小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/08/05 8:09:13|先週の礼拝から
神と共に歩む
芳賀功師のお話から   主要テキスト:ヨハネ17章21節

T.福島第一バプテスト教会
今月出版されたばかりの本 「流浪の教会」 を紹介します。3月11日東日本大震災で大きなダメージを受けた教会の物語で、
地震と津波、そして原発事故に伴う避難命令という三重苦に遭っているのです。
この教会は福島原発から3km内にあり、あの水素ガス爆発事故と同時に閉鎖を余儀なくされ、教会員は離散せざるをえなかったのです。
この試練をどのように乗り越えつつあるのかこの本から教えられます。

U.教会と被災の概要
1947年に宣教師により開拓され、60年後には信徒数500人に到り、2008年福島県浜通り大野町に、100年先を見据えたという立派な会堂が建てられたのです。
しかし、水素ガス爆発に伴う放射線量は、許容基準値をはるかに越えた値で、政府から2時間以内の非難指示を受け、着の身のまま教会を去ることになりました。
こうして500人の信徒は会津、山形、ほか各地に離散、奥多摩福音の家にまで導かれた方々は60人でした。

V.1つとなるため
奥多摩福音の家に導かれた信徒に対して、S牧師は、ただ、ただ、 「神が共にいて下さる」 という確信に満ちたメッセージを語られたそうです。
その時、S牧師の心に与えられていたみことばは 「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。・・・・・・そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」 (ヨハネ17章21節)だそうです。
困難な事態であるのに、神の意思が理解できていたから 「神が共にいてくださる」 という確信を失わなかったのでしょう。

W.神と共に歩む秘訣
神と共に歩む秘訣を整理しておきたい。
第一は、神が一人ひとり行くにも帰るにも、見えない姿で二人三脚のように共に寄り添って下さり、神と一つになるときに奇跡を見せてくださいます。
そのためには神様としっかり紐を結び、タイミングがあわなく転んだ時、神は抱き起こして下さることを信ずるのです。
第二はヨハネ10章29〜30節、 「・・・・・わたしと父とは一つです。」 イエスはこのように宣言しています。
全てを失った福島バプテスト教会の失望と落胆はどれほどでしょうか。
しかしキリストと私とは一つであることをあくまで信じて神と共に歩むのです。
第三にこの教会は、教会も教会員も伝道する地さえ皆失ってしまいました。
まさに私たちにはとても理解できない流浪の教会です。
しかし、神とイエスが一つであるように、イエスと結ばれて互いが愛し合う事によって,どのような患難をも乗り越えられると信じ確信しておられるのです。
それは私のために十字架で死んでよみがえって下さった 「主と共に歩む人生」 を旅しているようで、行き先は御国であるということだと思うのです。

X.建物ではなくて教会に
最後にS副牧師夫人は 「私は全てを失って恵みを得ました。その最大の恵みは教会という建物ではなくて、私たちは今教会にいるという恵みです。神様は今共にいますが、いないと思ったことは一度もありませんし、また不安もなく被災してからもこんなに恵まれています。被災しないと味わえない現実です。」 と話しされました。

結び
私たちはどのような大きな患難や試練があったとしても、神と共に歩むことです。
「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」
編責H&K







2011/07/17 21:36:31|先週の礼拝から
呼び寄せて下さる主
久保昌子師のお話から  主要テキスト:ルカ13章10章17節

私たちの心のドアをノックするかのように、みことばをもって神がノックしてくださる礼拝は、貴重なときです。安息日の会堂に一人の腰を痛めている女の人がおり、主のいやしの恵みにあずかった出来事を学んでみましょう。

T.安息日の出来事
ルカ13章10〜11節、 イエスが安息日に会堂で教えておられたところに、18年も病の霊につかれていた女の人がいたのです。
さて、人ということばは、聖書の原語ですと上を仰ぐ者という意味があるそうですが、その人は腰が曲がって全く伸ばすことができないので、上を見ることができないのです。
長く苦しい期間でした。
それは18年の間サタンに縛られていたからなのです(16節)。
現代は神を仰ぐよりも目の前のこと、今日のパンに明け暮れている人が少なくない時代ですが、この女の人にとっては会堂に座っていたことが祝福でありました。

U.イエスはその女を見て
12〜13節、イエスは腰を伸ばせないその人を呼び寄せられ、 「あなたの病気はいやされました」 と宣言され、ご自分の手を置かれると、イエスの力が放出され、腰が伸びたのです。
女の人もこのイエスのことばに信仰が働き、自分も腰を伸ばしたいという願いと欲求を持てたのでしょう。
いやされた女の人は神を崇めています。
主は人の苦しみ、いたみを見ておられるのです。
上からの目線ではなく、その人の立場に立って、その人の目線に立ってくださるのです。
14節、しかし会堂の管理者は・・・・イエスが安息日にいやされたのを憤ったのです。
苦しんでいた人がいやされたことを喜ばず、いやし主であるイエスに腹を立てたのです。
主はどんな人でも不必要な苦しみを伸ばされないのです。

V.群集は…喜んだ
17節、一人の人が主を信ずるとき、変えられていくとき伝染性があるのです。
いのちがけで主を信じ信仰生活を生きようとするとき、 「群衆はみな、・・・・みわざを喜んだ。」 とあるようにその信仰が伝染します。それは聖霊が常に働いているからです。

W.結び
主は一番必要としているところに届いてくださる。一人の人の救いのために、理解してくれる人がいない人、孤立している人、敗北感に立たされている人、疲れている人(マタイ11章28節)を呼び寄せてくださるのです。







2011/07/11 15:35:56|先週の礼拝から
神は避け所
芳賀富子師のお話から    主要テキスト:詩篇46篇
 
 この年の後半の歩みを思いつつ、神が避け所となってくださるというみことばを心に留めたいと思います。

T.神は避け所である
詩篇46篇1〜3節、ここに天変地異を思わせる絵を見ます。
3月11日の東日本大震災という想定外の地震、そして津波、原発事故などを重ねて見ることも可能でしょう。また、私たちの人生に起こる試練、出来事、病や直面する問題課題も同様に言えます。
ここで詩篇の作者が「 われらは恐れない」 と確信をもって言う理由は、神を 
@我らの避け所として A力あるお方として B苦しむときすぐに助けてくださる方として 捉えていたからです。
「避け所」 とは昼は暑さを避ける陰、あらしと雨を防ぐ隠れ家 (イザヤ書4章6節、25章4節) と表現しています。
暑さは私たちを弱らせます。
嵐や雨は打ちつけ、揺さぶり、破壊することもあります。
神は真の避け所です。
そこに駆け込む時に、神の力が現され、苦しむ者にとって、すぐに助けてくださる最も近い助けがそこにあるのです。

U.避け所は神の臨在(神がおられる)される所
神を避け所とすることは、暑さや、嵐や雨を一時的に凌ぐかのようであってはならないのです。
その避け所に留まること、留まり続けるということが大切です。
5節 「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。・・・・」 都とはエルサレムのことを指しています。
ヒゼキヤ王の時、エルサレムはアッスリヤ軍に包囲され危機的状況に立たされました。
神は王と民の祈りにみ使いを遣わし一夜にして敵軍を亡ぼされたのです。
神の助けは間に合う助けです。
神が都に臨在され、そこに力を現わされたから勝利できたのです。
主を信じる私の心中にも、神はおられます。いかなるときにも主に信頼し祈りましょう。

V.避け所は神を知る所
8節 「来て、主のみ業を見よ。」 神がなされた業を見るようにと、招いています。
見るためにはどうしたらよいのでしょうか。
10節 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。・・・・」 と。
神の業を見るために、神を知るためには、自分の業をやめることです。
やめるときに、神の業がわかるのです。
見ることができるのです。
自分の愚かさ、傲慢さ、無力さを知らされます。
心を静めて、避け所なる神に心を向けること、自分自身を全く委ねること、任せることが神を知るときとなるのではないでしょうか。

W.積み重ね
毎日朝ごとに、ことあるごとに、避け所なる主に心を向けることによって、神を深く知るという時を祈りとみことばの中に見出すことが出来るのではないでしょうか。
そうした積み重ねが予期せざることが起きた時に、動揺し心騒がせるのではなく、避け所なる神のもとに助けを求め、希望を置くことができる者とならせて頂けるのではないでしょうか。
詩篇62篇8節、 「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」







2011/07/07 7:22:44|先週の礼拝から
天に宝を
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:マタイ6章19〜20節

T.もったいないことが起きた
明日、ある方がアメリカの自宅に向けて帰国されます。日本で新調した家財の全てを処分せざるを得なかったのです。 
あぁもったいないと思うでしょう。
そんな訳で、今日は帰国されるご夫妻にマタイ6章20〜21節 「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 を贈りたいと願いつつ、共に学びたいと思います。
このことばは、ある人が御国にも銀行があるのかと質問をしたほどに誤解され易く実行しにくいので、なかなか話しにくいところです。

U.地上の宝
ここでは 「地上に宝をたくわえること」 と 「天に宝をたくわえる」 ことが対比されています。
それは天と地、つまり宝をためておく場所が問題なのです。
地上では盗人がくるし、価値が変動するし、もったいないことが起きます。
たとえそうでないとしても永遠に残る確実なものではありません。
死ぬ時は、全て地上に置いて行く、私たちの宝とはそんな物なのです。
そのために一生働くのは愚かだと分かっていても、全力で働くのです。
また、東日本震災で、全てあっという間に津波で流され、ある被災された方は 「何のための人生だったのだろう」 と口々に話しておられました。

V.天に宝を積む
私は天に宝を積むこととなると急にケチるような人生を歩んでまいりました。
聖書では、天に宝をたくわえるとはどうすることだと言っているのでしょうか。
マタイ19章21節で、イエスは富める青年に対して 「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」 と言われました。
これは19章20節 「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 との質問に答えられたのです。
ですから与えられたものを貧しい人たちに放出する事は、天に宝として積むことでしょう。
「そのうえで、わたしについて来なさい」 ということばを見落としてはなりませんが、報酬なしに人を支え、与えつくすことは、失うことでも損をすることでもなく、天に宝としてたくわえられているようなものだというのです。
それは、お金だけでなく、才能や教養、時間も健康も賜物で、それらは自分の欲望を満たし成功を勝ち取るためではなく、神様に、そして人に役立てるものです。
自分の心、自分の希望を天に向かせるからです。

W.隠された天の宝
人間は富や財にとりつかれてしまいますが、私もいつも心の中ではそのところから解放されたいと思っていました。
それは、福音という人間の人生基盤を持たないところから来る不安やむなしさでしょう。
そのような人は、お金や財産だけでなく、地位や名誉に生きがいを見いだして、安心と満足を得ようとする心が生じ易いのです。
しかし、コロサイ2章3節には 「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」 とある。
勧められている生き方は、ただ1つです。
それは私たちを創造し、生かしてくださっている神の恵みと、十字架の上で命をも捨ててくださった主キリストのために生きること。
そしてキリストのために一人ひとりは何ができるのでしょうか。
マタイ6章24節 「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 わたしたちは、聖霊のご支配に信頼して、神に仕えて生きることを勧められているのではないでしょうか。







2011/06/27 19:41:45|先週の礼拝から
祝福の源となったナオミ
内田 彰師のお話から   主要テキスト:ルツ1章1〜22節

お招きいただきありがとうございます。
今日はルツ記から、ナオミについて神のことばをうかがいます。

T.試練には2種類ある
試練には二種類あると思います。
一つは「理由のない試練」、二つ目は「理由がある試練」です。
私は養護学校に勤めていましたが、障害児を見ていると 「この子や親に何の罪もないのに」 と思いました。
今度の東日本大震災などもその代表でしょう。
二つ目の 「理由がある試練」 ですが、これは自業自得とでも言いましょうか、暴飲暴食をして体をこわすようなものです。
今日のナオミの試練は後者です。

U.ナオミの試練 
ナオミは聖書が士師の時代と記すころ、ベツレヘムに住んでいました。
ところが飢饉があり、モアブの地に行きます。
しかし、モアブの地で約十年の間に夫と二人の子供に先立たれてしまったのです(1〜5節)。

さて、ナオミは息子で苦しんだようです。
それは、息子達の名前で、マフロンは 「病人」 、キルヨンは 「虚弱」 という意味だからです。
そこへ飢饉が襲いました。家族はモアブの地へ移り住みます。
でも、イスラエル人にとってモアブの地は汚れた民の地でした。
聖書はこう記します。
「こうしてロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。
妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。」 (創世記19:36〜38) 
モアブは 「私の父の子」 、アモンは 「肉親の子」 という意味です。
この時代、彼らは偶像礼拝と性道徳で乱れていたことが聖書の随所に記されています。
このような地で夫エリメレクは死にました。
二人の息子はモアブの女をめとりました。マフロンはルツを、キルヨンはオルパです。
私たちで言えば、息子がオウム真理教の娘をめとったと同じです。
「知恵ある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみ」 (箴言10:1)とありますが、ナオミの悲しみはどんなだったでしょう。
不幸は重なる時には重なるものです。今度は二人の息子が死にました(ルツ1:5)。
この頃の苦しみを後にナオミはこう言います。
「『私をナオミと呼ばないで、マラと呼んで下さい。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。
私は満ち足りて出ていきましたが、主は私を素手で帰されました。何故、私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし全能者が私を辛い目に合わせられたのに。』」(ルツ1:20〜21)と。
ナオミとは 「愛されている者」 、マラとは 「呪われた水」 の意味です。

V.ベツレヘムに帰る決断をする。 
この時、ナオミの心に 「ベツレヘムへ帰ろう!」 と言う思いが起きました。それは 「神さまに帰らない限り、私の幸せはない!」 と気づいたからだと思います。
ベツレヘムでは 「飢饉の時でさえみなが集い、讃美し、祈った。」 幸せだったのです。
「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。
そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。」 (ルツ1:6〜7)
弟嫁オルパはモアブに帰りましたが、兄嫁ルツはどこまでもナオミについて行きました。

4.何故、ルツはナオミに着いて行ったのだろう? 
「ルツは言った。 『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれるところで私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。』  ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。」 (ルツ1:16〜18) 
このルツの決意はどこから来るのか? 私はナオミが試練の中でひたすら祈り、神を見上げる信仰が、モアブの女ルツの心を捕らえたのだと思います。

X.祝福の始まり! 
そうして22節は 「大麦の刈り入れのころベツレヘムに着いた。」 と記します。
もし、大麦の刈り入れの時期でなかったらどうなったでしょう、ルツは落ち穂拾いに出かけないし、出かけなければボアズにあわないし、あわなければ結ばれないし、オベデは生まれないし、エッサイもダビデも生まれません。
すると、主イエス様は誰のところに生まれるのでしょう? まさにナオミが救い主の誕生の基盤になったのです。

まとめ
ナオミの不幸はモアブに行くという 「理由のある試練」 から始まりました。
でも、その間違いに気づき、神さまのもとに帰った時、神さまは豊かな祝福をもってナオミを迎え、溢れるばかり祝して下さいました。
私たちにも同じです。 みなさんも聖書の神さまのもとに帰りませんか。
平安と喜びに溢れ、豊かな祝福に覆われます。
ナオミに起きたことは今も私たちにも起きるのです。