小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/06/09 7:19:51|先週の礼拝から
信仰を増して下さい
ペンテコステ記念礼拝

1)三大祝日の一つ
今日はペンテコステ記念礼拝です。
教会では、クリスマスと復活祭とこのペンテコステ(聖霊降臨日)の三つのお祝いを教会の三大記念日として大切にしております。

2)教会の誕生日
ペンテコステ(五旬節)というと聖霊が与えられた(使徒2章1〜4節)という点では、トップに挙げられなければなりませんが、聖霊による満たしが何もかも情熱的になるという事だけではありません。
聖霊によって、初代教会が誕生した日なのです。
キリストの体である教会が新しく生まれた歴史的な日、教会のスタートの日なのです。
私たちの教会(栃木いこいの泉)も、昨年3月にスタート(自立)しました。
まだ2年目ですから、初代教会から見ますと、ひ孫の、そのひ孫の・・・・・・・ひ孫にあたる教会でしょうか。

2)初めの頃は
さて、初代教会の弟子達の信仰は、どのような信仰に導かれていったのでしょうか。
聖霊によって、キリストの降誕(クリスマス)から始まって、十字架、そして復活、ペンテコステというように、一連の出来事を思い巡らし、心に留めるという事からはじめたのです。
そして、ペテロの説教を通して3000人の人が神に立ち返り、初代教会が始まったのですが、それから信仰成長のために、「信仰を増して下さい」という祈りが、継続していったでしょう。
私たちの教会も同じ祈りが必要だと思うのです。

3)大切な三つの態度
イエスが、ルカ17章で話されている事を、信仰の成長という視点から見ていきましょう。
先ず 「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」 と言っています。
「人がつまずいてしまうような事をしてはいけませんよ。」 というのです。
私も人がつまずくような言葉を使ってしまいますが、これには 「信仰を増してくださいと」 祈るのみです。
ペテロのキリスト否認、キリストの十字架のとなりにいた強盗、マルコ15章で 「自分を救ってみろ」 と嘲った道行く人や祭司長など、信仰によらない人の行動と発言は、多くの人をつまずかせます。
「主よ、私にからし種ほどの信仰を与えて下さい」 と求めるほかにありません。
3節は、 「意地を張らずに赦してあげなさいよ」 という事です。
そうして、この二つの事が仮にお出来になったら、“自分が出来た、やれた”と言わずに、10節 『私たちは役に立たないしもべです。
なすべきことをしただけです。』 と言いなさい。」 私の内側におられるキリスト・イエスがなさったのだと、即ち、キリストを信じる信仰によって出来たと言えばよいでしょうと、教えてくださいました。

4)信仰の成長こそ
これらの事は信仰なしには出来ないことです。
人間の力では出来ない事でも、成長させて下さる神に 「増して下さい」 と祈る事です。
そのためには、いつも主が共にいる、いつも主が近くにいる、いつも主が傍にいるという事を意識する事が大切です。
常に主イエスを見失わない様に 「信仰を増して下さい」 と祈り続けましょう。
ルカ17章1〜10節







2009/06/06 10:35:50|先週の礼拝から
あかし
宇賀神 昇さんのお話から)

1)生立ち
芳賀牧師と知り合うようになって、栃木いこいの泉チャーチとのご縁が出来て、初めて救いのあかしをすることになりました。
生い立ちからお話すると、1995年に3人兄弟の次男坊として鹿沼市で生まれて、現在54歳です。
生家は、父が自動車修理の事業をしておりました。
私は、デザイン関連の仕事をしたいと考えていましたので、家業を継がせたい父と激しく衝突しました。
その衝突が、後々までの親へのトラウマ(心の傷)となっていました。
高校に入っても、勉強はやらず、毎日が喧嘩とバイク疾走でした。
家庭では、父や兄やとぶつかり、よく言われる不良仲間に入っていったからです。

2)職業と生活
24歳の時、健康器具販売の会社に入り、家業を継がなかった意地もあって頑張り、どんどん売上を伸ばして、毎月300万円程の利益を上げました。それで飲み屋に行き、高級乗用車を乗り回して、傍若無人の生活で過ごしておりました。
同年代で幸せそうな友人が20数万の月収だった頃なのに、私は結果的に3000万円もの借金をつくってしまいました。

3)人間不信と覚醒剤
ある日、住んでいたマンションの中が空っぽになっていたのです。
私と同棲していた女性と勤務先社長が、家財を持って逃亡してしまったのです。
女性と仕事と家財を失い、借金だけが残ったのです。
私は、人間不信に陥りました。
そしてまた、酒と覚醒剤に手を出して、挙句の果てに健康までも失い、身体もぼろぼろになって、生きていてもしょうがないと思いました。
しかし、私自身は借金を返済しなくてはならないので、東京の会社(先物取引)に入って努力しました。
いつしか売上トップになり、賞金をもらい、海外旅行にも行き、ようやく返済のメドがつきました。
ところが、ある日突然、会社に警察を伴う差し押さえが入ったのです。

4)クリスチャン女性と結婚
それからリフォーム会社に切り替えて、大きな収益を上げました。
そうして、関連する社長に一人の韓国女性を紹介されて、結婚する事になりました。
その方から私は初めて聖書を頂いたのです。
暫くして教会の礼拝に誘われ、いく事になり、彼女は涙して喜んでくれました。
そして一年後にS兄と共に洗礼を受けました。
今までの自分の罪を悔いて、神の前に素直に正直に出たのです。
今までの生活は本当に人生の荒野だったと思いますが、よく(神に)護られて来たと思っております。

5)信仰のスタート
しかし、これからが私の信仰のスタートだと思っております。
皆さんに支えられて、後ろを振り返らず、過去を断ち切って前進していきたいと願っております。
そして今まで神の愛に支えられたので、これからは多くの魂の救いのために、また多くの方を愛し福音を伝えていきたいと思います。

6)芳賀牧師の話
私は宇賀神さんのお話を伺い、ヨハネ3章16節に強く心を揺すぶられました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 
お話をを聞いて、実にそうだと思いました。
これをもっと短いことばにすれば 「神は実に宇賀神さんを愛された」 となりますが、これほど愛された人はいないと思える程に愛されているのです。

本物の愛は単なるアイデアや思想や観念ではありません。
目で見てさわれ、具体的で実際的なものでしょう。
だから、言葉で言うだけなら、そのまま通り過ぎてしまったとするなら、それはもはや愛ではないのです。
神は宇賀神さんが 「神様」 と呼ばないうちから、私たちの罪の身代りとして、十字架につけるために御子イエス様をお与えになりました。
ここに愛があるのです。







2009/06/01 9:33:20|先週の礼拝から
正しい人はその信仰によって生きる
1)信仰というテーマ
ハバククは、 「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」 と記した。
私達にとって信仰というテーマは、大きな問題であり、生涯を通して語りかけられる言葉であります。

2)律法の行い
さて、パウロはローマ書で、 「『義人は信仰によって生きる。』と書いてある」 と表現して、同じ思いが旧約聖書にある事を言っています。
パウロは何を知らせたいのでしょうか。
イエスに出会う前のパウロは、律法を熟知し、熱心に行なう人でした。
そのパウロが3章20節の後半で 「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」 と書いていますが、彼の熱心に行った経験が、断言させたのでしょう。
そして、イエスに出会った後の経験として、 「今は、律法とは別に、・・・・・・神の義が示されました。即ち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって・・・・・・」 と主張しています。
だから、過去の律法を行なう経験だけでなく、神の義という視点からも、 「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」 と結論付け、 「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」 と律法にこだわっているユダヤ人に向かって主張しているのです。

3)律法の性質
イエス様は、律法全体を二つに要約して、第一は神様のために一生懸命生きるという事、第二は 「あなたのとなり人をあなた自身のように愛する」 (マルコ12章など参照)という事を言われました。
パウロは、ローマ書3章で 「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」 と書いたが、律法だけですと、 「自分はこれが出来ない、あれも出来ない」 と自分のみじめさだけを発見しやすいのです。
イエス様の御心に生きる事ができる様になるには、律法を行なおうとするのではなく、神が、恵みとして、また、信仰によるなだめの供え物として、公に示されたキリスト・イエスを、自分のものとして仰ぎ、受け止め続ける信仰によるのだという事がわかるのです。

4) 愛の律法
更にパウロは、ガラテヤ2章 「私はキリストとともに十字架につけられました。――古い罪の力に支配された生活に死に、キリストの復活のいのちによって生かされる事――
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる――現に今、生きているのも神の恵みによるのであり、神がイエスを通して、神のあがないの愛だけでなく聖霊を与えて下さっている事――のです。」
とあかししています。
ガラテヤ5章では、聖霊の実が、信仰による愛の律法であり成長の約束の様に示されています。
「愛、喜び、平安(和)、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」 です。
これらのものを禁ずる律法はないのです。

5)世の終わりまで
世の終わりまで共にいて、護り、導き、聖霊による新しい行動を与えて下さる全知全能の主に、
「正しいと認められる人は、福音の信仰によって生きる人」
なのです。                ハバクク2章4節







2009/05/29 18:01:42|先週の礼拝から
全てを益に
芳賀 功 師のお話

1)導入
皆さんの祈りに支えられて牧師按手式も無事終了致しました。
今日はその第一回の礼拝です。
先程、司会者に読んで頂いた聖書箇所は、クリスチャンなら誰でも知っており、また誰でも口をついて出るみことばでございますが、私たちの教会にとって、このみことばがぴったり当てはまるような出来事が続いたのは、祝福であり驚きであります。

2)第一の祝福
第一は、ここ二ヶ月の程の間に、ハプニングが起き、大きな祈りが聞かれたという事です。
私事で誠に恐縮なのですが、婚約式から始まって、結婚式まで、富子先生にこの栃木の地に来て頂いたという事であります。
神様の計画とはいえ、まさかこの時期、この時に、婚礼を用意していたとは、想像さえも出来ませんでした。
富子先生にとっても、33年間も務めた教団から離れ、まったく未知の地へ出て行くという、大変な思いだったのだろうけれども、こんな計画が隠されていて、万事を益として下さったという事です。

3)神の御計画
さて、ローマ8章28節、 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 を細かく見ていこう。 
先ず、ここにある 「神を愛する人々」 とは誰か。
いうまでもなく神を信じるクリスチャンを指します。
神様に祝福され、現実の生涯において益を受けるのは私たちです。
神を愛する人とは、神の御心に従っており、神と共に生き働く者だからです。
次に神は一人一人に計画を持っていて、与えておられます。
その計画は私たちには理解出来ない事が多いのですが、計画に従って召された人の救いを完成して下さるために、その人の生涯の中で励ましを与えて下さるのです。
神の計画とはどの様なものか。
それは不安定に見えるこの世のものとは異なり、確実で絶対的なものです。
そして計画に従って召された人々というのは、神様の恵みの計画の中にある人を指しています。
そして、この 「益」 というのは、 「御利益」 という意味ではなく、 「善」 というニュアンスで、その 「善」 をもって支え、召された人々を御子キリストに似たものとして成長させて下さるということです。

4)第二の祝福
さて、第二は、この教会にとって大きな益である牧師按手礼を、神の恵みによって授けて頂いた事です。
以前から数人の牧師に相談してきましたが、いずこも閉ざされ、 「もう駄目かもしれない」 と思っておりました。
まさか、ここで按手礼をして下さる牧師が現れるとは思ってもみませんでした。
しかも三人の先生による按手でした。
「こんな私でも神様、良いのでしょうか。
本当にあなたの計画なのでしょうか」 という感謝と驚きでした。

5)主のはかりごと
箴言19章21節は、 「人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る。」 という。
万事が、全てが、相働きて益となるのは、神を愛し、神を信頼し、常に神に従い、つながっているからであります。
ハレルヤ。            ローマ8章28節







2009/05/18 9:03:10|先週の礼拝から
心に住まわれるキリスト
芳賀富子先生のお話から
  
1)挨拶
先日は、婚約式と結婚式の過程で、皆様には大変お世話になりありがとうございました。
そして今日、栃木いこいの泉チャーチの講壇に、初めて立たせて頂いております。
それで、自己紹介を兼ね、三つの角度から救いのあかしを致します。

2)人間の死
私は新潟県小千谷にて、誕生しました。小学三年生の頃、一人の友人の死によって 「人間の死」 に初めて直面し、そのことによって 「いったい人間は何のために生まれ、何のために生きて、死後どこへ行ってしまうのだろう」 というテーマが、私の大きな悩みとなっていきました。その後、姉が 「家の教会」 に連れて行ってくれました。

3)イエス様を信じます
中学三年生の夏、柏崎聖書学院で開かれた中高生バイブルキャンプに参加しました。
そこで、一人の旅人が罪の町を出て、天国というゴールに向かって旅をするというストーリーのお話がありました。
旅の過程の場面が絵に描かれていて、分かり易く話されました。
その夜の事、あかし会があり、 「歌いつつ歩まん」 が繰り返し歌われ、賛美しながら 「今晩イエス様を信じる人はいませんか」 という招きがありました。
背中を押されるような思いで立ち上がり 「イエス様を信じます」 と告白しました。
いい知れない平安が押し寄せて、満ち足りた思いを経験しました。
人間の死の問題が解決し、その時から 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 (ローマ10章10節)という言葉を、ただ握らせて頂いて、心に主(イエス)を迎え、クリスチャン生活をスタートしたのです。

4)栄光の望みのため
しかし、クリスチャンになったとはいえ、聖書を読まず、祈りもせず、教会に行かない時もあって、あまり真面目ではありませんでした。
しかし、順調な信仰の成長をせず、紆余曲折を繰り返す者なのに、心に主を迎えた者を、見放す事もなく、見捨てる事をせず、伝道者として召して下さいました。
こうして、2004年10月に新潟で地震があった折に、祈りの中にあった母と同居する機会が与えられ、母が受洗するという特別な恵みにあずかり、大きな慰めがありました。
またある時、 『あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み』 (コロサイ1章27節)という言葉が私の心を捉えて下さいました。

最近の数年間の事です。
教会の奉仕に当りながら、教会への奉仕に身を置きながら、あれが出来る、これが出来ない、自分の足りなさや限界を考え、傲慢と自己憐憫におちいっている自分の姿が見えてきました。
どうしてだろう。イエス様が心の中に住んで下さっているのに、喜べず、感謝できないでいる自分を見させられたのです。
そうした後、イエス様だけで十分なのだという事を、もう一度確認して、新たな献身の信仰に立つ事が出来ました。

さらに、24節 『キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たして』 という言葉が心に留まり、目が開かれた思いと共に、私にとってキリストの苦しみの欠けを満たすとはどういう事かを思いめぐらされました。

5)この事のため
ある日、一本の電話がありました。結婚の話で、私にとって新しい使命への導きでした。
主はこの事のために、心に住まわれるキリスト 『自分のうちに力強く働くキリストの力』 (コロサイ1章29節)、即ち新たに聖霊を与えて下さる約束をして下さったのです。
コロサイ1章24〜29節                文責 H&K