小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/09/18 20:28:32|その他
霊に属する人
杉本宣子師のお話から   主要テキスト:第一コリント2章14節〜3章4節

今日は第一コリント2章〜3章の中からお話致します。ここに3通りの人間の姿が記されています。
生まれながらの人(2章14節)、肉に属する人、御霊に属する人(3章1節)です。

T.生まれながらの人
私たちは、もの心つく頃になると神なんか必要ないという気持ちと自我に目覚めます。
神がおられると自分の罪が暴露されて困るし、いない方が安心する。
自分が神の配下に置かれたくないのです。(14節、ピリピ3章19節など)
生まれながらの人とは、神を認めない、神を好まない、神を避ける人です。私たちクリスチャンは神によって生かされている存在であると謙遜になる必要があります。

U.肉に属する人
Tコリント3章3節 「・・・・あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属している・・・・」 。
これはクリスチャンになって、いつまでも成長しない赤子のままの人の事です。
赤ちゃんはミルクから離乳食、固いご飯と成長とともに変わります。
霊的に大人になるとはこの幼児性を脱却することです。
いつまでたっても自分を喜ばせる事や、自分の事を大事にしてほしいということだけで、神のみこころや、隣人を考えようとしない自己中心の人です。
それは人間が生まれながら持っている肉の性質で、神のことばを素直に聞き入れないので、 「肉にある者は神を喜ばせることができません。」 (ローマ8章8節)。
この世の価値観、考え方にたやすく同調しやすいので、 「この世と調子を合わせてはいけません。・・・・」 (ローマ12章2節)。
更に、Tヨハネ2章15節、 「・・・・だれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」 と諭しています。
私たちはこの世に生きていますが、早く肉の性質から脱却して霊の人にならなければならないのです。

V.霊に属する人
洗礼を受けた人が全て霊に属する人でなければなりませんが、必ずしもそうではありません。
救いとは、十字架を信じて犯した罪が赦され、神の子としての特権を与えられ、聖霊の内住を頂いて、天国の保証に預かる望みを頂くことです。
しかし、その救われた人の古い性質が、神からの支配権を握ろうと主張するのです。
ローマ7章19節には、人の内面に働く二つの原理をみます。
神を愛している自分がいるのに、違う原理が内側にあってそれをさせないという。
一人の人格の中で戦っている。
それが自分を悩ませると告白しています。
自分の主張どおりにならないと、急に不機嫌になる自分、小さな誘惑に負けてしまう自分、他の人が褒められるとねたましく失敗するとほくそ笑んでいる自分、頭ではよくないと分かりつつ聞き分けのないわがままな自分、頭での理解と反対の行動をする古い自分がいる。
いつまでも幼児のような(肉の)クリスチャンではなく、大人のクリスチャンにならなくてはなりません。
頑張りではなく、そのような自分を本気で認めて、肉の思い、情欲や欲望を十字架につけてしまうのです。
ガラテヤ2章20節、十字架につけるということは、自己主張して止まないエゴ、情と欲のかたまりのような自分を、丸ごと神のみ手の中に投げ出すこと、お捧げすることです。
聖霊に自分の内側を全部明け渡し、主導権を明け渡すことです。
神はやさしい愛の方で、私達の理解者ですから、楽しみを奪う方ではありません。
私たちに真の幸いを用意してくださり、愛のみ手で守り支え、最善に導いてくださるお方です。
この方を信じ、歩調を合わせて歩むなら、聖霊によるうるわしい実を結ぶことができます。
ガラテヤ5章22〜23節は、なんと幸いなことでしょうか。                   編責 H&K







2011/09/06 10:04:02|その他
今あるは主の恵み
亀井正之氏のお話から   主要テキスト:ローマ3章1〜22節

T.出会い・離反・異変
この地では初めて証しの機会を与えられ感謝しています。
私は67歳です。生まれてまもなく東京大空襲がありました。
私と母は群馬県に疎開しており、空襲から守られました。
中学になったある日、友人に誘われ初めて教会に行きました。
そこで 「あすのための心配は無用です。・・・・労苦はその日その日に、十分あります。」 とマタイ6章34節のみことばにふれた事を忘れません。こんなすばらしいみことばを勉強したいと思い、中学時代の3年間通い続け、イエス・キリストを受け入れ、洗礼を受けました。
しかし、大学卒業後就職し、教会からも離れてしまいました。
結婚して3人の子供が与えられ、仕事に追われる毎日でした。
あるとき我が家に異変が起きました。妻から 「聖書の勉強をしたいの」 ということばを聞かされました。
私はそのことを受け入れましたが、これが失敗でした。
なぜなら、妻はそのままエホバの証人の信仰者になってしまっていたからです。私は教会から離れていましたので、何がおきているのか分かりませんでした。
気がついたら、我が家はエホバの証人の集会所になっていました。

U.間違い探しの旅
そこで以前の聖書のことばを思いだし、エホバの信仰との違いを見つけ出そうとしました。
転勤が続く中で、東京の本社に配属になりました。
妻をエホバの証人から戻すために新たな教会に移り、牧師の推薦を受けて神学校(O・B・I)に行く事を勧められて学びました。
更に、早期退職後、聖書宣教会に学び、修了することができました。
そこで分かった事はエホバの証人の教えは間違いであるということです。
その特徴の第一は、輸血拒否をするということです。第二は格闘技を拒否  第三は国家や国旗を拒否し、また学校の級長や全ての長を拒否します。
要するに、エホバは間違った福音で異端である事が分かりました。

V.イエス・キリストによって
私は妻の間違った信仰を学ぶことによって、初めて自分の人生の目的と救いを見出した男なのです。
私はよい事をすると救われると思っていました。
良いことをすると救われると言ったのはパリサイ人の教えです。イエス・キリストを信じて救われるのです。
それはイエス・キリストが私の罪を負って十字架につかれる事によって救いが(贖いが)完了しているからです。
ローマ3章20節 「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」 
ユダヤ人たちはモーセから律法をいただいて守れたかというと、守れなかったのです。
罪のない人間はいないのです。
人は自分中心だから人を本当の意味で愛せないのです。
それは聖霊が私たちのうちに入ってくださった事によってきよめられ、徐々にキリストに似る者とされていくのです。イエス・キリストを信じることによって神のさばきからのがれることができるのです。

結び
ローマ3章23〜24節
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 今の私があるのは、主の恵みなのです。
編責H&K







2011/08/26 7:38:07|先週の礼拝から
御名をあがめさせたまえ
芳賀功師のお話から   主要テキスト:マタイ6章9節

8月15日は終戦(敗戦)記念日ということで、日本にとっては特別な日です。
私はその時小学一年生でした。ラジオから流れる雑音でかき消されるような音で、玉音放送を聞かされました。いわゆる敗戦宣言です。
本当に平和はいいなと思い、祈らされます。
先週は主の祈り 「天にまします父なる神よ」 でした。
今日は 「御名があがめ(崇め)られますように」 です。

T.御名とは神の名前のこと
出エジプト3章14節にモーセが神から重大な使命を受けた時、彼は 「あなたの名前は何ですか」 と問いました。
これに対して神は 「わたしはある」 という者ですといわれました。
それは存在しようとして存在できるという意味です。
これは神の呼名は永遠の方であることを示しています。
神の御名があがめられるとありますが、どのような御名があがめられるべきだというのでしょうか。
それはきよい(聖い)神です。
英語ではホーリー・ネームとありますが、神の名は聖です。
神の聖さとは、神の愛・神の正しさ(義)・神の力、神の智恵と知識、そして神のあわれみです。
神は私たちの考えをはるかに超越した完全な方です。
これが神の聖さです。
祈るとき 「私のそばにいつも居てくださり、道を迷わないように、そして神の願う歩みが出来るように、神の御名が聖なるものとされますように」 と祈るのです。
その祈りが私の最大の力となり、生きる希望に変るのです。

U.三日前の祈り
ヨハネ12章27〜28節、イエスが十字架にかかる三日前の祈りをみましょう。
イエスは父なる神から片時も離れませんでしたが、人間の罪をすべて負うことで神から捨てられようとしていたのです。
この祈りの時 「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」 との神の声がありました。
イエスは、公生涯の初めに 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」 とのことばを受け、それを支えに身代わりの十字架の道に進まれ、三日前の祈りへと続いていたのです。
こうして死からよみがえらせていただき、神の栄光が現わされ、神の御名があがめられたのです。

V.御名があがめられる生きかた
私たちにとって、御名があがめられる生きかたとは、どのような生活をいうのでしょうか。
マタイ5章16節 「・・・・人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 とあります。
それは私たちの背後にあって働かれる神を、現すことができるような生活こそ 「御名があがめられる」 生活だと言えるのではないでしょうか。
考えると自分は神の御名を汚すような生き方の見本みたいな男でした。
しかしこのような男のためにも、イエスは十字架で死んでくださったのです。
その主に対して、ただゝゞ悔い改めて神様へのあかしの人生にしたいと願うだけです。
それはもちろん自分のためではなく、神の栄光になるようにという気持ちからきています。
生きている間に 「御名をあがめる」 信仰の証しをしたいものです。ハレルヤ!                
編責H&K







2011/08/15 13:54:02|先週の礼拝から
わたしの心に適う者
芳賀富子師のお話から   主要テキスト:マルコ1章1〜13節


マルコの福音書はしもべとしてのイエス・キリストを、マルコによって書かれました。
ですからマルコにはイエス・キリストの系図も、誕生も、少年時代も記されていません。
1〜13節には、イエスが働きを始めるにあたり、公の伝道の働きの準備について記されています。イエスはその準備期間において、父なる神に 「わたしの心に適う者」 (共同訳)と言われています。
それはどのようなことか。

T.バプテスマのヨハネの働きを受け入れられたイエス
福音の 「はじめ」 そのものはイエス・キリストから始まるのですが、その活動は、バプテスマのヨハネの活動をもって始められたのです。
彼の奉仕の場は荒野で、そのメッセージは罪の赦しのための悔い改めとその告白の証しとしてのバプテスマでした。
彼はヨルダン川で、悔い改めた人々にバプテスマ(洗礼)を授け、イエス・キリストについて 「私よりもさらに力のある方・・・・私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。・・・・その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」 と(7〜8節)人々に紹介しています。
そしてイエスは、メシアである自分を人々に示す働きをしていたヨハネを尊重し、その働きを受け入れ、ヨハネからバプテスマを受けたのです。それはヨハネを先に遣わされた父なる神の心に適ったことであると言えます。

U.バプテスマを受けられたイエス
しかし、告白すべき罪も悔い改めるべき罪もないイエスが、どうして悔い改めのバプテスマを受けられたのか。
最大の理由は、バプテスマによってイエスは、ご自分が罪人の中に数えられることを良しとされ、罪人の立場に身を置かれたのです。罪の世界に生きる人々と共に生き、彼らを罪の世界から救い出すために、バプテスマを受けられたのです。
10〜11節、イエスがバプテスマを受けられ、水からあがられたすぐその時にイエスが見たもの、それは天が裂けて御霊が鳩のように下ったということです。
さらに天からの声 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」 というものでした。
これらはイエスがご自分の使命を確認された時であり、父なる神との特別な関係を示していると言えます(ヨハネ1章18節)。
「わたしはあなたを喜ぶ」 とは、イエスが救い主として立てられ、その犠牲と苦難のしもべとしての働きが父なる神にとって喜びであるのだということです。
まさに 「わたしの心に適った者」 であり、父なる神のお褒めのことばを頂いたのです。
けれどもこのスタートはイエスにとって十字架への道のりの始まりなのです。

V.荒野でサタンの誘惑を受けられたイエス
12〜13節 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられ・・・・サタンの誘惑を受けられた・・・・」 サタンは主の前に、受難の道を行くのか、それとも、もっと安易な道を行くのか二者択一を迫ったのです。主は十字架への道を選ばれました。
サタンは神に対して敵対し、神と人との正しい関係を破壊する者です。
荒野における誘惑に勝利できたのは神のことばでした。
イエスは御霊を避けることなく逃げることなくその導きに従われ、サタンの誘惑を受けられるため毅然と向かわれたのです。
その姿勢と神への従順は 「わたしの心に適った者」 として父なる神に喜ばれたのです。
サタンに主がみことばで勝利できたように、私たちもみことばによって、選択において決断において誘惑に勝利できる者となりましょう。
詩篇40篇8節 「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心にうちにあります。」
主が父なる神のみこころに従われたように、このみことばが私たちの祈りとなり、思いと行いとなりますように祈り求めていきましょう。
編責H&K







2011/08/09 7:13:53|その他
天の父なる神よ
芳賀功師のお話から   主要テキスト:マタイ6章9〜13節
 
T.イエスにつながる者
信仰が与えられた人にとって最も自然で大切な事は祈りであります。
祈りのない信仰はあり得ないからです。
その祈りは新しく生きるいのちの現われだからです。
信仰についてどのような知識や、理論をかたっても祈りがなければ燃料供給のない車と同じです。
私が外国のクリスチャンと旅行に行った時の事です。その時、私はパスポートの盗難にあってしまいました。
一行の全員の人が部屋に入って来て 「祈れば必ず見つかります」 と私のために祈ってくださいました。感動しました。
祈りこそが人と神とを結びつけるものであると信じるのであります。
ですから、イエス・キリストにつながる者にとって祈りは生命線(呼吸のようなもの)なのであります。
イエス様と共に生活をしていた弟子たちは 「私たちに祈ることを教えてください」 と主に願いました。それが主の祈りです。
なぜ祈ることを教えてくださいといったのでしょうか。

U.父よ
それはイエスの祈りが新しく響いたからです。
イエス様は神に向かって 「父よ」 と呼びかけて祈ったからです。
このような祈りが弟子たちの目を開かせたのです。
主の祈りの最初のことばは 「天の父なる神様」 という呼びかけで始まります。 この呼びかけは、自分の力では出来ません。聖霊の助けによるのです。
またなぜ祈りの前に必ず 「父よ」 と呼ぶのでしょうか。
第一にイエス様が教えられたからです。
第二は誰に向かって祈りをするのか、対象のない祈りはないからです。
第三に神のみ子を信じた時に、神は私たちにみ子の霊を与えて神の子とされました。それで私たちは神のまえに出て、はばからず 「天の父なる神よ」 と呼ぶことができるのです。
なんという特権でしょうか。

ですから、主の祈りは常に公同の教会を意識して、神の子である兄弟たちと共に、お互いのことを覚えながら、父なる神に祈るのです。
祈ることが出来るということは本当に感謝なことです。
祈ることが出来なかったら私たちは行き詰まることでしょう。
どんなに辛い苦しいことがあっても、父なる神、天のお父さんに祈れるということは本当に救いです。

結び
私たちは神に向かって 「父よ」 と呼ぶことが出来る者にされているのですから、 「天にいますわれらの父よ」 と呼んで祈りなさいと、主は言われるのです。
天の父なる神は私たちの祈りを聞いて下さいます。
その祈りは私を支え、いやし、悲しみを慰めてくださいます。
だから父なる神に向かって、信じて祈るのです。
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」     (エレミヤ29章12節)                                         編責H&K







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