花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2013/08/03 7:31:06|その他
正造翁と富士山(32)
 
 ふじの山ニ登る人ハ頂上ニハ何か
あるならんとおもふて登るハ皆凡人の
常ナリ。登りて見れバ何もなし。

 正造翁が出した、明治37年(1904)
黒澤酉蔵宛、手紙の一文面です。

 これを家族に聞かせたところ
「実際に、山に登れば、感動が生まれるハズ、
それが伝わってこない」

 それもそのハズ、先人の一句
「(略)よきもあしきも我がこころなり」を、
翁が拝借しているから、これでは「翁は、
富士山に登ったか?」答えを引き出すのは、
難しい!?デハ








2013/08/02 8:20:00|その他
正造翁と富士山(31)

 富士山へサヨナラした正造翁のこころに
再び、富士浅間信仰の火を灯したのは、
谷中村の島田栄蔵、彼も富士講先達でした。

 正造翁が谷中村に入り、島田栄蔵ら村民と
村復活の闘いを続けているうち、富士浅間信仰、
心の篤さを知りました。

 正造翁の日記、書簡、歌に、ふじの山が、ウン十年ぶり、
登場してきます。教えてやるからが、教えられる立場に
変身した正造翁のこころ、それらが、見え隠れします。

 谷中村復活闘争、村民を最後まで支えた富士浅間信仰、
正造翁、こころの軌跡、今、谷中村の遺跡にそれらを辿る
道はありません。でも、念ズレバ花ひらく、デハ








2013/08/01 7:43:49|その他
正造翁と富士山(30)

 富士講とは、何ぞや?
岩科小一郎著「富士講の歴史」を
引用させて頂きます。

 「富士講は富士山に登る講である。
講という名称は、同一の信仰をもつ者の
集団を意味する。講は先達・講元・世話人の
三役によって組織される。先達は富士信心の道に
詳しく、富士登山七度以上でないとなれない」

 正造翁が「昔話」で言う先達の名前は、
記録によれば、翁より五つも若く、引用した
富士講、先達の条件に、当てはまりません。

 「昔話」は、翁、五十五歳の時、読売新聞に
連載されました。翁の生家近くの浅間神社の祠には、
富士登山六十六度 大願成就、一緒に、別の先達の
名前が、刻まれています。デハ







2013/07/31 7:23:25|その他
正造翁と富士山(29)

  正造(翁)が、富士山のふの字も
言わなくなったのは、十五歳の時、
淋しい病気に罹ってからー、疑い始め、
三十一歳、殺人嫌疑の獄中で、西洋の
思想に触れ、「ふ」と訣別しました。

 この間、二度勧められたお礼参りの
富士登山も、登らず、翁の富士登山の
可能性は!?

 翁が詠んだ歌の中に、ふの字を見つけ
ました。六十歳代、谷中村入村前後です。
歌は、遥かに拝む富士の遠望の類ではなく、
大空から見た眺めです。

 富士山が雪の達磨と化し、懐の餅に
変わっています。思うに、正造翁のこころは、
一世紀も前に、宇宙遊泳を楽しんでいました。

 








2013/07/30 9:08:37|その他
正造翁と富士山(28)

 翁と富士山の関係について、
これまでに知ったことといえば、
翁が七歳の時に、富士信仰に入ったこと。

 十三歳の時、親戚の子供の病気平癒祈願に
一里はなれた、浅間神社に裸足で17日間
参詣したこと。

 十五歳の時、恥ずかしい病気に罹り、かなり
離れた網戸村浅間神社に命を落としかねない
湯治祈願をし、御礼参りの富士登山で、同行者の下山を
麓で待っていたことです。

 そして、三十一歳の時、陸奥東北で、殺人事件に
巻き込まれ、獄中、西洋思想に触れて、富士信仰に
疑問を抱き、冤罪晴れたお礼参りに、妹から旅費を貰い、
途中の東京で遊んで帰りました。ヤレヤレ、デハ








<< 前の5件 [ 2356 - 2360 件 / 3886 件中 ] 次の5件 >>  << 最新の記事へ >>