いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2009/05/12 14:06:02|その他
眠り込む弟子達
イエスが「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われて、苦闘の祈りをされていた時、弟子達は眠り込んでしまった。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われた。)40節
(そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。)41節
(「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」)42節
(すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。)43節
(イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。)44節
(イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。)45節


(私の思索)
43節、ルカに祈りの様子を伝えた弟子が誰であったのか分からない。
また弟子に何かが見えたのか、睡魔に襲われながらイエスを力づける何らかの力を感じた可能性も想像できるが、ルカは 「御使い」 の援助として記録した。
44節は、 「苦しみもだえて・・・・・・汗が・・・・・落ちた。」 と記録している。
石を投げて届くほどの距離から、弟子達に見えた様子だ。
激しい格闘をしているかのような祈りであったのだろうか。
私には想像すらできない。
45節、この部分の記録は、ルカの解説である。
イエスの視点で書かれており、イエスから聞いて(或は聖霊に導かれて)記録した様な文章である。
弟子達の立場は、イエスの声で眠りから覚めた時、そこにイエスが居られた。私たちは悲しみのあまり眠り込んでいたのだ・・・・・・・・という証言になるはずである。

おそらく、ルカは、弟子達(ルカ自身や私を含めた人間)の実態を表現したかったのではないか。

私たちが、神の国にふさわしい“いのち”をもつために、イエスが苦闘しておられるのに、人間は眠り込んでいるということである。
私が今、こうして祈りつつ思考を進めているのに、睡魔に襲われる。←・・・・・・これは私個人の問題だが。

(私の脳裏をかすめる言葉)
あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。   Tペテロ4章3節


(私の感想)
私は、お茶を飲んで睡魔に対抗する。いくばくかの効果があるが思考回路を広げる事さえ出来ない。諦めて床に付くと、お茶のカフェインが効果を発揮し始める。禁止薬物のとりこになる方々の事を考えている自分に気付いて、寝床から起きてしまう。
具体的な課題を前に置かず、イエスの祈りを想像によって理解しようとする事が、そもそもナンセンスなのだ。







2009/04/06 9:21:55|聖書
苦闘の祈り
イエスは、苦闘の祈りをしておられる。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。)39節
(いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われた。)40節
(そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。)41節
( 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 )42節
(すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。)43節
(イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。)44節
(イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。)45節


(私の思索)
41節、 「弟子達から・・・・・離れて祈られた」のは、祈りに集中するためでしょう。
「石を投げて届くほどの所」 とは、弟子達に祈りの言葉が聞こえ、祈りの表情が見えている事などから、2〜30メートル程度だと私は感じる。
42節、 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」 と祈り、 「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 と祈ったと、ルカは伝えた。

しかし、ルカは、この祈りの現場にいなかったので、実際の言葉は聞いていない。
これを書いた環境は、パウロとの伝道旅行の過程で、書いたであろうとすると、パウロから聞いた可能性があるが、パウロも現場にはいなかったのだ。
おそらく、祈りの現場にいた弟子達から、別の機会に聞いたのか、弟子達から聞いた人々がいて、ルカが聞きだしたのかもしれない。
従って、ルカが伝えているのは、祈りの要点として弟子達の心に残っていた言葉を、ルカの視点で整理したものであろう。
だから、祈りの言葉は短いのに、その間に弟子達が眠り込んでしまうという思考をする必要は無い。

さて、私は、既に十字架の様子や復活の記事を複数回読んでおり、複数の牧師から複数回のメッセージを聞いている。そして今回、自分の知識と心で、イエスの心に近づこうと考えていたのです。
それで私にわかった事は、 「立ち入ることが出来ない祈りであり・近寄れない祈り」 であるということだ。
更に、ルカ18章32〜33節の言葉 「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 を前提として、殺されてもよみがえるのだからと自分に言い聞かせても、42節の言葉を自分の祈りとして経験する事は出来ないものでした。

43節、御使いについて、詳しく知る方法を、私は知りませんが、神のひとりごイエスでさえも何らかの助けを得なければならないほど、険しい祈りの世界なのでしょう。

イエスは、私たちの自己中心性・保身性(罪)から、神を愛し、隣人を愛する者へと開放するために、まず祈りの世界で苦しまれました。自己中心の権化である“私”の代わりに、御子イエスが苦しまれたと受け取りたい。“私”には、重苦しい祈りなど出来ないからです。神の御前で“私”は役に立たない邪魔者である。
「この杯をわたしから取りのけてください。」という言葉は、“私”の切なる願いだから、“私”が頑張っている限り前に進まないだろう。
しかしながら、イエスは 「わたしの願いではなく、(・・・・・・・あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打たれ・・・・・殺され)る事が、父よ、あなたのみ心なら)みこころのとおりにしてください。」 と祈るのだ。

“私”にはできないが、神にはできるのだ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 ローマ7章18節

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 ヨハネ12章24節


(私の感想)独り言
私は以前、このブログの中で 「半歩ずつでも前進したい」 と書いたことを思い出します。
そして、いろいろな事柄が“私”の問題である事を感じていました。
聖書の言葉を思いめぐらし思考する私と、内なる権化である“私”が対立する時、私の歩みが、極端に遅くなるようです。
今の私は遅くても良いから、行ける所まで運んでいただきたいと思う。誘惑に陥らないように祈ろう。







2009/03/22 8:07:44|聖書
誘惑に陥らないように
イエスは、苦闘の祈りをしようとしておられる。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。)39節
(いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われた。)40節
(そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。)41節
( 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 )42節
(すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。)43節
(イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。)44節
(イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。)45節


(私の思索)
イエスご自身がしばしば祈っておられた事は、よく知られており、弟子達の信仰が確認されるようになると、弟子達がそばにいるところでも、祈られるようになられた。これは、前回の思索で述べた。
ここ40節で、イエスは 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われたのである。
弟子達に誘惑が迫っていることを、知っておられたからでしょう。
弟子達に対して 「祈っていなさい」 と言われたのは、この部分が初めてだと思う。少なくとも、ルカの福音書に関する限り、初めての言葉である。

ここで、今まで何回も読んでいて感じなかった疑問がわいた。
この時までの弟子達は、一切の事をイエスに任せて、ただイエスの指示に従ってきたのだが、この直後に、イエス先生が捕らえられるので、しばし、自分で考え、自分で判断し、自分で決心して行動する必要が迫っているのに、気付かずにいる。
既に、イスカリオテ・ユダが誘惑され、イエスから離れていったように、ペテロをはじめ他の弟子達も、離れていく時が来ようとしている。
この事を、イエスは御存知である。
先に31節で、ペテロの裏切りを予告したように、他の弟子達も同じ程度である事を御存知なのである。
さらに、旧約聖書の世界に生きていて、神に祈る事は、(ルカ5章33節)日常茶飯事的な生活の一部であったはずなのに、イエスから祈りを教えられて(ルカ6章28節、ルカ10章2節、ルカ11章1節、ルカ18章1〜節)いたのに、イエス先生から指示されていたのに、祈れない弟子たちの姿が45節に描写される。

イエスの目の前にいる弟子達は、祈る力が、祈る信仰が未だないのである。だから祈れないのである。その事をもイエスは御存知であったはずなのだが。(私は気付かなかったが。)
ルカの福音書を最後まで読んでみたが、弟子達が祈ったという記述がない。マタイの福音書、マルコの福音書、ヨハネの福音書も同様である。
とすると、イエスが 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われた事には、どんなお考えが有ったのか、 「考察しておく必要があるのではないだろうか」 という疑問である。

思い浮かんだ事は、ヨハネ14章26節、 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 である。
とすれば 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 とは、十字架の“死”と復活を目撃した後の弟子たちに語った言葉であり、こうした事柄を聞いている私たち、現代の信仰者にも届けられている。 「今は祈れないだろうが、後にしっかりと思い起こして、ことごとに祈りなさい」 という事として受け取れる可能性が残る。

事実、私の内側は、ここまでの記事を基に祈ることなどできそうに無い。弟子達が(ルカの記事) 「悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。」 様に、私もこのまま聖書を読み続けたいとさえ感じないほどである。

弟子達は、18章32〜33節で語られた言葉(人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。)は、思い起せないままである。この言葉が唯一の励ましだと思うのだが。


(私の脳裏をかすめる言葉)
「・・・・・・私たちを試みに会わせないで下さい」 ルカ11章4節


(私の感想)
私は、誘惑に陥りたくない。でも、気付かずに誘惑に陥ってしまう事が多いのかもしれない。
だから誘惑に陥ったまま、気付かずにいることが最も恐ろしい。







2009/01/19 15:53:22|聖書
イエスの祈りと弟子達
過越しの食事の後、イエスは新しい契約を語り、契約実現の歩みに入るために、最後で苦闘の祈りを目前にしている。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。)39節


(私の思索)
過越しの食事と新しい契約の儀式を済ませた後、イエスと弟子達はオリーブ山に出て行った。
21章37節と同じ行き先である。
他の福音書ではマタイとマルコがゲッセマネと書き、ヨハネが園と書いていている。
そして、私が使っている聖書の付帯地図には、ゲッセマネの園という表示があり、その下側(即ち南側)にオリーブ山という表示がある。
オリーブ山のふもとにゲッセマネの園があるのかどうか、私は確認できないが、これ以上の追及をやめる。
マタイ26章36節
それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。 「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
マルコ14章32節
ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。 「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
ヨハネ18章1節
イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。

39節、 「いつものように」 という記述は、21章37節にも 「さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。」 と述べているところから、――エルサレムに到着して以来ずっとそうしていた様に、この日も――という理解でよいのでしょう。

「弟子達も従った」 という記述は、何を告げたいのだろうか。
イエスは一人で祈られる事が多いのに対し、この日は例外であったというのか。
イエスは、夜になると一部の弟子達とオリーブ山へ行って過ごしたが、この日は弟子達全員であったというのか。
危機的状況を感じ取った弟子達が、積極的に従ったというのか。
事実を単純に記述しただけなのかもしれないが、この日は 「弟子達も従った」 のである。

参考のため、イエスが祈られた様子を、ルカがどのように伝えているか、周囲にどの様な人たちが居たかという観点から、ルカの記述を確認してみた。

@3章21、22節
さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」 ⇒B.ヨハネ
A4章42節
朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。⇒誰も居ない
B5章16節
しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。⇒誰も居ない
C6章12節
このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。⇒誰も居ない
D9章18節
さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。 「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」 ⇒弟子達
E9章28、29節
これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。⇒ペテロとヨハネとヤコブ
F10章21節
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。 「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。⇒70人の弟子達
G11章1節
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。 「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 ⇒弟子達
H22章32節
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ⇒確認できないが、過越しの食事ののち、弟子達のために黙したまま祈ったのではないだろうか。
I22章41節、そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。⇒弟子達
J22章44節
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。⇒弟子達
K23章46節
イエスは大声で叫んで、言われた。 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」 こう言って、息を引き取られた。⇒弟子達、民衆、祭司長達、議員達、ローマ兵達、外国人達・・・・

このように見てくると、@3章21節とA23章46節を特別な事として除外すると、伝道旅行初期のイエスは、一人だけで祈っておられ、9章 「五千人への給食」 に続き、ペテロ(及び弟子達)に信仰( 「神のキリスト」 という告白に見られる)が生まれ始めた頃から、祈りの姿を弟子達にお見せになって、祈りつつ生きることを教えておられたと受け止められる。

生きて存在されるお方を認めない祈りは、 「独り言」 に過ぎず、自分自身と近くにいる人に見せる演技になってしまう。(18章10〜14節、20章47節参照)
そういうわけで、弟子達が見えない存在者を意識しなかった頃のイエスは、祈る姿を弟子達に見せなかったという受け止め方もあるのでしょう。(マタイ6章6節参照)


(私の脳裏をかすめる言葉)
すると雲の中から、 「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」 と言う声がした。      ルカ9章35節

(私の感想)
イエスに逆らう権力者側からの、圧倒的な危険が迫るピリピリした緊張の時である。
イエスの心を、僅かでも確認したいと試みたが、私には近寄る事さえ出来ない。
せめて、聖書記者ルカの思いだけでも知りたいと繰り返し探ってみたが、 「彼の言うことを聞きなさい。」 という答えしかない。当然、彼とはイエスの事である。







2008/11/17 10:59:23|聖書
剣を買いなさい
ルカが最後の晩餐の席上でイエスが語られた話のうち、最後に置いた話に入ります。イエスと弟子達に対する民衆の評価が、今までと変わることを意識され、弟子達に心構えを変えるように指導されます。
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(それから、弟子たちに言われた。 「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」 彼らは言った。 「いいえ。何もありませんでした。」 )35節
(そこで言われた。 「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」 36節
(あなたがたに言いますが、 『彼は罪人たちの中に数えられた。』 と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」 )37節
(彼らは言った。 「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」 イエスは彼らに、 「それで十分。」と言われた。)38節 


(私の思索)
私はイエスが、36節で 「剣を買いなさい」 と発言した記事について、非常に戸惑った事がある。
しかし、50節で弟子の誰かが、大祭司のしもべに切りかかって耳を切り落とした時、弟子を制止し、怪我した耳を直してやった事が書いてあって、ホッとしたような記憶が残っている。
そのままにしてあったので、整理する良い機会だ。

マタイ5章の後半部分に対して、あきれる程の平和主義と言いたくなった事がある。
マタイ5章39節、 「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
マタイ5章40節、 「下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
マタイ5章41節、 「一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」
マタイ5章42節、 「求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」
マタイ5章44節、 「迫害する者のために祈りなさい。」

他にも多々あり、典型的な平和主義がイエスの十字架だろうかと考えた事がある。
そのイエスが、 「剣を買いなさい」 と発言したのはどういうことか。
疑問を持つのが普通だと思う。

この疑問の答え探しに直接入らず、ルカの記載順を追って考えていきたい。

35節は、いつごろの伝道旅行か。
@9章3節、イエスは、こう言われた。 「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。←(12弟子を伝道に遣わした記事。)
A10章4節、 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。←(70人を伝道に遣わした記事。)
文章の内容だけに注目すれば、A10章の伝道旅行を指しているのだが、36節の文章を良く見ると 「しかし、今は」 と語り始める。
「今は・・・・・剣を買いなさい」と言ったのです。
この言葉に対応する言葉としては 「今までは・・・・・・・・いらなかった」 であると考えておくのが、単純である。

さて、 「今まで」 イエスたちは何をしていただろうか。
今までは、大まかにまとめると人々の病をいやし、苦しみから開放し、不思議を通して神の国を伝えていたのです。
だから、ご自分の故郷を別にすれば、何処に行っても、人々から喜びと好意の目で見られ、喜んで迎えられたので、35節のように、何も足りない物は無かったという結果が現れたのです。
これに続いて、 「しかし、今は」 と語り始めている。
イエスは、人の心は変わり易く、今まで好意を持っていた民衆でも、少しの状況変化によって敵意を持つようになる事を知っておられ、翌日にはその状況変化が起ることも知っておられた。
その、状況変化とは、権力体制側によるイエスの捕縛と裁判だが、37節の言葉 「『彼は罪人たちの中に数えられた。』 と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現する」 という言葉に現れ始めている。
(イザヤ53章12節参照、 「そむいた人たちとともに数えられたからである。」 を指しているようです。)

こう考えてくると、祭司長たちの敵意はますます激しくなり 「今からは、私が罪人たちの中に数えられるので、民衆の好意が得られなくなります。」 との見通しが隠れているでしょう。
ユダヤ地方では、罪人と看做された人物が好意を得られる事は無く、民衆からは敵視される様になると予告しているのです。

さて、36節の 「剣を買いなさい」 という物騒に感じる言葉は、何を意味するのか。
ありきたりに言うなら、平和な環境が物騒な環境に変わっていくというものだが・・・・・・」

思索の冒頭で触れたが、50節で弟子の誰かが、大祭司のしもべに切りかかって耳を切り落とした時、イエスが弟子を制止し、怪我した耳を直してくれた事が書いてある。
イエスは、弟子の誰かが準備した剣を用いて、敵対者を倒す事など、初めから考えておられなかったのです。(私がホッとした理由である。)

それで、聖書の中の“剣”という言葉に思いを馳せるなら、どんな言葉が浮かぶだろう。
私は、エペソ書6章の 「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」 というパウロの言葉が思い浮んだ。
ただし、イエスが語られた時に、この手紙は存在しなかったので、旧約聖書の中に、“ことば”という意味で“剣”が使われているのではないかと思い、調べてみたら少なかったが見つけられた。

詩55:21⇒彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。

詩57:4⇒私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。

詩59:7⇒見よ。彼らは自分の口で放言し、彼らのくちびるには、剣がある。そして、 「だれが聞くものか。」 と言っている。

詩64:3⇒彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

箴言12:18⇒軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。

イザ49:2⇒主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。

イエスはこうした用例を意識しながら、語られていた可能性があると思う。
即ち、 “剣”とは、イエスの“ことば”であり、ヨハネ1章のことばによれば“イエスの生活”であり、“イエス御自身” である。

しかし、 「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」 とまで言われたのは、今の私の腑に落ちない。
先入観を捨てよ。

この言葉が語られたのは、弟子達にとって、十字架の“死”、復活、聖霊降臨などのいずれも見ていない時点である。
ルカの福音書によれば、最後の晩餐の席上である。
この世に働きかける不信仰の霊と戦うには、聖霊によって聖書の言葉を自由に使いこなし、かつ訓練されなければ、勝つ事が難しいと聞いたことがある。
だから、 「私(イエス)の心がすぐに理解出来なくて良い。むしろ、すぐに理解できないまま、十字架の事件を通過させよう」 と判断なさったと考える事も出来るでしょう。
表現を変えるなら、弟子達の信仰を思いやり、自己防衛用の剣を持たせて、心を落ち着かせておく必要があると判断されたという見解である。
「焚き火が必要な季節だが、寒さから身を守る着物を売ってでも、剣を買わせて心を落ち着かせ、この緊急事態の時を乗り切りなさい。」という言葉になるだろうか。全く別のことばになってしまって少し心配だが、<<剣⇒“ことば”>>を意識されながら 「それで十分」と言われたイエスのお心を察しておかねばなるまい。 

38節は、文字通り読んでおいていいのでしょう。 「それで十分」 については、 「今はその心意気で十分です。」 という程度でしょうか。
祭司長達だけでなくローマの兵達まで来ることを予測できる方が、 「ここに剣が二振りあります。」 と言われて、そんな物何の役に立とうかとは言われなかった。
当然だが、イエスは 「剣を買いなさい」 によって、マタイ5章の言葉を廃棄したのではない。
弟子達にとっても試練の時が近づいている。

こうしてルカは、最後の晩餐におけるイエスと弟子達の記録を閉じた。
ここで、この福音書が書かれた年代について、私が持つ聖書の緒論を見ると、紀元57〜60年と書かれている。
これを書いた時ルカは、自分が立ち会ったか、自分で調べたか、パウロから聞いたか不明なのだが、イエスの十字架事件と“死”、復活、聖霊降臨など、後述されている事を確信しつつ書いているはずです。

ルカは、これを書きながら伝えたかった思いは何だったか。
ルカは、パウロの伝道旅行に同行していたのだから、イエスによる福音を伝えるために自分の人生を賭けていたのである。
このルカの記述を読んでいる現代の私たちは、何をどのように受け止めるか、一人ひとりが問われている。


(私の脳裏をかすめる言葉)
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。ピリピ3章16節


(私の感想)
今回の聖書箇所を読みながら、現代の各種争い、犯罪、人の苦しみ、戦争等々を想起させられ、同時に、ルカやパウロの伝道旅行についても想像させられた。
それにしてもイエスは、ご自身の十字架刑を目前に控えて、弟子達を思いやり続けておられた。