杉本宣子師のお話から 主要テキスト:第一コリント2章14節〜3章4節
今日は第一コリント2章〜3章の中からお話致します。ここに3通りの人間の姿が記されています。 生まれながらの人(2章14節)、肉に属する人、御霊に属する人(3章1節)です。
T.生まれながらの人 私たちは、もの心つく頃になると神なんか必要ないという気持ちと自我に目覚めます。 神がおられると自分の罪が暴露されて困るし、いない方が安心する。 自分が神の配下に置かれたくないのです。(14節、ピリピ3章19節など) 生まれながらの人とは、神を認めない、神を好まない、神を避ける人です。私たちクリスチャンは神によって生かされている存在であると謙遜になる必要があります。
U.肉に属する人 Tコリント3章3節 「・・・・あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属している・・・・」 。 これはクリスチャンになって、いつまでも成長しない赤子のままの人の事です。 赤ちゃんはミルクから離乳食、固いご飯と成長とともに変わります。 霊的に大人になるとはこの幼児性を脱却することです。 いつまでたっても自分を喜ばせる事や、自分の事を大事にしてほしいということだけで、神のみこころや、隣人を考えようとしない自己中心の人です。 それは人間が生まれながら持っている肉の性質で、神のことばを素直に聞き入れないので、 「肉にある者は神を喜ばせることができません。」 (ローマ8章8節)。 この世の価値観、考え方にたやすく同調しやすいので、 「この世と調子を合わせてはいけません。・・・・」 (ローマ12章2節)。 更に、Tヨハネ2章15節、 「・・・・だれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」 と諭しています。 私たちはこの世に生きていますが、早く肉の性質から脱却して霊の人にならなければならないのです。
V.霊に属する人 洗礼を受けた人が全て霊に属する人でなければなりませんが、必ずしもそうではありません。 救いとは、十字架を信じて犯した罪が赦され、神の子としての特権を与えられ、聖霊の内住を頂いて、天国の保証に預かる望みを頂くことです。 しかし、その救われた人の古い性質が、神からの支配権を握ろうと主張するのです。 ローマ7章19節には、人の内面に働く二つの原理をみます。 神を愛している自分がいるのに、違う原理が内側にあってそれをさせないという。 一人の人格の中で戦っている。 それが自分を悩ませると告白しています。 自分の主張どおりにならないと、急に不機嫌になる自分、小さな誘惑に負けてしまう自分、他の人が褒められるとねたましく失敗するとほくそ笑んでいる自分、頭ではよくないと分かりつつ聞き分けのないわがままな自分、頭での理解と反対の行動をする古い自分がいる。 いつまでも幼児のような(肉の)クリスチャンではなく、大人のクリスチャンにならなくてはなりません。 頑張りではなく、そのような自分を本気で認めて、肉の思い、情欲や欲望を十字架につけてしまうのです。 ガラテヤ2章20節、十字架につけるということは、自己主張して止まないエゴ、情と欲のかたまりのような自分を、丸ごと神のみ手の中に投げ出すこと、お捧げすることです。 聖霊に自分の内側を全部明け渡し、主導権を明け渡すことです。 神はやさしい愛の方で、私達の理解者ですから、楽しみを奪う方ではありません。 私たちに真の幸いを用意してくださり、愛のみ手で守り支え、最善に導いてくださるお方です。 この方を信じ、歩調を合わせて歩むなら、聖霊によるうるわしい実を結ぶことができます。 ガラテヤ5章22〜23節は、なんと幸いなことでしょうか。 編責 H&K |