来て/山も大へん尖つて青くくらくなり
  /豆畑だつてほんたうにかなしいのに/わづかにその山稜と雲との
  間には/あやしい光の微塵にみちた幻惑の天がのぞき
  (「雲とはんのき」一九二三、八、三一)
 
 テキストは『新校本宮澤賢治全集』による。

 
 






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