いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/09/05 16:37:01|聖書
いつまでも遅らせる?
「神の国はいつ来るのか」 というパリサイ人の質問に端を発したイエスの話が続きます。

先ず、「あなたがたのただ中にあるのです。」 と言って、神による霊的レベルの支配がすでに始まっていることを気付かせようとされた。

次に、福音宣教が初めの熱を失い世俗化してしまうと、イエスが再び来られる。
「人の子の現われる日」 という言葉を用いているが、「すべての人が滅ぼされます」 と話されたように神の裁きがあることを予告されたのだ。

ここで、イエスは 「ノア」と 「ロト」 の例を示された。

オウム真理教事件以前に 「イエスの箱舟」 と言う名の新興宗教が話題になったのだが、あれは、イエスの十字架による贖いによる赦しと、その救いにあずかる集団として 「ノア」 を 「イエス」 に代え、 「ノアの箱舟」 による救いを連想するように付けたものだろう。
私の想像に過ぎないが 「イエスの箱舟」 に加わったメンバーは 「人の子が現われる日」 の神の裁きから逃れられると教えていた可能性がある。

23節に 「こちらだ」 「あちらだ」 とか言っても という表現があるが、 「イエスの箱舟」 のようにいろいろな教えがはびこる時代が始まっている。

それに続くのが今回の記事だが、その時が来たときの注意事項を弟子たちに話されます。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(その日、家財を取りに戻るな。後ろを振り向くな。)31〜32節

(自分のいのちを救おうと思うな)33節

(一人は取られ、他の一人は残されます。)34〜35節

(死体のある所、そこに、はげたかも集まります。)37節



(私が持つ聖書の補足欄から)
31〜35節 : 再臨を待つ姿勢は、神の国の働きのために求められる姿勢と少しも違わない。
A.後ろを振り向くな(31〜32節)←→9章62節
B.神と富に兼ね仕えるな(31、33節)←→16章13節
C.自分の救いの達成に努めよ(34,35節)←→14章26〜35節 、 ピリピ2章12節

37節 はげたか : 審判の象徴。  27,29節で示す 「すべての人を滅ぼしてしまう」 審判が普遍的に訪れる。


(私の思索)
イエスは、いつも真理を例えで語る。
ここも例外ではない。
読み方を誤るなら 「イエスの箱舟」 と同じ過ちに陥る。

聖書全体を把握するには、先が遠い。
イエスは、 「あなたがたを休ませてあげます。」 といったが 「舟に入って休み続けなさい」 とは言われなかった。
良い指導者か、何らかの参考書が無いと前に進めない。


(私の脳裏をかすめる言葉)
約束のことを遅らせておられるのではありません。  Uペテロ 3:9


(私の感想)
補足欄の 「審判が普遍的に訪れる」 というコメントが厳しい。
しかし、人類が本来の愛する存在に戻れるために、いのちを差し出して下さった事を聞いているのに、それから目をそらしたり無視したりし続けるなら、最後に審判を下すことは、避けられない神の義か。
悪に苦しみ、日夜裁きを待ち望んでいる聖徒がいるのなら、いつまでも遅らせることは無いのだろう。







2007/08/30 0:08:18|聖書
ノアの日やロトの時代のように(一部訂正)
弟子たちに向かって、人の子の日がどんな様子で到来するのかを説明されたイエスの話が続きます。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(先ず、人の子はこの時代に捨てられる)25節

(人の子の日にはノアの日に起きた事と同様な事が起こります。洪水が人を滅ぼしました。)26〜27節

(また、ロトの時代とも類似しています。火と硫黄が人を滅ぼしました。)28〜29節

(人の子の現われる日にも、同じようです。)30節



(私が持つ聖書の補足欄から)
26〜29節 : ノア時代とロト時代の出来事が人の子の日到来と似ているのは、予告が与えられていながら信じようとせずに、飲食、結婚、売買に狂奔していた世俗性や現世主義にある。

30節 人の子の現われる日 : 再臨の時(復活され天に帰られたイエスが再び来られる時)


(私の思索)
イエスが再び来られるとき 「すべての人が滅ぼされます」 と予告されている。
但し、ノアの家族やロトの家族のように御心にかなう者だけが例外者として扱われるという予告だ。

その滅ぼされる方法は、人類による兵器なのか、流星群の衝突なのか、環境変動なのか、この部分の言葉には推察する手掛かりはない。何か考える必要があるなら黙示録を詳細に読むべきだろう。


(私の脳裏をかすめる言葉)
今は恵みの時、今は救いの日です。  Uコリ 6章2節


(私の感想)
私たちは、滅びから逃れるためにイエスを呼び求めるのではなく、よみがえられえたイエスが人生を伴に歩んでくださり、喜びで満たしてくださると、他のところで言っているので、それを求めたい。

この記事について個人的に考えると、 「結果的に例外者として滅びから逃れるのなら、これに越したことは無い。」 という程度だ。

しかし、聖書を知らない私の知人達を考えの中に入れるなら、急いで伝える必要が出てくる。
大問題だ。







2007/08/25 6:25:35|聖書
人の子の日には
パリサイ人たちに神の国はいつ来るのかと質問され,
 「人の目で認められず、神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 と説明されたあとのことです。

弟子たちに向かって話をします。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(イエスは弟子たちに、 「人の子の日を見られない時が来ます。」 言います)22節

(人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行くな。人の子は、人の子の日には、そのようであるからだ)23〜24節



(私が持つ聖書の補足欄から)
22節 人の子の日 : メシア時代。
22節 見られない時が来ます : イエスを拒否する全く世俗化した時代が予見される。


(私の思索)
「人の子」とは誰を指しているのか気になったので調べてみた。

旧約聖書の用い方は、次の三種類である。
@ 人類一般を対象としている。
A 主が預言者に言葉をかける時の呼びかけ。
B ダニエル書の中で「人の子のような方」という表現がある。これはイエスを指す言葉と理解したい。

新約聖書の用い方(概ね)次の4種類である。
@ 人間として来られ、福音を伝えたイエス自身を指す。
A 十字架による死と3日後に復活し、人々の前に現われることを予告するイエス自身を指す。
B 天に帰られた後、再び来られることを予告するイエス自身を指す。
C 神の座におられるイエスをイエスを指す。


人の子の日 ⇒ メシア時代とは、キリストの時代を指す。
まさに現代を指している。
「福音宣教の様子を見られない時が来ます。」 と読み替えることが出来る。

従って、22節〜24節は、福音宣教時代の最後であり、 B の始まりの様子を予告したものと考えられる。

補足欄の表現を借りるなら、教会における説教と教会活動が、イエスを拒否し、全く世俗化した様子を示す様になってきたら、イエスがもう一度来る日が近づいているということだ。

新約聖書における 「人の子」 という用語の書簡別使用回数
マタイ 32
マルコ 16
ルカ  28
ヨハネ 14
使徒  1
ヘブル 1
黙示  2


(私の脳裏をかすめる言葉)
目を覚ましていなさい。


(私の感想)
思考による理解を超えた言葉だ。







2007/08/19 23:41:11|聖書
神の国はいつ来るのか
パリサイ人たちに神の国はいつ来るのかと質問された時のことです。
この時のパリサイ人は真剣に尋ねていたのでしょう。

何故なら、彼らは旧約聖書を真剣に、詳細に学んでいて、神が人間の歴史に介入してきた時代、エジプトの時代の圧政の苦しみからイスラエルを開放した時代のことを知っていました。

そして、ローマに支配されている状況から早く開放されることを願っていたようでしたから、神の介入が政治的な形で現われるものと思い込んでいて、それはいつでしょうかと訊ねた事でしょう。

これに対するイエスの答えた内容は、彼らに理解できなかったか、理解できたとしても彼らを失望させただろう。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(パリサイ人の質問 : 神の国はいつくるのか。  イエスの回答 : 神の国は人の目で認められない。)20節

(神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。)21節



(私が持つ聖書の補足欄から)
「神の国はいつ来るのか」 と問う姿勢に根本的な誤解がある。

傍観的観察を許すような仕方で、神の国は来ないし扱えない。
「あなた方のただ中にある」 イエスのメシア的わざによって現に来ている。


(私の思索)
旧約聖書に記されたイスラエルの民に対する神の関わり方を念頭に置く時、パリサイ人の 「神の国」 観と同じようになりそうだ。
ほんの一握りの人々に与えられた信仰が部分的に煌いているだけだから。


(私の脳裏をかすめる言葉)
求めよ。そうすれば・・・。
門をたたけ。そうすれば・・・。
探せ。そうすれば・・・。

信仰によって、彼らは、・・・・(ヘブル人への手紙 11章)


(私の感想)
私たちの周囲にある情報のほとんどが、信仰を阻害しようとするもので満ちている。







2007/08/13 15:48:39|聖書
「信仰を利得と心得る態度」 (一部訂正)
家内安全、商売繁盛、合格祈願、etc、身の回りに信仰を利得とする態度の生活行動は、日本の身の回りで容易に列挙できる。

イエスの時代に、神に贖われた民族として自認していたユダヤ人でさえ、贖われたというプライドだけを残して実質を失っていたのかもしれない。

信仰とは何なのかを考えさせられるエピソードである。
ルカによる福音書 17章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(サマリヤとガリラヤの境を通られた。)11節

(十人のツァラァトに罹った人達に出会った。彼らは離れたところから 「イエス様、あわれんでください。」 と言った。)12〜13節

(イエスは 「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」 と言われ、彼らは行く途中でいやされた。)14節

(いやされたことがわかった者の内の一人が、大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの前にひれ伏し、感謝した。サマリヤ人であった。)15〜16節

(イエスは 「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめる者は外国人だけか。」 と言った。)17〜18節

(それから 「あなたも立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」 といわれた。)19節



(私が持つ聖書の補足欄から)
11〜19節 : ルカ独特の記事。 「サマリヤ人」 という実質上の 「外国人」 の信仰と、他のツァラァト患者の信仰との対比から、信仰を利得と心得るこの世的態度に対して、新しい神の国の時代の恵と力を真に体験する態度を明らかにする。

14節 行く途中でいやされた : イエスの言葉を信じて出かけた限り、ナアマンに無い信仰を持っていたが(U列王5章11節)、一人を除き、いやされたことで満足する信仰に過ぎなかった。


(私の思索)
11節、 「サマリヤとガリラヤの境を通られた。」 書いてある部分から、サマリア地方とガリラヤ地方の境界になる部分の細い道を通って行かれたと感じた。
少し気になって地図を見たが、ガリラヤ地方からサマリヤ地方に変わる境界部分を通り抜けられたと理解するのが自然であることが判った。
だから、境界の近くにある村で起こされた不思議な出来事である。

補足欄では、 「信仰を利得と心得るこの世的態度に対して、新しい神の国の恵と力を真に体験する態度との違いを明らかにする。」 と表現している。

さて、表現の是非は、別途考えるとして、 「神の国の恵と力」 には、 わざわざ戻ってきて 「足もとにひれ伏して感謝」 するだけの価値があるものなのだと読み取ることが出来る。

しかし、私にはそれが経験できるまでに至っていない。
その価値を否定するつもりではないが、私には未経験の領域なのだ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。    (ガラテヤ書 5章22〜23節)


(私の感想)
私は 「いつも喜んでいなさい」 という聖書の要求があるので、これに応えたいと願うことから聖書の探求を始めた。
そして、それが 「神の国の恵と力」 によって与えられるようだと私は感じている。
このことを、精神的利得を得たいために信仰の探求をしていると評価するならその通りなのだが、付け加えておきたいのは、イエスにひれ伏す心と態度の中にこそ、私の求めている回答があるようだと、漠然としているのだが感じている。

私にとって残されている領域は、考えて理解することが沢山残っているが、真に必要なのは、理解する状態を超え、信仰によって確認することなのだろうと感じる。

信仰は、努力や能力や思考などによって得られるものではないようだ。