花ど真ん中の里便り

栃木県は日本の花ど真ん中です。
 
2020/11/06 16:02:00|その他
なぜ正造は議員を辞めたのか
「政治をやっている間に、
肝腎(原文のママ)の人民が
亡んでしまった」
 
 木下尚江、「忘れ得ぬ翁(正造)の
独語」小見出し。
 
 明治35年(1902)鉱毒被災地
見舞い、木下尚江、田中正造に同行、
直訴後のエピソードです。
 
 木下尚江「政治の破産者・田中正造」
篠原信雄「草莽の人」〜田中正造〜

 先輩が遺した正造研究書を引用し、
重く大きなタイトルに取り組んで
います。喝
 
 
 

 

 







2020/11/05 13:48:55|その他
鉱毒の田中
 明治24年(1891)12月18日、
代議士田中正造は、足尾銅山鉱業停止の
火蓋を切った。 (以下引用、木下尚江、
「政治の破産者・田中正造」)
 
 前年の1890年4月1日
田中正造、県議会議長、退任。
同年7月、第1回総選挙、栃木
3区から立候補、当選。
 
 同年8月23日、渡良瀬川大洪水。
沿岸農民、栃木県へ被害上申書、
農商務省へ水の分析依頼。
 
 木下尚江、若き友よ、鉱毒の田中を
すすめる前に、憲法、国会に対する
この人たちの努力を理解してほしい。
同感、喝
 







2020/11/04 14:54:46|その他
不撓不屈
 
 下野の国出身の田中正造は
3回、山本有三は1回それぞれ
獄中暮らしを経験しています。
 
 田中正造は、獄中で生命の危険に
さらされながら、取り乱すことなく、
読書、思索に耽り、自らを生長させ
ました。
 
 選挙の神様と称され、連続当選を
誇った田中正造が、なぜ議員を辞め、
直訴に〜何故に?
 
 田中正造の名誉にかけて言えば、
獄中暮らしは、不当逮捕!冤罪、デッチアゲ!
反骨精神のなせる業!喝
 
 

 
 







2020/11/03 13:41:06|その他
選挙の神様獄中暮らし
 1878年(明治11)田中正造38歳。
今でいう、町村会議員に選ばれる。
翌年、栃木県議選で次点落選、
 
 1880年(明治13)補欠選挙で県議、
初当選、以後、県議連続4回、衆院議員
連続6回当選。
 
 1884年(明治17)田中正造44歳。
時の鬼県令三島通庸の圧政に反対、
反政府運動加波山事件に関連したと
疑われ、獄中暮らしを。
 
 なぜ議員を辞めて直訴に至ったか、
前半のポイントチックが、辛酸亦入佳境の
境地です。喝
 







2020/11/02 11:52:06|その他
田中正造と足尾銅山
 1878年(明治11)田中正造、
政治家専念決意表明、翌々年
1880年(明治13)補欠選挙で
栃木県議に初当選。
 
 その同じ年に、足尾銅山は
古河(フルカワ)の商標で
鉱業専業を宣言。
 
 1881年(明治14)足尾銅山で
有望な鉱脈発見,古河好転に向かい、
足尾産銅量、発展、日本一に。
 
 1885年(明治18)渡良瀬川で
アユ大量死。
 
 1886年、田中正造、県議会議長。
この年、足尾銅山と日光、宇都宮
それに東京を結ぶ日本初の民間電話が
誕生しています。喝