花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2022/02/27 11:55:17|その他
谷中より 正造
 明治34年(1901)10月23日
田中正造(61)衆議院議員を辞職
 
 明治37年(1904)7月30日
正造(64)谷中村問題に専念するため
     入村。
 
 明治37年7月29日 黒澤[酉蔵]君[封書]
只今古河町石丁岩崎氏方まで来着。今夜一宿御厄介の
上明日午前中ニ早く御家まで参り拝眉を得申候。
右御しらせまで、早ゝ
 
 川鍋岩五郎殿方
黒澤君
 
 黒澤酉蔵、田中正造直訴事件の翌日、釈放された
正造に会いに行っている。正造に惹かれ以後4年間、
正造の助手として働いた。
 
 川鍋岩五郎、正造、谷中入村根拠地の主。
 







2022/02/26 11:50:24|その他
田中正造 二天流のススメ
 田中正造は、二つの「天」を
持っています。一つはご存知、
「天は自ら助くる者を助く」の天。
 
 もう一つは「天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らずと云えり」の天。
 
 いずれも江刺の獄中で繰り返し読んで
身につけた宝です。
 
 天は人の上には〜は、福沢諭吉の名言、
田中正造が獄中で読んだ「英国議事院談」の
訳を手がけました。
 
 「云えり〜」の後に人間は生来平等だけど
上下が学問の有無で出来ますよ」
これがススメのすすめです。喝
 







2022/02/25 14:22:48|その他
正造翁を支えたことば
 田中正造、
明治4年(1871)31歳、江刺の獄で
「天は自ら助くる者を助く」を学ぶ。
(西国立志編、自助論)
 
明治38年(1905)65歳、谷中短信で、
「天は自助の者を助くるの言」村民、村を
自ら守る。(感動)
 
 「江差の獄」正造「回想断片」30
翻訳書ニ付政治経済の二課を独学す。
傍ら少年の頃より訥ニシテ(訥弁、吃音)
人ト語ルコト言語口角アリ、喧嘩の如シ。
 
 之レニ窮スルガ故ニ西国立志編ノ文章ㇵ
中村敬宇(正直)氏ノ訳書ニテ舌頭ニ乗リ易キヲ
覚ヒ、茲に舌頭練磨殆ンド一年半。喝
(メデタシ、メデタシ)
 
 
 







2022/02/24 10:40:27|その他
田中正造 三つ子の魂
 谷中短信、明治38年(1905)毎日新聞、
●「天は自助の者を助くるの言」(田中正造報)
正造翁の説く「言」とは、言の原点は〜
 
 明治3年(1870)田中正造、30歳、
勧められ、江刺県(岩手県)付属捕となり
県掌兼玄関番となる。翌年6月、上司暗殺
犯人の濡れ衣を着せられ、3年近く服役。
 
 「回想断片」(田中正造)
翌6年(明治)監獄則ノ制出ヅ(略)書籍
自在ニ差入レヲ許ルス。
 
 翻訳書ニ付政治経済の二課を独学す。
「言」の原点はこの中に秘められています。喝
 







2022/02/23 9:26:53|その他
正造翁の谷中短信〜村民を水中に住ましめ〜
 
 毎日新聞、明治38年(1905)2.20
●谷中短信
 
 谷中村民は、縣廳(栃木)が堤防を
築かず、村民をして水中に住ましめ、
其結果全村を買収せんとする無情に
憤激し、
 
 自衛の必要上、各自堤防修築の役を
収らん〈取るカ〉と決し、(略)
 
 此決心を聞ける地續きの隣村(略)河を
隔つる埼玉、茨城の諸村は、人夫を出して
谷中村の工事を助くべし、
 
 人民に自立の気象あれば、汚吏暴人の為に、
滅亡せず、天は自助の者を助くるの言、目前に
證據立てられんとす(田中正造報)