「旅程幻想」詩群の位置この稿は、当ブログ「三陸への旅」(2014、1、11)を、見方を変えて、加筆修正したものです。
「旅程幻想」詩群については浜垣誠司「賢治の連作詩群」(HP「宮沢賢治の詩の世界」)を基盤にしました。
旅行の行程は木村 東吉『宮澤賢治 《春と修羅 第二集》研究』 (渓水社,2000)によります。
「旅程幻想」詩群は三三八「異途への出発」 一九二五、一、五、(「春と修羅第二集」)
三四三「曉穹への嫉妬」 一九二五、一、六、(「春と修羅第二集」)
〔水平線と夕日を浴びた雲〕〔断片)〕一九二五、一、七、(「春と修羅第二集」)
三五一「発動機船」〔断片〕、一九二五、一、八、(「春と修羅第二集」)
三五六「旅程幻想」一九二五、一、八、(「春と修羅第二集」)
三五八「峠」一九二五、一、九(「春と修羅第二集」)
からなる。
加えて「発動機船一〔断片〕から発展した「発動機船 第二」(「春と修羅第二集補遺」)、その関連作品「発動機船一」(口語詩稿)、「発動機船三」(口語詩稿)、〔鉛色の冬海の〕(文語詩未定稿)、「敗れし少年の歌へる」(文語詩未定稿)も含む。
背景は、賢治の一九二五年一月五日から九日までの三陸方面への旅である。
旅立つ前、一九二四年の夏、農学校教師として初めて凶作直面し、その痛みを読んだ詩群と帰ってから農学校をやめる決断に至る詩群があり、三つの詩群を通して賢治の生涯を決める重要な時期だったことを仮定して論を進めたい。
一九二四年は凶作、賢治は、農学校の生徒を通じて伝わる農村の凶作の惨状には心を痛め、教師という立場の無力感、そしてこれから先への不安は大きかった。
一九二四年十二月に初めての童話集『注文の多い料理店』を盛岡の光原社から出版した。序文、広告文に綴られる読者への熱い想いや、出版社に要望した、社名には「光〉を入れること、装丁の色、青へのこだわりなど、強い期待が感じられる。 しかし童話集は売れず、児童文学雑誌『赤い鳥』には広告文を載せることができたが、主催者鈴木三重吉は賢治の真意を理解しなかった。
重なる絶望や不安のなか、賢治は一九二五年一月五日から九日まで三陸海岸の旅に出る。まず、一九二四(大正一三)年一一月に種市まで延長したばかりの八戸線に乗って種市まで行く。そこには賢治が鉄道好きで、新しく開通した路線に好んで乗っていたとも言える。(注1)
木村東吉(注2)によれば一月五日東北本線下り 二一時五九分発の夜行列車で、積雪の花巻を発ち、一月六日未明八戸で八戸線に乗り換え、六時五分に種市につき、乗合自動車か徒歩で久慈に向かったとみられます。さらに海岸線を徒歩で辿り、また貨客船に乗ったりしながら釜石まで行き、釜石線で花巻に帰っている。
この旅では「旅程幻想詩群」と呼ばれる詩七篇、断片二篇、そこから発展した文語詩二篇を残した。また、「少年小説」を意図して書いた「ポラーノの広場」には、主人公が出張して歓待される場面としてこの旅が描かれている。
三三八 異途への出発 一九二五、一、五、
月の惑みと
巨きな雪の盤とのなかに
あてなくひとり下り立てば
あしもとは軋り
寒冷でまっくろな空虚は
がらんと額に臨んでゐる
……楽手たちは蒼ざめて死に
嬰児は水いろのもやにうまれた……
尖った青い燐光が
いちめんそこらの雪を縫って
せわしく浮いたり沈んだり
しんしんと風を集積する
……ああアカシヤの黒い列……
みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
……底びかりする水晶天の
一ひら白い裂罅(ひゞ)のあと……
雪が一さうまたたいて
そこらを海よりさびしくする
「異途への出発」は、その第一日、発想される。暗く冷たい風景は、賢治の心そのままである。「あてなくひとり下り立てば〉からは、八戸で列車から降りた時点の心象と思われる。)木村氏の推定(注2)にしたがうと、これは六日未明の描写、ということになり、「こんや旅だつこのみちも〉に矛盾するかもしれないが、「ひとり下り立てば」、この雪への臨場感、漠とした広さと空虚さからして、花巻ではなく、そこから新線の開通している八戸が旅の出発点である。
「月の惑み」の読み・意味とも確定できないが、心を表す場合の「クラム〉を使って「クラミ〉と読み、「寒冷でまっくろな空虚」ということから、月のない暗さを表すと仮定したい。
一九二五年一月五日の月齢は九.九六(注3)で、六日の未明にはすでに月明は無い。「いちめんそこらの雪を縫って〉、「尖った青い燐光」が見えるのは、降る雪のなかの光の形容だが、これは駅の明かりのせいかもしれない。
さらに、「風」という語と、擬態語の用い方は、賢治の心象を一層効果的に表す。
「しんしんと風を集積する」は雪の降るさまだが、「風〉と表現することで、雪のはかなさ、軽さ、風景の広さを捉えた表現となっている。
「しんしんと」は「森森」「深深」など、奥深く静寂な様を表す漢語の擬態語で、これは静けさだけでなく、作者の心に沁み込むような寂しさも感じさせる。
ここで、「寒冷でまっくろな空虚は/がらんと額に臨んでゐる」では、 広く空虚でさびしい様を表す擬態語「がらん」を「額(ひたい)」ととも使うことによって、周囲の茫漠とした空虚から、作者の心情のむなしさまでを感じさせる。 さらに擬態語として用いるときは、普通「がらんとした」、「がらんとして」とするところを「がらんと」で切ることによって、いっそう不安定なおぼつかない思いが感じられる。
三四三 暁穹への嫉妬 一九二五、一、六、
薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図(wink)をいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
百の岬がいま明ける
万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる
八戸で八戸線に乗り換え、六日の六時五分に種市に到着し、徒歩または乗合自動車で三陸海岸を南下する途中の海岸で詠まれた。
薔薇輝石は準輝石、ロードナイトで、バラ色に近い色彩で、宝飾品に加工することが多い。この近く九戸郡野田村玉川の野田玉川鉱山はマンガンとともに、日本で唯一バラ輝石を産出した。一九八六年操業停止後はバラ輝石の加工と観光坑道となった。
この日この時刻、南東の空には、「さそり座」、三、九等星の「明けの明星(金星)」が隣には太陽系「水星」が見えていた(注4)。
ここで、「リングもあれば月を七っつもってゐる」という記述は実際には見えない土星である。
でも、最初に語られている「清麗なサファイア風の惑星」とは、大気の減光によりやや赤みを帯びた金星と思われ、「薔薇輝石」のイメージと重なる。時間の経過と共に輝きを増してきてやがて「清麗なサファイア風の惑星」になってゆく姿が描かれている。しかし、下書稿から見ると、「清麗なサファイア風の惑星」とは、明らかに「土星」を指している。肉眼でみえる「金星の光」と想像の「土星の姿」とを賢治の心象のなかで重なったのかもしれない。
地中にある美しい鉱石を思い、雪景色や星々の溶け込む明けがたの冷たい空に、賢治の心は研ぎ澄まされて行く。この恋愛に似た感情は、さらに文語詩「敗れし少年の歌へる」に発展する。
六日夜は、下安家(しもあっか)の旅館に宿泊し、七日朝、近くの下安家、堀内、大田名部いずれかの漁港から貨客船に乗船した(注2)。そこで発想されたのが三四八〔水平線と夕陽を浴びた雲〕[断片]一九二五、一、七、「発動機船一」〔断片〕、「発動機船一」から発展した「発動機船 第二」(「春と修羅第二集補遺」)、その関連作品「発動機船一」(口語詩稿)、「発動機船三」(口語詩稿)、である。
そのほか三四八〔水平線と夕陽を浴びた雲〕[断片]一九二五、一、七、は、〔日脚がぼうとひろがれば〕(「春と修羅第二集」)下書稿のあとに書かれてすべて消しゴムで消されていたもので、内容は後述の「発動機船一」とほぼ同じ船上の情景である。
水平線と夕陽を浴びた雲
波が なり
そ ひろくふなべりをとってある
さっきの
もう ながらほって
がけ
いきなりはげしく
さっきのいちばんきれいなむすめが投げたのだ
…… に のさっき
まっしろな珪 の いふ
その斑岩の海岸は
あすこにも のは
今日のそ
いちこ
……春 もとるそのむすめたち……
「発動機船 一」
うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯玕の浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
……あの恐ろしいひでりのために
みのらなかった高原は
いま一抹のけむりのやうに
この人たちのうしろにかゝる……
赤や黄いろのかつぎして
雑木の崖のふもとから
わづかな砂のなぎさをふんで
石灰岩の岩礁へ
ひとりがそれをはこんでくれば
ひとりは船にわたされた
二枚の板をあやふくふんで
この甲板に負ってくる
モートルの爆音をたてたまゝ
船はわづかにとめられて
潮にゆらゆらうごいてゐると
すこしすがめの船長は
甲板の椅子に座って
両手をちゃんと膝に置き
どこを見るともわからず
口を尖らしてゐるところは
むしろ床屋の親方などの心持
そばでは飯がぶうぶう噴いて
角刈にしたひとりのこどもの船員が
立ったまゝすりばちをもって
何かに酢味噌をまぶしてゐる
日はもう崖のいちばん上で
大きな榧の梢に沈み
波があやしい紺碧になって
岩礁ではあがるしぶきや
またきららかにむすめのわらひ
沖では冬の積雲が
だんだん白くぼやけだす
「発動機船一」では、冒頭、荷物を積み込む娘たちの生き生きとした働く姿を捉えていて、詩は明るいものとなっている。
瑯玕は暗緑色または青碧色の半透明の硬玉、美しいものの喩え、ここでは波の形容で、娘たちの形容―美しい裳裾、素足とともに詩の冒頭の肯定的な風景の有効な言葉となる。
だが、一瞬、娘たちの背後にある、農村の事実―自分も体験した干害―に気づき詩調は暗くなる。
船上の人々の日常は普通で、特に感動的には描かれない。娘たちの「きららかな笑い」で一瞬明るくなるが、沖には発達すると積乱雲にもなる積雲が現れ、変化していく空を暗喩する。
発動機船 第二
船長は一人の手下を従へて
手を腰にあて
たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
さっき一点赤いあかりをふってゐた
その崖上の望楼にむかひ
さながら挑戦の姿勢をとって
つゞけて鉛のラッパを吹き
たうたうたうたう
月のあかりに鳴らすのは
スタンレーの探険隊に
丘の上から演説した
二人のコンゴー土人のやう
崖には何かひばか竹かゞ
凍えたやうにばしゃばしゃ生えて
波は青じろい焔をあげて
その崖裾の岩を噛み
船のまはりも明るくて
青じろい岩層も見えれば
まっ黒な藻の群落も手にとるばかり
いきなり崖のま下から
一隻伝馬がすべってくる
船長はぴたとラッパをとめ
そこらの水はゆらゆらゆれて
何かをかしな燐光を出し
近づいて来る伝馬には
木ぼりのやうな巨きな人が
十人ちかく乗ってゐる
ここまでわづか三十間を
ひるもみんなで漕いだのだから
夜もみんなで漕ぐのだとでも云ひさうに
声をそろへて漕いでくる
船長は手をそっちに出し
うしろの部下はいつか二人になってゐる
たちまち船は櫓をおさめ
そこらの波をゆらゆら燃した
たうたうこっちにつきあたる
へさきの二人が両手を添へて
鉛いろした樽を出す
こっちは三人 それをかゝへて甲板にとり
も一つそれをかゝえてとれば
向ふの残りの九人の影は
もうほんものの石彫のやう
じっとうごかず座ってゐた
どこを見るのかわからない
船長は銀貨をわたし
エンヂンはまたぽつぽつ云ふ
沖はいちめんまっ白で
シリウスの上では
一つの氷雲がしづかに溶け
水平線のま上では
乱積雲の一むらが
水の向ふのかなしみを
わづかに甘く咀嚼する
スタンレー(H.M .スタンリー(一八四一– 一九〇四)は、イギリス・ウェールズのジャーナリスト、探検家で、アフリカの探検および遭難したデイヴィッド・リヴィングストンを発見したことでも知られる。
賢治が、このスタンレーの探険隊やアフリカにおける現地人との接触について知った出典としては、賢治が生まれた一八九六年(明治二九年)矢部新作訳『スタンレー探険実記 一名闇黒亜弗利加』(博文館,一八九六)がある、
一五〇ページ、一五一ページには、探検隊のテントを囲んだ現地人が明け方前から、「どこに行くのか」、「外人をこの国では入れない」、「「敵である、帰れ」「殺されるぞ」と呼びかけるが、探検隊はその演説法に笑い声とともに応じ、現地人が逃げ去る様が、演劇の掛け合いのように、リズミカルでユーモラスに描かれる(注5)。
賢治は、「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」として文語詩化した。 比べてみると、コンゴー人の発言部分は、矢部新作訳でもほぼ忠実に訳されている。 演劇を書き生徒たちに演じさせていた賢治がこの部分に惹かれたということは理解できる。
この船では海上の伝馬船から発動機船に荷を積み込む。荷はタコで、当時は羅賀が集積地だった。
すべてが終わった後は、冬の星シリウスが光り、水平線の上には乱積雲が生まれている。乱積雲は、そこに発生している危険な天候を、素知らぬふりで揺れている。
発動機船 三
石油の青いけむりとながれる火花のしたで
つめたくなめらかな月あかりの水をのぞみ
ちかづく港の灯の明滅を見まもりながら
みんなわくわくふるえてゐる
……水面にあがる冬のかげらふ……
もゝ引ばきの船長も
いまは鉛のラッパを吹かず
青じろい章魚をいっぱい盛った
樽の間につっ立って
やっぱりがたがたふるえてゐる
うしろになった魹の崎の燈台と
左にめぐる山山を
やゝ口まげてすがめにながめ
やっぱりがたがたふるえてゐる
……ぼんやりけぶる十字航燈……
あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた
羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ
「発動機船 三」では、船は大胆に岸辺に近づいてきた。陸には寒冷な陸風があり、 冷害を想像させる。「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」という一つの空想が船上の物語を彩る。
ひきつづき午前零時宮古港発の三陸汽船に乗り継ぎ、未明の海を「発動機船[断片]」に描写する。
三五一 発動機船[断片] 一九二五、一、八、
水底の岩層も見え
藻の群落も手にとるやうな
アンデルゼンの月夜の海を
船は真鍮のラッパを吹いて〔以下空白〕
水底やアンデルセンを想起する月夜の海にふれ、船のラッパにも触れるが、そこで断筆している。
「発動機船」の連作で、賢治が描こうとしたのは、なにか。変わらず描かれるのは船長の姿である。「発動機船第一」で「スタンレーの探険隊に/丘の上から演説した/二人のコンゴー土人のやう」と探検隊ではなく現地人に喩えたのは、賢治が船長をその地で生きるものの象徴として描くためではないだろうか。
冷たい夜風に吹かれ、波を見つめ、淡々とタコを積み込み、見習い船員がタコの酢味噌を作っているのも日常を描くためであろう。
明るい海と働く娘たち、娘たちの背後にある陸地で凶作、海上から変わって気候が詩の最後に不安を感じさせる。
季節は全く違っているが、以前賢治学会の三陸海岸のツアーに参加した時、海上に浮かぶ雲を、「あれがヤマセです。」と教えていただいたことがある。ヤマセは寒い夏をもたらすものである。 この雲の描写をいれることで、この地にいつもある自然の脅威を詩の中に描きこんだのであろう。
賢治は釜石までは行かずに山田港または大槌港で下船し、日中は海沿いを歩いてさらに南下する。この間「旅程幻想」が発想される。
三五六 旅程幻想 一九二五、一、八、
さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる
海沿いの陸上を歩くと、そこには干害の爪痕が見える。「肩またせなのうら寒く/ 何か不安なこの感じは」という詩句は「放牧用の木柵の/楢の扉を開けたまゝ/みちを急いだためらしく」という理由付けがされているが、自身の中にある不安を象徴するようにも思える。
「ごろごろ」となく「何か知らない巨きな知らない鳥」も、不安が増長させる言葉である。
単純に考えてひとり陸路を行く、ということは船に身を任せるのとは違って、不安なのではないか。加えて、陸地にはある干害のあとも賢治のなかの昨年からの消えない傷となっているのであろう。
三五八 峠 一九二五、一、九、
あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹(あをぞら)ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる、
(鉄鉱床のダイナマイトだ
いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
……そこでは叔父のこどもらが
みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす
八日夜は、釜石の叔父宮澤磯吉家に宿泊し、九日、釜石の鈴子駅から田中鉱山線に乗って、終点の大橋駅で下車。ここから徒歩で仙人峠を越え、仙人峠から岩手軽便鉄道に乗って花巻に帰る。
仙人峠から、釜石湾を望み「三五八 峠 」(一九二五、一、九、)が発想される。日差しのまぶしさの為に、空は青黒く見え、釜石の鉄掘削のダイナマイトが耳も刺激する。冷たい風の中、太平洋は豊かに「青くなまめきけむって」賢治の胸を躍らせる。
遠望する釜石湾は、昨夜泊まった叔父の家の叔父と子どもたちの健やかな姿を思い、エメラルドのように尊く輝くのだ。
風も、「白樺を海の光へ伸ば」す力として描かれ、「二十世紀の太平洋を指している」、という前向きな心情を表現する。
そして白樺の枝は「りんりん」となる。そのR音で表されるオノマトペの響きは、賢治の心情のすべてを暗喩するように澄んでいる。
他の作品への発展
1文語詩
文語詩篇ノート三十一ページ、二〇一四(一九二五)年の一月の項に一月九戸郡行
安家
寒キ宿ノ娘 豚ト、帳薄ニテ
ノ面灯落チントス 濁ミ声ニテ罵レル
ナガ行く末思ヘバ心ハ暗シ
暁早ク家族ヲ整ヘテ海辺ヲ急ギ来シ白キモンパノ家長
モロモロノ オ中ニ於テ[大姉→姉妹]ノ
大戸 思ヲナセト
これは文語詩「〔鉛のいろの冬海の〕」の題材である。
〔鉛のいろの冬海の〕(文語詩未定稿)
鉛のいろの冬海の
荒き渚のあけがたを
家長は白きもんぱして
こらをはげまし急ぎくる
ひとりのうなゐ黄の巾を
うちかづけるが足いたみ
やゝにおくるゝそのさまを
おとめは立ちて迎へゐる
南はるかに亘りつゝ
氷霧にけぶる丘丘は
こぞはひでりのうちつゞき
たえて稔りのなかりしを
日はなほ東海ばらや
黒棚雲の下にして
褐砂に凍てし船の列
いまだに夜をゆめむらし
鉛のいろの冬海の
なぎさに子らをはげまして
いそげる父の何やらん
面にはてなきうれひあり
あゝかのうれひけふにして
晴れなんものにありもせば
ことなきつねのまどひして
こよひぞたのしからましを
「敗れし少年の歌へる」(文語詩未定稿)は「蒼穹への嫉妬」を下書き稿にしている。
敗れし少年の歌へる
ひかりわななくあけぞらに
清麗サフィアのさまなして
きみにたぐへるかの惑星ほしの
いま融け行くぞかなしけれ
雪をかぶれるびゃくしんや
百の海岬いま明けて
あをうなばらは万葉の
古きしらべにひかれるを
夜はあやしき積雲の
なかより生れてかの星ぞ
さながらきみのことばもて
われをこととひ燃えけるを
よきロダイトのさまなして
ひかりわなゝくかのそらに
溶け行くとしてひるがへる
きみが星こそかなしけれ
2、「ポラーノの広場」
この旅を反映した童話に「ポラーノの広場」がある。
作品中、主人公キューストは「海産鳥類の卵採集の為」イーハトーヴオ海岸地方に二十八日間の出張を命ぜられ、「イーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町につき、その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移」って行く。
さらにキューストは船で「隣の県のシオーモ(塩釜)」の港まで行き、さらに「センダ―ド(仙台)の大学」まで行く。盛岡から汽車でいける海岸で「サーモ」は八戸の魹(さめ)港で、そこから六十里はほぼ八戸から牡鹿半島までに相当する。キューストは海岸の人達の温かい歓迎を受け、「わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ」と心に誓う。
キューストの役割のなかで「研究者」、「公務員」というプラスの面を描くこの章は、この海岸を実際に訪れた賢治にとっても美しく、また温かく豊かな想いを満たしてくれたことの裏付けであろう。
「旅程幻想」詩群は、賢治の深い絶望から立ち直りまでを描く。
事実から逃れることなく心象を見つめていく中で、次第に立ち直る姿を描くのではないだろうか。
要因として、土地が埋蔵する輝石、黙々と淡々と作業する船上の人々、単調な海のうねり、などの風景がある。また訪れた叔父の家も暖かく存在する。海や風の音も心を目覚めさせる。
文語詩として書きなおしたことは、その時期が賢治にとって重要だったことを示す。また「少年小説」を意識して書かれた「ポラーノの広場」に組み込まれたことも同様な意味を持とう。
旅から帰って賢治は、農業の実践への意欲を高めていく。実践に踏み出す次の段階として、「種山ヶ原」詩群の時代を経て、さらに新しい時代への意欲を持っていく。
次章では種山詩群について検討したい。
注
1信時哲郎「鉄道ファン・宮沢賢治―大正期・岩手県の鉄道開業日と
賢治の動向」 (「賢治研究九六」宮沢賢治研究会 二〇〇五、七)
2木村 東吉:『宮澤賢治 《春と修羅 第二集》研究』
(渓水社,2000)
3加倉井厚夫HP賢治の事務所
「賢治の星の年譜「意図への出発」の創作」
4加倉井厚夫HP賢治の事務所
「賢治の星の年譜「暁穹への嫉妬」の創作)」
5『スタンレー探険実記 一名闇黒亜弗利加』(博文館,1896)此朝暁方より凡そ三時間前に於て、舎営は土人の怒號と角笛の聲とに由て、一同平和の夢を攪破されたり。暫らくにして此聲は止めり。時に二人の土人、遙かの高所に在つて余等に對し、演説を始めたり、其聲明かに余等の耳に達せり。
第一人は曰く ― 外人共、外人共、何處へ行くのだ、何處へ行くのだ。
第二人は之れに應じて ― 何處へ行くのだ、何處へ行くのだ。
第一人 ― 此國は外人を容れない、外人を容れない。
第二人 ― 容れない、容れない、相違ない。
第一人 ― 一同皆汝等を敵とすべし。
第二人 ― 汝等を敵とすべし、帰れ帰れ。
第一人 ― 汝等は必ず殺さるべし。
第二人 ― 必ず殺さるべし、必ず。
第一人 ― ア、ア、ア、ア、ア―。
第二人 ― ア、ア、ア―。
第一人 ― ウ、ウ、ウ、ウ、ウ―。
第二人 ― ウ、ウ、ウ、ウ―。
此二人は實に能く調子を揃へて應演せり、此奇妙なる亜弗利加スタイルの演説法は、思はず、余等をして喝采せしめたり。次で諸方より一同に笑聲起れり、彼の演説者は此聲に驚きけん、匆々に逃げ去りぬ。